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Seen12 逆賭(上)


 昨日連絡された待ち合わせ場所へと、遙佳が息を切らせながら小走りでやってきたのは待ち合わせ時刻を15分程回ってからだった。遙佳は制服姿に身を包んでおり、通学している高校から寄り道せずに直行でやってきたのだろう。そして、それでもこの「遅刻」だったようだ。
 しかも、悪いことに神河とのコミュニケーションツールとして、直接繋がる電話番号すら交換しあっていないことが仇になった。今回、遙佳は無連絡での遅刻をやらかした形だ。
 優に学生の帰宅時刻を回っていると言うこともあって、緑苑平の駅前には多種多様な制服姿の学生が確認できた。それでも、その中に遙佳と同様の制服に身を包む学生の姿は窺えない。それは即ち、緑苑平が遙佳の通う学校の学生が行き交うテリトリー外であることを意味していただろう。加えて言うならば、遙佳と同種の制服に身を包む学生が全く見当たらないところを見ると、17:00という時刻に遙佳がこの場所へとやって来るには無理があったのだろうことも読み解ける。
 緑苑平は新濃園寺よりも霞咲中心部寄りの駅前と言うことで、その人出も新濃園寺の比ではない。周囲がまだまだ明るいということもあるのだろうが、雑踏の混雑具合は到底その中から簡単に目的のものを見つけ出すのは至難の業にも見える。それでも、遙佳は改札を潜って立ち止まった後の一瞬で、神河の二人を見つけ出す。
 いざ正威と萌の二人を眼前に置くと、遙佳は肩で息をしながら胸の前で両手を合わせて小さく会釈すると、申し訳なさそうな表情を前面に押し出して遅刻に対する言い訳と謝罪の言葉を口にする。
「悪い、遅れた。バスがね、その、予定通りに動いてくれなかったんだ。まあ、それもいつものことと言えばいつものことではあるんだけれど……。で、結果、玉突き的に「この電車に乗らないと間に合わない!」っていうのに、ものの見事に間に合わなくて……。その、……ごめん」
 肩で息をしつつの、途切れ途切れのそんな謝罪の言葉を前にして、萌が見せるは呆れの表情である。
「予定通りにバスが動かないのがいつものことだっていうなら、そもそもの待ち合わせ時間を最初からずらしてしまえば良かったのに」
「御尤も。次からは、そうする」
 返す言葉もないといった具合に肩を落とす遙佳だったが、ふと何かを思い立った様子で萌にこう同意を求める。
「でも、あれだよ。本当はそこに間に合うはずなのに、そこをターゲットにしないっていうのは何か怠慢である気がしない?」
 それまでは「待たされた」ことに対する苛々のようなものを萌の態度や顔色から窺うことはできなかった。言ってしまえば、理由や遙佳の前後の対応を踏まえて「呆れ」というレベル済んでいたからそうだったのだが、その同意を求める行為が萌の燻るもやもや感に火種を投げ入れる形となる。
 萌は一気にヒートアップすると周囲の訝る視線を集めてしまうことも厭わず、遙佳に説教を向ける。
「結果として余裕の全くないその行動計画で約束の時間に遅れていたら、お話にならないじゃん! 時間にルーズなタイプなんだと思われて、信用を落とすことにだって繋がり兼ねないんだ。こんな詰まらないことで信用を落とし掛けてどうすんの? その一度をずっと後に後に引きずるタイプの人達だっているんだ。大体、どうして一言連絡するっていうのができないの? それがあるのとないのでどれだけ影響度が違うか知ってる?」
「御尤も……です」
 萌に猛烈な反論を食らい、遙佳はぐうの音も出ない様子だった。
 一方で、ただただしょぼんと申し訳なさ気に再び肩を落とす遙佳を前にして、萌の相棒である正威も人知れず溜息を付く形だ。何を思ってその発言に繋がったのかはともかく、せっかく「呆れ」で踏み止まったところを結局「怒り」まで引き上げてしまったわけだ。
 萌は性格的に瞬間沸騰した怒りが後々まで尾を引くタイプではない。そうはいっても、萌が気分を立て直すまでは、怒りをぶちまけてしまった萌に変わって遙佳との意思疎通を正威が一手に引く受けなければならなくなったことは間違いない。出だしからこれでは先が思いやられるというのが、正威の正直な思いだったろう。
 一方で、遙佳も遙佳でいつまでもそうして肩を落としてしょぼくれているというわけにも行かないのが実情だった。
 例えそれが形式上のものではあるとはいえ、一応は遙佳が雇い主という立ち位置なのだ。こうして「遙佳が遅刻を理由に説教される」という状況だけ切り取ると、立ち位置が真逆であるかのように見てくのだが、この後能動的にこのチームの方向性を定めたり、こうしようといった働き掛けをするのは他ならぬ遙佳であるのだ。
 遙佳は「ずーん」と沈んだテンションを無理矢理持ち上げ頭を切り替えると、さらりと話題もこれからを見据えた内容のものへと置き換える。
「引っくるめて、次から気を付けます! で、だ。まずはどうしよう? 早速本題に入った方がいいかな? それとも、どこかで軽くお茶でもしようか?」
 ここしかないというタイミングで、正威がその遙佳の問い掛けに答える。
「久瀬さんに任せるよ。今日一日、こちらにこの案件以外の用件はないからね」
 萌との間に割って入る格好となったわけだが、当の萌に取ってもそれは助け舟だった。事実、萌はふいっと横を向いて口を噤むと、頭を切り替え気分を立て直すべく遙佳とのコミュニケーションを正威へと譲った。その萌の意図を、遙佳もすぐに察したようだ。
 萌が一歩引き、遙佳の声色にいつもの軽快な調子が戻り始めてしまえば、沈んだ雰囲気なんてものは一気に影を潜めてしまう。
「そっか。それは有難いね。後に予定がないっていうなら時間はたっぷりあるわけだし、まずは緑苑平で話題のお店に足を伸ばしてみるっていうのもいいかも。落ち着いた場所で情報共有したいこともあるし、ね。まあ、でも、そんなこと言っておきながら、ぶっちゃけた話をしちゃうと、あたしっていう奴はやるべきことを後に残したままの状況で落ち着いていられるタイプじゃなくてさ。早速何だけど、先に本題を片してしまうでも構わないかな?」
 先に本題を片したいと提案しつつも、含みを持たせた遙佳の言葉は実に彼女らしさを物語っていた。先を逸る気持ちが隠しきれずに前面へと押し出てきてはいるが、そこに本題を強制する態度はない。
 もちろん、神河に取っても、それはどちらであっても大差ない選択だった。最初にワンテンポ合間を挟む理由もない。
 そうすると、正威の返答なんてものは決まっていた。
「もちろん、先に本題を片してしまうで問題ないよ」
 快諾が返ったことで、遙佳は口元ににこりと笑みを灯すと、その視線を腕時計へと落とす。
 遙佳が右腕に付ける腕時計は、紺色のシンプルな黒のベルトに、これまた至ってシンプルな盤面に英数字をあしらった捻りのないものだ。黒のベルトに黒のケース、盤面はやや赤み掛かった薄い褐色といった色合いで、時針・分針ともに銀色といった具合だ。
「じゃあ、本題を片したぐらいでちょっと夕食には早いぐらいの時間になる筈だから、情報共有を兼ねてリーズナブルが売りの話題のお店で一緒に美味しい食事を取る。そんな感じでどうかな?」
 腕時計に視線を落とすという行為を挟んだものの、恐らくそれは予め練られた上での提案のように見えた。きっと話題のお店とやらも既に目星は付けていて、下手をすると仮予約で席の確保ぐらいはしているかも知れない。
 恐らくそうなのだろうというところを察した上で、正威はそんな遙佳の提案を快諾する。
「いいね。久瀬さんが「美味しい食事」とまで言うんだ。楽しみにさせて貰うよ」
「どっちかっていうとリーズナブルの方がメインだからそこまで期待して貰うのもあれなんだけどね……。じゃあ、後の予定も固まったわけだし、ここからは歩きながら話そうか?」
 そういうが早いか、遙佳は先導するように緑苑平の雑踏へ進み出た。足を向けた先には駅前地下商店街に続く下り階段が有る。どうやら目指す先は、まずは駅前地下商店街のようだ。尤も、駅前地下商店街と銘打って置きながら、それらは広大な敷地を誇る商業スペースではない。地方展開する薬局チェーンや書籍店、これまたどこにでもあるチェーンのフード店が複数個居を並べている小さなスペースなのだ。
 緑苑平のメインの商業区画というものは、駅前から少し離れた場所にある。
 夕食の場所として話題に上がったリーズナブルが売りの店舗というものも、恐らくはこのメインの商業区画にある筈で、緑苑平駅前地下商店街とその商業区画とを繋ぐ地下道へと出る魂胆だろう。何せ、地下を経由せずに商業区画を目指すとなると、最悪の場合緑苑平は既に地下移動の倍の時間を取られ兼ねない場所だ。ところどころ歩道橋が設けられては居るが、ほぼ全ての交差点で赤信号に行く手を阻まれるだろう。
 遙佳の先導で地下商店街へと足を進めても、光景は地上とのものと余り変わらない。
 緑苑平駅前地下商店街と商業区画を繋ぐ地下道は、緑苑平フォレストコンコースと呼ばれる地下道群の一部であり、地上の植込みなどに設けた採光窓から積極的に自然光を取り込む作りを採用しているからだ。道幅も天井も広く高く圧迫感とは無縁であるという点も、その印象に寄与しているだろう。また「フォレスト」なんて名前が付いているように、地下道の至る所にはコンクリートで覆われていない土壌が剥き出しの箇所が点在しており、そこには決まって背が低く大きく枝を広げない種類の木々が植えられているのが特徴だ。
 さらにいうならば、地下道における人の流れも、基本的には駅前通のものと何ら変わりが無いということもある。17:00を回った頃合いという時間帯であるせいか、まだまだその中心は学生・若者といった辺りの年齢層で、仕事帰りのサラリーマンといった出で立ちの人は疎らだ。
 尤も、サラリーマン風の出で立ちをした人の比率も、雑踏の人混み具合もまだまだこれからその密度を大きく増加していくのだろう。退勤時間を考慮すると17:30を回った辺りから、右肩上がりの上昇を見せ始め19:00辺りでピークを迎えると思われ根ので、先に本題を片付けるという提案は遙佳の性分云々を抜きにしても妥当な判断だとも言えた。
 地下道を歩き出して数分と経たずに、遙佳は歩幅を正威に合わせ脇を軽く小突いた後、小声でこう話し始める。
「それにしても、萌ちゃん、……おっかないね。凄い迫力だよ。いや、正論だし、全面的にあたしが悪いんだけどさ」
「余計なことをいうからだよ。反省してますって神妙な顔で縮こまったまでは良かったのに、どうしてあそこで余計な一言を言ったんだ?」
 遙佳は苦笑いの表情で答える。その表情の意味するところは、状況が悪い方向に転がるかも知れない可能性を半ば解った上で、あの台詞を口走ったことを意味していた。
「場の雰囲気が変わるかなって」
 正威に取って遙佳のその理由は理解に苦しむ内容だったようだ。良い方向へと転ぶ蓋然性の方が高いのならばまだしも、萌でなくとも十中八九はああなる対応で間違いない。正威は遙佳を見る目に呆れを混ぜると「心底理解できない」といった突き放す口調で切り返す。
「変わったよね、悪い方に」
「いや、その、……本当に面目ない」
 正威と遙佳とで、こそこそとそんなやりとりを交わしていた矢先のことだ。
 相応に頭を切り替え終えたのだろう萌が唐突にその合間に割って入る。
「何こそこそ話してんの?」
 その口調は酷く刺々しい。恐らくは、頭を切り替え終わったから口を挟んできたというよりも、そうして正威が遙佳とこそこそやりとりしていることを気にしないでおけなかったといった方が適当だったろう。
 正威に対し相方の萌を「おっかないね」と切り出した手前、遙佳は後ろめたさを感じてびくりと肩を震わせたのだが、一方の正威は棘の混ざる言葉を向けられてなお手慣れた対応で切り返す。そこはやはり年季が違うのだろう。何食わぬ顔で萌へと向き直れば、それまでまだ一言たりとも遙佳に対して切り出していない案件を、さも根を詰めて話をしていた体を装って見せたのだ。
「こそこそしていたつもりなんてこれっぽちもないんだけどな。あれだよ、やっぱり連絡先ぐらいは交換して置いた方が良いんじゃないかって働き掛けていたんだ。こういうことになってしまって、すぐに連絡付けられないと「困るだろう?」ってさ。個人携帯の番号を渡すことに抵抗があるなら、番号可変タイプで利用期間と通話・通信上限のあるチャージ式の機種もあるんだよって話をしていたところだ」
 しかも、正威の手には、その件のチャージ式携帯電話が握られていた。
 一体、いつの間にチャージ式携帯電話なんてものを取り出したというのだろうか?
 目を丸くする遙佳の横脇腹を軽く小突くというアクションで、正威は話を合わせるようすかさず要求を出す。これ以上、萌の機嫌を悪くしないための先手を打つ格好だ。
 本当に正威の「手慣れた」感を遙佳は思わずには居られなかった。
「そんな話をしていたようには見えなかったけど……」
「そうか? 気の所為だろう?」
 正威は、未だ訝しげな表情にジト目の組合せでいる萌へとチャージ式携帯をまざまざと見せ付けた後、それを遙佳へと向け差し出す。ふいっと萌から目を背けると、その目で遙佳に対し「受け取るよう」要求する様は、正威が何度も似たような対応で場を切り抜けてきた過去を容易に想像させた。
「ありがとう、有難く貸して貰うことにするよ」
 遙佳はややぎこちなさを随所に残しながらも、差し出されたチャージ式携帯を要求されるままに受け取った。
 感謝の言葉も態度も不自然さを感じさせない程度にはぎこちなさを払拭できていたし、その気持ちにも嘘はなかっただろうけれども、そこに対する当の正威の表情はぽかんとしたものになる。
「それは久瀬さんの為に用意したものだ。その、それは、……久瀬さんに差し上げるよ。こちらとしても必要な時に思うように連絡が付かないっていうのは不便だし、実際問題やり難い。ものは見ての通りほぼ通話だけに特化したビジネス用の三世代型落ちのもので、三千円のチャージ式プリペイドカードにただで付いてくるような代物だ」
 ビジネス用の三世代型落ちの品と言ったが、中身という点で見ればさらに古い枯れた技術の集合体に過ぎないだろう。それこそ、型落ちスマホは愚か、最新のキッズ携帯なんかにも機能的に劣る代物だといって良いかも知れない。
 それでも、賃貸ではなく譲渡であると聞かされた遙佳の反応は重く鈍かった。急に、それを受け取ってしまったことに対し、葛藤一色に染まって固まってしまった形だ。どうやら、貸し出されるのと、自分のものとして貰ってしまうことの間には、遙佳に取って大きな差異があるらしい。受け取ったチャージ式携帯電話をまじまじと注視しながら、遙佳は今更ながらそれを返却することも視野に思い悩んでいるようだった。
 尤も、そうやって目の前で眉間に皺を寄せているのを、正威がただただ黙って傍観するはずもない。
「遠慮なんかする必要はないよ。仮に貸出という形を取って後々返却して貰ったとしても、久和のルールに則って扱えば良くて分解リサイクル行きか、廃棄という流れになる。どうしても使い回しにはリスクが伴うからね。久和の側から見ても、顧客の側から見ても、安全を担保する上ではそうせざるを得ないんだ」
 貸出という形を取った後のチャージ式携帯電話の扱いを知り、遙佳はとうとう吹っ切れたようだ。遙佳に取って、それを自分のものとして貰ってしまうことに対して何らかの抵抗感があったのは間違いない。しかしながら、貸出という形を取ったところで、チャージ式携帯が次の誰かの役に立つこともなく廃棄されてしまうというのでは、遙佳自身が使い続けることの方が「良い」選択であることは疑いようがない。
「……そっか。それじゃあ、有難く、大事に使わせて貰うことにする」
「既に三千円分チャージされた状態だから、それ以上利用する場合は所定の方法で追加チャージをしてくれ」
「オーケー。解った」
 チャージ式携帯電話受渡しのやり取りを合間に挟み、場には「萌の気分も大方切替が終わっただろう」雰囲気が醸成されていた。正威を疑って掛かったにも関わらず、(その実はともかく)疚しい話をしていなかったと認識したことで、新たな燃料が投下されることもなく怒りゲージは大きく減衰したのだ。
 すると、遙佳に取って、話題を替えて本題を切り出すならば「ここしかない」という絶妙のタイミングが生まれる。
 遙佳も萌のまとう雰囲気が切り替わったことを肌で感じ取った様子で、すぐに本題を切り出すタイミングを窺う格好となる。そうして、目前に迫った三叉路を、メインの商業区画へと続く右斜め方向へと進み出たところで、とうとう本題へと話を移す。
「さて、昨日送った画像データの方も、確認はして貰えたって認識で良かったのかな?」
「ああ、あれはなかなか衝撃的な内容だった。パッと見、あれが現実に発生するものとは思えなかったし、正直な話、第一印象としてはあの画像データ自体が作り物かとさえも思ったよ。それこそ、現実に存在する場所を撮影したものに、CGを合成したような……ね」
 正威の率直な感想を聞き、遙佳はそれに近いものとは言わないまでも、送った画像データが実際に即したものではないことを説明する。
「昨夜送ったメールでも軽く触れたけど、あの画像データは未来視の中で場所の特定に繋がるだろうものや何が発生するのかを解ってもらう為に、未来視の中から事故の現場を意図的にピックアップしてデジカメに念写したものなの。だから、その時その場に同じようにデジカメを持って居合わせたとしても、同じ画像はほぼ撮影できない。そもそも未来視はあくまで人の目で見た視点に立っているから、実際のデジカメで撮影できる視点とは根本的にことなっていることが多いんだ。そういう意味では、あれらは多少構図がおかしかったり、縮尺が狂っていたりするものではあるはずだよ」
「でも、来るべき時に、そこで発生するだろう現象を、視点こそ違えどおおまかに捉えたもので間違いはない。そういうわけだね?」
「その通り」
 正威の理解を遙佳は全面的に肯定した。「理解が早くて助かる」とでも言わないばかり、遙佳は正威を見遣るその目に感服を混ぜたぐらいだ。しかしながら、一転、萌がそこに続けて念写の精度に触れる件になると、遙佳の表情は見る見る内に困惑した面持ちへ変化する。
「でも、ここまではっきりくっきり念写できるなんて、ちょっと俄かに信じ難いよね」
 萌は自身のスマホに件の画像を表示させ、改めてそれをマジマジと眺めながら感服した声を上げた。
「……えっと、念写用に改造された特注品のデジカメを使うことで、割と難なくこのクオリティのレベルで画像化できるっていう話らしいけど?」
「へぇ、そうなんだ?」
 正威や萌に取って、遙佳が話した念写最前線の事情は目から鱗だったようだ。その一方で、念写の画像化に対する認識として、既に享受している最前線の手法や精度が一般的に確立されたものだと受け止めていた遙佳に取っては、そんな神河の認識は心底驚くべき点だったらしい。
 スターリーイン新濃園寺で垣間見せた「そこにあるべき造形の建造物を全く異なるものに認識させる」等の技術を行使できるにも関わらず、そんなクリティカルではない部分で後れを取っているというのは中々どうして信じられないところなのだろう。
 尤も、クリティカルではないからこそ「遅れを許している」という側面も多分にあったはずだ。もし後れを取る部分がクリティカルであったのならば、是が非でもそれを埋めるべく対応している筈だ。さらに言うのならば、もし対応できていなかったのならば、競争力を失っていたり最悪淘汰されていてもおかしくはない。
 遙佳はそんなギャップに戸惑いながら、念写の画像化にデジカメという物が用いられる現状について薀蓄を続ける。
「何でも、デジカメをその用途に改造する専門の業者もいるとか何とか……。風の噂では、一品ものとしての改造では限界があるから、だったら念写を画像化する機構を最初から組み込んだ専用品を開発してしまえって話もあるらしいよ。確か篠麻(しのま)精工だったか、精機だったかいう会社だったと思うけど」
 その分野に携わる企業の一つとして遙佳が名を挙げたところを、さすがに神河サイドが「名前も知らない」と続けることはなかった。尤も、神河の認識に置いて言えば、その「篠麻精工」が件のデジカメ改造に関わる企業だという認識は全くない。
 会社名を耳にして、ようやく萌の表情が僅かに晴れた。聞き覚えのある会社名だったようだ。尤も「僅かに」と言ったように、完全に「あの企業だ!」と合致したわけでもないらしい。
「篠麻……ね、うん、聞き覚えのある企業名だね。けど、そんなことまで手掛けている企業だったんだ。知らなかった」
「というか、久和一門にもその手の道具を扱っている門家があったりするんじゃないの? ぶっちゃけた話、改造とかを手掛けている業者がいるって聞いて真っ先に思い浮かんだところが久和一門だったりしたんだけど? ああ恐らくこういうことにも一枚噛んでいるんだろうなって。聞くところによると、そうじゃなくともこの界隈ではかなり手広く商売しているみたいじゃない、久和一門」
 遙佳の指摘を萌は微塵も否定しない。それは手広く商売している点もそうであるし、デジカメ改造を手掛けていそうという印象についてもだ。即ち、そう受け取られてもやむを得ないと、神河自身も「久和」をそういう存在だと把握しているわけだ。
「まあ、そうだね。久和一門に名を連ねる家々全体で……っていう観点で言えば、もちろんかなり手広くやっているとは思うよ」
 そして、萌はさらに、自身も属する久和の内情について軽く触れながら、広義でいうところの「久和一門」がデジカメ改造を手掛けている可能性すら否定しない。
「でも、表面的なところはともかくとしても、正直どこが何をやっているかなんて誰も網羅できていないのが実情かな。その手のことに目を光らせる役目であるべきはずのところの本家筋の連中だって、網羅なんかできていないんだ。個々の門家で言っても、どんなことに首を突っ込んでいるか、どんなことまで手掛けているかを知っているのは、良好な間柄の門家とか。何かと関わりの近い門家とかに限られるよ。後は「こなくそ、いつか目に物見せてやるから覚えてやがれ」って思っている家とかは「いつか足元掬ってやるぞ」って虎視眈眈と機会を窺っているからお互い子細含めて把握してるような嫌いはあるけれど、そうはいっても裏の裏で何やってるかなんてことまでは簡単には把握できない。それこそ、付かず離れず、関係が良くも悪くもないような家、……例えば物流を取り扱っている門下の家が副業で何をしているかだとか、そういったところはさっぱりなのが実情。実は念写用にデジカメ改造を細々と手掛けてましたって言われても「ふーん、そうだったんだ」ってなるのが関の山かな」
 久和一門にデジカメ改造を手掛けている門家が居るか居ないか把握していないけれど、居たとしても不思議ではない。萌の話を要約するとそうなるが、仮に久和一門傘下のどこかの門家がそれを手掛けていたとするのならば、それは余りにも間抜けな話だと言わざるを得ない。もしそうならば身内がその技術を持っているのにも関わらず、それを享受するどころか知らずに「凄い」「革新的だ」と宣っているわけだ。
 もちろん、ただただ神河の二人がその有無を知り得ていないだけという可能性もないわけではない。それでも、実際問題として、その一連の会話からは「こんな事業を手掛けているよ」とか「こんな製品を作る技術を持っているよ」と広く情報を共有する為のまとめ役が存在しないか、機能していない節を窺い取ることが可能だった。
 尤も、久和の内部事情をいくらか垣間見て、そこに対する遙佳が気に掛けた点はその手の機能不全さではなかった。眉間にやや皺を寄せる強張った顔付きで、遙佳が言及したものは久和が孕む「不穏さ」といったものだ。
「途中途中に、さ。何やらかなり不穏な台詞を挟まなかった?」
「別に、同じ久和の名に連なるものだからって仲良し小好しなわけじゃないよ。それこそ端から端まで見渡せば、当然「君ら赤の他人どころか、昔は敵対していなかった?」って言うような連中だっている。まあ、血縁が何よりも大事で、血縁さえあれば憎み合うことはないなんてお花畑な台詞を吐くつもりはないけど、……付き合い方を考えたり、身構えざるをえない相手も居るよ」
 しれっと答える萌の様子を見るに、それは誇張が混ざっていたり、大袈裟に吹聴したりするものでもないようだ。そして、ここには居ない対象に向けて、萌が軽蔑とも呆れとも取れる色合いを混ぜたことを遙佳は見逃さなかった。拭いきれないしこりのようなものが、介在していることが嫌でも解る。
 遙佳の表情が曇りつつあることを察し、正威が横合いから口を挟んで収束を図る。
「既に久和一門は、久和に取って傘下に含むに足る好ましい勢力じゃないものをも取り込んでるんだ。それに伴って、因縁を持つところはお互いが一歩退いて表面化しないよう極力努めてはいるけれど、いざこざがないわけでもない。そんなもんだよ。多かれ少なかれ、どこにでもある話だといってしまえばそれまでだけどね」
 遙佳がそこに何かしらの反応を返すよりも早く正威が話に混ざったことで、久和内部の不和に対するそれ以上の言及は為されない。しかしながら、そこには何とも後味の悪い雰囲気が漂ったのも事実だった。正威がそれらを「どこにでもある話」だと一般化して総括したものの、スパッと「だから仕方ない」と終わらないのがその後味の悪さに繋がっていただろうか。
 当の遙佳も、どう反応していいか戸惑ったらしい。
「何か、思い掛けず、その、久和一門のおどろおどろしい内情の話にまで及んじゃったわけだけど、できればそんな話は聞きたくなかったかな……。なんか、そんな話を聞いちゃうと、色んなしがらみを持ってそうで、下手なこと言ったり頼んだりできなさそうっていうか……。あはは」
 結局、口元を引き攣らせるように笑って見せる曖昧な態度で、遙佳は久和一門内部の不和に対してどうこう言うような意見は示さなかった。感想として「協力関係を結んで一緒にやっていくには、面倒事がありそうだ」と内容を口にしたのが、そもそも彼女の精一杯だっただろう。
 もちろん正威にしろ萌にしろ、遙佳に何かしらの意見を求めていたわけではない。しかし、その久和一門の内情というものが、とある一つの神河の言動に直結していることを遙佳は身を以て知ることとなる。そして、同時に、萌がどうしてわざわざここにきて身内が一枚岩ではないことを長々と口にしたかをも、だ。
 お茶を濁してこの話題の終わりを探る遙佳を眼前に置いて、今度は萌が口元だけに不敵な笑みを灯す番だった。すると、萌は遙佳の胸元にグイッと切り込むように身を乗り出す。
「まあ、今の話が回り回ってついこの前の警告に繋がるわけだよ」
「この前の、……警告?」
 萌は胸元から名刺を一枚取り出すと、それを遙佳の喉元に付き付けるように差し出して見せた。そうして、前日、遙佳へと付き付けたあの警告を改めて口にする。
「霞咲界隈で久和一門にご入用の際は「神河」を……って奴」
「ああ、……うん、あれか。もちろん、覚えてる」
 遙佳は差し出された名刺をまじまじと注視しながら、やや困惑した表情で「その警告なら忘れていない」と返すのが精一杯だ。もちろん、先日警告を向けられた時よりもいくらか久和が持つ背景を知ったからこそ、萌のいわんとするところは十二分に理解したはずだ。
 要約すると、それはやはり久和一門内部での勢力争いみたいなものなんだろう。言葉で言い表されるほどには顕著なものではないかも知れない。しかし、お互い「一歩退いて表面化しないよう極力努めている」といった言葉尻からも、ある程度その雰囲気を察することもできる。
 少なからず、牽制しあう関係の門家がいて、大なり小なりいざこざは起きているのだろう。
 その牽制しあう相手方に話を持っていかれたりした日には、神河として溜まったものじゃないというわけだ。面子の話もあるだろう。
 いわんとするところを理解しているから、遙佳は下手に多くの言葉を用いず簡素に「覚えている」とだけ返したわけだが、萌はここでそれをもう一度しっかりと蒸し返しておくべき必要があると判断したらしい。
「ここらでちょっと真面目な話をしよう。いいかな? 遙佳ちゃんが今後霞咲界隈で久和一門の力を借りたいって時に、こうして縁を持ったにも関わらず白状にも神河以外のところへ話を持っていかれちゃったりすると、あたし達としては恣意的に遙佳ちゃんへと嫌がらせを仕掛けるに足る理由になるから、本当に、そこんところだけは気を付けることをオススメするよ」
 萌の目は笑っていない。それどころか、口元に灯す笑みする掻き消えていた。加えて言えば、萌は俄かに迫力まで伴っていて、はっきりと言葉には出さないながら久和へ仕事を依頼する際は神河を通すよう遙佳に圧力を掛けた形だといっていい。いや「嫌がらせを仕掛けるに足る理由になる」とまで脅迫紛いの台詞を口にしているのだから、それは「神河を通して話をしろ」と言ったに等しい。
「オーケー。理解した、理解したから。そんなことにはならないよう注意する。……ていうか、かなりおっかない顔してるよ、萌ちゃん」
 仰け反るように身を引きながらではあるものの遙佳が要求を聞き入れ頷いたことで、萌は満足したようだ。すうっと瞑目すると、まとった迫力も、座った目付きをも一気に霧散させる。再び目を見開いてからは柔らかな物腰なんてものが顔を覗かせるのだけど、直前の言動を目の当たりにした上では、それが入念に装われたものであることを理解しないものなどいないだろう。
 ともあれ、遙佳の対応を受け、萌は誰に向けるでもなく気を吐く。要求を遙佳に飲ませるからには、神河自身が果たさざるを得ない役割というものもある。
「まあ、まずは次回もぜひ神河に頼もうと思って貰えるに足る結果を残さないとお話にならないわけだし、ここは一つ気張りますかね。例えそれが想像していたよりもずっと厄介で、労力と対価とを天秤に掛けた結果として割に合わないものだとしても、久和として、神河として、一度良しとして受け持った以上は全身全霊を以て対応させて貰うよ」
 その口振りは、星の家が起脈敷設で引き起こすと予知された事象について、神河サイドがその内容をかなり甘めに見積もっていたことを如実に匂わせた。送付された画像データを確認して初めて、遙佳の宣う「危機」が誇張のない相当のものであることを認識したのだろう。
 それを踏まえた上で、萌は求められ得る役割をしっかりこなして見せるといったわけだった。尤も、それを遂行するにあたって守られなければらない前提条件を、改めて口に出して念を押しておくことも忘れはしない。
「遙佳ちゃんが久和を裏切らない限り、ね」
 最後の最後にきっちりとそう釘を刺す辺り、抜け目はない。最後ににんまりと笑って見せて、萌は遙佳に向けた一連の「警告」を締め括った。
 遙佳は何とも言えない複雑な表情をしていたがその状態で数歩進んだ後、思い切った顔付きをして萌に向き直る。
「一つ、質問いいかな?」
「何かな? 遙佳ちゃん」
「今回の件を片した後で、もしまた久和一門の力を借りたいとなった時。例えば、例えばの話、神河が不得手なところに対してもっと専門的な力を有する門家に頼みたいとか要望がある場合、……どうしたらいいの? ……っていうか、どうしているの? そもそも、そういうことを依頼者に要求されることはある?」
 実際、質問の内容を口に出してしまうまでは、遙佳には葛藤が見受けられた。その問いを尋ねて置くべきかどうかを迷う節が態度や顔色の中へと如実に浮かび出ていたのだ。しかしながら、それを口に出してしまった後の遙佳からは、自身の要望の対応可否を問う真剣さだけが残る形だ。
 何か、思うところがあるのだろう。
「もちろん、あるよ。今回は結界の展開や拡散・維持、隠匿を専門とする「結界師」みたいな面子を頼みたいんだ、とかね。そういう場合は、神河を通して他の門家を紹介することになるかな。要望が具体的であればあるほど、こちらとしても紹介する門家を絞り易いけど?」
 久和の中で一般的にあり得ることとして「より専門的な要求に対して別の門家を紹介可能」だと萌が答えたことで、俄然遙佳の雰囲気には思慮の色が混ざる。たっぷり十数秒にも及ぶ思案の間を取りながら、結局遙佳は今この場で何らかの結論を出すことを先送りしたらしい。
「……そっか」
 取り敢えずの反応としては短くそれだけを呟いた形だったが、やはり遙佳には何か思うところがあると思って間違いないのだろう。そうスパッと話題をぶった切っておきながら、未練がましくもそこには未だ思案顔が影を引く形でもある。
 ともあれ、その表情というものもすぐに霧消する。実際がどうだったにせよ、表面上はその「思うところ」とやらで思い悩むべきではないと割り切ったようだ。
 今対応すべきことは「今後」の話ではない。
 まずは今目の前にある「危機」をどうにかしなければ、今後もへったくれもない。
「さて……と、話題が逸れちゃった感があるから、話を元に戻そうか?」
 遙佳はそう話題を仕切り直すと、地下道に現れた十字路で足を止めた。
 十字路脇に設置された案内掲示板を見る限り、ここから先はかなり大きな碁盤の目に近い形で地下街が形成されているようだ。尤も、緑苑平最大の商業区画はここからもう少し先に進んだ場所のようで、案内掲示板にはここいら一体を「緑苑平地下商店街西地区」と称していた。
 方向感覚がイマイチ把握できていなかった正威だったが、緑苑平の駅から東に東にへと進んできたことをようやく理解した格好でもあった。
「もう察しが付いているかも知れないけど、実は昨日の夜に送った画像データと符合する場所の目星は既に付いているんだ。そこはここからもう少し中地区へと進んだ、西地区と中地区のちょうど北側の境目に当たる場所で、最近改装工事が始まったばかりのフォレストコンコースの一角で間違いないと思ってる。まあ、まずはこれからそこに案内するから付いてきてよ」
 遙佳は案内掲示板を横目でチラ見すると、十字路を右手に曲がる。
 遙佳の口から「現場を確認済み」とまでは告げられなかったものの、そのスムーズな道案内を見ている限り緑苑平地下商店街の配置はある程度頭の中に叩き込んであるようだった。尤も、神河を伴って実際の現場を確認するという運びになった以上、当日あたふたと手際の悪い場面を見せるわけにはいかないという意識があったことも否定はしない。
 緑苑平の中地区に近づくにつれ、緑苑平駅前よりもずっと採光の度合いが強化されていることが一目で分かるようになる。地上からの騒音だけを上手いことカットして、光を取り込む仕組みを構築できているらしい。地下商店街だというのに、蛍光灯の明かりに加えて赤い夕日が差し込む空間は、非常に特徴的で印象的な雰囲気を醸し出していた。加えて言えば、その雰囲気の醸成には、太陽光に限りなく近い最新鋭の電気設備も大きく寄与していただろう。
 そんな件のフォレストコンコースを北東に進んでいくと、やがてそれまでよりも一段と道幅の広い通路に出る。横幅は当然ながら、天井という縦の高さにおいても優に大型トラックが走行可能な広大な空間だ。実際には、等間隔に立てられている柱と、それを取り囲むように配置された樹木が邪魔をして、自動車といった類いの走行は困難なのだが、広さだけで言えばそこらの多目的ホールがすっぽりと収まるぐらいはある。
 中地区へと近づき、一段と広くなったフォレストコンコース内の、一向に途切れない雑踏の中を歩くこと十数分。
 遙佳がようやく歩く速度を緩める。
 区画としては、ストリート系の雑貨や若者向けのファッションブランドといった個人店などが並ぶアパレル寄りの店舗から構成された商店街という言い方になるのだろう。
 徐々に徐々に速度を落としていく遙佳はやがて足を止め、背後の二人に向けぽつりと呟く。
「この辺りからだ」
 こういってはあれだが、そこは何の変哲もない境目だった。
 西地区と中地区との北側の境という曖昧な境界線なのだからそれもやむを得ないのだが、そこは本当に取り立てて何か区切りになるような目印のない場所だ。通路の脇に並ぶファッションブランドの店舗にしても代わり映えしないし、十字路とかに差し掛かるような場所でもない。
 もう一度この場所に来て「同じところで足を止めろ」と言われても、緑苑平フォレストコンコースの西地区に精通した人物でもなければ不可能だろう。それこそ、自分が今どの当たりを歩いているのか解らなくなる通路だといって良かった。
 フォレストコンコースから地上へと抜ける階段なんかが等間隔に存在していることが目印らしい目印だろうか。階段脇の案内板に「緑苑平西地区十一丁目通り」といった文字が確認できるからだ。
 ともあれ、そんな感覚の狂う場所で、正威はすぐさまそこをピンポイントで関連付けられる情報を探った。
 遙佳という道案内がなくとも、すぐにこの場所へと足を運ぶことができるようにするためだ。
 ぐるりと辺りを隈無く見渡す正威だったが、やはり目印は階段脇の案内板が最良のようだ。一意にこの場所を特定する「緑苑平西地区十一丁目通り:ACAビルヂィング前通路」の文字が躍る。
「この辺りから画像データとして摘出した風景と重なってくる筈。緑苑平フォレストコンコース全体見取図のある案内掲示板とか、あの十字路の隅にある定食屋さんとか、未来視の中で危機が具現化した一角と、符合してくる!」
 遙佳の言葉を受けて、萌がスマホの画面をスイープする。すぐに目当ての画像を見つかった様子で、萌もマジマジと現実空間のそれと画像データのそれとの確認を始める。
 それらは確かに、この一角とぴたりと符合していた。
「まずは、……このあたりの画像だよね。これだ。かなりの数の黒蝗が人を襲っている構図の奴だ」
 萌は眉を顰め、嫌悪感を前面に押し出しながらも、その画像データをまじまじと注視していた。特別、虫の中で蝗が嫌いというわけではないのだろうが、それでもこの緑苑平フォレストコンコースの一角を百匹単位で飛び回らんとする画像を見せられればそんな表情にもなるだろう。しかも、蝗のサイズは、その一匹一匹が大の男の掌サイズときている。
 萌のスマホを覗き込んで表示された画像データが構図として的外れなものでないことを確認すると、遙佳はそれが正しいものだといった上でそこに注釈を付け加える。
「うん、まずはそのあたりの画像だね。でも、実は渡した画像データからだけだと、きっと読み解いては貰えないだろうなって事実がたくさんあるんだ。許されるのなら、未来視そのもを共有することが最善だとは思うんだけど……。そこは、引き続き許可が出るよう要望していくから、まずは言葉で伝えさせて貰うってことで勘弁して欲しいかな」
 一体全体「誰に許しを請う必要があるのか?」を神河としては訪ねたくて仕方がなかっただろうが、正威にしろ萌にしろ今はその言葉を聞き流すということをした。デジカメを用いた念写の件のように、話がまたも逸れてしまうことは好ましくない。まして、これから遙佳によって言及されるだろう内容は、この県の核心となり兼ねない部分だ。
 正威と萌からその目顔で続きを促され、遙佳は「静止画」だけでは伝わらないだろう部分を伝え漏らさぬよう自身が見た「未来視」を想起しているようだった。そうして、遙佳はそれらを注意深く言葉を選びながら列挙していく。
「蝗が人を襲っているという構図は確かにその通り。でも、襲われている人達は蝗を払ったり、その場から離れる力を事前に奪われてしまっていたの。何ていうか、……かろうじて意識がある状態で、身動ぎすらできないでいるように見えた。だから、この画像データに映る人達はほとんどが無抵抗のまま蝗に襲われていると思っていい。で、この場の人達をこんな状態に追いやったものが、ここからさらに中地区寄りの場所に空いた大穴から途切れることなく垂れ流されていた強力な呪詛なんだ。それは瞬く間に通行人の生命力を奪っていって、ものの数分で身動きできない状態まで追いやったように見えたよ」
 いつしか遙佳の表情には沈痛さが色濃く灯っている。恐らく、無意識の内にそうしていたのだろう。ギュッと力の籠る握り拳にしてもそうだ。赤味を失って白く変色する程だった。
 未来視を共有できないだとか、何らかの柵を持っているのは間違いない。それでも、この場で発生し得る凄惨な光景を是が非でも阻したいとする遙佳の思いは本物だろう。
 遙佳は自身のタブレットを操作し、とある画像データを表示させるとそれを神河の二人へ確認するよう促す。そこに映るものは、退色したのであろう土気色とグレーからなる僧衣に身を包み十字路に佇むミイラの姿だった。いや、ミイラと言ってしまうと、それはもっと即身仏のような高尚な印象を与え兼ねないだろうか。それは、語弊を恐れずに言うのならば、退色した僧衣に身を包んだ小汚いただの朽ちた骸に辛うじて人の輪郭を窺わせる肌や肉の残骸がくっついただけのミイラ風の死骸に過ぎない。適当な故障が思いつかないから「ミイラ」と呼んでいるだけで、それが正しい意味合いで用いられていないことだけは断っておかなければならないだろう。
 サイズは高さが帽子を含めて175cm程度とそこまで大柄には見えないながら、縮んでそれならばミイラになる前はかなりの大柄な体格だったのかも知れない。
「呪詛を発していたと思われるものが、この僧衣に身を包むこのミイラ。緩慢な動きで大穴から這い出てきたかと思ったら、それまでとは比較にならない程の声量で広範囲に向けて呪詛を読み上げ始めたの。そしたら、それまでは呪詛の影響を受けていなかった人達もばたばたと倒れて行って……、すぐにフォレストコンコース西地区のこの付近内で身動きできる人影は居なくなってしまった」
 それがどういう類の呪詛だったかを、遙佳の話から読み解くのは難しい。しかしながら、話を聞くだけでもその呪詛の威力は凄まじい。
 話通りだとするならば、ちょいとそこかしこに封印されている程度の悪霊・怨霊の類が用いていいレベルの呪詛などではない。そうなると、この僧衣に身を包むミイラが何者なのかが重要にもなってくる。
 そんな高度の呪詛を発するものであるならば、その危険な存在を記す記録があって然るべきだ。
「後、これはあたしの推測なんだけど、ミイラといったんだけど、その実は霊体と実体からなるハイブリットみたいなものかも知れないって直感的に思った。宙に浮いたような状態で移動しているように見えし、そこにミイラとしての実体があるにも関わらず存在がぶれて見えたような気がしたんだ。もちろん、そう感じただけかも知れないけど、……あたしはそのつもりでいた方が間違いないと思う」
 それは即ち、物理的な攻撃のみでミイラを撃破できるとは思わない方が良いと言ったに等しい。
 そうして、神河に対し、それを踏まえて対策を立てて欲しいと要望したにも等しい。
 もちろん、基本的には、スマホの中の画像データが映し出す事態を回避することに対して全力を尽くすことが第一義だ。しかしながら、万が一、それでもミイラを叩かねばならなくなった時、対処する術を持っていないのでは話にならない。
 改めてスマホの中の画像データから、正威は「神河」という独自の観点で何か拾えるものがないかを萌と確認する。
 その一方で、遙佳は静止画からは読み解くことができないだろうと述べた部分の補足を続けた。それは、ちょいとそこかしこに封印されている程度の悪霊・怨霊の類が用いていいレベルではない呪詛を放つ、僧衣のミイラについての調査結果でもある。
「ここ緑苑平フォレストコンコース西地区の外れで星の家のRFが開けた大穴がどこに繋がっているかのことなんだけど、黒蝗とかの手掛かりを元に片っ端から閲覧可能な櫨馬地方の古い文献を調べてみて、……これだと思ったものがあるんだ。招現寺(しょうげんじ)っていうお寺を封じた空間に、繋がったんだと思う」
「招現寺?」
 萌は聞き覚えのないその単語を鸚鵡返しに口にしていた。すぐ隣でスマホの画面を覗き込む正威へと首を傾げて目を向けては見るものの、そこに返る反応というものも首を横に振るというものだった。
 神河がその存在を知らなかったことで、遙佳はそれまでまとっていた悲痛な面持ちを大きく緩和させ招現寺の説明へと移行する。さらりと「そういうものがあるんだ」で片付けないところを見ると、その招現寺が持つ背景といったものがここで生じる危機に絡んで来るものなのだろう。
 遙佳が紐解く招現寺の背景は、霞咲の一つの古い伝説に繋がるものだった。
「招現寺についての記録は数が非常に少ないけれど、櫨馬各地の複数の寺院に存在しているの。その中の一つには、こんな記録もあった。「黒蝗と長雨を伴って霞咲に災いを為す厄神を高僧・普賢(ふげん)が招現寺に封ずる」ってね」
 不意に「厄神」という単語が遙佳の口から出たことで、神河の二人は遙佳に代わって真剣さが帯びることとなった。それも、ほぼ一瞬での出来事だ。
「厄神、……だって? その厄神の名前は解っていたりするの? その厄神は霞咲以外にも……」
 次から次へと言葉を継いで疑問を向ける萌の勢いに、正威が慌てて遙佳との合間に入る。
「ストップ。黒蝗と長雨を伴って「霞咲」に災いを為す厄神だ。どうして焦ったのかも解るけど、まずは久瀬さんの話を聞こう、萌」
 遙佳は困惑した様子を隠さない。咄嗟に自身の発言の中の「何」が、萌のその対応を引き出したのか解らなかったからだ。
 正威が発した制止の内容から推察するにそれは「厄神」という単語だったのだろうけれど、それにしたって櫨馬地方では割と有り触れた言葉で、有り触れた存在だ。霞咲に限らず、ここ櫨馬地方では多くの「厄神」の名前が各地で挙がる。
 尤も、だからこそ、久和と関わり合いのある、それこそ厄介極まりない「厄神」が居るのかもしれない。
 ともあれ、正威の制止が入り、萌は一瞬でその熱を冷ました。
 さらりと謝罪を口にすると、萌は遙佳に話を続けるよう要求する。
「ごめん。かなり先走ったし、多分勘違い。何でもなくはないし、気になるかもしれないけど、まあ、続けてよ」
 しかしながら、厄神という単語を発端に萌が咄嗟に発した言葉は、喧嘩腰とも受け取られ兼ねない程の音量であったことも影響して、期せずして三人は通行人の好奇の目に晒されることとなる。そうなってしまうと、そのまま通路のど真ん中で長々と立ち話をするというわけにも行かなくなる。
 まだまだ人の往来はかなりのものだ。中地区の中心部から外れた場所で、緑苑平駅前のそれよりかは多少マシになったとは言え、石を投げれば容易に誰かに当たるレベルだ。特に正威は、じろじろと衆人環視に曝される中、傍若無人にも会話を続けられる程、豪胆にはできていない。
 遙佳はジェスチャーを用いて二人を壁際へと誘導すると、背負ったスクールバックを足元へと下ろした。すると、スクールバックの中からは500mlのペットボトルなんてものが三本出てきて、遙佳は「お互いちょっと肩の力を抜こうか?」とでも言わないばかりに、それを二人に向けて差し出した。
 中身はレモンティーで、ちょうど小休止を入れるにはちょうどいいチョイスだ。
「くれるの? ありがとう」
「悪いね」
「プライベートブランドの格安投げ売り品なんで、口に合えばいいんだけどね。というか、二人とも、……あれなんでしょう? 普段は高級茶葉で煎れたお茶しか飲まない、とかなんでしょう? 水もわざわざ取寄せた茶葉に合うものを、南部鉄器の最高級鉄瓶で沸かしたものしか使わない、みたいな」
 余りにも何だかよく分からない想像上のステレオタイプを口にされて、正威は呆れてものが言えない様子だった。
「神河、いや、久和一門に対して、かな。ともかく、久瀬さんがどういうイメージを持っているかはともかくとして、そんなわけないから!」
 強い言葉で否定をする正威に、遙佳はからかい半分で疑問を投げかける。
「毎日毎日、夕食は和懐石だったりするんじゃないの?」
 遙佳がどこからそんなイメージを抱いたのかは解らない。しかしながら、もし久和一門を一晩調べ上げる時間を有した結果がこれだというのなら、どんな誤った情報が氾濫しているのかを神河ないし久和傘下の門家は一度調査した方が良いのかも知れない。
 櫨馬地方で活動を始めてからこっち、それなりに歴史を重ねてきてはいるわけで、それがこういう間違った認識の氾濫に繋がっているというのならばそこは是正すべきだろう。何より、神河としては「敷居が高い」などとでも思われてしまっては色々と支障が出る可能性も考えられる。
 ともあれ、からかい半分に対して、まだ半分それを本気で問う節を持つ遙佳へ、正威は「そんなことはない極端な例」を一つ提示する。
「……門家の話で良ければ、偏食がたたって週4でカレーを食べている変わり者なら知ってるね。しかも、カレーの合わせは常に決まった銘柄の焼酎でなければ嫌だっていう変わり者だ」
「あはは、それは体に悪そうだ」
 からからと笑う遙佳を前にして、正威は「では自分達はどうなのか?」というところについても言及する。そこには「自分達も遙佳が思うような食生活をしているわけではない」ということをしっかりと明示し、誤った認識が拡散しないようにする意味合いもあっただろう。
「俺や萌も何かと外食メインの生活にはなりがちなんだ。だから、これでも時間に余裕がある時なんかは自炊を心掛けていたりもするんだけど、こちらにいらっしゃる萌さんは毎回パスタを茹でるぐらいしかしてくれないよ。しかもミートソースやらカルボナーラやらパスタの合わせはレトルトで、食卓の彩りにはレタスとキャベツを千切って市販のドレッシングを掛けるぐらいと来たもんだ」
 如何に普段はきちんとした食事をしていないこともあるという点にフォーカスして話をしたことで、正威は一つ墓穴を掘る。萌がまともな料理を用意してくれないことが多いという点を口を滑らせて暴露した形だ。
 当然、萌はすぐに眉をぴくりと釣り上げる。
「……言うねー、嫌なら今度から正威の分は作らないから、正威の好きなもの作って食べればいいんじゃない? あれでも、ばっちりアルデンテに仕上げてあげてるんだけど?」
「パスタは楽だよねー。市販のレトルトソースなら味付けの失敗もないし、そこそこ食べられるもんね。あれだよ、塩パスタじゃないだけいいじゃない」
 すぐに遙佳が助け船を出してくれるものの、正威は口を滑らせてしまった以上、そこで踏み止まるのもどうかと思ったようだ。今更、体裁を繕ったところで、既に覆水盆に返らず。詮無いことだ。ならば、萌提供の食事が少しでも改善されるよう、ここぞとばかりに苦言を呈しておくべきだと判断したらしい。
「塩パスタも食べさせられたよ。あれは大凡まともな食事と呼べるものじゃなかったね。辛うじて腹が膨れても、心は全く満たされない」
「そんなことはどうでもよろしい! それよりも、招現寺の話はどうなったのさ!」
 遙佳はゴホンと咳払いをすると、萌に要求されるまま小休止を切り上げて途切れたままの招現寺の話を再開する。
「その昔に京の混乱を避けて櫨馬地方へと流れてきた一人の僧が居たんだ。何でも、その当時の京都は保元の乱とか何ちゃらの乱とか度々戦乱に見舞われていた時期だったらしいんだ。時代でいうと平安末期から鎌倉に移り変わる頃……かな? で、この僧、まあ普賢さん何だけど、強い法力に恵まれた東密(とうみつ)に属する高僧で、京の混乱を避けること、プラス仏教の普及、そして各地で広まっていた流行病と飢饉の救済を目的として旅を始めたらしんだ。最初のあらましとしてはこんな感じ」
 何ていうことはない。「強い法力に恵まれていた」という点も踏まえて、それは全国各地で有り触れた話だ。名のある僧が地方の行く先々で災いを封じるというところも、実にオーソドックスなストーリーの伝記である。身も蓋もない話だが、それこそそんな伝記は日本全国に五万と残されているだろう。
 遙佳はその五万とあるだろう事実かどうかも疑わしい話の一つとして、高僧普賢の伝説が「実在した」ものかどうかについてこう続ける。
「件の招現寺っていうのは、この普賢さんが櫨馬地方へと流れてきてから建立したお寺らしい。けど、まず最初に触れた通り、この招現寺についての記述を残す記録はほとんど残っていない。いくつかの文献の中に、僅かに「小規模で簡素な本堂だけのお寺」だと記載が見つかったけど、それ以外は本尊のようなものがあったかどうかさえも良く解らない。場所をここだと特定できるだけの有力な文献もなかった。でも、少なくとも招現寺という名前のお寺がここ霞咲の緑苑平界隈に存在していたのは間違いない事実みたい」
 遙佳はタブレットを操作し、霞咲市緑苑平に招現寺が存在していた証拠となるものを画面に表示させる。それはあちらこちらが破れ損失している一冊の古い書物の内容を電子データ化したものだった。特に復元が為されているでもなく、損失した部分は損失したまま電子データ化されたものを表示しているので、遙佳が求めるデータは運良く損失を免れた部分に存在していたということだろう。
 尤も、まず最初に遙佳がやったことは、その古い書物の電子データに触れることではなかった。書物が記された当時「霞咲市緑苑平」という地名自体が存在しなかった為、郷土資料館が公開している北霞咲区画の古い地図と照らし合わせ、まずは当時の呼び名と照らし合わせるというところから始める必要があったわけだ。そうして始めて、古い書物の電子データに登場する招現寺が、今の北霞咲区画に存在していたと紐付けることができるというわけだ。
 遙佳は既にこの情報を収集し終えていて、正威と萌はただ黙ってその一連の証明を黙って聞くのみだった。
 抜かりなく、滞りなく、当時の地図と、今の北霞咲区画との整合性を証明すると、遙佳はささっと次の説明に移る。
「これ、当時の土地台帳の断簡を写した画像データなんだけど、この中の、ここ。ここに招現寺の記載が出てくる」
 遙佳はそれを土地台帳といったが、厳密にいうとそれは地方に置かれた当時の役所である国衙(こくが)がまとめたものだ。だから、それは土地台帳に相当する代物という言い方が正しいだろう。
 ともあれ、判読し難い達筆な書体でつらつらと書かれたその中身をピンチアウトして確認していくと、そこには確かに招現寺の記載があった。尤も、それは土地の所有者を記載したものではなく、霞咲の招現寺に対する年貢の取り決めについて記されたものだ。だから、それだけでは高僧普賢が建立したとされる「招現寺」と、ただ名称の同じ寺が存在していた証左にしかならないのだが、それも遙佳は重々承知のようだ。続けて提示して見せる古い文献の中には「普賢」の名前もしっかりと出てくる。
「で、これが招現寺の普賢和尚に宛てられた当時の手紙を写したもの。しかも、手紙はこれ一つだけじゃなくて、南櫨馬の郷土資料館の展示物とかにも招現寺の普賢和尚に宛てたものがある。大半が撮影禁止だったから画像データはこれしかないけど、数は少ないながら、霞咲の、招現寺の普賢和尚へと宛てた手紙は実在した」
「……数が少ない? 厄神を封じる程の強い法力に恵まれた高僧だったのに?」
 萌の率直な疑問を、遙佳は「そう思うのも当然だよね」と言わんばかりにうんうんと頷き肯定した。そうして、その疑問に答えるべく「手紙の数が少ない」理由についてこう見解を続ける。
「そう、それなのに交流のある寺院は限られていたんだ。結論から言うと、時勢に合わなかったみたいなんだよね。如何に武に秀でた義に厚い人物であろうとも、天下泰平の世では武働きで名を上げること適わずってね。誤解を承知で言えば、大勢が求めるものを与えられる人物ではなかった」
 時勢に合わないとはどういうことか。
 遙佳の説明は、普賢が生きた当時の時代背景と、普賢の思想へと及ぶ。
「普賢さんは東密の流れを汲む僧なんだけど、当時は浄土宗の教えが世を圧巻していく最中だった。まだ浄土宗という宗派自体が形にはなっていなかったみたいだけど、思想として急速に広がった浄土宗の基礎となる「念仏を唱えれば、誰であれ救われ死後極楽浄土へ行くことができる」というこの考えに、普賢さんは否定的だったらしいんだ。で、民衆が求めるものとの乖離がまずあって、浄土宗の教えを許容してでも勢力を拡大しようとする櫨馬の仏教勢力との確執もあって、非常に冷遇されたと記録には残されていた」
 普賢が厳しい修行を是としたのであれば、確かに浄土宗の思想は受け入れ難いものだったのだろう。
 ともあれ、複数の要因が絡まって、そうして世の表舞台でその名を轟かせることこそなかったものの、言い伝えが本当だというのならば「厄神を封じた存在」である普賢は、ここ霞咲に「招現寺」という寺を構えたという認識は間違いのないものなのだろう。
 では、厄神を封じた普賢とは、どれだけの法力を持った僧だったのか?
 残念ながら、それを正確に推し量る術はなく、随所に残る嘘か誠か真偽の解らぬ言い伝えから推察するしかない。
 遙佳もそれを理解しているようで、話は自然と普賢が残した逸話へと及んだ。
「でも、そうして冷遇されながら、その一方では高僧普賢の名前自体は櫨馬地方の各地に今も言い伝えとして残っているんだ。強い法力の為し得た技がその理由なんだけど、どれもこれもが大体怪異や妖怪、鬼の調伏をしたっていう内容。それも、櫨馬地方に来る前・来た後と関係なく、ね。東に悪さをする悪鬼が居れば行ってこれを調伏し、西に災いを為す土着神が居れば行ってこれを法力で鎮めた、みたいな感じだよ。だから一部には熱狂的な支援者がいたみたいだし、山岳信仰や土着神信仰からも一目置かれる存在だったみたい。まあ、そんなんだからこそ、余所からやってきていながら招現寺という小さいながらも自分のお寺を霞咲に構えられたんだろうけどね」
 逸話を話半分で聞くとしても、普賢の能力は相当のものだと推測できる。
 当時、霞咲界隈で暴れた怪異や妖怪がどれほどのものであったかを窺い知る術はないものの、山岳信仰や土着神信仰が指し示す相手は廃神社に顔を揃えたあの面々であるのだ。
「でも、その類稀なる法力を持ってしても、黒蝗と長雨を伴うその厄神だけは調伏できなかった。肝は「黒蝗と長雨を伴って霞咲に災いを為す厄神を、高僧普賢が招現寺に封ずる」の一文の中の、封ずるっていうところ。普賢さんと交流が合って、普賢さんに協力する形で祈祷を続けた同宗派のお寺に残る文献には、封じるまでに三度挑んで三度敗走したとあった。特にその三度目は伏沼(ふせぬま)とか主窪(おもくぼ)とかにある土着神の協力を仰いで、万全を期した上で戦ったけれどそれでも駄目だったらしい」
 話の途中で正威・萌ともに一瞬その顔色に驚きを混ぜたのだが、熱心に説明を続ける遙佳がそれを気にした風はなかった。
 二人としては「ここでその名称が出てくるか」といった感想だっただろうか。もちろん、主窪の名前が出て来たことで、厄神に関する確度の高い情報を別ルートで探れそうだと二人が思ったことは言うまでもない。
 ともあれ、厄神について長々と触れた遙佳の話はついに佳境を迎える。
「三度目の敗退を喫した普賢さんはとうとう厄神を調伏するのを諦め「封じる」という手段を講じる。そして、厄神を招現寺に封じることに成功した。どんな手段を用いたものかは解らない。ただ成功した、とだけ記述が残ってる」
 最後の最後は呆気なく……というよりも、非常に情報量の少ないタンパクな締め括りだった。どんな方策でとか、どんな段取りでとか、そういったものはなく、結論だけが示されたのだ。
 下手をするとその厄神にこれから関わらなければならないかも知れないという状況下で、そこに至るまでの過程が何も説明できないというのは余りにもお粗末だ。もちろん、遙佳もそれを頭では分かっているから、何とも収まりの悪そうな表情を見せる形だった。
 遙佳が調査をした資料は、大体が言い伝えや普賢と交流のあった寺などに残された書物の類だ。
 即ち、普賢以外のものが普賢について残したものとなる。
 普賢が招現寺に厄神を封じ本当に「めでたしめでたし」で終わったのであれば、何かしら厄神について触れた書物なんかを普賢自身がその手で残しはしないか?
 どんな封じ方をしたかは解らないながら、自身亡き後に封印が誤って解かれてしまうことがないよう警告を残しはしないか?
 黒蝗が跋扈するあの画像データを見るに「黒蝗と長雨を伴って霞咲に災いを為す厄神」は封じられていただけでまだ滅ぼされてはいないのだろう。
 そして、僧衣に身を包むミイラである。
「……画像データに出てくる僧衣のミイラ。それらの話を加味するに、高僧普賢の成れの果てだと思うんだけど?」
「かもね。自身を囮に厄神を招現寺に誘き寄せ、招現寺ごと封鎖空間に閉じ込めたとかじゃないかな? 法力では勝てない相手を「封じる」というからには、そんな感じの手を使ったんだと思う」
 萌の疑問は「恐らく」という形ながら、すぐに遙佳の同意を得た。
 厄神と普賢の対決の結末をその目で見て、書き綴ることのできるものなど居なかったのだろう。それは当人にしろ同じ話で、遙佳が推測したような自己犠牲を用いた苦肉の策で厄神を招現寺へと封じたに違いない。
 遙佳がタブレットに表示した普賢と思しきミイラに目を落としながら、正威がぼそりと呟く。
「もしミイラが高僧普賢の成れの果てだというなら、星の家が招現寺へと通じる封印を解いてしまった後、どうして人を襲うなんて真似をしたのかな? 自分が招現寺に封じた厄神にその身を乗っ取られて凶行に及んだのか、厄神そのものに成り代ってしまったのか。それとも、人を襲わざるを得ない何らかの理由があってのことか。解らないことだらけだな。何にせよ、もしも未来視通りにことが運ぶのなら、これはかなり厄介な話になりそうだ」





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