「異式錯落区画の未知標 -北霞咲新濃園寺コンフリクト-」のトップページに戻る。
スターリーイン新濃園寺の３０６号室に籠る啓名は、デニム地のホットパンツに、体格に対して一回り大きいサイズのパジャマの上着を羽織るという非常にラフな格好だった。随所にピンクの刺繍をあしらった可愛い系の装いであり、さも後は眠るだけという格好で間違いない。しかしながら、では、ゆったりサイズのシングルベットに横たわって、リラックスモードであるかというとそんなことはなかった。
部屋に備え付けられたテレビの脇のユーティリティスペースに鞄を広げ、中身を漁りつつスマホで通話をするという状態だった。加えて言えば、音量小でテレビを付けて垂れ流されるニュース番組を時折横目に捉えてもいた。霞崎界隈で発生したニュースの中から気になるものをチェックし拾い上げているのだろう。
そんな具合に並行作業で雑務を片す真っ最中の啓名だったが、不意に鞄を漁るその手がぴたりと止まる。
スマホでの会話に意識を持って行かれた格好だ。
「だからですね。手の空いてる起脈の管理人を何人か新濃園寺へと回して欲しいんです。起脈のパッチ当て作業に人員を割かれている事情は分かりますけど、破壊された起脈石を起脈体として定義し直してできるだけ効率よく力を引き出す為には……」
その話の内容は、多成へと提案した計画変更を成功させるべく啓名自身も手を回していると行ったところだろうか。
尤も、啓名の訴えに対する通話の相手の反応は芳しくないようだ。自然と口調がきつめになっていくのを啓名自身も感じていただろう。
しかしながら、そうして熱を帯びた啓名の訴えは、そこで一端すとんと落ちて途切れることとなる。
「え？ あれ……？ すいません、起脈の効率向上の辺りから、声が聞こえ辛くなって、……もしもし？ もしもし？ 聞こえてますか？」
何の前触れもなく、突然に通話状況が悪化したからだ。
啓名は眉間に皺を寄せた表情でスマホを一度耳から離すと、液晶画面に表示された電波状況などを確認する。しかしながら、そこに表示された電波状況は良好そのものであり、通話に支障を来すノイズやエラーが生じる環境下ではないように見える。
「電波状況は悪くないはずだけど……」
オールグリーンの液晶表示を目の当たりにしても、それでも啓名はまず電波状況が悪い可能性を疑ったようだ。一般的により電波状況が良好だろうと考えられる窓際の方へと移動したのだ。当然ながら液晶画面に表示される電波状況は、元から「良好」であるため見かけ上の変化は何もない。
啓名はすぅっと息を吐くと、新濃園寺の目抜き通りを見下ろしながらやや強い口調で通話相手へ呼びかける。
「聞こえませんか？ 駄目、ですか？」
その呼び掛けにも通話相手からの反応はないようだった。
ただただ、そこには無音が横たわる。
状況を訝りながらも、啓名が次に行ったことはチャットアプリを立ち上げることだった。
アプリケーションの起動自体は、何ら問題なく行われる。しかしながら、こちらもこちらで何かがおかしい。手慣れた動作で打ち込んだ用件がいつまでたっても「送信完了」にならないのだ。
接続状況に対する不具合報告は、チャットアプリから一切上がってこない。
オールグリーン。
ものは試しとメールに「折り返し電話をして下さい」と簡素に要件を打ち込み送信してみるも、相手方から何かしらの反応が返ることもなかった。そうして、デーモン先生からエラーが返ることもない。
十中八九、相手に啓名側からのアクションは届いていないだろう。しかしながら、スマホの電波環境を示す表示は相変わらずどれも良好で、チャットアプリの接続状況にしてもエラーの類は一切ない。
状況を訝る啓名の表情はより一層険しくなる。
「……」
症状的にスマホ自体の故障や通信基地局の障害を疑うような場面だったが、啓名はある一つの別の可能性を危惧していた。それはＲＦを用いることで似たような現象を生じさせられるということを知っていたからだ。そして、それはＲＦでなければ生じさせられないというような「特別なこと」でもない。
誰かが意図的に通信妨害を試みている可能性を、啓名は視野に入れる。
啓名はまず広げた鞄の中から黒い液体の入った小瓶を三つ手に取った。そして、次に始めたことは周囲の様子に異変がないかを入念に確認するということだった。
椅子の配置やベッドの状態に違和感を覚えることはないか。
テレビから垂れ流されるニュースという雑音に、不自然な点はないか。
耳を澄ますと微かに聞こえる空調の機械音に……etcetc。
人気なく静まり返った廊下にしても、両サイドの部屋から物音がしないことにしても、別段おかしなことではない。強いて言うなら、スターリーイン新濃園寺が面する目抜き通りから聞こえてくる喧騒のトーンが若干大人しい程度だろうか。
疑って掛かってみても、そこにスマホの通信障害以上の違和感などないように見えた。
それでも「何かがおかしい」と第六感が強く訴えるのは、少なからず啓名にも積み上げた経験があったからだろう。
啓名は相手が八百万の神々である可能性を念頭に置き、視点を切り替える。五感から探ることのできる表面的な部分だけではなく、より深く空間的な歪みといったような類のものを確認しようと体勢を取った形だ。それは正威がやるような、実際にその手で触れて探ってみるということなのだが、ユーティリティスペースの机へと手を伸ばしテレビ脇のスペースに指を走らせようとしたところでその行動は中断を余儀なくされる。
次の瞬間、けたたましい破砕音とともに、スターリーイン新農園寺３０６号室の扉が吹き飛んだからだ。
突然の鈍く重い破砕音に、啓名は眉間に皺を寄せ思わず身を竦ませた。尤も、その影響は一瞬対応が遅れるだけに留まった。そこでパニック状態にでも陥れば、相手の思う壺だと咄嗟に判断できるだけの危険察知が事前に出来ていたことはやはり大きい。
竦んだ体の状態が改善されていく端から、啓名の集中力は一気に研ぎ澄まされていく。アドレナリンが分泌されて、宙を舞い自身の方へと飛んでくる分厚い木製扉が非常にゆっくりとした動きに感じ取れるレベルにまで集中力は研ぎ澄まされてしまえば、木製扉をぶち破ると同時に室内へと滑り込んでくる侵入者の姿を啓名が見逃さすことはなかった。
さらにいうなら、煙幕や爆発物が室内へと立て続けに投げ入れられなかったことまでをも啓名は確認していた。そこまで状況を確認できてしまえば、そこからの啓名の対応は非常に素早く迷いがなかった。すぐさま手中の小瓶を二つ床へと叩き付けたのだ。
同時に、啓名は中身がいくつか散乱するのも躊躇わず、広げた鞄を強引に手繰り寄せる。リップクリームやら化粧水の瓶やらが鞄に収まらず床へと転がるも、そんなことには目もくれない。
恐らく、啓名は突入してきた相手の全体像の把握まではできていなかったのだろう。如何に先手を打ち、迎撃態勢を整えるかに注力した結果の行動だったというわけだ。
もちろん、全体像の把握なんてことをやってから対処の為に行動していたのでは、一気呵成に押し切られていた可能性も否定できない。その判断は正しかっただろう。
尤も、そうやって「最善」と思しき手を打っただろうはずの啓名に、安堵や余裕の色は僅かにすら窺えない。そこに滲むものは、焦燥一色に塗り固められた苦々しい顔だった。
「紅槻啓名の名前に置いて命じます。黒雑食よ、侵入者を排除して！」
床へと叩き付けて破壊した小瓶に手を翳し、啓名は強い口調で声高々に宣言した。毅然に立ち居振る舞って見せながら、やや声色が震えたところに啓名の動揺なんかが見え隠れもしたが、それが使い魔召喚に何ら影響を及ぼすことはない。
カーペットに染み出した黒い液体が一瞬の内に泡立って、立体的に膨らみ始めるとそこには二体の黒色パーカーを着込んだガタイの良い異形が生じる。生じた先からフードをずっぽりと頭から被る様は、顔を隠す為だとかではなくそうすることで人の形に擬態しているだろうことを強く感じさせる。
「あーらら、奇襲失敗？ やっぱりそれとなく悟られちゃってたか」
３０６号室への突入直後に啓名の迎撃態勢を目の当たりにした萌の第一声は、そんな軽い調子の台詞だった。
それは相手方の迎撃態勢という構えが神河に取って想定の範囲内だったことを明示したに等しい。さらに言うなら、そこに怯んだ様子一つさえ見せないのだから、神河としてはもっと激しい抵抗に遭う可能性も視野に入れていたということだろう。
しかしながら、神河の想定するその「激しい抵抗」がなかったにも関わらず、萌の立ち居振る舞いには一気呵成に事を為さんとする動きはない。完全な迎撃体制を整えていたとは言い難い啓名へと向かってそのまま突進することも可能だったはずなのにも関わらず、萌は一度ドア付近で立ち止まりスレッジハンマーを構え直すということをした。続けざまには、その場で大雑把に３０６号室内をぐるりと見渡し内部の様子を一つ一つ確認するという具合だ。
そして、３０６号室内に脅威と呼べるものがないだろうことを確認し終えると、萌は最後にマジマジと啓名の格好を眺める。
「あは、可愛い格好だね。後はホテルの広いベットで眠るだけって時に、お邪魔する形になっちゃたかな？ ごめんね」
微塵も悪いなどとは思っていないだろう口振りで形ばかりの謝罪を口にする萌を、啓名はこれでもかという程に訝しげな表情でマジマジと見返す。尤も、訝るその目で萌だけを睨み据えているわけにも行かない。
先行した萌に続いて、正威も３０６号室内へと進入してくるからだ。
「夜分遅くに失礼するよ、紅槻啓名さん」
先行した萌の後を追って正威が室内へと進入すると、訝る啓名の表情はさらにその度合いを増す。偏にそれは襲撃者が見覚えのない相手だからだろう。
「……」
「パーカー君二匹はあたしが片付けるから、正威は啓名ちゃんの相手をお願い」
当惑と警戒を前面に押し出す啓名の様子を前にして、萌はにんまりと笑って見せた後「今から３０６号室を制圧する」という確固たる意思の籠もった言葉を続けた。
啓名の表情が苦々しさに歪むも、神河にそれを意に介した風はない。
「オーケー」
正威が二つ返事でその動きに同意すると、啓名も否応なしに身構えざるを得なくなる。まず啓名が警戒を向ける相手は、萌が自身の相手を要請した正威だ。
しかしながら、啓名の相手を引き受けた筈の正威は一向に戦闘態勢を見せなかった。３０６号室の出入口から室内へと僅かに進んだ場所で立ち止まった状態のままマジマジと啓名を見返すだけだ。
パーカー君こと黒雑食を片付けると言い放った萌にしても、そうだった。黒雑食が啓名の指示待ち状態で未だ行動を起こしていないということもあってか、スレッジハンマーを構えた格好のままでその場から踏み込んでくるということをしないのだ。
啓名が黒雑食へと指示を出すのを躊躇っていると、未だに戦闘態勢すら取ろうとしない正威からはこんな指摘も向く。
「黒雑食って言ったかな？ 召喚したそれをこちらに嗾けないのか？」
啓名は正武をマジマジと注視していた。
啓名としては、完全に正威のその指摘の意図を掴み兼ねる形だ。
合図を出せば黒雑食はすぐさま飛び掛からんとする状態にある。もちろん、合図を出せば事態は一気に動く筈だ。では、そんな指摘を向ける正威は、事態を動かしたいと思っているのだろう？
３０６号室の扉をぶち破って侵入してきておきながら、まるで衝突のタイミングは啓名に任せるとでも言わんばかりの振る舞い。
……。
その疑問に対する答えは、否となるのだろう。
そもそも、事態を動かしたいのならば、正威サイドから攻め手に回れば良い。というか、回ることが一番の近道だ。そうすれば、否応なしに啓名は黒雑食へと合図を出さざるを得なくなる。それなのにも関わらず、正威は啓名にそうして確認を向けたのだ。
神河サイドが何を企んでいるのか、その腹の底を啓名が推し量ることはできない。しかしながら、その立ち居振る舞いを見るに、啓名から黒雑食を嗾けなければ決戦の火蓋が切って落とされることはなさそうだという雰囲気が醸成されたのは紛れもない事実だった。
啓名はコクンと一つ唾を呑むと、正武とのコミュニケーションを試みるという手に打って出る。
「どこの誰だか知らないけれど、まずは一言言っておきたいかな。こっちはあなた達にちゃん付けで呼ばれる覚えなんかないのだけど？ まずは名前ぐらい名乗ったらどうかしら？」
正威の対応は「そう来るか」といった類いの柔らかい物腰で、少なくとも有無を言わさずコミュニケーションを打ち切ろうだとか行った強硬的な態度はない。
「それもそうだね。重ね重ね、失礼。まあ、押し入って置いてご丁寧に名前を名乗るというのもおかしな話ではあるけれど。俺達は神河一門に属するもので、こっちが神河萌で、俺が神河正威という。以後、よろしく」
正威はぺこりと小さく会釈をしながら自己紹介をした。もちろん、正威から紹介を預かって萌も小さく会釈する。
求めるままに神河から自己紹介が返っても、啓名の困惑した表情は一向に改善されなかった。「見覚えのない」という形容に、何だかよく分からない組織に属する何だかよく分からない相手というのが追加されたに過ぎないからだろう。そして、求めるままに自己紹介が為されたことも、啓名の困惑を強めたかも知れない。
ともあれ、侵入者たる神河が述べたところの「組織体」にも何ら心覚えはないのだから、啓名が次に向ける質問なんてものは決まっていた。木製扉をぶち破り３０６号室へと侵入してきたその目的自体を問うことである。
「その、神河一門とやらがただの一学生の、それもレディーの寝室に、こんな夜分に踏み入ってきた理由は何なのか、聞いても構わない？」
自身を「ただの一学生」と称し木製扉をぶち破って侵入される心当たりが微塵もないことをこれでもかと訴え非難した啓名を、正威は一笑に付す。
「はは、一介のただの学生はこんなもの召喚したりはしないよ。用心棒とするにしたって、まず制御仕切れない」
「そうでもないんじゃないかしら？ 割と学生でオカルト方面に足突っ込んでる娘って、自分を過大評価しすぎて厄介事起こすってのが定石だと思うけど」
啓名から向けられた非難に対し、正威が怯むようなことは微塵もなかった。しかしながら、続けざまに啓名から向いた反論は余程を的を射たものだったようだ。期せずして、正威は「一学生が召還をして厄介ごと起こす事件がある」点について、全面的な同意を向ける。
「そういわれると、確かにその傾向はあるね。年数回はその手のことが原因となった事件の話を耳にする気がする」
同意という正威の姿勢は、そこを足掛かりとしてどうにか会話を発展させられそうな匂いを際立たせた。非難に怯まないというのなら、啓名としてはコミュニケーションの足掛かりは雑談からだった何だって良い。もちろん、正威が少しでも非難に対し申し訳なさそうな気配を覗かせるのならば、啓名はそこを取っ掛かりとして後の段取りを整えた筈だ。その方が対話を展開する上で攻め手に回り易いからだ。まして、啓名に対して少しでも「まずいことをした」という認識が正威にあれば、それは言うまでも無いことだ。
ともあれ、本題へは移行せず、お互い腹の探り合いをしつつの雑談というやりとりを、まだしばらくは続けそうな雰囲気が漂ったのだが、そのコミュニケーションはぷつりと後味の悪い終わりを告げることとなる。
「正威。啓名ちゃん、思った以上に手癖が悪いみたいだよ。ぶつかり合う前に有意義な話をしましょうって建設的な顔しながら、後ろ手でスマホを操作しようとしてる。まずはふん縛っちゃわないと駄目じゃない？」
不意に横合いから話へと割って入った萌の指摘に、啓名はビクッと体を震わせる。
萌の体勢はいつの間にかスレッジハンマーを身構えるというものから、腕組みをして３０６号室の壁に寄り掛かるという体勢に変わっていた。スレッジハンマー自体も脇に置いて壁へと立て掛ける形ながら、その視線は窓ガラス越しに啓名の背後をしっかり捉える形であり、リラックスした風を装いながら抜け目はない。萌の目には、後ろ手にスマホを握り操作をしようとする啓名の姿が映っていたのだ。
まずは「意思疎通を図りましょう」と建設的に切り出した会話の裏側を暴かれ、啓名は腹を括ったようだ。もう言い逃れができる状況ではないと踏んだのだろう。ああだこうだと会話を試みて、あわよくば衝突回避、悪くても雑談を交えて時間を稼ぐという手はもう通じない。
事態を動かさざるを得ない場面がそこだった。
「黒雑食！」
啓名が声を張り上げ合図を送った瞬間、パーカー君がそれぞれ正威・萌へと飛び掛かる。
まるで最初からそう打ち合わせていたかのように、正威が３０６号室の入り口付近まで大きく後退し、代わりにパーカー君の対処をするべく萌が前へ前へと踏み入ってくる。しかも、寄り掛かっていた壁をトンッと蹴った後はスレッジハンマーを軽々と振り上げて、重量物を手に持っているとは到底思えない速度でだ。
萌は自身に向かって飛び掛かってきたパーカー君の脇を信じられない瞬発力でするりと抜くと、正威へと襲いかかろうとするもう一体へとまずは飛び掛かる。
「こんな狭い場所で使役するのが大雑把で大味な攻撃を得意とするパーカー君なの？ 呼び出すキャラの適正間違っちゃったんじゃない？ それとも、細かな指示を与えると大雑把で大味な攻撃以外も割と行ける口なのかな？ まさかまさか、パーカー君しか居なかったから苦し紛れにパーカー君って札を切った口かなー？」
さも面白くなってきたといったウキウキの態度で立ち回る萌に、対する啓名は今まさに「苦渋を舐めています」という顔だ。困惑も驚嘆もあるが、それを遥かに凌駕する程の苦渋だといっていい。
萌の指摘は全く見当違いな内容ではなくて、実際痛いところを突いていたのだろう。そして、啓名が「黒雑食」と呼ぶパーカー君の戦闘時に置ける立ち居振る舞いを、神河を名乗る襲撃者サイドが「しっかり把握している」という事実も大きい。即ち、それは黒雑食と交戦したことがある可能性を示唆していたし、またその余裕の態度は容易く黒雑食を撃破したことがある可能性をも同時に示唆する。
紅槻、もとい星の家はいくつかの使い魔を使役するが、実際問題としてそれらが撃破されること自体はそう珍しいことでもなかった。しかしながら、その中で黒雑食という使い魔が一方的にやられる場面を啓名は容易に想像できない様だった。啓名の認識の中で言うのならば、黒雑食とはそう容易く負けていい札ではないのだろう。
そんな黒雑食を眼前において、その特性とこの場での有用性を指摘した挙げ句、顔色一つ変えない神河に啓名は思わず後退る格好だ。指摘通り、黒雑食はこの場で使役するものとして最適ではない。そんなことは解っているし、それは確かに苦し紛れの一手だった。
それでも、今の啓名に取っては最良の手で、容易く退けられて良い札ではないのだ。まずは攻め手に立った上でのことの成り行きを見守るスタンスだが、啓名は自身の脳裏を過ぎる一抹の不安に右親指の爪を強く噛む。
そして、そんな不安は的中する。出だしの取っ掛かりの部分から、状況は一ミリたりとも啓名の思うように進まない。
正威へと突進したパーカー君はすぐに足を止め、萌を迎撃するべく大仰な動作で伸縮自在の黒色の腕を伸ばす形になる。接近する萌を薙ぎ払おうという腹だ。
本当ならば、もっと正威側に攻め入って、啓名から可能な限り距離を置いた場所で戦闘状態に突入して欲しかったというのが啓名の本音だった。何せその距離では、まかり間違って間を抜かれでもしたなら、あっさりと使役者たる啓名へのダイレクトアタックが可能となる配置に等しいのだ。
そして、その「まかり間違って」すら、寄り悪い形ですぐさま現実のものとなる。
パーカー君が実際に攻撃を繰り出すよりも早く、萌が繰り出すスレッジハンマーの一撃がその側頭部にめり込む形だ。まるで軽量バットでも振るかの如く、スピードと遠心力のついたハンマー部が直撃した格好だった。パーカー君は３０６号室に設置された薄型テレビへと向かって吹き飛ばされて、テレビごと壁に勢いよく叩き付けられる。
ザザッというノイズ音とともにテレビから垂れ流されていた音声が途切れたかと思えば、ドゴンと続いて鳴る鈍い音が響き渡り黒雑食はあっさりと動かなくなった。直撃した頭部から人間で言うところの胸元辺りまでもが完全に消失する形になっていて、萌の繰り出した一撃が只の物理攻撃ではなかったことを物語る。主窪峠の時のように、スレッジハンマーから繰り出した一撃には、あらかじめ何かしらの細工が施してあったのだろう。
垂れ流されていたニュースという雑音がと途切れたことで、場には肌を刺すような緊張感が一気に張り詰める。
自身と正威の間に立ち、自身への直接的な攻撃を防ぐ役割も担うはずだったパーカー君があっという間に排除され、啓名はここにきて強張った表情で身を竦ませていた。その目は大きく見開き、まさに「信じられない」状況を目の当たりにしているという顔だ。
啓名に取って、パーカー君こと黒雑食を壁際まで吹っ飛ばすなど並大抵のことではなかったからだ。しかも、萌にその気があれば、そのまま一足の間で胸元へと飛び込んで、スレッジハンマーを槌に見立てて啓名に突き立てるなり、パーカー君をそうしたように壁際まで吹き飛ばすなり思いのままだ。
速度・攻撃力・思い切り、それらの総合的なハイレベルさに啓名は完全に出鼻を挫かれていた。
ふと啓名と萌の目が合う。そこには対照的な色合いの感情が滲み出る。
萌を見る啓名の瞳を支配する色は恐怖。
啓名を流し見る萌の瞳を支配する色は好奇心だ。
にぃと口元を歪める萌を前に、啓名はぐっと唇を噛み体を強張らせほぼ無意識の内に防御の体勢を取っていた。しかしながら、当の萌はそれを嘲笑うかのように啓名から離れ、残ったもう一体のパーカー君に追撃を掛けるべく行動する。
それは、当初取り決めた役割分担を律儀に守ろうとしたからか？
そんなはずはない。
啓名の頭の中に「手加減された」という意識が強くこびり付いたことは言うまでもなかった。さらにいうならば、少なくとも今回の襲撃では、神河がそこまで本気で星の家に危害を加え排除しようとしているわけではないことを啓名はヒシヒシと理解させられた形でもあった。
啓名は完全に血の気が引いた白い顔をしていたが、萌という波が引いたことに安堵してその場にへたり込むというわけにもいかない。萌が引いたところに、正威が満を持して進み出てきたからだ。尤も、その場にへたり込んでしまって早々に白旗を上げるというのも賢い選択肢ではあったかも知れない。
啓名に取って神河は話が通じそうな相手だ。まさか「パートナーに同年代の女子を携えて乱暴はしまい」という見方もできる。もちろん、啓名に取っては相手の目的が見えていない以上、危険な賭けであることは間違いなかったが先ほどの萌の動きのこともある。本気で危害を加え排除しようとしているわけではないのならば……と、脳裏を過ぎる思いがあるのも事実だった。
ぐるりぐるりと回り巡る思慮の中、啓名はそこで踏み止まって抵抗するという意地と負けん気を取る。くっと下唇を噛むと、接近してくる正威に対して先手を仕掛けた。
啓名はその場に片膝をつく形でしゃがみ込むと、カーペットに右手を添える。そうして、その場の誰にも聞こえないような小声でぼそぼそと呪詛を呟き出す。
次の瞬間、啓名へと向かって接近する正威の眼前には、半透明で薄青色の障壁が生じた。それはパッと見ガラスのように透き通っていて、正威の行く手を遮るように発生していた。高さは３０６号室の天井付近程まであり乗り越えるのは不可能だが、横幅は正威二人分程度しかない。
当然、正威は眼前に生じた障壁を避けて、啓名への接近を試みようとするがそうは問屋が卸さない。
啓名が再びその場の誰にも聞こえないような小声でぼそぼそと呪詛を呟き右手を障壁に添えるかの如く付き出せば、障壁はその横幅に合わせて正威の両脇を埋めるように数メートル伸びたのだ。
行き止まりの道の様に正威を囲った障壁だったが、まだ背後は塞がれていない。
しかしながら、そこから迂回をしようと 正威が行動するよりも早く、啓名によって背後も蓋をされてしまう。
それは攻撃というよりも、行動妨害といった方が正しいだろう。
「へぇ、紅槻はこういう手を使うのか」
正威は興味深そうに自身を閉じ込めた薄青色の障壁を眺める。危機感を全く感じていない風な、軽い調子の立ち振る舞いが萌とやや被る印象だ。そして、正威はすぐにおっかなびっくり、その障壁に触れるべく手を伸ばす。もちろん、それはただの好奇心からというわけではない。自身を閉じ込めた障壁が如何なるものかを分析するためだ。
驚くべきはその直後に、啓名の組立てた行動妨害の特性を言い当てたことだろう。
「呪詛を元に組み立てた障壁。しかも、衝撃を分散して吸収するよう組み立てたタイプかぁ。こいつを物理的に破壊するのは骨が折れそうだね。衝撃でドアをふっ飛ばされて侵入された点を踏まえ、その対策としてこれを形成したのかな。なかなか、いい判断だね」
押してみたり、擦って見たり、一通り眼前に発生した障壁に触れた正威からは、素直に啓名を褒める言葉が漏れ出た。それは「状況に合わせて良く考えられて組み立てられている」と、さも後輩でも褒めるかのような台詞である。
啓名は何ともバツの悪そうな顔を返す他なかった。
ドアをぶち破ってホテルの自室へ侵入してきた相手に「筋が良い」と褒められればそうもなるだろう。
尤も、具合が悪いという雰囲気が漂ったのも一瞬のことだ。
啓名が気を吐いて、正威に敵意を向けたところで掻き消える。
「ただの障壁だと侮って貰っては困るわ。空間を縮めて攻め立てることで、あなたを圧殺することだってできる！」
啓名の口から「圧殺」という単語が出て、またそれを行い得る意志が全面に押し出てきたことで、多少はその二人のやりとりにも緊張感が伴うかとも思われた。
しかしながら、正威は相変わらずだった。まるで啓名を指導する立場でもあるかの如く振る舞う。
「おお、それは怖いね。まあ、相手を障壁で隔離した上での攻撃方法としては常套手段だよね。でも、この障壁は物理的に破壊し難いというだけで、攻める手段を変えれば脆弱にもなる」
正威から焦燥や怯んだ態度といったものを微塵も確認できず、啓名は苛立ちに似た怒りを覚える。できないだろうと高を括っているかのように、その目には映った形だ。尤も、確かに口では「できる」と啓名はいったが、それはあくまで「やろうと思えばできる」という意味合いだ。
そして、実際問題として正威がどう思っていたかはともかく、現時点では啓名の「できる」はあくまでただの脅しに過ぎなかった。なぜならば、少なくともそれを今正威に対して嗾けるという行為は、啓名の身を危険に晒すからだ。
黒雑食が萌の動きを微塵も抑制できていない中でそんなことをすれば、萌による攻撃のターゲットは即座に啓名へと移るだろう。正威同様に萌を行動制限下へと置くことができれば大逆転の芽ともなるが、そこまで上手くことが運ぶ可能性は限りなく低い。何せ正威は余裕綽々の態度でほぼ何の抵抗もせずに行動制限下へと置かれた格好だ。二の鉄は踏むまい。
しかも、まかり間違って、萌の一撃など食らおうものなら、啓名に取っては文字通り致命傷の一撃となり得る。手加減が入って急所を外されたとしても、行動不能に陥る威力は十分伴っている。正威を管理下に置いているという事実は、萌の動きを制止し得る重要なカードぐらいの認識だ。
苛立ちを覚え「圧殺の為の手順を踏む」という思考に一瞬動きを取られた啓名だったが、不意に脳裏を嫌な予感が過ぎってハッと我に返る。
啓名へ向かって手を伸ばすかの如く、正威が眼前の障壁へと利き手を翳していたのだ。その手の先には見慣れぬ文字列が縦横無尽に書き綴られた一対の符も存在している。強固であるはずの障壁を「脆弱にもなる」とした、正威の言葉を実際に証明するものがそれだった。
啓名の認識の中には「簡単に行動妨害が破られるわけがない」という自信があるのと同時に、自身が知り得ない「弱点」が存在するかも知れないという弱気な意見も生じていた。何せ、あっという間に行動妨害の障壁が持つ特性を分析して見せたのだ。啓名自身も知り得ない「弱点」を、あっさり探り当てていたとしても何ら不思議ではない。
結論から言えば、正威は啓名も知り得ない障壁の弱点を突いてきた。正威が翳した符によって、ガラスのように透き通っていた障壁には濁りが生じ、見る見る内に罅割れが生じ始めたのだ。最初は小さな罅だったのだが、啓名が現象を確認しているその最中で縦横無尽に拡散していった。
啓名は慌てて障壁で囲った正威の脇を擦り抜けようとした。萌から妨害を受ける可能性も考慮に入れて、黒雑食と戦闘状態にある萌に対して正威を間に挟むという位置取りでだ。しかしながら、それを制止すべく伸びる正威の腕は容易に障壁を貫通し、啓名の腹から脇腹に掛けてを抱き抱えるように掴んだ。
「嘘でしょう！ いくら即席だとはいえ、こんな一瞬で行動妨害を崩すなんてあり得ない！」
啓名は強引に突破するという選択をすぐさま諦めた。思っていたよりも強い力でがしりと掴まれ、じたばたと暴れるくらいではどうにもならないと踏んだらしい。すぐさま方針転換し、正威の手を振り払って後退することを選択する。
「神河、……一門？ 何なのよ、こいつら、ふざけないでよ！ 一体全体……」
そこから先を啓名が口にすることはなかったが、その表情が状況のまずさを如実に物語っていた。「神河正威」いう術者は、啓名に取って格上の相手であり、小手先の技術なんかでどうにかなる相手ではない。術という手段で対峙する場合、打ち負かすというのが勝利条件である限りほぼ勝ち目はないと断言していい。
啓名の脳裏を「廃神社でのフル装備一式があれば、まだ……」といった反骨心が過ぎるものの、今自身が装備していないものを頼っても詮無いことだ。
結局、ずるずると後退り、啓名は正威を障壁に閉じ込めた時よりも追い詰められた位置取りとなる。しかも、頼りだった障壁はその大半がボロボロと崩れ落ちてしまっていて、もう既に行動妨害の役割すら果たせそうにない。
啓名は次の対応をどう進めるべきか迫られる形となった。
ここで選択を間違えると、もう立て直しが利かなくなる恐れすらある。
黒雑食が置かれる状況を啓名が横目に確認するも、戦況は芳しくない。いや、啓名の側よりもっと悪い。
残ったもう一体の黒雑食も既に攻撃の為の腕を片方失い、片足にもダメージを負っている。攻撃・回避を含めた行動全般に難があるような状態だ。伸縮時代の残った腕を伸ばしてどうにか牽制・攻撃で応戦しているものの、そう長くは持たないと見て間違いないだろう。況んや萌を撃破するなんてことは、現状を確認する限り万に一つも可能性はない。
視点を正威へと戻してみるも、状況の悪さは輪を掛けて酷くなっていた。正威へと仕掛けた行動妨害の障壁は、もう間もなく完全に破壊されるという寸前だ。
多少毛色の違う行動妨害の為の障壁を再び構築して補修することも可能ではあるが、恐らくそれも長くは持たない。何より、行動を制限することで啓名が何をしたいか知られてしまった。
多少、毛色の異なる行動妨害を仕掛け、正威の動きを一時封じ込めるだろうか？
その稼いだ僅かな時間で３０６号室から離脱可能か？
行動妨害以外の手を用いて、正威の動きを封じる算段を立てる方が建設的か？
苦し紛れの小手先の手で正威をどうこうできるだろうか？
啓名の表情が焦りと思案に歪む。そして、何より思慮に長い時間を割かれるわけにもいかない。このまま時間を浪費すると、黒雑食を潰し終えた萌も相手に回さねばならなくなる公算が強い。まさか「啓名を正威に任せた」からといって、黒雑食を潰し終えた萌が黙って傍観してくれるなんてことはないだろう。
しかしながら、埒を開く打開策などいくら思慮を重ねても見当たらなかった。啓名は胃がキリキリと痛むような錯覚を覚えていた。
そして、運悪く、いや、なるべくしてタイムリミットが訪れる。
正威が自身の眼前に発生した行動妨害の障壁を丁寧に崩し終え、啓名の顔をまじまじと見たのだ。ニコリと人当りの良い笑みを灯して「さあ、次はどうする？」と言わんばかりに小首を傾げる正威の様子は、相手を追い詰めて楽しみ喜ぶＳ気質のもののようにも受け止めることができただろうか。
まして、その相手は今まさに追い詰められる立場にある啓名だ。余裕綽々の正威を前にして、どう受け止めたかは言うまでもないだろう。
実際には、正威の意図はただただ単純に、攻め方を変えることで容易に障壁を破壊できることに同意を求めたに過ぎない。術者としての実力差があることを嫌という程相手に理解させ、戦意を削ぐのが正威サイドの意図であった。そうすることで、啓名から対話の姿勢を引き出そうというわけだ。
神河サイドとしては、何も相手を徹底的に叩きのめさなければならないわけではない。このファーストコンタクトを経て星の家が実力差を痛感し、北霞咲から手を引くという選択をするのなら、それは最善である。
黒雑食を潰した後、萌が星の家にどういうスタンスでことに当たるかなど想像に難くない。そうすると、要らぬ誤解を与えぬ為にも、正威が取るべき態度なんてものは自ずと決まってくる。星の家が廃神社での八百万の神々との折衝で見せたように、神河一門という組織は対話をする意思を持つ相手であり、且つ対話をすることが可能な相手なのだと認識させることが重要だった。
萌が必然的に剛となるなら、正威は柔の姿勢を相手に見せる必要があるのだ。
しかしながら、正威が取る柔の姿勢は啓名に上手く伝わらない。少なくとも、現状を「完全に追い詰められた」と認識する啓名が、そこから「対話」を提案するような雰囲気は微塵も醸成されなかった。
そんなこんなで、窮鼠となって猫を噛むかと思われた啓名だったが、そこで選んだ次の行動は「時間稼ぎ」だった。
鞄の中から淡い紫色の透明の液体が入った小瓶を取り出し、啓名はそれを自分が中心となるよう円を描きながら撒き散らす。瓶の中身が空になるかならないかの内に、すぐさまその場の誰にも聞こえないような小声でぼそぼそと呪詛を呟けば、タンとカーペットを踏み込んでその場に障壁を生じさせたのだった。
今度の障壁は半透明・薄紫色のもので、衝撃を吸収するタイプの先程のものとは一線を画す障壁のようだ。何より、媒介となるものがある。強度も先程の行動妨害のそれとは段違いだろう。
そうは言っても、それを構築した当の啓名は端からそれが長持ちするとは思っていない様子だ。自身の周囲に障壁を張り巡らせて置きながら次にやったことといえば、スマホを用いて仲間と連絡を取るというものだ。加えて言うなら、啓名の様子はお世辞にも落ち着き払ったものとは言えない。「障壁に守られているから手出しは出来ないでしょう？」なんて考えは、その身振りからは微塵も窺いようがなかった。
「早く、……早くしてよ！」
それでも、手慣れた操作で目的の番号を液晶画面に表示させるところまで漕ぎ着けてしまれば、啓名は若干の落ち着きを取り戻していた。指先に多少の震えが垣間見えたが、それは強い緊張から来るものだろうか。
スマホの通話ボタンにタッチしそれを耳元まで持って行くと、啓名は攻め手の正威の動向をそこで始めて確認する。
籠城体制を整え援軍を呼ぶ啓名を前に、攻め手であるはずの正威はただただその成り行きを平然と見守るだけだった。
当然、そんな正威を目の当たりにした啓名は、それを強く訝る顔だ。
星の家の援軍が、この場に姿を現すことを甘んじて受けいれると言うつもりだろうか？
スマホを片手に当惑しつつ雑多な可能性を思案する啓名が、異常に気付いたのはその直後のことだ。あれよあれよという間にその表情が曇り始め、啓名はとうとうスマホを耳から外した。眉間に皺を寄せてスマホの液晶画面に視線を向けるも、そこに表示される情報と啓名が置かれる状況は余りにも懸け離れたものだった。
スマホの表示はオールグリーン。
しかしながら、異常報告が何一つとしてないにも関わらず、実際にスマホからコールが発信される気配はないし、コールされた形跡もないのだった。
「コール、されない」
「だろうね」
惚けたようにぼそりと呟く啓名だったが、正威のその一言で大凡何が起きているかの全容を察知したようだ。
援軍を呼ばれるかも知れないという状況に際して、全く動じる様子のない正威の立ち居振る舞いの訳を啓名は身を以て知る格好だ。スマホを持つ啓名の右手が力なくだらんと床に垂れるが、スマホを握る手には徐々に相応の力も籠る。
援軍を呼ぶという行為が決して成功しないことを把握しながら、障壁の中に身を隠し必死にスマホを操作して外部と連絡を取ろうとする啓名の様子は、さぞかし滑稽に映ったことだろう。
手の内を読まれているかのような感覚に、啓名は苦虫を噛み潰した顔で正威へと向き直る。
尤も、対する当の正威は悪びれた様子一つ見せることもない。
「スマホや携帯電話をピンポイントで封じることは、実はそんなに難しくない。手段も豊富だし、それこそ用途に合わせて局地的か広範囲かといった辺りも容易に使い分けられる。まあ、これが有線も……となるとこう簡単にはいかないけど、いざ固定電話で連絡を取るとなるとなかなか相手の番号が思い出せなかったり厄介だったりするんだよ。如何に携帯電話が持つ機能の利便性にどっぷり浸かってるかが解ると思うよ」
からからと笑う正威を前に、啓名が横目に流し見るのは３０６号室に備え付けの固定電話である。固定電話の場所はベットの脇で、萌が今まさに黒雑食を叩き潰している場所でもある。とてもではないが、それを利用して連絡を取るなんてことが可能な状況にはないといっていい。加えて言えば、実際問題として啓名の頭の中にはアルフの携帯番号も、多成の携帯番号も二人の部屋のコール番号も暗記されてはいなかった。
では、３０６号室の固定電話にアクセスできたとして、どうする？
悠長にホテルのフロントへとコールを掛けるのか？
すぅっと一度瞑目して眉間に皺を寄せた後、啓名は自身が置かれる状況を整理する。否応なく理解させられることと言えば「打つ手がない」ということだけだったのだが、それでも状況整理の為の間は良くも悪くも啓名を落ち着かせる効果を発揮した。
啓名は瞑目したまま余りにも絶望的な状況に苦笑すると、色々と吹っ切って開き直ったようだ。カッと目を見開いてマジマジと正威を睨み据えると、スターリーイン新濃園寺に仕掛けたものがどんなものなのかを詰問しようとする。
「ホテル全体に電波障害を仕掛けていたってわけなの？ 大掛かりな装置でも用いないと電波妨害なんて簡単にできることじゃないって聞くけれど、そんなものを用いてまで星の家の一介の構成員に何の用があるっていうの？」
しかしながら、啓名の詰問めいた強い口調も、その途中で勢いを失う。口を切って質問をぶつけた矢先から、次から次へと疑問が湧いて出てきたらしい。
「いや、そもそもこんな北霞崎の繁華街で、本当に大掛かりな装置を用いて電波妨害なんか展開しているの……？ スターリーイン新濃園寺だけを電波妨害エリアに収めるなんてかなり高度な真似の筈だ。影響が周囲に及ばないがはずない。だったら、この精巧な電波妨害はどうやって展開したの？ ……術式？ 術式で展開したんだ。それしかない。違う？」
詰問という形は竜頭蛇尾に終わって、言葉の終わりの方は自身で導き出し推測の成否を正威に問うような形となっていた。
啓名の推測は大掛かりな装置を用いての電波妨害を否定するものだった。
大掛かりな装置を用いた電波妨害の場合、この場に姿を見せていない神河の協力者が複数いなければとても成り立たない。その協力者が背後に存在している可能性を「ない」と断言はできないながら、啓名は首を振ってその可能性を否定した。そこまで大掛かりなことができるのならば、人一人の身を押さえるためにわざわざ部屋の扉をぶち破って侵入するなんて真似をする必要なんて無い。やりようはいくらでもある筈だ。
推測に対する正答を問われた正威は、淀みなく、そして簡潔に答える。
「まず、電波妨害は指摘の通り。どんな展開になるにせよ、星の家としても櫨馬警察だとか余計な連中の介入を好ましく思わないだろうと思ってね。結果として、仲間を呼ぼうという紅槻さんの手を封じる形になってしまったけれど、こちらの真意はそれだよ。スターリーイン新濃園寺に宿泊する星の家以外の一般人を巻き込みたくもないしね」
「そうか。電波妨害もだけど、これだけドタバタ騒ぎ立てて置きながらも誰も様子を見に来ないっていうのは、３０６号室で発生している騒音や衝撃を外の人間が気付かないこの場を整えているからだね。恐らく、それは人払いも兼ねている」
「御名答」
状況証拠から組み立てた啓名の結界考察を、正威は拍子抜けするほどあっさりと「その通り」だと認めた。色々濁して空惚けた方が、啓名の神経を継続的にゴリゴリと擦り減らす毒のように作用するだろうに、正威はここでもまた後輩を指導する良き先輩でもあるかのような言動を見せた形だ。
しかしながら、そんな正威の立ち居振る舞いが歯牙にも掛けられていないように感じられて鼻に付くのだろう。啓名からは正威の態度に対する反発が口をついて出る。
「紅槻だって、結界を用いた電波妨害ぐらいのことはやれるわ。解らないわけがないじゃない！」
尤も、そう食って掛かってはみたものの、神河が仕掛けた電波妨害は見事ととしかいいようのないものだった。
何よりも見事だと啓名が思わされた点は、スマホの挙動に一点の不自然さもないところだ。チャットアプリがエラーを吐いて停止するだとか、スマホに通信異常の警告が表示されるとか、まして、プチプチと一時的に繋がったりするようなこともない。正常に動いています、でも何らかのトラブルで通話・通信が確立できませんという体をきちんと装うのだ。
紅槻がいくら入念に下準備を整えて、電波妨害を展開したとしてもそれを術式に頼る限りこうはいかない。
啓名は下唇をくっと噛む。
紅槻が得意とするはずのところで後れを取り、襲撃されるという事態を許してしまったこと。そして、見事としかいいようのない手練手管でスターリーイン新濃園寺に仕掛けを張り巡らせていたこと。どちらも、紅槻姓を持つ啓名には歯痒い思いをする点だった。
「さて、このまま建設的な会話をするというのも悪くないけど、障壁越しの対話というのは味気ないとは思わないかな？ 何より、これでは何か建設的なことで合意に達することができたとしても握手一つも交わせない。悪いけど、せっかく構築したその障壁も取り除かせて貰うことにするよ」
そういうが早いか、正威は障壁へと向けすーっと手を伸ばす。そこには例の一対の符が存在しており、障壁破壊の為に正威が取る手段は行動妨害の時のものとそう大きく違わないのだろう。
ビクッと体を震わせ強張らせた啓名だが、正威の行為を止める有効的な手段は思い付かないようだ。かといって、そのまま黙って正威の動きを看過すれば、ほぼ「詰み」だ。そもそも取り得る手も多くない。それでも、例えそれが「投了」と口にしたくないが為の苦し紛れの一手だと解っていても、啓名は取るべき対応を選択する。
啓名は後ろ手に黒い液体が入った小瓶の最後の一本を持つと、気付かれぬようその中身を床へと零した。
黒い液体の入った小瓶は黒雑食を召喚する為のものだが、啓名の狙いは正威の不意を突き攻撃を仕掛けるといった類のものではないようだった。例え、それで正威にダメージを負わせることができたとしても、黒雑食では荷が重い。いや、恐らく相手にならないといった方が適当だろう。
では、どうするか？
啓名の腹は黒雑食を連絡役に使うことだった。そして、この場に援軍を招き入れる。
啓名が置かれる状況は既に一人でどうにかできるものではない。黒雑食といった手持ちの駒の数や質が多少改善したから埒を開くことが可能だろうか？
答えはＮＯだ。
この状況をひっくり返し得る一手を望むなら、バックスやアルフといった類の、神河に対抗し得る面子をこの場に招き入れるしかない。
ただ、黒雑食の知能は低く、基本的には命じられたことをこなすことしかできない。どうにか覚えさせることのできる二言三言で危機を伝え、且つ救援に来て貰わなければならない。黒雑食を用いた伝言で、正しく意図が伝わるかは不安な点があるものの、それでもこの緊急事態において連絡役として居ないよりかはマシだろう。
啓名はその場の誰にも聞こえないような小声でぼそぼそと呪詛を呟くと、黒雑食に例のパーカー君の形態を形作らせず、隣室へと移動するよう命じる。気取られぬよう細心の注意を払いながら黒雑食に命令を下したわけだが、好都合にも正威の意識は障壁を崩すことに向いていて啓名の策動に気付いた風はなかった。
相手に気取らせることなく黒雑食を暗躍させたところまでは良かったものの、ことはそう上手く運ばない。ここにきて、正威が手を伸ばして触れる場所から、障壁がピシピシと細かな破砕音を響かせ綻び崩れ始めたのだ。
黒雑食が３０７号室の多成や３０８号室のアルフをこの部屋へ連れて来るよりも早く障壁が瓦解する蓋然性が高まり、啓名の額には緊張からだろう大粒の汗が浮かび上がる。
「確かにさっきの行動妨害の奴よりかは手が掛かっている障壁だね。でも、まだまだ脆弱だよ」
障壁を「脆弱」といって退ける正威の手によって、罅はあっという間に全体へと広がってしまった。正威の手に掛かれば、耐久性重視で構築した啓名特製の障壁も容易に破壊できるレベルにあるようだ。
見る見る内に綻びが生じていく障壁を眼前に置き、啓名は驚きを隠せない。「信じられない」とでも言わないばかりの、あんぐりと口を開けた表情で固まると、やがて眉間に皺を寄せる当惑の顔へと切り替わる。
「どうしてこんな簡単に「綻びを作り出せるんだろう？」って、疑問に思う顔をしているね」
「……悔しいけど、その通りよ。こんなに簡単に崩されていい代物じゃないんだけど！」
「どうしてだと思う？ また推測を俺にぶつけてみて欲しいね。もし正解を導き出せたら、勿体振らずにきちんと正解だと伝えるよ」
恐らく、啓名が正解を導き出せた場合、正威はその言葉通りに正解だと言うのだろう。電波妨害の推測の時同様にだ。
しかしながら、それは啓名の表情をこれでもかと曇らせる。
それは即ち、逆転される可能性を正威が微塵も危惧していないことを示唆するからだ。障壁の壊し方を知られても、啓名にその対策を打つことができないと考えているからこその、そんな余裕の言葉だろう。いや、そもそも対策など打ちようがない程に、啓名ご自慢の障壁には致命的な弱点があるのかも知れないとさえ思える。
啓名はギリッと下唇を強く噛みしめていた。