「異式錯落区画の未知標 -北霞咲新濃園寺コンフリクト-」のトップページに戻る。
正威と萌の二人は、星の家がビジネスホテル「スターリーイン新濃園寺」にチェックインしたという連絡を受け、北霞咲は新濃園寺の界隈に居た。ちょうど、ビジネスホテル「スターリーイン新濃園寺」の正面玄関が一望できる十字路に正威が何をするでもなく直立不動で居る格好だ。正威の近くに萌の姿はなかったが、足下には萌のスクールバックが置かれており近くに居るのは間違いないだろう。
腕組みをしてスターリーイン新濃園寺を遠目に眺める正威を中心において辺りを見渡してみる。すると、スターリーイン新濃園寺を間に挟んだちょうど反対側の十字路から裏通りを通って歩いてくる萌の姿が確認できた。
新濃園寺と区画の名前を一言でいっても、都会度の差は区画の北端から北西部に掛けて広がる山岳部なのか、中央から南端・南東部に位置する平野部なのかによって大きく異なる。そもそも新濃園寺エリア自体が霞咲市の北西部から北部に掛けて広がるエリアであり、新濃園寺の北部イコール「ど田舎」というのが霞咲市民の認識で間違いない。北西部に限らず新濃園寺は基本的には山岳部が多い地域であるのだが、霞咲の中心部(即ち、新濃園寺の南側から南東部)へと近づくにつれ都会度が上がる傾向にある。
ビジネスホテル「スターリーイン新濃園寺」が立地する場所は、そんな新濃園寺のちょうど中央部に位置する、程よく寂れた繁華街の裏通りだった。裏通りとは言っても、表通りから一本奥に入っただけの場所で、新濃園寺駅前へと広範囲に展開する歓楽街からそう離れていない場所でもあるため、メインストリートとそう大差ないのが実情だ。
そこから、車道を挟んでさらに裏通りを奥へと進んでいっても、まだまだ個人経営のスナック店や派手な電飾のないこじんまりとした佇まいの飲み屋などがいくつも見て取れるぐらいには寂れた場所でもない。寧ろ、ホテルの立地としては駅前通の歓楽街から徒歩10分程度であり、程よく喧噪からも解放された好立地という見方になるのだろう。
外観にしても六階立ての建物は、近隣の雑居ビル群よりも頭一つ抜けて高く、表通りからでもその場所を確認できるようになっていて裏通りに立地しているデメリットを感じさせない。尤も、高さだけを言えば、近隣地域にあるビジネスホテルはスターリーイン新濃園寺よりも一回りも二回りも背の高いものもあり、そう背の高い部類ではない。しかしながら、その分横に広い構造で敷地面積だけを見れば周囲のビジネスホテルや雑居ビルの中で一番大きいだろう。
スターリーインの名前を冠するビジネスホテルとは、近隣の地方都市部を中心に展開する櫨馬地方に根差したローカル企業である。他大手のビジネスホテルの平均値に対して食事・風呂・部屋などのあらゆる面でプラスワンのサービスを掲げる中堅どころの位置取りを狙った印象のホテルだ。
プラスワンがあって、価格が平均値据え置きならば嬉しい限りだが、価格帯も平均値プラスワンであるため評判や口コミは至って普通だ。「準スイート仕様が平日特価」「ワンコインで朝食をランクアップ」などなど高付加価値サービスにも力を入れているようだが浸透度は今一というのが正直なところで、こちらも評判や口コミは良くもなく悪くもなくといったところである。
プラスワンを謳い、質の高いサービスを匂わせる部分は正面玄関の雰囲気にも現れている。白堊の大理石をあしらう荘厳な装いで、星が付くようなホテルにも見劣りしないのだ。ビジネスホテルのレベルは凌駕しているといっていいだろう。
萌が傍までやってくると、正威はそんな中堅ビジネスホテル「スターリーイン新濃園寺」を見上げながら、星の家の活動拠点らしからぬ現状に呆れの混ざった感想を述べる。
「星の家が北霞咲での活動拠点にしていると聞いていたから、もっと襲撃に備えた仕掛けなり何なりを張り巡らせてあるかと思ったんだけど、……無警戒にも程があるな。襲撃されても返り討ちにする自信があるか。そもそも襲撃される可能性を考慮に入れていないのか。どっちだと思う?」
「人でないものの接近には敏感に反応できるようにしてあったりするんじゃないの? それこそ、人という観点では誰が宿泊してもおかしくない只のビジネスホテルなんだし、そっちはスルーなのかも。それと、そもそもたまたま利用機会が多いというだけで、活動拠点なんて認識はないのかも知れないし」
ここまで何も対策が仕掛けられていないと、萌が示した可能性は前者も後者も十二分に可能性が考えられた。もちろん、スターリーイン新濃園寺の星の家の宿泊階層に足を踏み入れた瞬間、バリバリ罠や仕掛けが発動するという可能性も多分に残ってはいる。ただ、そこまで思慮を巡らせた結果として、正威が最も可能性が高いと思ったものは「人間の敵を意識していないのかも知れない」というところに落ち着いた。
加えて言えば、萌が提示した可能性の一つである「活動拠点なんて認識がない」というところも、かなりの現実性を帯びていた。スターリーイン新濃園寺の建物本体は愚か、近隣地域も含めて何も対策が為されていないところがその疑いを強く抱かせた形だ。
「今の今まで櫨馬での経験を下に起脈の設置を推し進めてきたけれど、人間にそれを阻害されたことがない……か」
「実際、櫨馬では居なかったのかも知れないよ? 起脈石がどうのこうの、そんなことを気に掛けていられるような土地じゃないでしょう?」
星の家が櫨馬の主要な場所へと起脈石を設置し終えたという話自体、正威は眉唾物だと思っていた。
櫨馬とは、萌が言ったようになかなか厄介な土地なのだ。
櫨馬界隈は「久和一門のテリトリー外」だという認識は間違いではないが、全く足を踏み入れず干渉しない土地かというとそうではない。
ややこしい話になるが、まず櫨馬とは、単一勢力が管理下に置く土地ではない。では、櫨馬で全く問題が発生しないかというと、もちろんそんなことはあり得ない。問題が生じる度、どこかの勢力へと依頼が行き、どこかの勢力が対処に当たるのだ。そして、そんな土地だのにも関わらず、どこかの勢力が管理下に置こうと行動を起こすことのない土地でもある。
そして、それは久和一門に限った話ではない。
櫨馬近隣で久和同様の生業を飯の種とする同業者も「テリトリー外だ」という認識を持ちながら、全く足を踏み入れず干渉しない土地かというとそうではないのだ。いずれはどこかの勢力が管理下に置くのだろうが、それが達成されるためにはまず何よりも櫨馬の治安が大幅に改善される必要がある。
櫨馬市が孕む問題は、大まかなに分けて三つ。
一つは経済特区として制定され、移民を受け入れる土地のテストケースとされたことで、一部の地域が劣悪な治安状況にあること。詳細は割愛するが、暴動で死人が出るのも日常茶飯事のレベルであり、移民向けの安アパート群が立ち並ぶ一部区画には基本的に夜間外出禁止勧告が敷かれる。
二つ目が移民を受け入れたことで、移民に混じって良く分からない外来の異形やら妖怪やら神様だったものやらが流れ込んできたことだ。それらは日本の八百万の神々や、妖怪や異形と言ったものとは付き合い方が全く異なるもので扱いに最新の注意を払う必要がある。いや、そもそもそれどころか、細心の注意を払っても対話すら通じないものが五万と居る。
そこに加えて、三つ目の問題だ。数多のよく分からない存在の流入を許し、それを長年に渡って取り除けず年月を経てしまったことで生じた歪みの存在だ。しかも、その歪みは櫨馬の経済特区化が始まった数十年前から解消されず、堆く積み上げられて肥大化してしまった。歪みの中で経た数十年の年月は、外来の異形やら妖怪やら神様でもなく、地域に根ざした八百万の神々や眷属達とも異なる新興の「何だかよく分からないもの」を無数に生み落としたのだ。それらは移民と一緒にやってきた異形が変質したものだったり、櫨馬という混沌の中で新たに生まれたものだったりするのだが、対話も付き合い方も分からず手探りの交渉を仕掛けなければならない厄介極まりない存在である。
こう記述してしまうと、櫨馬が人間の生活するべき土地でないような印象を与えるが、実際はそうではない。その歪みの中で生活し、良くも悪くも歪みに慣れた人達に取っては、その新興の何だかよく分からないものとも、それなりに上手くやっていけるのだ。経験則や第六感から何となく「ここには近づくべきではない」とか曖昧な境界が生まれるのだ。もちろん、全く脅威がないかというとそうではないが、それなりに秩序というか、暗黙のルールというか、そういうものが生まれるのだから不思議なものである。
そんな土地で、星の家という組織が起脈を敷設し終えたというのは、正威でなくとも信じ難いと思うだろう。いや、起脈石を櫨馬の主要な場所に設置し終え、起脈のネットワークを敷いたというのは本当かも知れない。
しかしながら、櫨馬に介在する雑多な八百万の神々や、流れ込んできた外来の神々、新興の何だかよく分からないもの達と話を付け、管理下に置いたというのはあり得ない話だと思い至ると言った方が適当だろうか。
人間に起脈石の設置を阻害されたことはない。
萌が言わんとしたところもそこに帰結する。
それは確かにそうかも知れない。
「星の家に取っては霞咲まで来てやっと、最初の「人間の敵」との遭遇になるのかもね。だったら尚更、派手に「君達は段取りを間違っているんだよ」って解るようにしてあげないとならないね」
尤もらしい理由をつけておきながら、萌はその実、海のものとも山のものとも知れない「星の家」に喧嘩を吹っ掛けて、ここらで一つ実力を推し量っておきたいという腹だろう。主窪峠の起脈石回りで星の家が用意した結界などから推し量るなら、少なくとも星の家は術者として高いレベルにあるとは判断し難い。そこに来て、廃神社でのあの傲岸不遜で威圧的な立ち居振る舞いである。
あの交渉だけを切り取ってみれば、北霞咲の八百万の神々を相手に回して「攻め落とし得る」だけの人材や実力を持っていると言わんばかりなのだ。
正威にしても、今回ばかりは威力偵察を兼ねることに異論はないようだった。
攻められるだけ攻めて相手の手の内を引き出し、その上でまずい状況が予見されるようならばすぐに手を引く。今後、星の家と本格的に衝突することを想定し、是が非でもある程度実力はここで推し量っておきたい。それは紛う事無き本音だった。
「さて、件の星の家の面々だけど、ファミレスで夕食を取った後はホテルへと直行。で、夜間に外出する気配はない感じらしい。……どうする? もうちょっと時間を置いて寝込みを襲うってのもありだけど」
萌が言及した「寝込みを襲う」案は、首を横に振る正威によって否定される。
「相手に取っては神河との初顔合わせだ。神河、惹いては久和一門がその手の類だと思われないようにする為にも、まずは正面切ってご挨拶と行こう」
寝込みを襲う案をきっぱりと否定する正威に、萌はさらに一歩を踏み込んで確認をする。
「結果として、寝込みを襲うことになる可能性も十分考えられるけど?」
その手の類だと思われないようにするというスタンスをどこまで徹底するつもりなのかが気に掛かったのかも知れない。部屋の前まで踏み入っていざ突入という段階になって、星の家が消灯済みだったらどうする? まさか、フロント経由でコールを掛けて「紅槻様にお客様です」とでもいって貰うのか? そもそも、コールに対して何も反応がなければ、今夜決行予定の「ご挨拶」さえ見送るのか?
正威は肩を竦めて尤もらしく答える。
「その場合、星の家は午後九時半ぎの就寝か。絵に描いたような健康優良児だね。まあ、その時は仕方ないさ。甘んじて神河が汚名を受けようじゃないか」
初顔合わせだから「その手の類だと思われないようにする」と言いながら、同じ口で結果としてそうなった場合「甘んじて汚名を受ける」とは一見矛盾しているようにも見える。しかしながら、そう思われることは心外ではあるが、そう思われてしまうことを理由に今のこの機会をみすみす不意にするつもりはないといった心意気の表れでもある。
そんな神河のスタンスを引き出したのは「星の家の対処」に際して「起脈敷設は許容できない」且つ「阻止の為なら、多少の悪手も許容する」とした主窪主の意志そのものである。
正威は手に持ったボストンバックからつばの深い茶色の帽子を取り出し、それを萌へと差し出す。萌が帽子を受け取ると、もう一つ同じ型の帽子を一つ取り出し、それを目深に被った。萌が同じように帽子を目深に被ったことを確認すると、正威が目配せをし、ちょうど歩行者用信号が青点滅を始めた横断歩道を渡りスターリーイン新濃園寺の正面玄関へと足を向ける。
新濃園寺の繁華街から続く表通りにはまだまだ人出があり、特に一本路地を奥に入った飲食店街はまだまだ活況だと言って良かった。尤も、その大半は背広姿に身を包むサラリーマンだ。帰宅の途に付く前に夕食を外で済ませようという人達によって活況が生まれているのだろうが、新濃園寺の駅前から流入してくる人の数が疎らになりつつあるところを見るとそれも今がピークで間違いないだろう。
青点滅を始めた横断歩道を渡る人の数もまだそれなりにあるのだが、ではその流れの中からビジネスホテル街へと足を向ける人の数はというと数えるほども居ない。
それは今日が週半ばの平日だということも関係しているだろうし、明日が土日・祝日ではないということも影響しているだろう。さらに言えば、本日ビジネスホテルに宿を取るようなビジネスマンの大半は明日も早朝から仕事なのだろうし、チェックイン後に繁華街の居酒屋やチェーン店で夕食を食べるという層は既に食事を終えて部屋へと戻った後なのだろう。
青点滅を始めた横断歩道を渡る人の大半は、新濃園寺駅前のロータリーに隣接するバスターミナルやローカル線へと乗り継ぐ駅のホームへと向かう流れだった。
正威がスターリーイン新濃園寺のロビーを遠目に確認してみても、そこで寛ぐ宿泊客や今まさに宿泊手続きをする利用者などは見当たらない。フロントにはピシッとスーツを着熟した二十台後半から三十代前半ぐらいの見掛けをした若い男性のフロントマンが一人居るだけだ。
正威は横断歩道を渡り終えたところで、一度足を止める。そうして、改めてぐるりと表通りをざっくりと見渡し、ビジネスホテル街、引いてはスターリーイン新濃園寺へ足を向けるビジネスマンなどが周囲に居ないかどうかを確認する。
「今なら、邪魔が入ることもなさそうだな」
「だね」
萌からも同意が返れば、正威は足早に正面玄関へと足を進めスターリーイン新濃園寺のロビーへと進入する。まず、足を向けるのはフロントだ。何食わぬ顔をして、客を装い、フロントへとゆっくり足を進めていく。
スターリーイン新濃園寺のフロントは正面玄関をくぐってすぐ、向かって左手側に位置している。右手側はテーブル四つに、一人掛けのソファー十二脚からなるかなり広めのスペースであり、フロントを含め随所に植込みなどが設置され全体的に落ち着いた雰囲気が演出されているのが特徴だ。フロントの横にはエレベータが一機あり、さらにその奥には自販機スペースと、朝には朝食を提供するのだろう軽食喫茶が立地するという一階層の構成である。
そんなスターリーイン新濃園寺一階層のどこにも、宿泊客やホテルマンの姿がないことを確認すると、正威はフロントマンに会釈する。
帽子を目深に被るという装いの二人組がフロントへ向かってくるという状況だったが、フロントマンは訝る様子一つ見せることなくにこやかに会釈を返した。
「ようこそスターリーイン新濃園寺へ。ご宿泊のご利用でよろしかったでしょうか?」
「はい」
正威から迷いなく宿泊客であるとの意思表示が返ると、フロントマンは手元にあるタッチパネル式の情報端末を慣れた手つきで操作してゆく。そして、宿泊客に対するマニュアルに沿ったものであろう質問がフロントマンからは続いた。
「ご予約のお客様でよろしかったでしょうか?」
「はい」
「それでは、御予約のお名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
「村田です」
「村田様ですね? 少々お待ちください」
淀みなくさくさくと交わされた一連のやり取りの間、フロントマンは常に丁寧な口調で柔らかな物腰だった。やや事務的な印象を相手に与える感じはあったものの、それすらも中堅どころのビジネスホテルらしい対応だといえた。尤も、村田という予約名を聞いた後、手元の情報端末を軽快に操作していたフロントマンの表情は次第に次第に曇ることとなる。
それは当然だろう。何せ、正威が村田という名前でスターリーイン新濃園寺へ予約を入れた事実などないのだからだ。
何度目かの操作の後、フロントマンは申し訳なさそうな表情をして正威へと向き直る。
「村田様。大変恐縮ですが、本日村田様のお名前でご予約を承っていないようなのですが……」
「え? そんな筈はないと思うんだけど……。おかしいな、ちょっと待って貰っていいですか?」
正威は「そんなはずはない」という驚きの顔を装って、ズボンのポケットからスマホを取り出した。そうして、画面をフリック操作して見せて「さも予約の確認をしている」かのような動作を装う。そして、続けざまに「さも目当ての画面が見つかった」と言わないばかりの顔を間に挟み、スマホを片手にフロントへと身を乗り出したのだった。
「ちょっと、確認して貰っても構いませんか?」
「ええ、構いませんよ」
画面の確認を促されたフロントマンも同じようにフロントへと身を乗り出して、正威が差し出すスマホを覗き込む。
かなりぐぐっと身を乗り出さなければ、スマホの画面を覗き込めない状況にもかかわらず、フロントマンは嫌な顔一つするでもなく対応していた。なかなかどうして、丁寧で好感の持てる対応だ。
スマホの画面はホテルをネットから予約できる適当なサイトを表示しただけのものに過ぎない。それにも関わらず、フロントマンが正威を訝らなかったのは、これから画面を操作していって予約状況のページを表示するとでも思ってくれたからだろうか。
感心しながらフロントマンの対応を眺めていた正威だったが、フロントマンが完全に無防備となったタイミングを見計らいそのスーツ越しの胸元へと一枚の符をグイッと押し付ける。
「失礼」
「何を……?」
フロントマンは正威に対して全く警戒を向けていなかった。胸元に押し付けられた符を咄嗟に払い退けることさえもしない。自身の胸元に視線を落としながら、正威が何をしようとしたのかをようやく訝るところだ。
もしも、胸元に押しつけられたものが「符」という紙切れでなく、刃物だったならばどうなっていただろう?
フロントマンのその反応は、まだまだ霞咲が安全な都市であることを示唆していただろう。
ともあれ、ここに来てようやくフロントマンは訝る顔付きで正威へと視線を向ける。それでも正威から距離を取らなかったのは、それを悪意のある行動だと受け取らなかったからだろうか。尤も、その顔色はすぐに眉間へと皺を寄せる渋面へと変わる。そして、渋面とともに滲むものは激しい当惑だ。
「何だ、これ? 体が思うように動かな……」
「萌」
正威が萌の名前を呼んだ瞬間、フロントマンの体からはガクッと力が抜けていた。正威から距離を取ろうとすることもなければ、正威に対して言葉を向けようとすることもない。ただただその場でだらんと全身から力が抜けたイメージだ。
萌が、何かしたのだろう。
下手をするとそのままフロントのテーブルに崩れ落ちかねないフロントマンの肩を支えつつ、正威は教え諭すように話しかける。
「えー、まずは落ち着きましょうか。深呼吸をして。体勢を立て直して。……そしたら、スマホの画面を見ながらこちらの質問に答えてください」
「畏まりました、村田様」
正威の要求を快諾したフロントマンの様子は、既に普通ではなかった。受け答えのイントネーションなんかを聞く限りでは不審な点を感じ取ることは難しいが、快諾した際の表情を見ればそれは一目瞭然である。目付きは虚ろで瞳の焦点が定まっていないというのに、見事なまでの接客スマイルである。これを異常と言わずして何を異常というのか。
尤も、正威はそんなフロントマンの異常な様子を特に気に掛けた風もなく、淡々と質問を続けようとするのだから想定された反応なのだろう。
「まず最初に、館内にある全ての監視カメラの電源をオフにすることは可能ですか?」
「バックヤードにある端末から操作できると聞いたことがありますが、実行したことはありません。主任ならできるのかも知れませんが、過去に監視カメラの電源を全て落とした事例は一度もないので、その話自体が眉唾の可能性も……」
「バックヤードにマネージャーは在室していますか?」
「今は出払っていますが、私が呼べば30分程度で戻ってくると思います」
フロントマンが答えた30分は正威と萌に取って、到底許容できない時間のようだ。正威はその「呼びましょうか?」といったニュアンスを含む言葉に対して、すぐさま首を横に振った。
確かに誰が見ても明らかに異常な状態にあるフロントマンをこのまま30分間フロントに置いて、マネージャーの帰りを待つというのは無理な話だろう。加えて言えば、本当に30分で戻ってくるかも不透明である。
正威は監視カメラを無効化したいと考えていたようだが、正規の手段でそれを達成することを早々に諦めたようだ。フロントマンへと向ける質問の内容をがらりと変える。
「あなた以外の従業員が、館内のどこかに居たりしますか?」
「この時間フロントマンは私一人で、休憩に入っているもう一人が二十三時までには戻ってくると思います」
スターリーイン新濃園寺の従業員は「今自分一人しか居ない」という発言をした瞬間、正威は背後で成り行きを傍観していた萌に働き掛ける。
「だそうだ、萌。やってくれ」
「オーケー」
その働き掛けには主語が伴わなかったのだが、萌は何をすべきか理解しているようだった。その合図を待っていましたと言わないばかり打てば響く返事を威勢良く声に出し、目深に被った帽子をさらに目元が確認できないようつばの位置を調整する。
目元を隠して何を始めるかと思えば、萌が上着のポケットから取り出したものは円柱形のレーザーポインタだった。そうして、レーザーの照射口をロビーの床に敷かれた絨毯へと定めると、無造作に電源スイッチをオンにする。レーザーポインタが正常に作動するかどうかを確認したのだろう。
絨毯に向けてレーザーポインタから放たれた眩い光は、光源が全く拡散せずに一点を照らすタイプのものだった。一見、何の変哲もないレーザーポインタのようにも見えたが、絨毯に落ちた光を見る限りそれは尋常でない明るさを伴っていることが解る。大きさだけで判断するなら至って標準的なサイズでありながら、市販品が出力可能な光源でないのは間違いなかった。人の目に取って有害となるレーザービームの類で間違いないし、そもそも国内での使用や所持が禁止された出力のものであったかも知れない。
問題なくレーザーポインタから光が放たれるのを確認した萌がやったこと。
それは、その照準をロビー天井に設置されたドーム型監視カメラへと定めることだった。闇夜を照らす用途で用いられる代物ではなく、監視カメラの素子を破壊する為のレーザーポインタというわけだ。
萌はレーザーポインタの光を、天井にあるドーム型監視カメラに次々と照射していく。照射の時間は一台につき10〜15秒程度。一般的なドーム型監視カメラの素子を破壊するにはそれで十分であることを萌は理解している様子で、その一連の動作には何一つ迷いがない。天井のドーム型監視カメラを中心にして、ぐるりと円を描くように歩きながらレーザーポインタの光を当てるという作業を、萌は目に付く全てのドーム型監視カメラに対して実行していく。
萌が監視カメラの無効化作業を始めたのを確認すると、正威は再びフロントマンへと対峙する。
「次は、宿泊客の部屋番号を確認したいんですが?」
「畏まりました」
普通ならばぺらぺらと話して貰える類の情報ではないはずだったが、相変わらず焦点の定まらない虚ろな目付きでふらふらと揺れ動くフロントマンはその申し入れを快諾する。接客スマイルに両手を広げるようなジェスチャーを見せ「確認したい宿泊者の名前をどうぞ」と態度で告げる形だ。
「名前はアカツキケイナとタナリヒロトシ、チェックインは三人でしているはずで、もう一人男が宿泊しているはずだけど名前までは解らない」
正威が口にした名前を、フロントマンは手元の情報端末に打ち込んでいき宿泊客名簿から検索を掛けていく。名前を変えて宿泊している可能性なんかも正威の脳裏を過ったのだが、その懸念はあっさり杞憂に終わった。
アカツキケイナもタナリヒロトシも、宿泊客名簿の検索からすぐさまヒットしたのだ。
「アカツキ様は306号室、タナリ様は308号室ですね。確かに一行はタナリ様の名前でご予約されていて、えー、……もう一方のお名前はアルフ様となっておりますね。こちらが307号室です」
「306から308、ね。ありがとう、助かりました」
正威の謝意に対して、フロントマンが深々と頭を下げる。
「いいえ、村田様の力になれたのなら幸いです」
異常な状態に置かれたフロントマンの認識では、正威はおもてなしして然るべき相手として捉えられているようだ。即ち、フロントマンの胸元へと押し付けた符を用いて、彼の認識を神河に取って都合の良いものへと変質させたのだろう。
フロントマン絡みの正威の要件は全て済んだらしい。正威は頭を深々と下げるフロントマンから、萌が行う監視カメラ無力化作業へと視点を移す。しかしながら、いざ萌に向けて話掛けようという矢先になって、正威は再びフロントマンへと向き直っていた。
「ああ、最後にもう一つ。これ以降フロントに人が来ることはないと思いますが、もし誰かがやって来た場合はいつも通りの対応をしてください。それと、館内で大きな物音がしたり、館内を慌ただしく動き回る人が居たり、大声で何かを言い合ったりする声が聞こえてきたとしても、それは何の問題もありません。今夜はそういう日です。良いですね?」
認識を変質させるよう正威から念を押され、フロントマンはこれ以上ないほどの接客スマイルをして頷く。
「はい、畏まりました」
星の家へ挨拶するにあたり、この後起こり得るゴタゴタについてフロントマンの認識を都合よく変質させたところで、萌からは作業完了の報告が上がってきた。
「ロビーにあるドーム型監視カメラは全部潰した。ドーム型じゃないのはぱっと見で目に付かないけど、壁に埋め込んでいたり入念に隠したものがあるかも知れない。まぁ、そこまで徹底的にやらなくてもいいでしょう。それで、人払いの方はどうする?」
正威が監視カメラ無効化作業のその次について言及するよりも早く、萌からは次の作業を具体的にどうやるかについての確認が続いた。一連の作業の流れが頭の中に入っていて、星の家への「挨拶」に向けたロビーでやるべき内容の終わりも見えているのだろう。
「……張り物で良いと思う」
「お、珍しく手を抜くね」
僅かに判断に迷った後の正威の回答は、萌に取ってかなり意外なものだったようだ。
萌は大きく目を見開き、やや腕を広げて見せるジェスチャーで、正威に「その心」を確認する。尤も、手を抜くと言った口調に非難の色はない。慎重を期すタイプの正威にしては「いつもと異なる対応」を選択したという点が意外だったに過ぎない。
「ここに一日籠城しようってわけじゃないんだ。そもそも、長居をするつもりもない。そこを手堅く固める必要性は薄いと判断できるし、時間を掛けないことを優先する上でも、手を抜けるところは抜いておくべきだと思う。どうだろう?」
「その意見には賛成だね。過ぎたるは及ばざるが如しって言葉もあるぐらいだかんね」
手を抜くことに対して萌から賛同を得たことで、正威はその方向性で進めるべく用意を始める。「張り物」とその口で言ったように、正威が人払いに向けて用意したものは、厚みのほとんどないA4サイズの封筒だった。正威はボストンバックから取り出した封筒から、その中に仕舞われた複数枚の用紙の内の一枚を抜き取り、残りを封筒ごと萌へと手渡す。
中身が何かは萌も承知のようだ。封筒を受け取った萌はそれをどうするかではなく、それを用いてどのようにするかを尋ねるのだ。
「ブーストはどうする? というか、そもそもブースト掛ける?」
「ここには進入できないという方向付けじゃなく、見つけ難いという方向付けでブーストしよう。スターリーイン新濃園寺に迷わずやって来ることができて、二十三時までにここへ来なければならない理由を持つ、休憩中の従業員がいるらしいからね。その彼が「迷って到着できません」は、致命的な綻びを作り兼ねない。もちろん、そこまで時間を掛けるつもりはないけど、こればっかりは相手があることだし長引かないとも断言できないからね」
正威の見解を、またも萌はすんなり受け入れる。というよりも、そういう「攻め方」に関した部分は正威に全幅の信頼を置いているのかも知れない。
「オーケー。じゃあ手っ取り早くその方向付けで敷地に人払いを仕掛けてくるよ」
スクールバックをロビーの床に残したまま正面玄関から裏通りへと出ていく萌を尻目に、正威も抜き取った一枚の紙を手にフロントへと向き直る。紙はB5サイズを三つ折りにしたもので、広げるとそこには複雑な文様が印字されていた。
正威はフロントの脇にそれを印字された文様が隠れるように設置する。続けて、ズボンのポケットをごそごそと漁り、アウトドアなどで利用される使い捨てのプラスチック製コップ(小)を一つと、二〜三口で中身がなくなるサイズの透明なガラス製のボトルを取り出した。ボトルの中にはなみなみと液体が入っていたが、同時に取り出したプラスチック製コップにそれを注ぎ込むなら、良くて二杯という量だ。
フロントのテーブルにコップを置くと、正威はボトルのキャップを捻り中の液体を注いで行った。そしてコップの八分目までがボトルの液体で満たされると、それをフロント脇に広げた紙の上に設置する。花の蜜のような甘い匂いが膨張するようにパッと広範囲に広がったかと思えば、それはあっという間に徐々に薄れていって、まるで最初からそこに存在していなかったかの如く影を潜めていった。やや時間を置いて萌がロビーに戻ってきたが、その頃には完全に影を潜め人の嗅覚では感じ取れないレベルにまで薄まっていた。
「大きいビジネスホテルだね、ここ。四隅を回るだけでも結構時間が掛かったよ。で、四隅を回る傍ら通りの様子も改めて眺めてきたけど、捌けたとはいえ表通りも裏通りも相変わらずの人通りがあるから、まだまだレイトチェックイン予定でスターリーイン新濃園寺へ宿泊客がやって来る可能性はありそうな感じだね」
「簡易な仕掛けの人払いで正解だっただろう? 挨拶をするにあたっての仕掛けも仕上げの準備はできてる。さくっとやってくれ」
正威に仕上げを促され、萌はフロントの上に設置されたコップの縁へと触れる。すると、紙に印字された文様が仄かに薄青く発光し、コップの中の無色透明の液体も濃度のある翡翠色に変化した。一瞬、花の蜜のような甘い匂いが鼻を付くほどに存在感を増したものの、すぐにまた徐々に薄れていって、最終的にはまるで最初からそこに存在していなかったかの如く影を潜めた。
「それじゃあ、星の家と初顔合わせと行きましょうか!」
萌はロビーの床に置いたスクールバックを拾い上げると、威勢よく気を吐いた。そこには初顔合わせを心底「楽しみだ」とする雰囲気が滲み出る。
二人はフロントの隣に設置されたエレベーターへと足を向け、スターリーイン新濃園寺一階層には虚ろな目付きに接客スマイルを浮かべて佇むフロントマンだけが残る形となった。
エレベーターに乗り込むと、萌はすぐさま肩に担いだスクールバックを床へと下ろした。スクールバックの中には組立式のスレッジハンマーが入っており、スターリーイン新濃園寺3Fへと到着するまでに組み上げてしまうつもりのようだ。
スターリーイン新濃園寺の周囲には星の家による仕掛けは何も設置されていないものの、実は3F層にはばっちりと罠を仕掛けている可能性も十二分に考えられるため、それは適切な判断だろう。
エレベーターは5〜6人も乗れば目一杯のサイズだったが正威と萌以外に乗り込むものはなく、件のハンマーを組み立てるだけのスペースは十分存在していた。実際、同乗者の正威がやや窮屈感を感じる姿勢を強いられることにはなるものの、萌がスクールバックから組立式のハンマーを取り出し取り回してみても縦横ともに閊えることはない。
油圧式の滑らかでゆっくりとした昇降をするエレベーターの箱の中で、萌はハンマーを組み上げながら挨拶相手について尋ねる。
「どこから攻める?」
正威の腹は既に決まっていたようで、挨拶相手については名前がすぐさま口をついて出る。
「紅槻啓名」
「その心は?」
萌は返す言葉で紅槻啓名に狙いを定めた理由を正威に確認したが、その選択を意外に思った節はなかった。寧ろ、紅槻啓名を名指ししたことについては、二人の意見は一致していた。となれば、萌が理由を正威に求めたわけは単純明快で、その答えに至った道筋の認識を合わせておきたかったのだろう。
正威も萌の意図をすぐに察したようだ。やや、小難しい顔を合間に挟み、結論に至った自身の考えをまとめ上げる。
「起脈を司る紅槻の姓にあることと、廃神社境内にフル装備でやってきた点を踏まえて、彼女が起脈敷設で重要な役割を担う術者で間違いないという判断からだ。締め上げて起脈に対する情報を聞き出す相手として申し分ない。それと、もし廃神社境内で全面衝突に発展していた場合、あの場からネゴシエーターの面々を離脱させるべく彼女が装備を駆使して存分に力を振ったはずだ。星の家の、術者としての力量を図る試金石としても、狙うべくは紅槻啓名以外には考えられない。……どうかな?」
「うん、異論はないよ。大体、あたしも同じ意見」
経緯の妥当性について正威から意見を求められて、萌は全面的な同意を返した。目標とそこに至る経緯が腹に落ちれば、次の話題は自然と相手の現在地や構成の話になる。
「啓名ちゃん、何号室なんだっけ?」
「306号室だ。その隣の307号室が廃神社境内に帯同しなかったアルフという男で、さらにもう一つ隣の308号室が例の多成っておっさんの部屋だ」
「306号室に踏み入って、室内に啓名ちゃんが居ないなんて事態になったら?」
「踏み入る前に中の様子は入念に探るけど、もしそんな事態を間の当たりにすることになったら大間抜けの極みだな」
引き返すとも、室内を物色するとも続けず「大間抜けの極み」で終わらせた辺り、絶対にそんな事態は引き起こさないとする正威の意思が垣間見れた瞬間だろうか。
ともあれ、萌もその認識を笑い飛ばして見せて、それを「あり得ない事態」で終わらせる。
「はは、違いないね、大間抜けの極みだね。じゃあ逆に、啓名ちゃん以外の面子も306号室に集まっていたら?」
「好都合だろ? 袋叩きにする」
正威から好戦的な威勢の良い台詞が出たことに、萌はやや驚いたようだった。組立式ハンマーのパーツを組み上げるその手を、一瞬止めたのだ。もちろん、それも一瞬のこと。萌は組立式ハンマーの最後のパーツを嵌め、パチンパチンとなるロック機構を一つ一つ丁寧に固定し組み上げ終えると、槌の部分をエレベーターの床へと突き立て気を吐く。
「オーケー、その手筈で行こうか」
事前に認識合わせをしておくべきことは、大凡し終わたのだろう。以降、正威・萌の二人が、エレベーター内で会話を切り出すことはなかった。尤も、それは後数秒と経たずに、件のスターリーイン新濃園寺3F層へ到着するからだったかも知れない。
正威・萌の二人はどちらからともなく、エレベーター外の異変を感じ取るべき意識を集中させる。スターリーイン新濃園寺3F層へと到着する前に感じ取れることなんて普通に考えればいくらもないのだけど、二人が感じ取ろうとした差異は何も五感に頼った部分だけではない。
相手は紅槻という術者だ。しかも、お世辞にも「程度が良い」とは言えない状況証拠を持っているのだ。スターリーイン新濃園寺3F層に何かしらの対策を施しているのだとしても、その前兆を容易く感じ取ってしまえる可能性は高い。
しかしながら、何かしらの差異を感じ取ることは適わず、エレベーターは微かな浮遊感とともにスターリーイン新濃園寺3F層に到着した。
スライド式のドアがゆっくりと開く。
まずスターリーイン新濃園寺3F層へと進み出たのは正威である。緊張した面持ちでエレベーター前の広場の様子に探りを入れながら、そして同時に一宿泊客を装う何食わぬ顔をして、だ。尤も、様子を窺うまでもなく3F層の廊下は静まり返っていた。
廊下を往来する人の気配もなく、耳を澄ませてみても微かに空調音や機械の作動音が聞こえるだけだ。
多成一行以外がこのスターリーイン新濃園寺3F層に宿泊しているかどうかは解らないが、他の階層の物音や星の家の面子を含めた人の話し声・テレビの音なんかが廊下に漏れ出てこないところを見ると、そもそもかなりしっかりした建物の作りなのだろう。
スターリーイン新濃園寺3F層は、廊下の天井・各室の出入りとも身長が2mを超えるような外国人でも頭上を気にするような作りではなく、広めに取られた横幅と相まって開放感のある作りを達成していた。外観・内装・調度品なんかも質素ながら安っぽさを感じさせることはない。随所に植込みなどを配置している点と併せて、スターリーインの名前を冠するビジネスホテルが標榜する「プラスワン」という付加価値が全体的にしっかりと行き届いているよう感じさせる雰囲気がそこには横たわっていた。
しかしながら、正威がスターリーイン新濃園寺3F層に探りを入れて解ったことは、そういった五感で感じ得ることのできる表面的な事柄だけだ。即ち、それは3F層に進入してからが本番であり、対人向けの仕掛けが目白押しという状態には陥らなかったことを意味する。もちろん、それは望ましい状況なのだが、その一方で何の対策も為されていない現象を目の当たりにした正威からは改めて呆れの言葉が漏れ出た。
「……無警戒にも程があるぞ。三階を行き来する人のチェックすらしていないっていうのか?」
「櫨馬というホームエリアに自分達の敵が居ないみたいに、北霞咲も自分達のホームエリアのつもりなんじゃない?」
萌はエレベーターを下りてすぐの場所に掲示されるスターリーイン新濃園寺3F層の部屋配置図を眺めながら、ここに至って仕掛け一つ設置していない星の家の思いをそう邪推した。
しかしながら、奥州平泉を離れあちらこちらを転々とした過去を持ち、その先々で小競り合いを起こした紅槻一門がそこまで無警戒で入られるわけがないという思いが正威の中にはあった。
例え、櫨馬でそうだったとして、霞咲を同じように「ホームエリア」だという意識を持っているのだとしても、ホームエリアに自分達を害する勢力が存在する時「どうやって対処をするのか?」の疑問は残るのだ。
端から泥縄式で対応をする?
そんなわけがない。
考えても答えが出ないと解りながら思案顔を見せる正威に対して、萌は廊下の先へと視線を向け同意を求めてくる。
「諸々そういった疑問を解消する為の「初顔合わせ」で、その為の威力偵察でしょ?」
「案ずるより産むが易し、か」
正威は再びズボンのポケットを漁り、プラスチック製コップ(小)と透明なガラス製のボトルを取り出す。コップにボトルの残りを注いでいくと、スターリーイン新濃園寺3F層には例の甘い香りが漂って、そして徐々に影を潜める現象が生じる。
一方で、萌がささっとB5サイズの用紙をエレベータ脇の床に配置すると、下準備は整ったのだろう。正威から液体の入ったコップを受け取ると、ロビーでそうしたように用紙の上にコップを配置しその縁へと触れる。
紙に印字された文様が仄かに薄青く発光し、コップの中の無色透明の液体も濃度のある翡翠色に変化していく。花の蜜のような甘い匂いが強く存在感を増すも、それも一瞬のこと。
一連の変化に差異がないことを確認すると、萌がくいっと顎をしゃくる。
「啓名ちゃんとのご対面と行きますか」
既に、簡素な人払いの仕掛けまで発動させている以上、ここまで来て引き返すという選択肢は有り得ない。周囲を探った結果として罠もないのだ。目標も定め、やるべきことも整理済みだ。これ以上、この場にただただ立ち止まっていることは時間の無駄でしかない。
萌が無言で一つの扉を指さす。それは306号室、紅槻啓名の部屋だ。
スターリーイン新濃園寺は通りに面した縦長の建物で、裏通りに面した側には宿泊客が寝泊りする部屋を設けていない構造を取っている。表通り側だけに一階層12室の客室を用意していて、一部屋一部屋がゆったりとした空間となるよう大き目のスペースを確保している印象だ。
裏通り側のスペースには清涼飲料水やアルコールを売る自動販売機や、コインランドリー・ズボンプレッサーなどが設置されたスペースとスタッフオンリーの部屋などがある。
二人が利用したエレベーターは縦長に伸びる廊下の中央に位置する構造になっており、件の306号室とはエレベーター前の広場から廊下を曲がってすぐの場所に位置していた形だ。
どちらからともなく頷き合うと、まず萌が動きを開始した。萌は306号室の扉の横の壁に寄り掛かるよう位置取りすると、中の様子を探る為に聞き耳を立てる。
「室内に気配あり、話し声あり。……話し声は、啓名ちゃんのものしか聞こえないから、独り言で盛り上がっているか、電話だろうね」
いくら建物内部の作りがしっかりしているからと言って、そこはやはりただのビジネスホテルである。部屋と廊下を仕切る扉には立派な模様が施され、湿度や温度変化に伴う木材膨張が引き起こす軋み音などへの対策が講じられているものの、所詮はそれ止まりなのだ。模様をあしらうような重厚でしっかりとした作りである為、自然とそこそこの遮音性を備えてはいるが「防音」に対して特別措置が講じられているわけではない。
ともあれ、視点を変えて扉をぶち破って侵入を試みるという点に立つと、その重厚な作りはなかなか厄介だ。
「最初は四隅に貼り付ける四枚だけあれば良いかと思っていたけど、衝撃を封じた符を余計に用意してきて良かったよ」
正威は扉の頑丈さを手で触れ確認しながら、予備の重要さを改めて実感した様子だった。もちろん、確認する傍から306号室の木製扉の四隅と蝶番の三カ所・ドアノブ部へと符を貼り付けて行き、突入の為の準備も怠りはしない。結局、計八カ所に符を貼り付けた正威は、そのままドアを間に挟んで萌と反対側の壁に凭れ掛かる体勢を取る。
「予想していたことだけど、術的な仕掛けが施されていることもないみたいだ。通話が終わったら、決行に移ろうか」
頑丈さの確認に置いて、物理的な強度面だけではなく主窪峠に仕掛けられていたような結界の存在についても確認している辺り正威に抜け目はなかった。そんな正威からは「八枚の符で間違いなくドアを吹き飛ばせる」という自信すら垣間見ることができた。
小声で踏み込むタイミングを明示した正威の言葉に、萌からの反論はない。そして、その変わりと言わんばかりに返る言葉は緊張感を欠く無駄話だった。啓名の通話が終わるまでという短い時間ではあるものの、萌は合間に生じた待機時間を黙りこくって過ごすつもりはないらしい。
「でも、あれだね。寝込みを襲わずに済みそうなのは好都合だね。なんだかんだ言って、やっぱり人聞きは悪いかんね」
「だな」
素直に頷く正威の様子を前にして、萌は唐突に意地の悪い笑みを口元に湛えながら相方をからかう。
「まあ、正威に取っては寝込みを襲う形になった方が、眼福だったのかも知れないけど。実際、その方がテンションあがったんじゃない? 尋問の体であられもない格好の啓名ちゃんを視姦できたかもよ?」
「いくら敵対することになる可能性がある相手だと言っても、できることなら評判は必要以上に下げたくはないな。一時の眼福と評判なら、俺は評判を取るよ」
「そういうものなの? せっかく役得に預かれるかも知れなかったのに。割と美人系の綺麗所ぽかったけど正威のお眼鏡には適いませんか。……とはいっても、ホテルの自室に戻ってかなり時間も立ってるし、既にあられもない格好かもしれないけどね」
「その場合は、自身の危機管理の甘さを悔いてもらうしかないな」
「ここまで見事に無警戒なんだしその可能性も高そうだけど、……そこは蓋を開けてのお楽しみだねー」
萌がどこまで本気で306号室内に居る啓名の格好をあられもないものと考えているかは解らないながら、続けざまに蓋然性が高いと示唆されてしまえば、正威としても俄かにそれを意識しないわけにはいかない。尤も、そうして事前に可能性を提示されたことで「身構えることができた」という見方ができただろうか。何を以て「あられもない」と判断するかという話はあるが、それこそ突貫した先に一糸纏わぬターゲットが居たならば一瞬固まって隙を作ったかもしれない。
良くも悪くも萌の言葉で、正威は緊張を解し、且つ啓名との「ご挨拶」に対して身構えることができのだろう。
「おっと、電話が終わったかな。では、お待ちかねのご挨拶といこうか?」
「ああ、準備はできてる」
正威から「いつでも良い」という趣旨の返答を貰って、萌は組立式ハンマーを持ち上げて306号室の木製扉の前に仁王立ちする。そうして、木製扉に張り付けた八枚枚の符に一枚一枚掌を併せて触れていく。最後の符に触れ終えると、萌は正威へと合図を送った。顎をくいっとしゃくって見せる動作がそれだ。
正威は萌の横へと進み出ると、306号室の木製扉中央にもう一枚符を張り付ける。
掛け声も、前兆も何もない。
次の瞬間、木製扉は「ドゴォッ」と鳴る鈍い重低音と共に、306号室内へと向かって中程から九の字に折れ曲がり吹き飛ばされていた。強い衝撃で蝶番は拉げて宙を舞い、しっかりと施錠されていたのだろう木製扉はその取っ手部分から大きく歪んで変形し亀裂が生じた形だ。
立てて加えて、それとほぼ同時に、萌が床を蹴って306号室内への侵入を試みていた。
啓名が部屋のどこに居るか。啓名一人だけかなど、306号室内部の全容は何一つ明らかになっていなかったが、機先を制するべきだと判断したようだ。且つ、仮に啓名以外の誰かが室内に居たとしても、臨機応変に立ち回ってどうにかできるという萌は高を括っていたのだろう。