デフォルト設定での「フォント色+背景色」が読み難い場合、下記プルダウンからお好みの「フォント色+背景色」を選択して下さい。


デフォルト設定での「フォントサイズ」で読み難いと感じる場合、下記サイズ変更ボタンからお好みの「フォントサイズ」を選択して下さい。


「異式錯落区画の未知標 -北霞咲新濃園寺コンフリクト-」のトップページに戻る。



Seen09 北霞咲新濃園寺コンフリクト -スターリーイン新濃園寺強襲-(後)


 306号室から新濃園寺の目抜き通り上空へと投げ出されたアルフだったが、自由落下を甘んじて受ける状態にありながら、思いの外、状況分析を冷静に行っていた。てっきり、してやられたことに対して怒り心頭かと思われたのだが、正威・萌の連携で虚を突かれたことがよっぽど利いたようだ。事実、正威の接近を許してしまったのは、萌の挑発のポーズ絡みから怒りや嫌悪感といったものに身を任せてしまったからだ。
 アルフはまず、空中で体を捻るということをして頭から地面に叩き付けられるという状況を避けるべく行動する。
 それはスターリーイン新濃園寺3F層という時点で、頭から地面に叩き付けられればまず間違いなく即死する高さだったからだ。仮に運良く生き延びられたとしても、無事で済まないだろうことは疑いようがない。何せ、真下は舗装された道路である。
 歩道と車道の間には等間隔に街路樹が植えられ綺麗に剪定された植木もあったのだが、そこを狙って落下するというのは無理があった。既にアルフが空中を漂う位置は歩道を大きく乗り越えていて、ちょうど車道の中央線付近上空辺りまで来ていたたからだ。
 どうやらアルフは、落下予想地点そのものを変更しようという考えは持ち合わせていない様子だった。どうにかしようとしたところでその術を持たないだけかも知れないが、車道の中央線付近に落下することも「悪くない流れだ」と判断した府とがある。少なくとも、歩道を闊歩する第三者を巻き込むという事態はさけられるからだ。もちろん、車道への落下となるとその対象が自動車となってくるのだが、その場合はアルフがダメージを負うだけで運転手への被害は軽微なもので済むと想像できた。
 そうして、アルフは短い滞空時間を自由落下に身を任せ新濃園寺の目抜き通りへと着地した。
 新濃園寺の目抜き通りを通行する自動車の交通量がそもそも少なかったこと。そして、ちょうど区間の車道側信号が赤であったことが幸いする。四車線ある目抜き通りの車道中心線付近に着地後、アルフがそのまま自動車に跳ねられるという事態は回避された。
 形としては両足から綺麗に舗装された道路の上へと着地する形だった。尤も、着地後アルフは落下の衝撃をいなし切れず、ゴロゴロと車道を転がる形となった。さらに言えば、どうにか車道を転がる状態を堰き止めた後も、その場に蹲る体勢を取ったまましばらく動けないでいた。
 それが落下のダメージによるものか。正威が用いた符によって306号室から新濃園寺の目抜き通り上空へと投げ出された時の衝撃によって負ったダメージか。はたまたガラス戸をぶち破った時に負った引っ掻き傷によるものかは解らない。
 ただ一つ言えることは、割れたガラスによって生じた引っ掻き傷も、殊の外、浅い切り傷レベルで済んでいるとは言い難かったことだ。
 アスファルトで舗装された車道にはポタポタと赤い点が無数に生じており、血溜りとは言えないまでもアルフが蹲る形に添った血の跡が出来上がる。
 最初は怪訝な様子でアルフを遠目に窺っていた目抜き通りの通行人も、くっきりと血の跡がアスファルトに浮かび上がるのを目の当たりにすると俄かにざわつき始めた。
 通行人の一人、サラリーマン風のいい歳のおっちゃんがスマホ片手に恐る恐る近寄っていき、アルフへと尋ねる。
「なぁおい、あんた。大丈夫か? 救急車とかよ、呼んだ方がいいか?」
 そんな提案を受けたアルフは、まず自身の両腕や体を一通り眺めた。
 声を掛けてきた通行人が怪我の度合いを心配したように、アルフは確かに全身引っ掻き傷だらけで血塗れではあったものの、その一方で怪我が大動脈や太い血管にまで及び「血が止まらない」という事態にまでは陥っていなかった。
 蹲ったままではあったものの、アルフは気丈に答える。
「大丈夫、心配不要です。驚かせてしまい、申し訳ありません」
 それでも、サラリーマン風のおっちゃんはアスファルトの上に出来た赤い染みを見て顔を顰めると、再び心配そうな顔をアルフへと向ける。
「心配いらないって……。かなり出血しているようにみえるけど……」
 内心「放っておいて欲しい」と思いながら、それが善意から来る行動だと思えばアルフはそれを無碍にはできないようだった。にこやかにほほ笑むと、何の問題もないことを前面に押し出し助けが不要であることを強くアピールする。
「これぐらいの出血ならすぐに止まりますよ。一見、大怪我をしているように見えるかも知れませんが、体のあちこちに切り傷を負ったから出血が酷いように見えるだけで大した傷じゃありません。一応。薬局で消毒液やガーゼを買って手当はしますが、救急車なんて大層なものを呼んで貰う必要は無いです。大丈夫です、ご迷惑をおかけしました」
「そうか? ……あんたがそういうのなら、無理強いはしないがよ」
 アルフがその場で足止めされている内に、目抜き通りにはざわつきを聞き付けて集まって来る野次馬連中が少なからず居た。
 サラリーマン風のおっちゃんとのやり取りの間に、どうにか立ち上がれるぐらいまでに体の調子を整えると、アルフはそんな野次馬連中を一瞥することもせずスターリーイン新濃園寺へと戻ろうとする。しかしながら、集まったその人だかりの中に、いつか見た顔を見付けてしまってはその足を止めざるを得なかった。
 何せ人だかりに紛れていたのは、件のブロンド髪の女だったのだ。
 アルフはぎょっと目を見開いた後、しかし一人心得顔で頷いた。そこには目に見えて「不機嫌さ」なんてものも見え隠れしたのだが、総じてその態度は怒りというものよりかは感心と諦観が混ざる複雑な色合いを帯びる。
 足を止め、ブロンド髪の女を睨み据えて、アルフは口を切る。
「……なるほどね、合点がいったよ。今夜の襲撃は君達によるものだったか」
 それは、野次馬によって周囲に満たされたざわつきに負けないよう、かなり声を張ったものになる。
 アルフの頭の中では、起脈石を破壊された昨日の襲撃と、今夜の襲撃が一つの線で繋がった思いだったのだろう。しかも、大凡神河とブロンド髪の女が星の家に求めた内容も似通っていると言えなくはないのだ。
 しかしながら、対するブロンド髪の女はきょとんとした表情だった。そうして、人集りの中からアルフにその真意を聞き返す。
「随分と手酷く誰かにしてやられたみたいだけど、……一体何の話をしているの?」
 そうすることで「今夜の襲撃」とやらに関与していないことを明示したつもりのようだったが、アルフは完全に聞く耳を持たない。
「しらばっくれても無駄だ」
 キッとブロンド髪の女を睨み据えれば、そこにはどんなに惚けて見せても「見逃すことはない」という強い意思表示が伴っていた。
 一旦小康状態になったざわざわとざわつきがまた俄に勢いを擡げた瞬間だった。すると、ブロンド髪の女を中心に、見る見るうちに人集りが割れていく。ブロンド髪の女がアルフと対峙するという構図がそこに完成してしまえば、人集りの集団からは一気にあることないことが囁かれるようになった。
 やれ、ブロンド髪の女と修羅場を演じた結果、アルフが血塗れになっているだの、痴情の縺れだのなんだのといった具合だ。
 当然、ブロンド髪の女はそんな根も葉もない囁きに辟易した様子だったが、アルフに対してはやや当惑の表情で対峙するという形だった。尤も、その言動は例によって軽い調子であり、少なくとも喋り始めの段階でアルフを敵視する素振りは微塵もない。
「聞く耳持ってくれないかー。でも、そうやって決め付けて掛かる態度っていうのは、回り回って大きく損をするだけだと思うけどね。現に、今夜、星の家とことを荒立てるつもりなんかあたしにはなかったのに、君がその姿勢を崩さないっていうのならやむを得ないって思っちゃうよ」
 セミロングでブロンド色の髪を掻き上げた後、後頭部を掻く仕草に「参った」という態度を滲ませて見せるのだが、話しをするその端からブロンド髪の女の態度には「衝突も辞さない」といった好戦的な色気も滲み出る。尤も、それが滲み出たのもほんの一瞬のこと。ブロンド髪の女は未だ捌けない周囲の野次馬連中をぐるりと見渡した後で、アルフにこの後のスタンスについて問い直す。
「まさか、こんな目抜き通りの衆人環視の中でやり合うつもりなの? こう言っちゃうとなんだけど、空から人が降ってきて、しかも「血だらけだったんです」って辺りで既に櫨馬警察辺りには連絡が入ってると思うんだ。騒ぎが収まる様子もないし、人が捌ける気配もない。櫨馬警察だって、きっとすぐにやって来るよ。国家権力を相手に一悶着とかさ、面倒事になること請け合いだとは思わないかな?」
 それは「穏便に手を打ちましょう」との提案だったのだが、アルフはそれを返す言葉で突っ撥ねる。
「だからって君を見逃すという悪手を打つつもりはない」
「悪手、悪手……か。そうかなー、そうやって決め付けで掛かっちゃうことで選択肢を潰し、無用な争い事を増やしているだけだとあたしは思うけどね」
 どうしてその判断に行き着くのかが「到底理解できない」という肩透かしを食った表情で、ブロンド髪の女は大きな溜息を吐き出した。
「今夜の襲撃なんちゃらって辺りは本当に心当たりがないんだけど? でもまあ、星の家の立場から見ると「これから似たようなことやらかし兼ねないぞ」って相手を見逃すっていうのは、確かにあり得ないない話でもあるか」
 最初の思いとしてはどうにかアルフを説得するべく口を切ったのだろうが、そうして話をしている内に「それが困難である」と思い至ったようだ。途中でスパッと自身の提案が「あり得ない話」だと意識を切り替えてしまえば、ブロンド髪の女は提案内容を衝突回避から程度問題へと転換する。
 それは、全面的にではないものの、既に闘志を身に纏って「やる気状態」にあるアルフの意向を汲む内容でもある。
「じゃあ、せめて素手でのストリートファイトって形に留めようよ? 武器を用いて衝突したってなると、やっぱりいざって時には大事に振り分けられちゃうからね。あたしは起脈石を叩き潰したハンマーを振り回さない。君はナックルサックを使用しない。どう?」
「わざわざ提案して貰っておいてあれだけど、僕はそれを受け入れる・受け入れない以前の状態だ。武器を携帯していないからね。君がそうしたいならそうすればいい」
 アルフは一端拍子抜けした顔を合間に挟むと、ブロンド髪の女の提案を突き放した。
 好きにすればいいと返されてしまえば、今度はブロンド髪の女が拍子抜けした顔をする番だった。
「武器も携帯してないのに、あの態度だったわけ? 呆れた。君のやる気に中てられて、あたしがその気になっていたらどうするつもりだったわけ?」
 アルフはさも当然のことだとでも言わん口調で答える。
「もちろん、相手がその気なら、例え素手であっても相手になる」
 対するブロンド髪の女は信じられないという顔付きを隠さなかった。
 負けん気が強いことはプラス要素であるかも知れない。しかしながら、不利な状況を覆す手段を何も持たないにも関わらず、無意味に応戦し続けることは愚かである。そういう思いがあるのだろう。だから、寧ろそういうことを頑として言い放っておいて、ここぞという時に不意の一撃を見舞う為の、駆け引きの一種かも知れないと勘繰ったらしい。
「……とかいって油断させて置いて、ここぞって時にナックルダスターの強烈な一撃で黙らせようって腹積もりだったりする?」
 邪推をするブロンド髪の女の言葉にアルフはややむっとした顔をするが、それも一瞬のことだ。わざわざストリートファイトの体を取ろうと提案するブロンド髪の女に対して、売り言葉に買い言葉となる台詞を投げかける。
「不意を打つとか、切り札を隠し持つとか、作戦を立ててじっと待つというのは性に合わないんだ。どんな状況下でも、やるからには全力と最善を尽くしことに当たる。それが僕の信条でね。君こそ、スクールバックの中には例の武器を仕舞ってあるんだろう? それを使わずして僕に負けを喫したからといって、後々女々しく恨み節を言うのは止めてくれよ?」
「いうね。でも、それはこっちの台詞でもあるかな。そうやって喧嘩を売るからには「怪我のハンデがなければこんなことにはならなかった筈だ」とか、後になって言い訳がましいのは見苦しいからやめてよね?」
 アルフとしては「ブロンド髪の女が武器を用いても一向に構わない」というようなスタンスだったが、素手でやり合うという状況は正直チャンスだった。前回、武器を装備したブロンド髪の女を相手に後れを取っている事実は揺るがない。
 もちろん、では「素手」での衝突なら勝ち目があるのかというと、そこはブロンド髪の女の実力が解っておらず完全に未知数の部分ではあるのだが、まだ体術の心得を持つアルフに取って分のある勝負と見ることができる。
「もし、僕が武器を持っていないからという理由で素手での勝負をするしかないと少しでも感じているのならば、最初に断っておくけど本当にその必要はないよ」
 それでも、アルフの口からは念押しの確認が付いて出た。自身が武器を携帯しないことによって、ブロンド髪の女に手を抜かれるというのがこの上なく嫌なのだろう。言ってしまえば「手を抜く」とは趣旨が異なるはずなのだけど、例え頭ではそれが解っていようとも自身の置かれる状況によって相手が最善を尽くさないというのは納得できないらしい。
「まさか。それこそこの場で君を叩き潰すつもりがあったのなら、そこは「好都合♪」ぐらいの思いだよ。あくまで、この衝突をただの喧嘩沙汰で済ます為だ。もしここが櫨馬だったなら、ストリートファイトなんて日常茶判事の一コマだ。正直それもどうかと思うところはあるけれど、少なくとも喧嘩沙汰ぐらいの騒ぎで櫨馬警察が本気で取り締まりしようなんて考えることは櫨馬ではあり得ない。霞咲だって、あくまで喧嘩の範疇で収まるものならば、仮に櫨馬警察が出張ってきたところである程度はお目溢しして貰えそうじゃない? これが暴動に繋がることだとでも捉えられて、目抜き通りを中心に検問の設置やら治安維持部隊の投入が行われたりしたらどうする? 堪ったものじゃないよ。仮に、本格的に取り締まるつもりがなくとも、ここが霞咲であることを考慮するなら訓練名目で出張ってくるとも限らない。あなた達星の家だって、そんな事態はさらさら困るでしょう?」
 アルフが長々と続いた考察を聞き、まず感じたことは「櫨馬の事情にも精通しているんだな」という思いだった。実質、それ相応に櫨馬の空気や日常にどっぷり浸かっていないとそれは解り得ないことだ。
 ブロンド髪の女はああ言ったが、櫨馬のビジネス街などでストリートファイトが起こることなどまずない。外国人労働者や移民を押し込んだ地域では言わずもがなであるものの、ある程度櫨馬の事情を知り得ていないとそれらはそう簡単に目にすることではない。
 では、検問設置を困るとするのは、スクールバックにハンマーなんてものを格納しているからだろうか?
 他にも色々あるんじゃないか?
 そんな邪推がアルフの脳裏を過りつつあったが、それは口にしても詮無いことだ。
「そうだね。全面的に同意するよ。……解った、ならば、素手でのストリートファイトって体を取ろう。これなら、多少度を逸してもただの喧嘩沙汰だ」
「まぁ、怪我人相手に喧嘩を吹っ掛けるっていうのは、心情的には正直どうかと思うところもあるんだけれど……」
 気が進まないという気怠さや腰の重さが色濃く混じる台詞で口を切りながら、その途中で言葉を区切るとブロンド髪の女はスパッと纏う雰囲気をも切り替える。
「君がやるという以上は相手になるよ!」
 そういうが早いか、ブロンド髪の女が先手を打つ。
 野次馬連中からは歓声と悲鳴が上がり、場は異様な雰囲気に包みこまれていた。尤も、どういう経緯でアルフとブロンド髪の女が喧嘩を始めたかを知り得るものなどいない。余興が始まったぐらいの感覚の野次馬が大勢を占めていただろう。
 ブロンド髪の女が距離を詰める速度は、最初の一撃目から既にアルフが306号室でやりあった萌を上回る速度だった。そして、アルフや萌よりもずっと綺麗で整った品の良い動きだった。空手や柔道といった類の、ルールに基づいて小奇麗な環境下で行うスポーツライクさを持つと言えば的確だろう。いうなれば、それは実戦経験の中、泥に塗れて独学で習得した戦い方ではなく、師を仰ぎ繰り返しの稽古や練習の中で会得したものを実践に落とし込んだものだ。
 そんなブロンド髪の女の動きは良くも悪くも捻りがなく、アルフに取っては先を読み易いものだ。当然、ブロンド髪の女の攻めをいなすことも、そんなに難しい話ではなかった。
 襟首を掴みあげんと伸びてきたブロンド髪の女の利き手を払い、また足を絡めて体勢を崩そうという動きには逆に距離を詰めて反撃に出て事前に対処する。アルフの反撃時にはボデーブローで腹部を狙う余裕もあったのだが、さすがにそこはブロンド髪の女の速度を生かした後退でさらりと回避された。
「驚いた。速度ではあたしが間違いなく上回るはずだから、さくっと投げるか抑え込むかであっさり勝敗は決まる筈だと思っていたけど、……こんなに簡単に対処しちゃうんだ」
 驚いたという言葉とは裏腹に、ブロンド髪の女には焦りの色や驚嘆の態度は微塵も窺えない。寧ろ、いつかの衝突の時のような余裕が垣間見えるぐらいだ。もちろん、ブロンド髪の女にはやばくなったら件の「魔法」があるのだから、その余裕の態度も頷ける。
 ともあれ、一連の連撃をやり過ごしてアルフが理解したことは、ブロンド髪の女の攻めが萌のものよりもずっと甘いということだ。それはスポーツライクさが抜けていないからというのもあっただろうが、本気で相手を潰そうとか病院送りになっても構わないと思って攻めているわけではないところが大きいだろう。そうはいっても、ブロンド髪の女が手を抜いているというわけではない。
 あわよくば、実力差を見せ付けて戦意を削ぎ、アルフから自発的な降参を引き出したいのだろう。
 正威が啓名を相手にそうしていたようにだ。
 速度面で絶対的な強みを持っていると考えていたから、それが実力差を見せ付ける決定打となり得る。そんな腹積もりだった筈だ。誤算だったのは、アルフも速度面に置いて強い自信を持っていて、ブロンド髪の女の動きに対して容易に対処ができるという点だったわけだ。
 アルフはギリッと歯を噛み合わせると、一際大きく吠える。
「僕も、甘く見られたものだな!」
 一転して、アルフが攻撃に打って出ると、押され気味になるのはブロンド髪の女の方だった。いくら速度面でアルフをいくらか上回るとはいえ、それだけではアルフの連撃はいなし切れない。加えて、アルフは回避されることを前提とした攻撃をいくつも間に挟み、本当に痛打したいポイントを可能な限り叩き込めるよう上手に立ち回っていた。そして、その匙加減自体も非常に上手い。
 全身に負った切り傷のダメージなど存在しないかのような速度で距離を詰め、アルフは丁寧に丁寧に畳み掛けていく。足を狙ったローキックなどの動きの全てがフェイントで、それをブロンド髪の女がバックステップで躱したところにすかさず飛び込み、ボディを狙って痛打を叩きこむ。
 最初に決まった痛打の一撃は飛び膝蹴りとなり、ブロンド髪の女の鎖骨部分を下から抉るように膝を押し込む形となった。想像だにしていなかったアルフの飛び膝蹴りを食らって、ブロンド髪の女は目を白黒させる。
「……やってくれるじゃない!」
 奥歯をがしりと噛み締めると、ブロンド髪の女はアルフの膝を抱え込む。さらなる追撃の手を打たせない為だろう。すると、そのままくるりと身を翻して、ブロンド髪の女はアルフを遠心力で放り投げる。否、ただ遠心力を利用して放り投げたのではない。もし、そうならば、アルフが宙高く、それこそ三メートル強の高さまで放り投げられることなどありえなかったはずだ。
 放り投げられたアルフだったが、難無く空中で体勢を立て直して見せると何事もなかったかの如く両足から着地した。尤も、さすがにすぐさま反撃へと移行できるほど綺麗な着地ではなく、落下の衝撃を相殺するために二歩三歩と後退を余儀なくされる形だ。
 どうにか仕切り直しの為の小休止がそこに生まれ、ブロンド髪の女は大きく息を吐く。
「速度で上回るだけじゃままならないものだね。……だったら、そろそろ取って置きを見せちゃおうかな!」
 ブロンド髪の女がそう声を張り上げた瞬間、不意にアルフの背筋を冷たいものが走った。
 何かとんでもないことを相手が仕出かそうとしていることを警告する第六感。
 思い当たるものは「魔法」である。
 そして、素手での勝負といっておきながら、ブロンド髪の女はアルフを襲撃した際に用いた神通力こと「魔法」を躊躇うことなく使用した。利き手をアルフの方へと突き出すように身構えれば、ブロンド髪の女の右手はうっすらと白く発光を始める。もちろん、そこに幾何学的な文様が浮かぶ上げることはなく、星の家が神通力を行使する際に用いる「記号」とは一線を画す何かであることは一目瞭然だった。
 アルフはすぐさま、ブロンド髪の女が付き出す利き手から何かビームのようなものが射出されても回避できるよう身構えたのだが、それは遠距離攻撃を行う「魔法」ではなかったらしい。ブロンド髪の女は薄らと白く発光する利き手をパンッと小気味良い音ともに左手と合わせた後、アルフに向けて一気に距離を詰めた。ブロンド髪の女の右手に宿った白い光は左手にも波及しており、何か物理攻撃に追加効果を及ぼすようなエンチャント魔法を想像させた。
 良くも悪くもアルフは調子を崩される形となる。
 昨日のイメージに引っ張られて魔法を遠距離攻撃だと考え身構えたのもそうだし、ブロンド髪の女の接近に対して上手く対処できない点もそうだ。何かがエンチャントされたと思しき攻撃を真正面から受け止めていいものかどうか、今から対処するとういう直前になって躊躇ったのだ。結果、アルフは「受け止める」という対処を諦め、攻撃そのものを回避する方向に転換するのだが、直前での方針転換がそうそう上手く嵌るわけがない。しかも、苦し紛れの一手だ。
 加えて言えば、ブロンド髪の女の動きもアルフに強烈な一撃を加える為のものでなく、まるでアルフに触れることに重点を置いたような柔軟さを持ったものだった。ブロンド髪の女の方が一段速度でアルフを上回ることもあって、アルフはそのタッチを避けられない。
 威力は皆無。
 それこそ小突く程度に、トンッと肩を押す程度のものだった。
 しかしながら、アルフはまるで重量物で思い切り殴り付けられたかのような衝撃を受けていた。そして、ブロンド髪の女の手が振れた部分には、重しでもまとったような感覚も生じる。
 それがただの錯覚か、本当に重量物で思い切り殴り付けられたに等しいダメージを受けたのかは区別できない。しかしながら、区別できないとは即ち、少なくともそのダメージの影響を受ける状態でブロンド髪の女とのストリートファイトを続けなければならないことを意味する。
 言っても詮無いことと知りながら、アルフは苦り切った顔でブロンド髪の女に苦言を呈す。
「素手での勝負といって置いて、魔法を使うのかい?」
「魔法? 特殊技能と言って欲しいかな。それに、特殊技能で威力を底上げしただけで、まだ素手の範疇でしょう?」
 しれっと言って退けるブロンド髪の女の認識に、アルフがこれでもかという程にげんなりとする。半ば「こうなるだろうな」という思いはあったのだろうが、いざ魔法の使用を目の当たりにするとやはり思うところがあったのは間違いない。まして、魔法という要素が介在しなければ、ブロンド髪の女を相手に回し十分にやり合えるだけの状況だったのだ。
 泣き言を言っても始まらないながら、アルフの舌打ちが全てを物語っていた。
 物理攻撃に追加効果を付加する程度は「素手の範疇だ」という認識は、どこまで拡大解釈されるだろうか?
 それこそ魔法によって遠距離から衝撃波を連発するという辺りまでいっても、ブロンド髪の女はそれを「素手」だと言い張るかも知れない。
 どこまでを素手だと言い張るつもりかを、アルフが懸念したその矢先のこと。
 ブロンド髪の女の口からは、アルフの懸念通りそれら遠距離攻撃さえ「あり得る」話だと続く。
「そもそも世のストリートファイトでは、火を噴いたり、衝撃波を飛ばしたり、帯電したりするのも良くあることらしいじゃない?」
 悪びれた様子一つ見せずに、しれっと「ストリートファイトには良くあること」で片づけるブロンド髪の女の認識では、昨日見せた神通力のような魔法でさえ「素手」の範疇で片付けてしまうつもりのようだ。
 アルフは事前に「素手」の範疇を確認しておくべきだったのかも知れない。
 勝負は一気にアルフに取って分が悪過ぎるものと化していた。
 それこそ、できるかどうかはともかくとして、衝突の威力で半径数kmに及ぶクレーターを発生させる小隕石落下の魔法も素手の範疇で済ますつもりだったかも知れない。
「僕が良く知る世界の話じゃないみたいだけど、君の居る世界では当たり前のことなのか? 君がゲームやファンタジーの世界の住人だっていうなら、昨夜の魔法も含めて納得できるけどね。……信じたくはない悪い冗談ではあるけれど!」
「記号で魔法みたいな力を使う星の家がそれを言うの? てっきり記号を多用してくるものだと思っていたんだけど?」
 使えるのならば使っている。それがアルフの率直な反論だったろうか。そして、記号を使うために必要となる起脈石を叩き潰したブロンド髪の女がそれを言うかという思いだった筈だ。
 ともあれ、防戦に追い込まれてしまえばさらに不利になるだけだとアルフは判断したようだ。重しをまとったかの如く反応の鈍い体に鞭を打ち攻勢へと転じる。
 しかしながら、攻撃に打って出るべく距離を詰めようと踏み込んだ右膝には、次の瞬間ブロンド髪の女の蹴りが沈み込んだ。アルフの動きに反応し接近を未然に防止すべく、取り敢えず繰り出した一撃だったので威力自体は大したものではない。にも関わらず、アルフはその一撃でガクっと片膝を付く形で体勢を崩してしまっていた。
 例によって、その一撃には重量物で思い切り殴り付けるかのような衝撃が加わった格好だった。
 すぐさま立ち上がろうと歯を食いしばるアルフだったが、重しがまとうかのような感覚が追加で発生しすぐには立ち上がれない。
 アルフの脳裏を過るもの、それは「これはまずい」という強い思いだ。
 距離を詰めるという選択は完全に裏目に出たといい。
 そこで取り得るべくは、重しがまとう感覚が薄れるまで距離を置くという選択だったかも知れない。距離を置き時間を稼ぐことで、魔法に対する何かしらの対処方法を模索できた可能性も少ないながらあったからだ。
 もちろん、速度でアルフを上回るのはブロンド髪の女だ。距離を取ったからと言ってジリ貧に追い込まれた可能性も否定はできない。重しがまとう感覚にしても、すぐに薄れるような甘いバッドステータスではなかったかもしれない。
 体術だけに絞った立ち回りならブロンド髪の女相手にも十分勝ちは見込めたが、そこに魔法が加わったことでアルフの負けはほぼほぼ確定的だったのだろう。
 不用意に攻めに転じたことを後悔しながらアルフは眉間に皺を寄せる苦悶の表情で、ブロンド髪の女へと向き直る。
 次の瞬間、アルフは正威にもやられたように、新濃園寺の目抜き通りで空中を舞っていた。直後、遅れて強い衝撃が腹部から全身に渡って波及し何かをされたのだと認識するが、抗う術などなかった。為す術なく宙を舞い、今度は背中から綺麗に剪定された植木の上へと落下する。
 いや、狙ってそこに落とされたのだろう。
 ブロンド髪の女にその気があれば、スターリーイン新濃園寺の三階層まで放り上げられていたかもしれない。
 ともあれ、空中を舞ったとは言え精々舗装された路面から三メートル程度の高さだ。加えて落下地点には選定された植木があり、多少引っ掻き傷が増えただけでダメージは必要最小限に抑えられた形だと言って良かった。
 アルフが宙を舞った瞬間、誰もが「勝敗が決した」と思ったようだった。歓声に時折悲鳴を混ぜながら勝負の行方を好奇の目で眺めていた人集りからは、一際大きな喧噪が響き渡り、当たりは拍手喝采に包み込まれる。
「いいぞ、姉ちゃん!」
「すげぇな」
 ブロンド髪の女が手を添えただけでアルフが吹っ飛ばされて宙を舞ったという事実も、その喧噪に拍車を掛けていた筈だ。目抜き通りには、どよめき、……もっと詳細に分解すると野次とブーイングと歓声と拍手が入り交じって一種異様な雰囲気が熱冷めやらずという具合に漂い続ける。
 すると、未だ静まる気配のないそんなどよめきを前にして、ブロンド髪の女が派手なガッツポーズを決めて見せた。そうすることでアルフの負けを十二分に印象付け、同時にこれで余興は終演だと強く印象付けるためだ。もちろん、当のアルフとブロンド髪の女の二人に取ってそれは余興などではないながら、遠巻きに二人を眺める野次馬に取ってはそんな事情などは関係ない。
 ガッツポーズと共にどよめきは最高潮と鳴り、熱はそこを境としてようやく徐々に徐々に引き始める嫌いを見せる。
 加えて言えば、囃し立てる声に対して、ブロンド髪の女は右手を大きく上げる形で答え、こう誘導を始める。
「はいはい、ありがとうね。でも、これ以上騒ぐと櫨馬警察が介入して来兼ねないから、早いうちに捌けた方が良いよ。ほら、騒いでないで捌けた捌けた。見物していただけなのに、難癖付けられるなんて癪でしょう? 奴ら、融通なんて利かないよ」
「ああ、それもそうだ。……喧嘩沙汰での騒ぎとあっちゃ黙っちゃいないだろうからな」
 見掛け上の勝敗が決したことと、櫨馬警察による取り締まりの可能性にブロンド髪の女が言及したことで野次馬連中はわらわらと捌け始める。一部、まだ熱冷めやらぬといった雰囲気の酔っ払いもいるにはいたが、周りが捌け始めれば右に倣えの形を取る。
 この分であれば、櫨馬警察が介入するよりも早くこの喧騒は収束するだろう。
 人集りが捌け始め、ようやく一息付けるというところで、ブロンド髪の女はゆっくりとアルフの落下地点である植木の方へと向き直った。
 一方のアルフは、植木の上に落下した状態のまま微動だにしていなかった。立ち上がろうとした形跡もない。
 その状況を前にして、ブロンド髪の女はやや心配そうな面持ちでアルフへと駆け寄ろうとする。打ち所が悪かった等の理由で、アルフが意識喪失状態に陥った可能性を危惧したようだ。尤も、植木付近まで駆け寄って行った後、実際にブロンド髪の女がその手をアルフに向けて差し出すことはなかった。
 結論からいえば、アルフは植木に嵌って生傷を増やしただけだったからだ。即ち、魔法によって負ったダメージがまだ尾を引いていて、起き上がれないでいるだけだったわけだ。意識ははっきりとしている様子で、視界に安堵の息を付くブロンド髪の女の様子を捉えた直後、これ見よがしに不機嫌な表情となる。
「良かった、やり過ぎちゃったかと思って焦ったよ」
「……」
 ブロンド髪の女から「やり過ぎたかも」と言葉が出る辺り、魔法を用いた攻撃は手加減されたもので間違いなかったのだろう。アルフとしては「手加減された」という事実が何より気に食わないらしい。憮然とした表情はその強さを増し、会話に応じる雰囲気は微塵もない。例え、手加減されないことで完膚なきまでに叩き潰されたとて、そちらの方がアルフに取っては本望だったのかもしれない。
 それでも、ブロンド髪の女はそんなアルフのガキっぽい態度が面白いと言わないばかり、にんまりと笑みを作りご満悦の風だ。
「さて、あたしの勝ちで異論はないよね? それともその様で、まだやる気?」
「……」
 ブロンド髪の女の呼びかけに、アルフからの返事はない。
 それを「不服ではあるものの、行動で示せる状態にはない」とブロンド髪の女は判断したのだろう。自身が勝利したことを前提に話を始める。そこには話題を変えるべく柔和な態度が混ざっていて、憮然と口を噤んだままのアルフから対話を引き出そうとする意図が見て取れる。
「実はさ、スターリーイン新濃園寺ってビジネスホテルが見付けられずに難儀していたところだったんだよね。だから、どういう経緯でそうなったかは知らないけれど、君が空から降ってきた時は渡りに船だって思ったわけ。スターリーイン新濃園寺には、北霞咲起脈敷設計画の指揮を執るプロジェクトマスターと、起脈の根幹に関わる紅槻の血に連なる子がいるんでしょう?」
 ブロンド髪の女の口から外部に漏れて良いはずのない情報が切り出されれば、さすがのアルフも反応しないわけにはいかなかったようだ。
 尤も、なぜそのことを知っているのか?
 そんな質問を投げ掛ける間も与えず、ブロンド髪の女はアルフが抱いただろう不安を払拭するべく言葉を続ける。
「さっきも言ったように、喧嘩を吹っ掛けるつもりはないから安心してよ。まあ、信用できないかもしれないけど、今は話がしたいだけ。起脈を敷設しようとする真意が知りたいんだ。起脈敷設に対するちゃんとした理由が星の家にあるのなら、あたしは星の家の動きを全否定するつもりなんてないんだ」
 星の家の行動にも一定の理解を示す用意があると宣って、対話をすることに理解を求めるブロンド髪の女の態度は真摯だった。そこに、アルフを騙そうとする態度は微塵も感じ取れない。なぜ、星の家の内部事情を知っているかといった疑問は残るものの「衝突するつもりがない」という姿勢には一定の理解ができる。
 では、アルフはブロンド髪の女にどんな姿勢で対峙したか?
 それは押し黙ったまま、顔を顰めるというものだった。
 それは「そもそも信用ができない」とかそういった根幹的な問題ではなくて、スターリーイン新濃園寺が見付けられずに難儀していたという件が大きい。ブロンド髪の女の姿勢に一定の理解ができるからこそ、その主張の歪さが際立っていた。「辿りつけない」という件で嘘を付いている雰囲気にないことも、そのアルフの混乱を大きくしていただろう。
 スターリーイン新濃園寺とはこの目抜き通りに面して立地しており、例えその目が節穴でもない限り容易に見付けられてしかるべき建物だ。
 見付けられないなんてことが、起こり得るわけがない。
 それでも、仮に「見つけられない」が本当なのだとしたら……。
「今夜の襲撃に、君は本当に関与していないのか?」
 ブロンド髪の女は苦笑しながら、その質問に答える。
「襲撃なんてものに関与していたら、多分こんなところをうろついていたりしないよ。一番槍になるべく最前列にいて突貫する役目を買って出てると思う、かな。そういう猪の武者っぽいところをもうちょっと何とかしなさいって散々言われてるんだけど、あたしがそうすることで何かを防げたり被害を最小限に抑えたりできるならって思うのも確かなんだ。……と、変な話をしたかな」
 その言葉で信用して貰おうなんて思ってはいなかっただろう。言うなれば、疑義を僅かに和らげて見せたアルフに呼応して、ただ雰囲気を和ませるため合間に挟んだ雑談に過ぎなかったはずだ。
 実際、ブロンド髪の女は鼻の頭を掻きながら、半ば強引に話題をスターリーイン新濃園寺のものに切り替える。
「でも、あれだよ、用心しているからと言って、君達星の家はどれだけ解り難い立地にあるビジネスホテルを利用してるの? 入念に住所と立地を調べてナビアプリにまで頼って来たのに、まさか迷って辿りつけないなんて思いもしなったよ」
 またも、ブロンド髪の女の口からは「スターリーイン新濃園寺に辿りつけない」という理解に苦しむ内容が続いた。
 それこそ、ぐるりと周囲を見渡せば、一際大きく電飾が輝き電光掲示板にもスターリーイン新濃園寺の文字が躍るのにだ。
 そして、相変わらず、ブロンド髪の女には嘘を付いている様子は微塵も窺えない。
 では、どういうことだ?
 ブロンド髪の女を始めとした一定の人々の目に入らないよう、何らかの仕掛けが張り巡らせてあるのだろうか?
 目の前で眉間に皺を寄せ思案を巡らせ始めたアルフの様子を「案内してもいいものかどうか葛藤している」とでも思ったのだろう。ここにきて、ブロンド髪の女は要求を押し切る為の、率直なお願いを口にする。
「無理強いはしない。けど、できることなら、プロジェクトマスターと紅槻の血に連なる子のところへあたしを案内して欲しい。お願い!」
「案内するも何も……」
 アルフは改めて、自身がガラス戸をぶち破ったスターリーイン新濃園寺の306号室へと目を向けようとする。何なら「あれがスターリーイン新濃園寺だ」と指を指して教えてしまうつもりだったかも知れない。
 確かな違和感を覚えたのは、スターリーイン新濃園寺の様子を確認するというその時になってからだった。違和感の原因にも、すぐに気付くことができる。自身がぶち破ったはずの306号室のガラス戸に、破損した形跡が確認できない。目抜き通りに面した側にテラスがあることで死角になっているだけかとも思ったようだが、そうではなかった。
 もっと根本的に色々おかしい。
 スターリーイン新濃園寺であるはずの建物は、アルフの記憶の中の形状と似通っていながら異なっていたのだ。
「僕も、……化かされているのか?」
 当惑の色を隠そうともしないアルフだったが、化かす相手に心当たりもある。
 もちろん、脳裏を過るのは襲撃者たる神河一門の二人だ。
「化かす?」
 首を傾げて聞き返すブロンド髪の女だったが、その言葉の途中ですぐにピンと来たようだった。
 ブロンド髪の女にしても、そもそも見付けられないということをどこかおかしいと思っていたのだろう。
「どれ? どれが君の記憶の中でスターリーイン新濃園寺だった建物?」
 アルフが首をしゃくってスターリーイン新濃園寺だったはずの建物を指す。すると、ブロンド髪の女は電柱の脇に置いたスクールバックに走り寄る。スクールバックから出て来たものは布にくるまれた50〜60cm程度の細長い物体だ。
「ハンマーなんか取り出してどうしようっていうのか?」
 アルフがそんなことを思った矢先のこと。ブロンド髪の女が取り出した物体が、件のハンマーでないことに気付く。
 根本を結った結束バンドを外し、布を無造作に取り払っていくと、姿を現したものは両刃を持つダガーみたいに細長い武器だった。とはいっても束の部分は横幅が広く、先端になるにつれ細くなっていき、一般的なナイフなどとは一線を画す形状をしている。あちらこちらには装飾があしらってあって、実用性重視のものというより祭儀用のものという印象を強く与えた。
 捌けずに残っていた幾人かの野次馬と、通行人からは再びざわつきがあがる。
 尤も、ブロンド髪の女はそんな喧騒などには目も暮れない。ダガーを片手にスターリーイン新濃園寺だったはずの建物へと接近していき、あるポイントまでいったところで足を止めた。
 あるポイントには、何かこれといった目印があったわけではない。
 こう言うと語弊があるが、ブロンド髪の女を目で追った通行人達からどよめきが生まれた瞬間に、ブロンド髪の女が通過したポイントだ。尤も、どよめきが生じたのも当然だとさえ言えた。なぜならば、そこに到達した瞬間、水面に水滴が落ち波紋が広がるかの如くぐにゃっと空間が揺らいだかのように見えたのだからだ。
「普通に往来を行き来しているだけだと境目を感知できないなんて……、どれだけ精緻な結界を仕立てたっていうのさ? 見付けられないわけだよ! これ、星の家の仕業じゃないんだね?」
 念押しして確認するブロンド髪の女に、アルフは首を横に振る。
「星の家のものじゃない」
 その返答を聞くや否や、ブロンド髪の女はすぐさま何もない空間へと向けてダガーを突き立てた。
 すると、スターリーイン新濃園寺を包み込むかのように淡く発行する白い靄のようなものが具現化し、そしてダガーに吸い込まれるかのように収縮して行った。そうして、ダガーが仄白く発光するようになったところで、ブロンド髪の女は再びダガーへ布を入念に巻き付けていった。衆人環視の中、刃渡り50〜60cmもある刃物を人目に晒したくないという重いもあったろうが、その挙動はそもそも必要に迫られない限りダガーを使いたくないかのような態度にも見える。
 ともあれ、ダガーにぐるぐると布を巻き付けながら、ブロンド髪の女は無言でアルフを見据え、目顔で状況説明を要求した。スターリーイン新濃園寺を人目から隠したのが星の家の仕業でないなら「今夜の襲撃」という件が一気にきな臭さをまとったことは言うまでもない。
 アルフが出合い頭に喧嘩腰の態度を取るから、ある程度その「今夜の襲撃」という件が片の付いたものだとブロンド髪の女が思った節がある。蓋を開けてみて始めて、それが現在進行形の案件だと理解した格好だったろう。
「僕達は神河一門という連中に襲撃を受けている真っ最中だった。劣勢に置かれ、僕がその場から強制的に排除させられることになって、……多分もう、上の決着は付いてる。神河は襲撃の理由を警告だといっていたけど、君が話をしたいといった内の一人「紅槻啓名」は話をできるような状態にはないかも知れない」
 神河がそこまでやるかは解らないが、霞咲から手を引くことを最後まで「一存では決められない」と頑として答えるだろう啓名に対して、どう落としどころを探るかによってはない話だともいえない。
 ともあれ、ブロンド髪の女には何か思うところがあったらしい。くっと下唇を噛むと、険しい表情を覗かせる。
「何号室で神河一門の襲撃を受けたの?」
 ブロンド髪の女の言動からは、その場に乱入するつもりであることを容易に窺い知れた。だから、アルフには「答えない」という選択肢もあった。けれども、アルフは神河の襲撃を受けた啓名の部屋番号をすんなりと答える。
 即ち、それは今現在起脈に絡んで霞咲で行動する三勢力が一堂に会することを意味する。
 事態がどう転ぶかは蓋を開けてみないと何とも言えない状態ながら、それでも神河によって星の家が完全に動きを削がれるぐらいならばとアルフは考えたのだろう。
「……三階、306号室だ」
 ブロンド髪の女はアルフの返答を聞くや否や、スターリーイン新濃園寺の玄関目掛けて走り出していた。


 不意に、306号室を包み込んでいた空気が変わる。
 変わる前は、その場で異変を感じることなどできなかった。しかしながら、いざ変わってしまった後で改めて前と後とを比較してみると、そこには明らかな違いが存在するのだ。いうならば、変わる前の306号室は音や気配といったものを察知し難くする無色透明で無臭の気体が充満した空間のようだったと言えた。
 繁華街の喧騒や人の気配といった類のものが耳に届くようになり、アルフがぶち破ったことで破損した窓ガラスもきちんとその場に壊れた姿を晒す。
 何より、それがただの空気の変化でなかったことを印象付け、且つ決定付けたのはその直後の萌の行動だったろう。
 無駄だと知りながら、それでも身構える形で多成がその手にしていたハンドガンをスレッジハンマーでの一撃によって払い除けたのだ。まるで、銃口が自身に向いていることを嫌うかのような対応であり、表面上はそうとは解らないようにしていたが「慌てた」印象も拭えない。
 ハンドガンは多成の手を離れ、306号室の側壁に勢いよく叩き付けられた後、床へと落下する。暴発し兼ねない程の勢いで叩き付けられたわけだが、ハンドガンから弾丸が射出されるようなことはなかった。
 多成がセーフティをロックしていたのかも知れない。
 ともあれ、その萌の不自然さを孕んだ動きが、啓名に何らかの理由によって仕掛けが解除されたことを確信させたようだ。どうして仕掛けが解除されたのか。その理由は解らないものの、それは啓名に取ってこの状況を打開し得る上で千載一遇のチャンスである。
 啓名が狙ったのはハンドガンを拾いに動くというような行動ではなく、真っ先にこの場からの離脱を試みるというものだった。
 ハンドガンを拾うという観点で見ると、啓名は正威や萌、そして多成よりも近い位置に居たのだが、それを手に取ったところで自身の置かれる状況を根本的にどうにかできるとは思わなかったのだろう。
 啓名が足を向けたのはテラスの方向だった。306号室の出入口へと向かうには正威を躱す必要があり、仕掛けが解除されたとはいえ、それを容易にやって退けられるとも思わなかったようだ。
「正威!」
 すぐさま、啓名の不穏な動きを察知して萌が声を上げるものの、テラス側へ移動する可能性など正威は念頭に置いていなかった。完全に裏を突かれる格好となり、正威の反応は大きく遅れた。
「動ける面子を集めます!」
 そう叫ぶと、啓名は割れた窓ガラスを潜って、テラスへと身を乗り出す。
「俺のことは良い! 後に備えろ!」
 多成が場を離れる啓名へ叫び返すと、当の啓名は振り返ることもなくテラスの欄干まで進み出ていた。
 ようやく正威が啓名の後を追ってテラスへと進入するが、既に時遅し。
 啓名は欄干から身を乗り出し目抜き通りを見下ろしたところで一度怯んだものの、そのまま欄干を乗り越して目抜き通りへとダイブしていた。
「おいおい! 嘘だろ、ここ三階だぞ? しかも、あの格好で……」
 正威も欄干に身を乗り出すまでは行ったのだが、そこで同じように怯んだ後、深追いするまでもないと判断したようだ。まして、後を追った場合には、多成の処遇を萌に任せて単独行動することになるという点も、気掛かりの一つだった。それこそ、挑発を多分に含む多成の向こう見ずな態度は、限りなく萌と相性が悪い。
 一応、啓名が目抜き通りの人混みに紛れるまでは、正威も後を目で追った格好だった。
 啓名はスターリーイン新濃園寺3階層から飛び降りた際のダメージを微塵も感じさせない身のこなしを見せてくれた。恐らくは行動制限で発生させる障壁辺りを上手く使って、落下の衝撃をいなす手立てを持っていたのだろう。
 正威が目で追った限りでは、啓名が電波妨害の影響がなくなったことにまで考え至った風はなかった。それこそ、多成の身の安全を考慮した上で乱暴な手段に打って出るなら、スターリーイン新濃園寺に警察組織の介入を促すという手もある。「銃を持った不審者が部屋に人質を取って立て籠り……」等、あることないこと通報すれば容易に警察組織を巻き込むことが可能だった筈だ。
 今はこの場をいち早く離れるということに頭が一杯で、そこまで考えが及んでいなかった可能性を加味すると、正威・萌の二人にはあまり悠長にことを構えている時間はなさそうだった。それを踏まえて、正威が306号室内へと足を向けるのだが、そこには萌と多成が繰り広げる侮蔑合戦というカオスな空間が広がっている。
「あの場面は「待て、俺を一人にしないでくれ!」ぐらいの情けないことを、啓名ちゃん相手に悲壮感を漂わせながら口走って欲しかったんだけどね? 小汚くてみすぼらしい髭っ面が情けなさに拍車を掛けて、さぞかし良い絵になったと思うよ?」
「くたばれ、三下共が!」
「その三下相手にしてやられるなんて、星の家のプロマス様ともあろうお方が随分とまあ滑稽で無様だね? まあ、その小汚くてみすぼらしい髭っ面にはお似合いだとは思うけれど」
 306号室の壁に凭れ掛かるように座する多成を、萌は上から見下しプレッシャーを掛けながら罵倒する。
 多成は完全に揚げ足を取られた様子で、押し黙るしかない様子だ。自身が「三下」と罵った相手にしてやられたのは間違いなく、ダメージ転移も不用意さが招いたと受け取れなくもないのだ。尤も、萌を睨みつける視線は鋭さを増し、今にも機会さえあれば咬み付かんといわないばかりであることも間違いない。
 やはり、相性は限りなく悪そうだ。
 正威が306号室内へと戻る気配を察したのだろう。萌はふいっと多成から距離を取る。そして、くるりと踵を返して正威へと向き直れば、啓名を追ってテラスへと進み出た後の結果についてその目顔で尋ねる。
「……ごめん、萌。取り逃がした」
「まあ、完全に虚を突かれたもんね。それに、絶妙のタイミングでやられたしね」
 萌の態度に、啓名を取り逃がしたことを非難する風はなかった。逃走経路も踏まえて、完全にしてやられたことに対する悔しさこそあれ、神河サイドの落ち度はなかったという認識だろう。もちろん、こうしておけば良かったという反省点はあるのだろうが、それでも啓名の逃走を防げたかというと疑問は残る。
 そして、何よりも正威が気掛かりに感じるのは、やはり仕掛けが破られたことだった。「絶妙のタイミング」とは言い得て妙で、狙い澄ましたかのようにやられた感が否めない。ただの偶然かも知れないが、注意するに越したことはないはずだ。306号室から強制排除した前後のアルフの言動を見るに、とてもじゃないがそんな真似ができるとは思えないから、仕掛けを破ったのは星の家のニューフェイスだと正威は推測していたようだ。この短時間でアルフが集めたニューフェイスであるはずだが、そいつが仕掛けを破るだけの力量ないし知識を備えているのは間違いないと考えたらしい。
 引き際を見誤らぬよう熟考する正威の横で、萌はあわよくば有利に押し進められるはずだったものが水泡に帰したことをこれでもかと惜しんでいた。
「あーあ、台無しだ。必要最低限の言うべきことは、取り敢えず啓名ちゃん相手に言い終えていたとはいえ……。あそこまで踏み込んだのなら、啓名ちゃんからの協力を取り付ける……とまでは行かなくとも、どうせなら星の家上層との対話の場ぐらいは引き出しておきたかったよね」
 そこまで口走った後で、萌はふと何かに気付いたようだ。
 星の家上層との対話の場を引き出すだけならば、まだ打って付けの相手が306号室には転がっている。
「啓名ちゃんを餌にして、星の家のプロマス様が釣れたんだ。駄目元でも、要求してみようか?」
「……紅槻ルート寄りかは陰険なムードの漂う場になりそうだけど、立場的には紅槻啓名ちゃんより上に位置するんだ。やらない手はないかもな」
「星の家上層との対話の場だと? ……貴様ら、何者なんだ? 何が目的でここに居る?」
 多成の問いに、萌と正威はお互い顔を見合わせ、どちらからともなく溜息を吐き出す。
 啓名に対して行ったやりとりを多成は知らない。それは即ち、掻い摘みながらでもある程度は同じやりとりを多成とせざるを得ないことを意味する。啓名相手には敢えて実力差を知らしめるようなやりかたを取ったわけだが、多成相手に同じ方策は効果的ではないだろう。
 正威はゴホンと咳払いをするとにこりと事務的に微笑み、店員が接客するかの如く多成相手に丁寧な口調で自己紹介を始める。
「まず最初に、俺達は霞咲で祭儀的なこと、呪術的なこと、八百万の神々との交渉などを一手に引き受けさせて頂いている神河一門と申します」
「神河……? 知らんな。一体どこの片田舎の……」
「余り時間的な余裕もないので、要点を絞って説明させて頂きます。黙って聞いていて貰えますか?」
 自己紹介を受けて毒づこうとする多成の言葉を遮り、正威が事務的な微笑みにプレッシャーを混ぜた。もちろん、苦痛に顔を歪めながらも多成がその程度で怯むわけはない。
「はッ、三下共は礼儀を知らんな! 貴様らの時間……」
 構わず毒づこうとするところに、今度は萌が駄目を押して黙らせるということをした。
 萌のやり口は、多成の頭部を掠めて306号室の壁へとスレッジハンマーを叩き付け、力付くで黙らせるという方法だ。そうして、例によって例の如くSっ気たっぷりに微笑んでいた。
「おっさんが「はい」か「いいえ」か意思表示さえできるなら、口を聞ける状態である必要なんかないんだ。あーだこーだと喧しく喚き散らすだけなら、しばらく喋れない様にしてあげてもいいんだ。啓名ちゃんには襲撃した目的も、あたし達の要求も一通り伝えてある。にも拘わらず、今からおっさんにも一からみっちり説明してあげるんだから、感謝して欲しいくらいだよ?」
「はッ、感謝だと? 馬鹿も休み休み言え。そんなこと、こちらは頼んじゃいない!」
 身の危険を感じる状況下に晒されてなお、態度を改めないところはさすがというべきだろうか。軽く一回りは年下のガキに舐められるわけにはいかないという腹だったかも知れないが、その多成の言動は萌の行動をワンランク上野ものに引き上げさせる。
 それは即ち、あくまで多成を掠めるだけの「脅し」だったものが、直接的なダメージを及ぼすものに切り替わることを意味した。
 赤黒く染まった多成の右足を、萌は容赦なくぐりぐりと踏みつけた。
「があああ!! 三下共がぁッ!」
「萌! 止めろ!」
 すぐさま正威からは制止が向いたが、萌が多成から足をどけたのは傷を踏み付けたっぷりと響き渡る呻き声を堪能した後だった。





「異式錯落区画の未知標 -北霞咲新濃園寺コンフリクト-」のトップページに戻る。