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Seen08 北霞咲新濃園寺コンフリクト -スターリーイン新濃園寺強襲-(中)


 啓名が正威と対峙していた僅かな時間の内に、事態は啓名に取って大きく不利な状況へと進展してしまっていた。
 萌がさっさと黒雑食を処理してしまったのだ。
 黒雑食を片し終えた萌は優雅にシングルベットへと腰を掛けて、頬杖を突いて相方である正威と啓名とのやりとりを遠目に眺める格好だった。そうして、そこで啓名と目が合えば、萌は軽く手を振る仕草を合間に挟んで見せもする。
 この踏ん張りどころで啓名がどう対応するのか。お手並み拝見と言わないばかりの態度だ。
 正威の手によって障壁が破壊され、啓名がチェックメイトとなるのを傍観するスタンスなのだろう。
 では、啓名を偏に正威任せにするつもりなのかと言えば、そうでもないのだろう。萌の目線は正威と啓名から僅かにさえも逸れることはない。それこそ、スマホの画面なんかに向けられることもなければ、306号室内の様子や備品だとか室外へと逸れることもないのだ。仮に、何らかの要因が加わり正威が不利になるような場面になれば、どこからでも介入可能な場所に陣取っているという見方をした方が間違いない。
 ともあれ、そんな具合にじーっとやりとりを眺められるやり難さも去ることながら、啓名に取ってそれ以上に痛手だったことは306号室からの離脱を画策するにあたり、萌の動きを意識しなければならなくなったことだった。しかも、黒雑食の攻撃を軽くいなすだけの能力を萌は持っており、仮に「瞬発力」という観点だけを取ってみてもそれは啓名を軽く凌駕する。
 神河一門の二人を交互に見遣り、窮する啓名がやっとこと。それは、その片割れたる萌に対して声を掛けるというものだった。
「この短時間で、黒雑食二体をぼろ雑巾にする……とかね。目の前で実際にやれたんじゃなく、人伝に伝言されただけだったなら、信じることが出来なかったかも」
 今まさに自身を囲う障壁を正威によって崩されているという最中にあって、傍観者を決め込む萌へと対話の矛先を向ける。それは一見、啓名をより不利な状態へと追いやる愚策のようにも思えたが、正威とのマンツーマンでの対話によって引き出し得る妙手など存在しないのだ。
 既に打つべき手を打ち、後は障壁が破壊される前に救援が来ることを祈り期待するだけの状態なのだ。
 そうして試みた駄目元の対話によって、正威の集中力を僅かにでも削ぐことができるのならば儲けもの。
 それは、その程度の、深慮のない考えだったろう。
 啓名がそうやって口を切ったことで正威は一瞬萌の方を気に掛けはしたもの、そこから啓名の期待通りにことが進むことはなかった。「その力量に感心した」という趣旨の発言に対して、萌から反応が返る中にあっても正威は一切手を抜くことなく障壁の除去を続けたのだ。
「んー、時間は掛けた方だよ。一匹目を潰した後も、そっちがまだまだ時間掛かりそうだったから、啓名ちゃんの使役する黒雑食とは何ぞやってところをあしらいながら軽く解析させて貰ったりしていたしね」
「ああ、……そう」
 萌の台詞に啓名は返す言葉もないという風だ。何せそれは、黒雑食二体は軽く捌いて当然という趣旨の発言でもある。
 萌と啓名との黒雑食に対する認識の相違は懸け離れていて、しかもそれはそっくりそのまま実力の差に繋がるものだと言って良い。次回、次々回と、仮に神河と再び衝突する機会があるのだとして、その際には黒雑食が時間稼ぎにもならないだろうことを啓名は念頭に置かねばならぬだろう。
「そろそろ王手が掛かりそうだけど、どうする? 投了する?」
 萌からそう指摘され、啓名は眼前にある正威へと視線を戻さざるを得なくなる。
 王手を掛けられることと、投了を宣言することの間に何か差でもあるというのだろうか?
 萌の指摘に言葉を返せないで居ると啓名はいよいよ押し黙るしかなくなり、眼前の障壁を正威によって破壊される時をただ傍観して待つのみとなった。くっと口を真一文字に結び眉間に皺を寄せる険しい表情だけが、まだ啓名に反骨心が残っていて「決して諦めてはいないこと」を体現していた。
 不意に、パンッと一つ甲高い音が鳴り正威の差し出す利き手が障壁を貫通した。障壁に生じる罅も、正威に面する前面側は既に全体までに及んでいて、後は取り除かれるのを待つばかりに見える。
 啓名が額に汗を滲ませながら意を決した顔付きを取り、鞄の中に手を滑り込ませた矢先のこと。
 ようやく、啓名の待ち侘びた「待った」が掛かる。
「ドアをぶち破って真正面から襲撃掛けるとは、恐れ入ったよ。しかも、周りに襲撃の気配を微塵も感じさせずに……、とはね。素直に感心した」
 そのまま、啓名の障壁を全て取り除かんとしたところで背後から声を向けられ、正威はその手を止めざるを得なかった。それは声の主に対して「驚いた」という表現で良かっただろうか。
 正威がその声の主に対して、驚いたポイントは二つ。
 一つは有無を言わさず背後を狙って飛び掛かってこなかったこと。
 二つは、声の主の立ち位置が306号室前の廊下というやや離れた場所であり、気配を探り難かったとはいえ神河の制御下にある中で接近に気付けなかった点だ。
 ともあれ、啓名に取っては待ち侘びた援軍の到着である。どうにか「詰み」の一歩手前で踏み止まったことで、ホッと胸を撫で下ろしたかと思いきや、その表情は険しいままどころか、その度合いをより一層甚だしくもする。
「遅い! 遅すぎるよ、アルフ! 今の今まで一体何やってたのさ!」
 声の主であるアルフへの、啓名からの第一声は不満が口をついて出るという内容だった。
「ごめん。でも、何の異変も感じ取れなかったんだ! 匂いも、音も、気配も、何も……」
 話す先からアルフの握り拳には力が込められていくのが解る。いくらそれらを覆い隠すための仕掛けを神河が施していたのだとしても、気付けなかったことにアルフは相当な不甲斐なさを感じていたらしい。
 尤も、そうして不甲斐なさを恥じて下を向くのも束の間のこと。
 くっと顔をあげて正威を睨み据えれば、アルフからは強い口調で警告が向く。
「まずは、啓名から離れて貰おうか?」
「それは聞けない相談だ」
「だったら、力尽くでも引き剥がすまでだ」
 間髪入れずに返った正威の拒否にカチンと来たのだろう。アルフは強制執行を匂わせ306号室内へとずんずんと進入してくる。
 慎重さが欠如していたといわざるを得ないアルフの動きに、啓名は思わず声を張り上げる。切っ掛けは「何の異変も感じ取れなかった」と言った下りだったろうか。306号室内に居る萌の気配に気付いていないのだと啓名は思ったのだ。
「アルフ! 駄目よ! 止まって!」
 啓名の制止の言葉にハッとなって足を止めたその鼻先数センチメートルの距離を、萌が放ったスレッジハンマーが頬を掠めていた。ワンテンポ遅れて「ドゴン」と破砕音が響き、306号室の側壁にはスレッジハンマーの衝突による大きな穴が一つ生じる。
 アルフの視線は306号室の側壁に穴をあけたスレッジハンマーへと反射的に一瞬向くものの、すぐに側壁とは反対側の、萌からの攻撃に対処すべく身構えた。
 直後、萌がアルフとの距離を詰め、繰り出した攻撃は下顎を狙うハイキックである。それは重心を低くとり、且つ利き足を軸に回転を加えて威力を底上げした左足での一撃だ。格闘技の経験有無はともかく、肉弾戦に対する慣れがあるのは間違いない。慣れがなければ、その動きを繰り出すこと自体不可能である。
 対するアルフが咄嗟に取った対応はガード姿勢だった。防御という選択は、啓名に指摘されるまで萌の存在を認識できていなかったことも多分に影響していただろうが、それよりも想定以上の速度で「距離を詰められた」というのが正直なところだろう。
 実際、アルフの最初の構えは先制攻撃を視野に入れたもので、ある程度萌との距離があることを前提としたものだった。少なくとも、啓名に制止され、その場に足を止めた時点でアルフは萌との距離を大雑把に知覚できていた筈だ。にも関わらず、先制できなかったのは萌の速度がアルフの想定を大きく上回ったからに他ならない。
 アルフは両腕で真正面からハイキックを受ける体勢を取る。尤も、そのガードだけでは、ハイキックの威力を相殺しきれなかった。壁際付近まで押し出されるように後退を余儀なくされてしまえば攻めの体勢に転ずることもままならず、萌の連撃を許す格好となっていた。
 やや距離を詰め、萌が連撃として放つはアルフの軸足を狙ったローキック。
 しかしながら、壁際に追い詰められたアルフはすぐさま後退から前進に転じ、形としては萌のローキックをより近距離で受けるという選択だ。ある程度ダメージを受けることを許容してでも、アルフが前進と同時に繰り出したものはボデーブロー。尤も、それは殴り付けるというよりも押し退けるといった方が適当だろう一撃である。
 萌に対するアルフの認識は、既にノーダメージでどうにかできる相手ではないとして捉えていたようだ。
 ローキックを放たんと攻撃の姿勢にあった萌に、当てることだけを重視して繰り出されたボデーブローを回避する術はなかった。
 利き足を軸に回転を加えて威力を底上げした威力重視のローキックはアルフを見事に捉えるものの、その一方で萌もボデーブローで後退を余儀なくされる。
 ローキックによるダメージにアルフはやや苦痛に顔を顰めたものの、ボデーブローのカウンターによってバランスを崩し一歩二歩と後退した萌の様子にしてやったりの顔を覗かせた。すると、今度はこちらが追撃を掛ける番とばかりに踏み込めば、すぐに体勢を立て直しきれない萌に向けて距離を詰めんとする。
 一方、萌もただでは転ばない。そんなアルフの動きを察知して、半ば強引に迎撃に転じる形を取る。無理矢理利き足で踏ん張って、そこを軸に回転蹴りという反応だ。それは距離を詰められることを嫌ったからこそ出た反応だったろうが、やはり軸が振れ大きく威力も速度も減衰した一撃となった。しかも、アルフはその萌の動きを読み切っていて、実際には回転蹴りが紙一重で当たらない位置までしか距離を詰めない。
 悠然と回転蹴りをやり過ごして見せた後で、アルフは一足で距離を詰め裏拳の要領で萌の腹部にさらに一撃を加える。今度の一撃は押し退ける為のものなどではない。
 ずしっと重く腹部にめりこむ一撃に、萌は素直に感嘆を吐く。
「やるじゃん」
「まさか僕に肉弾戦を仕掛けようと考えるなんてね。速度には相当の自信があるのかもしれないけれど、その選択、後悔して貰おうか!」
 一撃を加えることに成功したことで、アルフは俄然その勢いを増して萌へと向き直る。それは、救援対象である啓名のことなど「忘却の彼方に追いやってしまったのではないか?」と勘繰りたくもなるような荒々しさを伴った口振りだった。最大限、好意的な解釈をすると、戦況を立て直す上で萌への対処は必要不可欠という意識がその対応へと繋がったのだと受け捉えるられるぐらいか?
 当事者たる啓名が頭を抱える様を隠さなかったあたり、熱を帯びたことでアルフは当初の目的を見失ったのだろう。
「言うじゃない? どっちが後悔することになるか思い知らせてあげるよ!」
 ヒートアップするアルフと萌を横目に、当然の如く啓名は一人佳境を迎えていた。
 障壁に侵食する正威の手が斜め上に振り上げられ、とうとうけたたましい破砕音とともに瓦解したのだ。
 啓名は苦虫を噛み潰したような顔をして正威から距離を取り、306号室のガラス戸間際まで後退する。
 後退と同時に鞄から勢いよく短刀を取り出してみせたものの、啓名の表情がその対応を「苦し紛れ」のものであること強く示唆する。さらに言えば、やや小刻みに震えて見せる様子というものも、そうやって間際に追いやられて短刀を手にする機会がそうそうなかったことを如実に表していた。言うまでも無い。際になって短刀を抜いたからと言って、それが奥の手というわけではないのだ。何より、お世辞にも短刀の扱いに慣れた佇まいではない。
 もちろん、眼前の啓名がそんな立ち居振る舞いをして見せるから、正威の態度や表情が大きく崩れることもない。そして、啓名に向ける言葉もそれに準じたものになる。
「護身用の武器を手に取るなんて、術者としては万策尽きた感じかな?」
 啓名は指摘通りであることを微塵も隠さず、その上で今まさに猫を噛む窮鼠足らんと正威を牽制する。
「うるさい! その通りよ! ……何なの? 何者なの、あなた達?」
 そして、啓名はここに至って自身を追い詰めた相手が何であるかを改めて尋ねた。
 正威を睨み据える瞳は鋭いものの、そこに宿る色の大半は当惑である。未だ、そうして襲撃されるに至った所以を、納得できていないのだろう。
 当然、櫨馬での星の家の振る舞いを啓名が知らないはずはない。だから、いくらか思い当たる節はあって然るべきではある。しかしながら、あからさまに格上の相手を引き摺り出すに繋がった直接的な行動が何だったのかの答えを啓名は求めた形だった。
「名乗った通りだよ、神河……」
 ご丁寧に改めて名前を名乗ろうとする正威の言葉を遮り、啓名は「では、その神河が何を為さんとしてここにいるか」を問い質す。
「その神河とやらが一体全体星の家に何の用だっていうの? こっちは今の今まで、あなた達の名前は愚か、存在も認識していなかったのだけど?」
 正威は何一つ言い淀むことなく、啓名にその答えを返す。
「警告、それと、威力偵察といったところかな」
「警告?」
 その単語だけからでもかなり多くの思い当たる節が連想されるのだろう。啓名は鸚鵡返しにその中身の詳細を求めた。
 すると、その「警告」の詳細については思わぬところから声が上がった。
 アルフと近接戦闘を続ける萌である。
「そう、警告。霞咲は久和一門の息が掛かった土地だ。あなた達「星の家」と呼ばれる組織がここで起脈とかいうものの敷設を進めているらしいけれど、その行為は全く持って容認できない。今すぐ、北霞咲に設置した大岩を撤去して、霞咲から手を引くと約束しなさい」
 萌が口を切ったのは、啓名だけでなくアルフにも神河が星の家を襲撃した理由を理解させる意図があったからだろう。
 対峙をする萌が二人の会話に割って入ったことで、アルフは萌からやや距離を取りその動向を窺う姿勢を見せる。尤も、いつでも攻撃を再開できる体制は崩していない。萌が不穏な動きの一つでも見せるようなら、容赦なく攻撃を再開することだろう。
 正威はそんなアルフを尻目に萌へと目配せをして、やや自身の存在を印象付けるような演技調でその続きを口にする。
「君達は起脈の敷設について北霞咲にある八百万の神々と交渉をしているらしいけれど、それは順序が異なる。筋がおかしい。まずは久和一門ないし、神河に話を通して貰わないとさ」
 詰まるところ「霞咲での立場を弁えろ」といった警告を向けられて、啓名はポカンとした表情だった。まさか、そんなことを付き付けられるとは夢にも思っていなかったのだろう。
 神河からの要求は単純明快だ。
 ああだこうだと思慮するまでもなく、この衝突を回避する方法を啓名は理解したはずだ。即ち、起脈敷設を中止すると約束するか。「霞咲に起脈敷設をしたいので、北霞咲にある八百万の神々との間に立って交渉をしてください」と依頼をするかだ。
 啓名は神河へと向ける敵対的態度をやや緩め仕事を依頼する側に立つ顧客の体を装うと、星の家がそうして立場を弁えた振る舞いをした場合の可能性について正威へと問う。
「一つ、確認しておきたいのだけれど、久和一門や神河やらを通して話を進めれば北霞咲へ起脈の敷設は可能?」
「星の家が神河に依頼をするという形を取り、且つ神河が納得できる正当な理由を持って起脈石を設置したいというのであれば、神河が責任を持って北霞咲にある八百万の神々との交渉に立つだろう。もちろん、神河が間に入るまでに、君達「星の家」が傍若無人な振る舞いで関係をこれでもかという程に拗らせていた場合なんかは、君達にどんな立派な大義名分があろうと成功の保証はできないけどね」
 その言い回しで、啓名は正威の言わんとするところを粗方察したようだ。
 星の家が立場を弁えた振る舞いをしようとも、それだけでは神河が態度を変えないこと。
 起脈敷設は、例え神河を通して交渉した場合でも成功は保証できない状態にあること。
 そして、その二つから導き出されるものとして、神河の言わんとするところが「霞咲から手を引け」という警告に帰結することだ。
 一つの可能性として神河を通すことで起脈敷設を進められるなら、それでも構わない。啓名としてはそんなスタンスだったのだろうが、その可能性もあっさり潰えた形だ。
 装った顧客の体もボロボロと瓦解してしまえば、そこには先程よりも険悪なムードが漂い始める。
「あたし達「神河一門」は、人のシマで傍若無人な振る舞いを続ける「星の家」って連中に、まずは優しく警告しに来たわけだよ」
「……」
 萌からも襲撃の意図をはっきりと告げられ、啓名は沈黙するしかなかった。ここで「では、霞咲から手を引きます」なんて軽口が聞けるほど、アルフにしろ啓名にしろ柔軟な対応ができる口ではなかった。ここでそう言って置いて、後でしれっと「手を引こうとしたけど、やっぱりできませんでした」と約束を反故にする真似ができるほど、いい加減にはできていないというわけだ。
 啓名が押し黙ったまま警告に対する態度を明確にしないことで、星の家がそれを受けてどうするかはアルフによって明示された。
「縄張りに我が物顔で押し入って来た相手に対しても、警告から入るんだな。まずは「御忠告ありがとう」と返すのが、僕達が取るべき態度なのかな。けれど、こちらも「はい、そうですか」というわけにはいかないんだ。例え、将来的な禍根を残すことになっても、僕達は君達神河の縄張りを犯し、闘争によってそれを奪い取ることも厭わない」
 それまで会話の動向を窺うだけだったアルフが対話に混ざったことで、そこには大きな進展が加わった。
 少し、ややこしい話になってきた。
 啓名やアルフとの接触を終えて、正威の率直なファーストインプレッションはそんな内容だった。
 神河に取って望むべくは腹を探り合いつつ小規模衝突をするこの現状から、全面衝突回避に向けた動きへと舵を切る展開だった。詰まるところ、啓名が一歩退きアルフの好戦的な姿勢が顕在化してきたことは、余り好ましくない方向へと事態が動き始めた兆候に他ならない。
 劣勢にあってなお、アルフは「退く気はなく徹底抗戦する」といったに等しい。今後の星の家のスタンスについても「全面衝突も辞さない」とも取れるニュアンスだ。今の時点に絞って状況を整理してみても、啓名はともかくアルフは完全にやる気であり、このまま萌との戦闘を続けるつもりであることに疑いの余地はない。
 星の家に退く気がない以上、衝突の規模をこれ以上大きくしない為には神河が退くしかない。しかしながら、では「威力偵察の目的を果たしたから撤退する」と宣言したところで、アルフが神河を黙って見逃すだろうか? そんな筈はない。
 そうなると、アルフだけは是が非でも無力化する必要が出てくる。
 正威は啓名を横目に捉える。短刀の切っ先を自身へと向けたまま微動だにしない啓名からは、積極的に攻撃へと打って出る態度や仕草は感じ取れない。正威側からさらに攻めればもちろん反転攻勢に打って出て来る可能性も考えられるが、その牽制状況を崩さざるを得ない事態が生じない限りはそのまま成り行きに身を任せるだろう。
 言うなれば、救援として駆けつけたアルフの行動如何によって、そのスタンスを変える状況という見方も可能だ。尤も、その起点となり得る筈の当のアルフは、萌相手にヒートアップしており啓名を気遣う様子一つない。
 こう言っては何だが、障壁を破壊されて不慣れな短刀で正威を牽制せざるを得ない啓名の「追い詰められた」状況に、アルフは余りにも無頓着だと正威は思った。というよりも、その無頓着さは、仮にこのまま正威が啓名を縛り上げるところまで手を進めたとして、本当に萌との戦闘行為を停止するかどうかさえ疑わしく思えるレベルだ。寧ろ「激高して手が付けられなくなるんじゃないか?」とさえ不安にもなる。
 正威は溜息を一つ吐くと、啓名から視線を外しアルフを横目に捉えた。
 改めて確認するまでもないことではあったが、アルフはやはり「正威」という存在に意識を向けていなかった。
 徐に「殴り掛かる」という行為に打って出て「横合いから一発殴り付けられるか?」というとアルフご自慢の身体能力でどうにか対処されそうではあるものの、正威がアルフを一足の間に置くこと自体はそう難しくないかも知れない。
 では、この状況下で、アルフが「正威」を意識する場面とは一体どんな事態だろうか?
 よしんば、正威が突然攻撃目標をアルフへと変更した場合、啓名にそれを止める術があるだろうか?
 頭に血が上ったり、一つのことに集中するとアルフは他のことに気が回らなくなる性分なのだろうか?
 アルフとは「付け入る隙」を多分に持ち合わせている可能性がある。
「縄張りを奪い取ってでもとは、随分と穏やかじゃない話だよね。痛い目見ないと解らないっていうのなら、ここらで一つ痛い目見て貰おうじゃない!」
 萌が俄かに好戦的な態度を滲ませるだけで、アルフは安易にそこへ乗っ掛かってくる。萌が繰り出すだろう攻撃に対応すべく体勢を取って、いつそれが始まっても対処できるように神経を研ぎ澄まして見せるのだ。その挑発行為を「罠や策動の類かも知れない」と疑う様子は微塵も感じられない。
 ならばと、連携を意識したのは萌も同様だった。
 萌は正威へと目配せをする。
 相手にそれと悟らせない。正直なところ、そんな観点で言うならば、萌の目配せというものは余り上手な仕草だとは言えなかった。なにせ、それはアルフを間に挟んだ状態で行われていて、アルフと面と向かって対峙をする状況下で行われたものだ。せめて、アルフの注意を別所に向ける手を打ったり、視線誘導を仕掛けるなり何なりと、それと気取られないようなワンテンポがあって然るべきなのだが、萌の目配せはその手の配慮が全くなかった形だ。
 しかしながら、にも関わらず、アルフはそれすらも容易に見落とす。いいや、見えていたのに気に掛けなかったという言い方が正しいのだろう。だったら、それは「見逃す」と言い換えた方が適当か。
 啓名が正威の動きを把握・制限していて、必要とあらば自身に注意や警告を向けるはずだとでも考えたものだろうか。
 萌は軽く息を吐くと、一呼吸を間に挟む。直後、向き直り様に床を蹴れば、萌はアルフへと急接近する。
 今回、アルフは萌の接近を厭わず、近距離下での迎撃に出た。具体的には、萌が繰り出す胸部への掌底や、腹部を狙ったボデーブローといった攻撃を受け流してやり過ごす形だ。そうして、萌の体勢が崩れる場面を待って、間髪入れずに反撃を加えるやり口である。
 萌の攻撃を受け流すアルフの動作や足捌きといったものも、全て萌の体勢を崩す為のものだったろう。やや大袈裟とも受け取れるのだが、必要最小限の動きではないことで逆に攻める側の萌の挙動も大きくならざるを得ないのだ。
 さらに言えば、アルフはスピードに優れていることに加えてどうやら体術の心得があるらしい。ただただ目にも止まらぬ速度で攻撃をいなすだけでなく、萌の体勢を崩すべく効果的な一撃を的確に加える。
 萌は見る見るうちに連撃の動きのキレを奪われていった。
 結果、萌の体勢が大きく崩れるまでに要した時間は一分にも満たなかった。
 顎を下から上に叩く頭部を狙った一撃で、バッドステータス「脳震盪」付与を目論んだ萌の動きが読まれ、大振りを外してバランスを崩したところを逆に叩かれる格好となる。。
 萌がもろに食らった一撃は、またも深く腹部に沈むボデーブロー。
 しかしながら、その一撃を食らった直後、萌は不敵に笑う。さもそれを「待ってました」といわないばかり。自身の腹部に沈むアルフの利き手をがしりと握り取ってしまえば、萌は体勢を崩しながらもアルフの動きを大きく制限することに成功した。
 尤も、アルフはアルフで利き手を握り取られたことを、当初は気にした風もなかった。しかしながら、あっという間にその表情には険しさが滲み出た。渾身の力を込めて萌の拘束を払い除けようとしているにも関わらず、一向にその拘束を払い除けられなかったからだ。
「……僕の力で払い除けられない? びくともしない……だって? 嘘だろう!?」
 萌は涼しい顔でアルフの「払い除けようとする動き」を完全に抑え込んでしまっていた。さらに言うなら、萌の涼しい顔は「痩せ我慢」とかいった類の表情ではない。
 まだまだ力比べの余力が残っていることをこれでもかと匂わせられつつ動きに制約を加えられ、アルフの焦りは一気に顕著となる。
 萌がしてやったりの表情で「余裕」を見せる辺り、アルフに取って力任せにその拘束を振払うのは困難だろう。
 そして、それは実際の結果としても表れる。
 アルフが勢い任せに拘束を振り払おうとしたのだが、萌によってあっさりと押さえつけられ不発に終わったのだ。
「君は、見掛け通りの、ただの華奢な女の子というわけではないみたいだね? 力一つ取ってみてもそうだけど、腹部への一発だって平然としていられるような威力じゃなかったはずだ! 何を隠しているんだ?」
「それは、あたしの台詞でもあるけどね。一連の動きは、ただ喧嘩慣れしているからだけではないよね? あの速度は、多分、血に何かを混ぜているからだ。何かを取り込んでいるからだ。何なら、何が混ざっているかも当てて見せてあげようか? 遺伝子工学で獣の遺伝子やらを混ぜ込んだのか。交配で人でないものを意図的に取り込んだのか。それともその両方かは知らないけれど、どうせ碌なものじゃないんでしょう?」
 侮蔑とも受け取られかねない萌の言葉に、アルフは露骨に嫌悪感を剥き出しにした。尤も、そうして嫌悪感や敵愾心を前面に押し出すという行為は、少なくとも「何かを混ぜる」という認識が的を射たものだといったに等しい。
 そして、アルフはその萌の侮蔑の言動がポーズだったことにさえ気付けない。怒りや嫌悪感によって、意識のほぼ全てを萌の方へと持っていかれて、背後へと接近する気配に気付くのが遅れたのだ。
 アルフが背後へと接近する気配に気付いたのは、利き腕を掴んで離そうとしない萌に本格的な対処をしようとした矢先のことでもあった。
 当然、アルフは背後から何らかの攻撃を仕掛けられる可能性を考慮して、行動を制限された中でも相応の対処を取るべく慌てて身構える。
 しかしながら、そんな予想を裏切って、その気配は何も危害を加えてこなかった。代わりにその気配がやったことは、擦り抜け間際にアルフの胸元へと手を伸ばし、そこに符を一枚配置するということだった。
 アルフの背後へと近付き、するりとその横を擦り抜けた気配とは、いうまでもなく正威その人である。
 アルフも黙って符を置かれることを良しとしたわけではなかったのだが、萌の妨害を受け対処ができなかったのだ。それどころか、萌の腹部に沈む利き手同様、もう一方の手を萌にしっかと握り取られてしまう格好だった。
 ようやく、そこに至ってアルフは救援対象「紅槻啓名」へと顔を向ける。
 今の今まで注意の一つすら向けることをしなかったのだが、正威の介入を前に啓名の状況を確認しないわけにもいかなったというのが本音だろうか。何せ、啓名の妨害を受けることなく正威が自在に室内を動き回ることが可能という状況は、啓名が完全に無力化された可能性を示唆していたに等しい。
 実際問題、正威がどこまでやるかはともかくとして、啓名が完全に意識を失って床に突っ伏していたっておかしくはなかったし、相手が相手なら手酷く痛め付けられていてもおかしくはなかった。
 啓名の身の安全を危惧して顔色を変えたアルフの目に映ったものは、アルフに向けて警告の言葉を今も発しているだろう啓名の様子だった。しかしながら、大きく口を開いて何かを訴え掛けているのだが、その訴えが「音」としてアルフの耳に届くということはなかった。しかも、啓名自身は自身の声が自身の耳にしっかりと届いているようで、アルフにそれが届いていないという認識はないようだ。
 尤も、アルフの表情に当惑が色濃く灯れば、啓名も異変を敏感に察知したらしい。
 アルフの脳裏を過るもの。
 それは神河が啓名を襲撃した際に「周囲に何の異変も感じ取れないようにした」ことだ。同じように、啓名の警告がアルフに届かないよう、何らかの手を打ったのだろう。
「……やられた」
 眉間に皺を寄せてガクッと項垂れるアルフは、そこから致命的な一撃が加えられることを覚悟したようだ。
 何より、アルフの両腕をしっかと握っていたはずの萌がその拘束を解き意地の悪い笑みを見せるのだから、もう間違いない。
 次の瞬間、アルフはスターリーイン新濃園寺306号室の、テラスに通じるガラス戸をぶち破って空中へと投げ出されていた。さらに言うなら、空中へと投げ出される過程でテラスの手摺りに衝突し、それをへし曲げて軌道を変えるというおまけも付いた格好だった。
 アルフは何が何だが解らない内に、306号室を遠目に眺める状態に陥っていた。ワンテンポ遅れて、自身がガラス戸をぶち破った破砕音が響き、続いて体の各所に重く鈍い痛みと、ガラス戸をぶち破った際に生じた無数の引っ掻き傷がもたらすちりちりと身を焼くような鋭い痛みを感じていた。


 306号室からアルフが強制退場させられて、啓名は強張った表情のまま身動きできないでいた。相手の出方を窺って慎重になっているといえば聞こえはいいが、その実は打つ手などなく万事休すの状態だ。
 そして、身動ぎ一つせずに神河の動向を注視する啓名の眼前で、目を疑うべき事象が発生する。たった今、アルフがぶち破ったことで破損したはずのガラス戸が、まるで何事もなかったかの如く一瞬で復元するのを目の当たりにしたのだ。
 啓名の表情には、これでもかと言うほどの当惑が色濃く滲み出た。
 アルフがぶち破ったガラス戸を、一瞬で復元する術式を用意したものだろうか?
 いいや、その手の高度な術式が発動した気配は一切無い。ならば、それは実際に復元したわけではないのだろう。復元したかのように認識をねじ曲げているか、幻術で復元したかのように「錯覚させている」と捉えるのが適当だろう。
 ここスターリーイン新濃園寺には、電波妨害に加えて、ビジネスホテル内の一つところで発生した異変を周囲に感じ取らせないような仕組みが敷かれている。恐らく、その幻術ないし錯覚も、その仕掛けの延長線上の効力だろう。
 啓名は神河の動きに注意を向けながらも、復元したその窓ガラスへとまじまじと視線を向ける。
 その復元が偽物だと頭では解っていても、幻術ないし錯覚を容易に見破ることはできないらしい。「騙されている」ことを理解しながら、それを看破できないことに啓名は思わず苦笑いを零していた。
 騙す為の仕掛けが解除されれば、そこには破れた窓ガラスが当たり前のように姿を現すはずで、啓名はその緻密な仕掛けに思わず唸る。
「アルフが窓ガラスをぶち破って室外へと放り出されるのを目の当たりにしていなかったなら、……きっとわたしにはこの幻術は見破れなかったと思うわ。神河一門、ね。凄いね、本当、頭がおかしくなりそう」
 神河へと向けた啓名の言葉の節々には「恐れ」や一種の「羨望」に似た感情が入り交じりもした。そして、神河が不穏な動きを見せないからか、啓名の視線は復元した窓ガラスへと釘付けになっていた。頼みの綱のアルフが排除され、もう後がないという状況下にあるという事実をまるで忘れてしまっているかのような振る舞いだったと言ってもいいだろうか。
 事実、啓名はその技術に心奪われていたのだろう。星の家に取って、啓名に取って、その仕掛けは喉から手が出る程に「欲しい」と思う技術なのかも知れない。
 しかしながら、啓名の感嘆に対し正威から返る言葉は、またも実力の差を痛感させる内容だ。
「そこまで上等なことやってるつもりはないけどね。簡単に見破られたり突破されたりしたら、わざわざ仕立てる意味がないだろう?」
「それは、あたしが構築した障壁の脆弱さに対する嫌味か何かのつもり?」
 啓名は苦笑しながら、正威に毒づく。
 もちろん、正威に啓名をディスるつもりなど毛頭なかったはずだ。それでも、発言の内容とタイミングは啓名にそう受け取られても「おかしくはないか」と正威に思わせたようだ。
 すぐさま、正威は啓名の発言を否定する。
「そんなつもりはないよ、けど、もし紅槻さんが気を悪くしたのなら、次から発言の内容には気をつけるよ」
「……あたしの気を悪くしたくないというのなら、もっと根本的に正すことがあると思うけれど?」
 正威があっさりと下手に出たことに、啓名は強い違和感を覚えたようだ。いや、そうやって下手に出るという態度で、神河が話をすぱっと切り上げたことを強く意識せざるを得なかった。事実、下手に出た正威の態度を受けて、啓名が向けた嫌味には何も反論を返さないのだ。
 正威がゆっくりと瞑目し口を噤む。
 かと思えば、萌が進み出るように前へと足を進める。
 306号室を包む雰囲気ががらりと変わった瞬間だった。
 もっと正確に言えば、もう後がないという状況下にあるという事実を、啓名がまざまざ思い起こさせられた瞬間だった。喉から手が出るほどに欲しいと思う技術を目の当たりにして興奮したところに冷や水を浴びせられ、交渉のテーブルに無理矢理座らせられたと言い換えてもいいだろうか。
 正威を毅然な態度でキッと睨み付ける啓名の眼前を、萌が澄ました顔で悠然と横切っていった。
 萌は306号室の側壁に突き刺さったままの状態にあるスレッジハンマーの前まで悠然と移動する。啓名の動向など何のそのだ。そうして、そのままスレッジハンマーの柄へと手を添え力任せにそれを抜き取れば、フローリングの床の上へと無造作にその頭部を預ける。その際、ドゴッと一際大きな鈍い音が鳴り響いたのだが、その音は306号室に漂っていた馴れ合い染みた場の空気というものを完全に雲散霧消させてしまった。
「さて、顔見せで始まった楽しいお喋りの時間はそろそろ終わりにして、本題へと話を移そうか、紅槻啓名ちゃん?」
 緊張からだろう、啓名がコクンと息をのむ。
 それもそのはずで、表面的な部分での変化こそ見られないながら萌の口調や態度には事務的な冷徹さが滲み出た感がある。
 では、正威や萌が言う「本題」とは何なのだろう?
 二人が「神河」という組織体の一員たるスタンスを主体として、その態度を改めた時、一体何が起こり得るのか?
 いや、それは言うまでも無い。神河は既に、星の家に霞咲での行動を是正するよう要求を口にしている。
 恐らくは、より強い言葉で、より強い圧力を伴って、それを再度口にするのだろう。
 萌は啓名に向けて、毅然に、そして声高々に要求する。
「霞咲から手を引くと誓いなさい」
「……嫌だと言ったら?」
 突っ撥ねる啓名の台詞がただの強がりからのものであることは明らかだった。打つ手はなく結果的にどうにもならないかも知れないが、それでも大人しく従うつもりはないという細やかな反発の態度である。
 それは神河のスタンスを硬化させかねない態度に他ならないともいえたが、ここでそれを了解してしまったら交渉の余地自体が完全に失われることを意味する。神河の要求は高いレベルにあり、到底頷けるものではない。だから、そこから妥結点を探るというのならば尚更、是が非でもそこは「否定」を口にするしかなかったのだ。
 一方の萌に取ってしてみれば、啓名に妥結点を探る余力を残したつもりなどなかった形だった。
 黒雑食は叩き潰し、頼みの綱のアルフも排除した。正威が攻め立て行動妨害の障壁も突破した。
 啓名には、もう後などないのだ。
「どうして欲しい?」
 そこに至ってなお、啓名が見せる往生際の悪さを前に萌はSっ気たっぷりに微笑んだ。
 是が非でも「はい」と言わせる。手段は問わない。
 そんな確固たる意志をまとう萌の笑みに、啓名は思わず身震いしながら後退っていた。それでも、臆していては何も改善しないことを重々承知しているようだ。ぐっと歯を噛み合わせて踏み止まれば、萌へと確認すべき内容を喉の奥から引っ張り出してくる。
「も、もし、ここで霞咲から手を引くとあたしが約束したとして、結果的にそれを反故にしたら神河はどう出るの?」
「そうだね、その時は星の家を完膚なきまでに叩き潰すことになる、……という回答になるかな」
 有無を言わせず「手を引くこと」を確約させようとしておきながら、それを反故にすることは許さない。
 余りにも自分勝手な言い分に、啓名の顔には嫌悪感を通り越して苦笑いが滲んだ。尤も、その傲慢知己な言い分も「想定の範囲内」ではあったようだ。
「ふふ、……ふふふ、だったら尚更、今ここであたしがそれを約束することなんてできないわ。あたしは星の家の行動を決定づけるだけの権限なんて、持ち合わせていないのだから!」
 苦し紛れに、自嘲気味に笑った後、啓名は自身に権限がないことを盾にして「さあ、どう出る?」といわんばかりに開き直った。
 しかしながら、その啓名の立ち位置というものも、神河サイドに取っては「想定の範囲内」だったようだ。啓名に権限がないことを踏まえ、では啓名がその中で「何を為すべきか?」をさらりと言って退ける。
「今現在に置いて、できるできないは問題じゃない。啓名ちゃんが約束をし、その約束を履行するべく行動せざるを得ない状況を作るというのが何よりも大事だ。例え啓名ちゃんにその最終権限がなくとも、星の家の進むべき方向性に微塵も影響を与えられない程ちっぽけな存在ではないでしょう? 何せ、啓名ちゃんは紅槻の姓に名を連ねるものだ。直系か傍流か、それとも末席に名を連ねるだけなのかは知らないけれど、少なくとも起脈の根幹に関わる「紅槻」の姓に名を連ねているんだ。星の家に属するものとして、起脈の根幹に関わる「紅槻」の姓に名を連ねるものとして、星の家を霞咲から手を引くよう誘導すると誓いなさい」
 淡々と、しかしながら有無を言わさぬ迫力を伴って紡ぎ出された要求に、啓名は眉を顰めて当惑していた。言葉にするなら「そんなことを言われても……」と戸惑う感覚だろうか。仮に、その要求に対して首を縦に振ったとして「実際に何を為すべきか?」「何が為せるか?」を思い至らないのだろう。
 どうにか妥結点を探らんとする啓名に取って、それが妥結点となり得るかどうか判断できないのだ。
 結局、啓名の口からは弱弱しく「権限がない」ことを再び声に出すという反応が返る。
「紅槻の名に連なっているというだけで、あたしには何の影響力もない。末席に名を連ねているというのがやっとのところで、あたしにやれることなんて何もないと……」
 萌は溜息交じりに呆れを滲ませると、唐突に啓名との距離を詰めた。
 一方で、想定だにしない萌の動きに、啓名は利き手に握る短刀で接近を牽制しようとする。尤も、それはほぼ無意識の内の反応だったようだ。繰り出してしまってから、啓名自身驚きを隠さなかったのだ。そして「驚き」の本質は自身が反射的に行動してしまったことから、萌によって短刀を握る利き手の手首をあっさりと握り取られてしまったことに変貌を遂げていた。
 意図せず「攻撃」という対応を繰り出していた啓名は、しどろもどろになりながら弁明する。
「あ、あれ? いや、これは! その、え……と、そんなつもりなんかじゃなくて!」
 対する萌はそんな啓名の対応など意に介した風はなかった。そうやって、短刀を用いた攻撃に打って出てくるという行動を想定していただけかも知れないが、実際に短刀を向けられてなお萌に臆した風は微塵もない。
 啓名のパジャマの襟首へとにゅっと手を伸ばして掴み上げれば「神河の意に沿う行動とは?」を続ける。
「星の家の、啓名ちゃんよりも決定権を持つ第三者へ話を通すことぐらいはできるでしょう? 起脈の根幹に関わることが星の家に取ってどこまで上層へアクセス可能なステータスかは解らないけれど、上に話を付けるにあたってそこらの使い捨て構成員で同じことをやるよりかは啓名ちゃんの方がより近道であるはずだ。違う?」
 萌は襟首を締め上げるように力を籠め「権限のない」啓名にも出来るだろうことを具体例を引き合いに出し突き付けていた。
 息苦しさからか、屈辱からか、啓名は眉間に皺を寄せ襟首を掴み上げる萌の手をまずは払い除けようとする。しかしながら、啓名の力でそれを振り解けるわけもない。まさに、ビクともしなかった。それは握り取られた利き手の主導権を奪い返そうとする動きにしても同じ話で、啓名は腕力的な力量の差にただただ愕然とするしかなかった形だ。
 そうやって、啓名が肯定も否定もできないでいると、萌からは一つの提案が提示される。
「そうだ、啓名ちゃんが話を持っていくことのできる星の家最上層との対話の場を一席設けてよ。期限は五日以内ぐらいで、場所はー……」
 萌が啓名へと提案という形を取って一方的に要求を付き付けようとした矢先のこと。
 306号室外から、そこに割って入る言葉が響く。
「啓名から離れろ」
 その言葉自体は大した声量ではなかったが、強い警告を含んだ低く通る声だった。
 警告の主は、廃神社で最も先鋭的な態度を見せた多成である。
 尤も、パッと見、その割って入ってきた第三者を多成だと理解できるものは一握りだったろう。まず、多成の身にまとう服装がスーツのズボンにホテルの館内着だろうバスローブを羽織るだけという奇妙な出で立ちだったこと。そして、しっとりと濡れそぼった髪を無造作に手で散らしただけで、水滴をポタポタと滴らせる状態だったことが大きい。
 恐らく、スターリーイン新濃園寺最上階の大浴場で一日の疲れを洗い流していたところに、襲撃を聞き慌ててこの場に駆け付けたといった感じなのだろう。髪や体の水分をタオルで拭う時間すら惜しんで駆け付けたのだろう。
 現に、正威・萌の二人はその第三者を多成だと確信を持って認識した風はなかった。かも知れないという意識こそあれ、それが多成だという証拠を見出せないでいる感じだったと言えば適当か。
 ともあれ、多成は強い口調で警告しながらも、今まさに啓名を締め上げる状態にある萌や正威相手に先手を打って攻撃を仕掛けることをしなかった。
 その手に握る「ハンドガン」という確固たる優位性を持っていたからだろう。何より、神河との距離も十分に確保できており、ハンドガンが持つアドバンテージを存分に生かせる配置だ。
 多成は無造作に、ハンドガンの照準を正威へと合わせる。
 正威は啓名と萌のやりとりを少し離れた位置から壁にもたり掛かりつつ傍観する格好で、もう一方の萌は多成に背を向ける形で啓名の襟首を掴み上げる格好だ。多成に取って、萌へと照準を定める方が要求を聞き入れられる可能性が高いと思われたのだが、罷り間違って啓名が負傷する可能を嫌ったようだ。
「……どなたですか? 女子バナ中に変態染みた格好の、中年のおっさんが割って入って来るなんて正直きもいんですけど? 邪魔しないで貰えます?」
 業とらしく崩した態度と言葉で嫌悪感を表現したのは、割って入ってきた第三者が多成ではない可能性を考慮したからだろうか。それとも、そういう崩した態度と言葉を用いる方が、相手を怯ませられると踏んだからだろうか。はたまた、本気でスーツのズボンにホテルの館内着だけを羽織るという格好に拒否反応を示したからか。
 ともあれ、そんな萌の崩した態度と言葉をあっさり無視すると、割って入った第三者・多成は再度淡々と要求を付き付ける。
「もう一度言う、啓名から離れろ」
 多成は空惚けた態度を非難するように、その照準を正威から萌へと切り替える。もちろん、萌の傍には啓名が居るのだから、それは十中八九ただの脅しに過ぎないはずだ。啓名に影響が及ぶ可能性を意に介さないなら、初めからその照準は萌に向けていたはずだ。
 それでも、萌は啓名の襟首を締め上げる拳の力を緩めるということをした。ただ、そのまま手を放して啓名から距離を取らないあたりは「要求を聞き入れるつもりはない」ことを体現したに等しい。
 譲歩する余地を垣間見せた上で、多成相手に対話を試みるか。
 あわよくばアルフ同様この場からの強制排除を仕掛ける腹積もりに見える。
 多成は正威と萌を交互にまじまじと鋭い目つきで眺めた後、眉間に皺を寄せて険しい顔付きを覗かせた。
 一向に、啓名を開放する素振りを見せない萌もそうだが、壁にもたれ掛かる正威にしても、ハンドガンの照準を自身に向けられてなお体勢を正すことすらしないのだ。
 多成の警告を神河が受け入れず、且つ神河が何かしらの反応さえも返さない静寂の時間が流れる。
 このままでは埒が明かないと、先に音を上げたのは多成だった。
 多成はハンドガンの照準を萌から正威へと再度切り替え、額に浮かぶ水滴をバスローブで拭いつつ啓名を含めた306号室の面々に確認を向ける。
「俺より先にアルフ、……焦げ茶色の髪でハーフの、一見優等生でございますみたいなガキが駆け付けた筈なんだが、もしかして、ここにはまだ来ていないのか?」
 それを多成が啓名にのみ向けなかったのは、306号室へと辿り着く前にアルフが神河の手によって排除された可能性をも考慮したからだろう。
 神河の二人が多成の問いに答えようとしないのを見て、啓名が怖ず怖ずと口を開こうとする。当然、それは自身の襟首を未だ掴んだままである萌の様子を窺いながら、である。
 多成相手に誰もが黙るという状況は、星の家と神河が意思疎通を図る上で望ましくはない筈だ。だから、啓名は許されるのならば「わたしが答える」という形を取ろうとしたわけだが、萌にきつく襟首を捻り上げられそこに何らかの言葉が続くことはなかった。
 その場に横たわるものは、沈黙。
 そして、たっぷり一つの間を置き、その沈黙を破ったものは正威である。
「多成さん、ですね? 北霞咲に対する起脈敷設計画の総責任者であり、星の家に置いてプロマスという役職を務める。間違っていますか?」
 多成の質問を受けて口を切っておきながら、正威は完全にそれを無視して質問を投げ返すということをした。
 形としてはこの場に割って入った多成と思しき第三者の素性をただ改めて確認するという内容だったのが、啓名も多成もやや驚いた表情を隠さない。
 それは名前だけでなく、肩書や霞咲で担う役目といったものまでをも確認項目として口にされたからだ。
 多成はその目を、自然とそれらの情報を提供した可能性のある啓名へと向ける。今まさに襟首を掴み上げられて……という状況は、情報を洗い浚い吐くよう要求されていたかのように捉えられても仕方がないし、啓名がそれに屈して情報を提供したとしても仕方がない。
 しかしながら、当の啓名は多成の言わんとしたことを察し、軽く首を横に振る。
「多成さん、十分に用心してください。あたしがプロジェクトに借り出されるようになってからこっち、今まで対峙したことのない類の厄介な相手です」
 多成も多成で、その行間から啓名の言わんとしたことを察したようだ。即ち、啓名が情報を漏らすまでもなく、星の家の表面的な目的や内情というものを神河が既に把握していたということを、だ。
「プロマスなんて略語までさらりと出てくる。君達は星の家の事情をそれなりに理解しているようだが、一体どこの誰なんだ? 我々を星の家と知ってなお、こんな手に打って出るのだからどうせ程度の低いチンピラ紛いの鉄砲玉みたいな連中なんだろう? 随分と不躾で礼儀のなってない来訪ではないか? 少しはこちらの迷惑というものを考えたらどうだ? 君らのお陰で、私は落ち着いて風呂にも入っていられなかった」
 啓名から用心するよう忠告を向けられながら、多成の口を付いて出た台詞には限りなく挑発に近い内容が混ざる。
 挑発を混ぜるスタンスの拠り所となっているものは「星の家」という組織体の強大さのようだったが、少なくとも神河が把握する限りでは櫨馬地方全土にその名を轟かせるレベルではない。
 もちろん、神河も決して櫨馬全域に網を張っているわけではないものの、表面的な部分の情報ぐらいは全域から吸い上げてもいる。にも関わらず、その荒い網に引っ掛かっていないということは、星の家の動きはまだまだ櫨馬地方の一部分的なものであると結論づけられた。
 尻尾も掴ませない程、丁寧に痕跡を消し水面下へと潜り続けているという可能性もあるにはあるが、この立ち居振る舞いを見てそれを念頭に置くものがどれだけいるだろうか。
 当然、正威の判断も前者となる。
 では、挑発紛いの態度に出る櫨馬の一勢力に対する、神河サイドが取り得るスタンスはどうなるか?
「別に今からでもゆっくり入り直して来て頂いても一向に構いませんよ。紅槻啓名さんと、話は付けておきます」
 正威の口調は「お前に用はない」といわんばかりの露骨な態度だった。既に啓名を手中に収めているわけだから、明らかに御し難く交渉相手としても難のありそうな多成とわざわざ対話する道理もないというわけだ。
 多成はその正威の態度が何よりも気に食わない。
 自身をプロマスと知りながら、あからさまに軽視をする神河の態度にはかなりイラッときたようだ。
「こちらの窺い知らないところで勝手に話を進められるわけにも行かないのだよ。尤も、そこの紅槻啓名は俺などが介在せずとも大概のことは、上手く片してしまえる奴ではあるのだがね。見たところ、今回ばかりは星の家サイドが有利に話を進められる状況ではなさそうなんでな。このプロジェクトの管理進行を一任されているプロマスとしては割って入らざるを得ないというわけだ。紅槻啓名という穏健寄りのカードで不利な状況が生じてしまっているのならば、この俺が君達の相手をするしかない」
 多成の頭の中では、啓名は本格的な抵抗をせずああいう形の対話の場になっていたという認識なのかも知れない。
 ともあれ、啓名を評して「穏健」という形容を使いながら、自身が相手になる場合そう甘くは行かないと言いたいわけだ。
「事情が分かって貰えたのなら、まずは啓名から離れて貰おう」
「……嫌だと言ったら?」
 啓名がそうして見せたように、要求を付き付けられた正威が返した第一声は拒否だった。
 多成の眉が吊り上る。
「こいつをただの脅しだと思っているのかも知れないが、これは改造モデルガンといった類の玩具ではない。弾丸こそ評価中の特殊な代物で、対人相手の殺傷力を重視したものではないが、十分君達の命を奪えるだけの威力は持っている。素直に要求を聞き入れる方が身のためだ」
 身構えるハンドガンの性能を得意げに説明した上で、改めて要求を飲むよう圧力を掛ける多成を正威は一蹴する。
「御託は結構。では、それを踏まえて嫌だと言ったら?」
「……君達は救いようのない馬鹿だな」
 聞く耳を持とうとしない正威に、多成は再度眉を吊り上げて見せて不快感を前面に押し出す。尤も、それが神河サイドの姿勢を軟化させる要因にならないことは言うまでもないだろう。そして「撃ちたければ撃て」といわんばかりの態度は、正威と多成のやりとりをそれまで横目で眺めていた萌によって遂に明確な言葉と形を取る。
「せっかく、啓名ちゃんが用心するようにわざわざ言ってくれたんだから、何やるにしても控えておいた方がいいと思うけど? まあ、あたし達相手ならどこを狙ってぶっ放しても構わないけど、……それでも「ここらでぜひ一発ぶっ放して置きたい」っていうんなら、頭や急所は狙わない方がいいかな。これ、親切心から来る忠告ね」
「ああ、そうだな。銃で頭部や急所は狙わない方が良い」
 何かを匂わせるだけ匂わせて核心に触れない萌の忠告に正威が同意して、いよいよ多成の我慢も限界に達しようとしていた。「急所や頭部を狙わない方が良い」という忠告も、多成に取ってしてみればただ本質を暈しているだけで「ビジネスホテルの一室で死人が出ると後々面倒な話になるでしょう?」と言っているようにも聞こえるわけだ。
 そして、ビジネスホテルでの死傷沙汰云々を忠告の本質だと捉えてしまうならば、そこに返す多成の見解は次のようなものになる。
「舐めて貰っては困る。例え当たり所が悪く、君らが命を落としたとしても、星の家には死体を秘密裏に処理するルートも整えられてある。ホテルでの事件が公にならないよう揉み消すことも、何ら難しい話ではない。ここが霞咲だからといって、星の家がやれることを過小評価しない方が良い」
 多成から星の家が持つ非合法な面での行動力を説明され、対する正威は何とも言えないような表情だった。
 核心に触れてはいないから神河の忠告を履き違えて理解しても何らおかしくはないのだが、そこまで星の家に取って都合の良い形に解釈できるメンタルの強さは大したものである。
 ともあれ、正威が返す反応は「はあ、そうですか?」といった無関心を土台とした内容に終始する。
「肝に銘じておきますよ」
 そのままでは「埒が明かない」と踏んだのだろう。結局、多成はハンドガンの銃口を正威の右膝辺りに定めて引金を引いた。サイレンサーも装着されない状態でハンドガンを用いたものだから、306号室内にはドンッと鳴るけたたましい音が響き渡った。
 しかしながら、けたたましい射撃音を響かせ射出された弾丸が、実際に命中したのは正威ではなかった。
 ハンドガンの照準を正威に定め、正威目掛けて射出したはずの多成その人だ。確かに、弾丸は正威の右膝目掛けて射出されたのだが命中したと思しき瞬間に、ダメージが多成に全て転移したイメージだ。
 ゴトンと鈍い音を立てて、多成が片膝を付く。その表情は何が起きたのかが理解できておらず、当惑一色に染まる酷いものだった。
「あぐッ! がああああァァァァッ! 何だ、何をしたんだ!」
「こういう事態を見越して事前に仕掛けを、ね。霞咲はまだそれ程でもありませんけど、櫨馬地方は何かと物騒ですからね。面倒事をまとめて片そうと、警察直轄で仕事を下請けしている民間軍事会社が民間人や敵味方の区別なく発砲して来るなんてこともざらだ。さすがに、これぐらいは念を押しておきますよ」
 さらりと言って退ける正威を、啓名は青ざめた表情で眺めていた。銃口を向けられてなお神河の二人はあっけらかんとしていたから、それを防ぐ何らかの手立てぐらいは講じていて然るべきとは思っていたのだろう。しかしながら、まさかダメージを相手に反射するとまでは考えていなかったようだ。多成が呻き声を上げる様を間の当たりにすると、その顔は完全に血の気の引いた酷いものになる。
 不意に、ゴトッと音を立てて何かが床に転がった。
 その音の正体は、啓名が利き手にしっかと握っていた筈の短刀である。尤も、音の正体を確認した啓名自身が困惑と驚愕を混ぜた顔つきだったぐらいだから、するりとその手を滑って落ちたのはあくまで事故だったのだろう。多成のスーツのズボンが赤黒く変色する様に、青ざめた顔色以上のショックを受けていたのかも知れない。
 そして、啓名のそんな驚愕の表情も束の間のこと。今度はその表情を苦痛に歪める。萌によって握り取られた利き手の手首が、捻り上げるかの如く強い力で握り締められたからだ。尤も「痛い」と萌を非難するよりも早く、その手はパッと離されていた。
 同時に、萌の意識も啓名から離れて、片膝をついて呻き声を上げる多成へと向けられていた。
「警告として急所を外したとはいえ、正威相手に本当にぶっ放すなんて舐めたことしてくれるじゃん」
 敢えて言葉にするならば、萌のその言動の背後にあるものは怒りだ。口調も特段きつめに変化した風はないが、そこには確かな威圧感が滲み出る格好だった。
 無造作に接近を始める萌に向けて、多成は半ば反射的にハンドガンを構えた。
 そんな多成の牽制を前にして萌は一端足を止めて見せるが、そこで取ったジェスチャーは軽く両手を広げるといった内容だ。「撃ちたいのならば、どうぞご自由に」というわけだ。当然、多成がそのまま引金を引くことなない。銃口を向けられてなお、意に介した風のない余裕の態度は容易にダメージ転移を連想させる。
 多成に引金を引くことを躊躇わせたものが何だったかは言うまでもない。加えて言えば、正威で生じたダメージ転移が、萌相手でも同じように発動するかどうかを試す蛮勇はさすがに持ち合わせていないようだった。
 多成はハンドガンの銃口を身構えたまま、苦虫を噛み潰したような顔で萌の接近を受け入れる。そして、その銃を構えるという行為が何の牽制にもなりはしないと理解してしまえば、無防備であるという状況に引金を持つ手が震え始める。
 萌がSっ気たっぷりに笑い、そうやって踏み止まって見せた多成をこれみよがしに褒める。
「ふふ、なんだ、ちゃんと学習能力は持っているんだ? お利口さんだね」
 いいや、それは褒めるという体を取った挑発だろう。それができないと知りながら相手を小馬鹿にする態度で、引金を引くよう嗾けたといった方が適当だったはずだ。「程度の低いチンピラ」扱いされたことに対する当て擦りを、ここに来てやり返したのかもしれない。
 ともあれ、萌は片膝を付いた格好で自身を睨む多成の眼前まで進み出ると、その襟首を掴み上げ強制的に立ち上がらせる。そのままグイグイと多成が抗えない力で306号室内へと引き込めば、室内奥、ベット脇の壁を目掛けて力任せに放り投る。
 多成は為す術なくベット脇の壁に叩き付けられて、その場に突っ伏した。
 我慢ならないと言わないばかりに啓名が前に出ようとしたのはその時だ。到底、啓名に萌を相手にできる肉体的な能力はない。自身が多成の代わりになるとでもいうつもりだろうか。それとも、ここで神河の要求を呑むことを表明し、多成に対する攻撃的な萌の行動を止めさせようという腹かも知れない。
 そんな啓名の不穏な動きを感知し、正威が取った行動はその牽制である。床に転がった短刀に足を置き、拾い上げられないように先手を打てば、啓名へと忠告を向ける。
「……迂闊な行動は控えて貰えないかな?」
「これ以上、多成さんを痛め付ける理由なんてないと思うけれど? 少なくとも、神河の今回の目的は警告なんでしょう?」
 諭す正威に返るもの。
 それは啓名の敵愾心たっぷりの鋭い目付きだ。
 アルフのそれよりも重篤なダメージを負い、且つ既に勝敗が決したと思しき状況にありながら、それ以上多成を攻め立てるのならば許しはしないとその目で毅然と訴えたわけだ。もちろん、ここで啓名が感情的に行動したところで打つ手などないのだから、事態の改善などは微塵も望めない。しかしながら、ここで神河が退かなければ、後に大きな禍根が残るのも間違いない。
「ご尤もだね。もちろん、これ以上、やるつもりはないよ。……多分」
 願望交じりの憶測を、言葉の最後に続けた正威の心中は「さて、どうやって萌を宥めようか?」だったかも知れない。





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