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Seen05 交渉決裂後の傍観者とネゴシエーター


 星の家の面々が廃神社境内から姿を消すと、一部荒々しく咆哮を上げる連中も居るには居た。尤も、親玉格が再交渉を許容した以上、実際に星の家の後を追い背後から斬り掛かるというのは現実的に発生し得ないようだ。良くも悪くも、北霞咲にある三体の親玉格はかなりの影響力を持っているらしい。少なくとも、彼らの意向を無視してまで先走ろうとするものはいない様子だった。
 波乱を含んだ星の家との交渉が取り敢えず終わったことで、各々不承不承という感じではあるものの今日のところは解散となるようだ。もちろん、裏ではこの後についての会合を開く勢力なども居るのだろうが、表面上は「次の再交渉の場を待つ」というのが全体としてのポーズで間違いない。
「星の家とは、ああいう連中だ」
 星の家の面々が廃神社境内から姿を消し、気配までもが完全に霧散したあたりで、ようやく主窪峠の異形が重い口を開いた。それに合わせて……というわけではないのだろうが、周囲の異形のざわつきも目に見えて増加を始める。
 星の家の傍若無人さを口汚く罵るもの。星の家の「全面衝突も厭わない」という血気盛んな姿勢を面白いと褒め称えるもの。その評価は様々だ。ざらりとその雰囲気を掬い上げてみると、星の家に嫌悪を向けるものは八対二の八の割合ぐらいだろうか。
 あの星の家の交渉を踏まえてのものとしては、まだ好意的に受け止められている方だろう。
 何せ九割九分が敵に回っても「何らおかしくはない立ち居振る舞いだった」というのが正威の率直な寸感だ。
 では、神河の不遜の代名詞は星の家のネゴシエーターが振るって見せた手腕をどう見たか?
 なんと、萌の星の家を表する台詞の第一声は相手を褒める単語から始まる。
「見事だね。あそこまで一枚岩じゃない上に足並みが揃っていないところを見せ付けられると、目の前でどんなに苛つく対応されても力押しで粉砕しちゃおうって気にはなかなかならないもんね。離間工作とか嗾けて、内部分裂を煽っちゃえば何とかなるんじゃないかって思っちゃう。その手が通じるなら、万に一つもこちら側への被害がなくて済むかも知れないなんて甘ったれた考えに至る訳だし……、なかなかどうして厄介な連中だよ。星の家、どんな大義名分を持ってして一つの組織として固まってるものなのかちょっと興味が湧いてきたかも」
 第一声の「見事」の先に続いた感想が、到底星の家を褒めたものではないことはこの際おいておこう。
 正威に取って思わず苦笑いしたポイントは、星の家を厄介と言ったその口で「興味が湧いた」と結ぶところだろう。
 ともあれ、そうしてお開きが確定的になったことで、ポツリポツリと居並ぶ異形も姿を隠し始める。正威達も撤収の頃合いかと思い始めた矢先のこと。星の家と対峙していた三体の親玉格の内の二つがその場から離れる。その瞬間、それを見計らっていたかのように、音もなく異形の大半が廃神社の境内から姿を消した。数にすると、九割方が居なくなった形だ。
 一気に密度が減って廃神社には、らしい雰囲気が漂い始めたと正威は思った。時代に取り残されて朽ちる寂れた雰囲気と言えば良いだろうか。そこに、逢魔が時の、何かに出会しそうな背後に忍び寄る物恐ろしさが加わる感触だ。おどろおどろしさこそ感じさせないものの、安易に足を踏み入れてはならないと思わせる言葉にし難い「脅威」が潜む世界。
 星の家に限った話ではない。やはり、そこは人間から忘れ去られ、人間が歓迎されてはいない場所だった。
 廃神社の境内の密度が大幅に減ったことで「人の気配」が悪目立ちするようになるのも時間の問題だと、正威は思った。いくら気配を隠す毛皮に身を包んでいるとは言え、密度が減ってしまえばこの場にこちらとあちらを行き来する低俗な獣の気配がそこに存在することを訝るものも出てくるだろう。
 萌の横腹を突いて、正威がここから退散しようとした矢先のことだ。
 不意に、背後から主窪峠の異形によって声を向けられる。
「神河正威、神河萌。我らが大将、主窪主(おもくぼぬし)様が直に話をしたいと言っている」
「……主窪主?」
 崩れ落ちた廃神社の境内の方へと向き直る主窪峠の異形に習ってそちらを向くと、そこには親玉格の残りの一つが居た。そいつは星の家との一触即発状態に水を差した件の巨躯の異形である。
 正威や萌が何かしらの反応を返すよりも早く、主窪峠の異形は主窪主の元へと向かって進み出す。それは即ち、この面会に拒否権はないということなのだろう。もちろん、そこまで言ってしまうと「邪推が過ぎる」となるのかも知れないが、少なくとも神河にそれを拒否する理由がなく面会は行われて然るべきという認識が罷り通ったことは間違いない。
 正直な話、北霞咲に置いて高い影響力を伴う神の眷属と突然面通しをするという状況を前に、正威は心の準備が整っていなかった。もちろん、気後れしているだけで、この面通しを回避したいだとかいうわけではない。
 それでも一歩踏み出すことに二の足を踏む正威は、なかなか心の準備を整えられない。
 自然と目線が下がる正威の下顎に、握り拳がアッパーの要領で迫る。もちろん、それは正威の下顎に触れるか触れないかの位置で静止するのだが、下を向く正威の顔を強制的に持ち上げる効果を発揮した。
 強制的に顔を上げざるを得なかった正威の目に飛び込んでくるものは、呆れが色濃く混じる萌の顔だ。
 いつもの悪い癖が出たと言わないばかり、萌は発破を掛けかの如く正威の脇腹にきつめのボデーブローをぶちかます。
「起脈石の件で、あたし達が悪手を打ったなんてことはないんだ。そんな緊張するようなことでもないでしょう? 仮にさっきの交渉を踏まえて「星の家との全面対決を決断した」とか言われる事態になるんだとしたところで、あたし達が取って食われるわけじゃない。最悪、神河への依頼の話がご破算になるだけだよ。なるようにしかならないんだから、胸張っていくよ! あれなら、星の家を引っ掻き回す役目の仕事が貰えるかも知れないよ?」
 腹が据わっているというか、心臓に毛が生えているというか。萌の方は既に心の準備ができている様子だ。
 何かしらの反応や返事を待たずに、ささっと一歩を踏み出す萌に対して、正威は苦笑するしかなかった。
「さすが、神河が誇る不遜の代名詞」
「……何か言った?」
 萌は正威がぼそりと呟いたその内容までをもしっかりと聞き取れたわけではないようだ。足を止めて振り返りはしたものの、怪訝な表情でまじまじと正威の顔を眺め見るだけだ。
 もし、ぼそりと呟いたその内容をしっかり聞かれてしまっていたのなら、いくらそれを「褒め言葉だ」といったところで萌からは制裁の一撃が放たれることは間違いなかったはずだ。二度目の、より強力なボデーブローという形で、正威はその場に突っ伏すことになったかも知れない。
 ともあれ、萌が主窪峠の異形の後を追い進み出れば、正威一人その場で足踏みするわけにもいかない。主窪峠の異形の後を追う萌に先導される形で、正威も朽ちた廃神社の社の下へと歩き始める。
 当然、廃神社の社へと近づくにつれて、正威と萌の様子を気に掛ける存在も増える。いくら毛皮を装備しているからと言って、息を潜めてその場に止まっているわけではないのだ。
 それに伴って、敵意ないし警戒の雰囲気が立ち込めるかとも思ったのだが、主窪峠の異形に伴われて接近するという形を取っている為だろうか。正威達に向く視線には好奇心以上のものはなかった。
 主窪峠の異形によって主窪主の前まで通されると、正威と萌は深々と頭を下げた。
 間近まで接近すると、主窪主が主窪峠の異形よりもあらゆる面でサイズが異なることを正威は実感させられる。萌に至っては、主窪主の三分の一程度の大きさしかない程だ。
 主窪峠の異形同様、頭部を薄汚れた布きれで覆っているため表情や視線というものを直に確認することはできないながら、拒絶の意思や敵意は感じられない。少なくとも、歓迎されていないということはないだろう。
 我らが大将という言葉をそのまま受け取るのならば、この主窪主こそが主窪峠の異形を通して神河に起脈石の件を依頼した雇い主ということになるのだろう。そうであるならば、主窪主の意向によっては今後の対応が大きく変わり得ることもありえる話だ。今回の折衝を終え、星の家に対して「どのような対処をするのか?」についてここで言及するのは間違いなく、神河としても適度な緊張感を強いられる面通しだった。
 主窪峠の異形のものよりも、酷く嗄れた低く重い声で主窪主は話し始める。
「見ての通りだ、傍若無人な星の家の振る舞いにほとほと困り果てている。かと言って、こんな時代になって神の眷属が人を祟り殺めるというのも生中なことではない。交渉の場に顔を見せる星の家の連中ならばまだしも、奴らの実働部隊に至ってはそれこそ一般人に毛が生えた程度のちっぽけな存在でしかない。自分達が何をやっているのかさえ、理解できていないかも知れないと疑ってやまない」
 それは人間が声帯を通して発する音と言うよりも、もっと風音とか水音とかに近い音の集合体であり、聞き漏らさないよう意識しないと意味を持たない環境音として耳を抜けてしまい兼ねないとさえ思えた。主窪主とは、恐らくは正威がそう感じたままの存在なのだろう。即ち「主窪」の名前で表され定義される土地の風や水を司る存在だ。
 それらが星の家を「祟り殺める」とはどういう事態を招くだろうか?
 恐らく、その影響は「星の家」に止まらない可能性が高い。そもそも、この手の、ある一定ランク以上の力や影響力を有する神の眷属とやらは、対象を限定した「祟り」や「呪い」といったものに大概不得手だ。もっと大味で大まかな、大規模に渡って蔓延する風土病とか、大飢饉とかいう類のものならばともかくだ。
 まして、主窪主の言う通りであるのならば、星の家の実働部隊は一般人に毛が生えた程度の連中だ。交渉の場に出てきたバックスや多成といった悪目立ちする連中が相手ならばまだしも、主窪主ですら一般人に毛が生えた程度の連中の見分けは付けられないかも知れない。
 主窪主は、自身の言葉で改めて神河に依頼をする。
「久和には、奴ら星の家の対処を頼みたい」
 それは主窪峠の異形が神河に対し「主窪峠の起脈石」の撤去に関して接触してきたことを踏まえて、一段踏み込んだ内容だ。星の家を敵視する姿勢を改めて明示した内容でもある。仮にそれを受けるのならば、神河として、いやさらに一歩踏み込んだ「久和」という勢力としての、星の家に対する霞咲での姿勢も自ずと決まる。尤も、久和と星の家との関係という観点でいうのならば、それが霞咲に止まる話で済まないことは言うまでもない。
「恐らく、星の家は強引に起脈敷設を押し進めようとするのだろう。先程の交渉の場で明示した通り、我らは起脈の敷設を許容しない。従って、久和には起脈敷設の阻止、及び霞咲に置ける星の家の活動を抑制して貰いたい」
 仰々しく、しかしはっきりと言い放つ主窪主の態度を見る限り、改めて星の家が交渉する余地などないように見えた。
 ならば、後は神河がどういうスタンスを取るかという問題だけだった。
 尤も、正威は既に腹は決まっていると言わないばかりだった。そこに続ける言葉如何によって、神河、引いては久和と星の家との関係が決定されるというのに、一つの迷いも淀みもない。
「それはこちらとしても、ぜひとも「依頼されたい」仕事です。喜んで、承らせて頂きます」
 正式に依頼を受けることに対して正威が見せる表情は、キリッと整えられた真顔で「お任せください」と言わんばかり。しかしながら、内面から沸き上がる嬉しさを押し止めきれずに滲み出ている感もあって、ややどこか締まりがない印象を相手に与えるの事実だった。それも踏まえて、正威の人柄が表現されていたと言えば聞こえは良いだろうか。
 ともあれ、そんな正威の表情が主窪主に悪い印象を与えなかったのは幸いだったろう。
 正威の快諾を受け、主窪峠の異形などから異論などが漏れ出てこないことで、依頼は確定的となる。そうすると、神河としては依頼を受けるに当たって確認しておかなければならないことが出てくる。
 正威は一度「ゴホン」と咳払いをすると、その確認事項について言及を始める。
「ただ、その仕事を受けるにあたり、こちらからもいくつか要求というか、お願いしたいことがあります」
 正威の言葉に、主窪主はすぐさま反応する。
「対価か? 報酬は満足行くものを用意するつもりだ。望みのものを言うが良い」
 真っ先に報酬というところに話が及んで、正威は言葉に詰まった。確かに「報酬」というところも詰めなければならない項目の一つで間違いはないのだが、正威の思考はまだ「星の家」を排撃した後のことにまで及んでいなかったのだ。実際、これから星の家という組織を相手に回すことで必要となるだろう事項を、まだ頭の中で一つ一つ指折り列挙しているような段階だった。
「いえ、まぁ、報酬っていうところも確かに詰めるべき案件だとは思いますが……」
 正威が詰めるべき内容について言及するよりも早く、萌が口を切って訂正を求める。
「それよりも、まず最初に訂正しておかなきゃならないことがある。それは、あたし達が「久和」じゃないってことだ。久和一門ではあるけれど、あくまで神河ですから。そこは間違えて欲しくはないし、認識を違えて欲しくない」
 唐突に、萌が口を切って話し始めたことに正威はかなり驚かされた様子だった。目を真ん丸に見開いて、萌をまじまじと注視したぐらいだ。尤も、何を口走り始めたのかを理解した辺りからは「ああ、またか」という具合に呆れの色が混じり始めた格好だ。
「くく」
 萌の横に控えて主窪主との面通しを眺めていた主窪峠の異形が愉快で堪らないという風に笑い、さらにその横で正威が右手で目元を抑えて溜息を吐いた。正威としては久和一門が霞咲で足場を固める仕事の一つが、久和の名前で認識されようが神河の名前で認識されようがそう大きな差異はないと捉えているようだった。
 もちろん、霞咲で神河の名前が浸透し、久和一門に何かをお願いする際には自然と「神河」の名前が出るような状況が望ましいは望ましい。しかしながら、まだまだこれから実績を積み上げていかねばならないという最中にあって、自己主張をする段階にはないというのが正威の認識らしい。
 そこをわざわざ訂正していくのだから、神河という名前や立場に対する萌の拘りは正威よりもずっと強いようだ。
 主窪峠の異形がそうしたように、主窪主も愉快だという具合の雰囲気を醸しだし萌に対する。
「神河、神河か。これは失礼した。確かに正しく名乗った名前を違えるなど失礼にも程がある」
 主窪主が今回の件に対処するものの名前を「神河だ」と認識を改めたためか、萌は「言うべきことは言った」と言わんばかりの達成感に溢れる顔付きをして一歩下がる。
 正威としては話の腰を折られてしまったかのうよな思いだったのだが、そうして萌がワンテンポを合間に挟んでくれたことは潤滑剤として上手く働いたのだろう。話が報酬どうこうまで一気に進み兼ねたところを仕切り直し、且つこれから星の家を相手にしていくに辺りある程度思考をまとめる時間を稼げた形だ。
「話が逸れてしまいましたが、星の家に対処するため霞咲の土地を一時的に汚すような手段を用いることをお許しください。もちろん、長期間に渡って影響が及ぶようなものを使用するつもりはありませんが……」
「構わんよ」
 正威の話が言下の内に、主窪主からはあっさりと「許容」の意志が返った。
「起脈の敷設に比べれば、可愛いものだ。いくらか時間が必要になるとはいえ、その土地が持つ自己修復力によって容易に復元される範囲の話だろう? それとも、霞咲の土地で大々的に禁呪を構築しようという腹かな?」
 主窪主から「但し」という前置きが付いて、復元までの期間の程度すら尋ねられないというのは正威に取ってかなり以外だった。思わず驚きの表情が顔に出てしまったぐらいだ。尤も、主窪主のその見解は非常に神河に取って都合が良い。
「まさか、そんな大逸れたことを考えてはいません。禁呪なんて、そんな危ない橋を渡るつもりなんてありません」
 禁呪という下りは正威の頭の片隅にもなかったことであるし、そもそも禁じ手であるためそこは明確に否定をするスタンスである必要があった。しかしながら、禁呪にまで言及して見せた主窪主の言葉は、北霞咲で神河が取り得る手のほぼ全てを許容したに等しかった。そこまで許容してでも、星の家の起脈敷設を許容するつもりはないという強い意志の表れなのだろうが、正威は身震いする思いだった。
「星の家の対処に当たりいくらか強い効果の術を用いる程度ならば、一々我らの許可は不要だ。久和に、神河に、星の家の一件を任せる。我々の選択を良しとしないものは多分にいるだろうが、邪魔立てなどはさせん。当然、一時的に土地を汚すことにさえ眉を顰めるものもあるだろう。だが、邪魔立てなどはさせん。神河の思うままに、星の家に対処せよ」
 禁呪の下りから続く非常に強い言葉で主窪主から依頼を賜り、正威の表情には険しさすら滲む。なぜならば、星の家の出方如何によっては、ここ北霞咲で星の家を再起不能に陥る程度には叩き潰さざるを得なくなるからだ。北霞咲にある八百万の神々の眷属サイドがこの姿勢であるならば、遺恨なくなんて甘いことは言っていられない。
 主窪主から告げられた要求を前に、正威は深々と頭を下げる。
「解りました。では、必要となった際には遠慮なくやらせて頂きます。意向に添うべく全力を尽くさせて頂きます」
「くく。久和ではなく、神河だとわざわざ名を訂正して見せるお前達の能力、しかと堪能させて貰うとしよう」
 主窪主がさも「愉快だ」と言わんばかりの雰囲気を漂わせ、面会は恙無く終了した。いや、そうして主窪主に神河の立ち居振る舞いを「愉快だ」と思わせた当たりを、恙無くと済ませてしまって良いかどうかは意見が分かれるところだろうか。それでも、主窪主の気分を害することがなかったという点では、最初の面会として成功だと言えるだろう。
 神河との対面が終わっても主窪主が廃神社の社の前から立ち去ることはなかった。寧ろ、神河の後にも面会者(人間ではない)が居るようで、入れ違う形で主窪主の前へと進み出る異形がいる。
 後が仕えている節があり、正威と萌はささっと主窪主の前から離れる。そんな二人を先導するように主窪峠の異形が大きく腕を振り上げて退出するための道順を示して見せる。
 示された道程を辿り廃神社境内の出口へと向かう最中、不意に萌が正威の耳元で呟く。
「いいね。あそこまで期待して貰えると、気張っちゃうよね」
 萌の言葉に「お前の所為で、無理にでも気張らざるを得なくなったんだよ」と正威としては言いたかっただろうか。もちろん、あそこまで言って貰って武者震いをする思いが正威にないかといえば、それも嘘になる。
 ともあれ、萌の目つきには不意に鋭さが伴って、主窪主の意向を受けてこれからどう動くかへと話は切り替わる。
「さて、星の家を相手に回すという揺るぎない意思を確認できたわけだし、傍若無人な行いを再開される前にちゃちゃっと初顔合わせぐらいは済ませておこうか?」
 主窪主との顔合わせ前に正威の脳裏を過ぎった不安は解消され、星の家の対処が神河に一任された以上、躊躇う理由は何もない。迅速に動くに越したことはなく、正威にその提案を否定する理由はなかった。。
「そうだね。星の家のネゴシエーターを見失わないよう動くとしようか」
 既に廃神社の境内を離れた星の家の動向を探るべく、先を急ごうとした矢先のことだ。それを制止するように、主窪峠の異形が正威の肩へと手を伸ばす。
「それは今日、今からでもという腹か?」
「……可能ならば、そのつもりです」
 正威の受け答えを聞き、主窪峠の異形はそこで一端何かを確認するかのように主窪主の方へと向き直った。既に言葉を交わせる距離ではなかったが、何かしら意思疎通をする手段があるのかも知れない。
 ともあれ、主窪峠の異形の挙動を受けて正威も主窪主の方を確認したのだが、主窪主が特段何か反応をしたようには見えなかった。
 主窪主が何も反応を返さなかったことの意味を推し量ることはできない。しかしながら、それを受けて主窪峠の異形が一度区切った言葉を続けたのは間違いない。
「……ならば、見失わぬよう神河が動くまでもない。北霞咲での星の家の潜伏先を提供しよう。前回・前々回の交渉の後、星の家が北霞咲に留まった時と同じ場所に同じように留まるのなら、それは新濃園寺にある「スターリーイン新濃園寺」というホテルになる。そもそも、我らの側でもここを去った星の家を追跡させているところだ。恐らくだが、星の家が霞咲での潜伏先を変えることはないと考える」
「星の家は、北霞咲での活動拠点をほぼそのホテルに定めているということ?」
 萌の疑問に、主窪峠の異形が頷く。
「櫨馬方面から直接来て、真っ直ぐ櫨馬方面に戻る場合ももちろんある。だが、我らが知る限り、多成の息が掛かった連中が北霞咲に宿を取る際はほぼ確実にスターリーイン新濃園寺を利用している。星の家がスターリーイン新濃園寺に入ったら、連絡を入れよう。もちろん、別所に宿を取るのならば、別所の情報を。真っ直ぐに櫨馬へと戻ったのなら、その旨連絡を入れる」
「宜しくお願いします」
 八百万の神々の眷属達が星の家を追跡するというのならば、正威達が先を急ぐ理由はない。寧ろ、星の家が北霞咲にいる限り、その居場所は常に把握されると考えて良い。
 ともあれ、先を急ぐ理由がなくなったからといって、正威達が廃神社境内に止まる理由はない。寧ろ、快く思わないものに目を付けられることがないよう、早めにその場から退散することが望ましいだろう。それを証明するかのように、主窪峠の異形も、御沼間主神社の鳥居前までは見送りをするつもりのようだ。
 再び踵を返して廃神社境内を後にするべく歩き出した矢先のこと。正威はふとあることに気が付いたようだった。
 正威は廃神社境内の出口へと向かって歩きながら、萌が被る毛皮へと手を伸ばす。
 当初は自身の頭部に手を伸ばす正威の様子を訝った萌だったが、毛皮が借用物だということを思い出してしまえば話は早かった。萌は「持って行け」と言わんばかり、頭部を正威へと押し付けるように体勢を取る。
 正威は萌の毛皮と、自身が被っていた毛皮を手に取ると、それを主窪峠の異形へと差し出す。
「後、これ、ありがとうございました。助かりました」
 謝意とともに返却のため差し出した毛皮だったのだが、主窪峠の異形はそれを一向に手に取ろうとはしなかった。差し出された毛皮を前にして、何の反応をも返さない沈黙を合間に挟んだ後、主窪峠の異形は毛皮を神河に譲るという。
「色々考えた結果なのだが、それはそのままお前達に預けておこうと思う。なに、どうせまた、こういう機会に際して場に紛れる為には必要となるものだ。こう言っては何だが、もともとお前達の為に誂えたようなものなのだ、そのまま懐に収めておけ」
 神河のために誂えたものとまで言われてしまっては、その申し出を無碍に断るわけにも行かない。正直、神河に取っては毛皮を被るという方法以外でも、人間の気配や匂いを隠すことは可能なのだ。まして、毛皮は異臭を放つ代物だ。
 正威がそれを素直に受け取り懐にしまってしまえないのも、無理からぬことだろう。
 何とも微妙な引き攣った笑みをしながら、正威はそれでも絞り出すように感謝の言葉を口にする。
「……ありがとうございます」
「それを被って茂みに身を隠せば、程度の低い取るに足らない獣の妖しだと大抵の相手に錯覚させることができる。身を隠してやり過ごしたいなどという事態がどれだけあるかは解らないが、上手く活用すれば役に立つだろう」
「一応、確認しておきたいんですけど、……これ、洗濯とかしたらもちろん駄目ですよね?」
「保管方法と、手入れの仕方か? 基本的には、湿度の低く乾燥した場所で、日の光を当てずに保管するようにした方が良いな。手入れについては、特に何かをする必要はない。それでも、毛皮が放つ匂いが薄れたと感じる時期が来るはずだ。残念ながら、効果が永久的に持続するものではないのでな。その時は、メンテナンス先を紹介してやる」
 からからと笑うような雰囲気を混ぜる主窪峠の態度に押され気味になってしまえば、正威はもう何も言えない。
 主窪主との面通しを踏まえて星の家の対処を一任されたことは、主窪峠の異形からも相応の信頼を預けて貰えることに繋がっているようだ。そして、良くも悪くも、相応には気に入られているのだろう。特に、主窪峠の異形も、主窪主も血気盛んな萌の言動を殊更「愉快だ」と思っていた節がある。
 正威はただただ再度感謝の言葉を述べながら、毛皮を懐にしまうしかなかった。
「そうですか。後々のことまで気遣いしていただいて、ありがとうございます」


 北霞咲にある八百万の神々との折衝が終わり、星の家の面々はやや重い足取りで廃神社境内を後にしていた。
 長く続く石段を足早に下る啓名を先頭に、その後をバックスが、そして最後尾をゆっくりとした足取りで多成が追う形だ。
 三人の背中には不届き者を打ち取らんとする得体の知れない気配が無数に存在している。啓名が足早にこの場を後にするべきだと判断する理由だ。
 きっと、何も知らない普通の人間が星の家の三人に紛れてその場にいたとしても、生きた心地がしないめいた感想を述べたことだろう。それぐらいヒシヒシと背後を襲う圧迫感は酷い。尤も、背後を振り返ったところで、そこに目に煮える形で何かが存在していることはないのだ。
 交渉打ち切りと、次回の再交渉を親玉格が了解したからには「ここから生きて帰さん」という行動に打って出ることはない筈なのだ。それこそ「血の多い連中が暴走して……」という事態はまだ起こり得る事態の一つだといえたが、廃神社境内と目と鼻の先であるこの地点でそんな偶発的な襲撃を許すほど親玉格は甘くない筈だ。
 警戒するに越したことはない。しかし、蓋然性は限りなく低いと見て間違いない。
 だからこその、足取りの異なりだとも言える。
 多成の歩みの速度は「それを解っているからこそ」だろうが、同様にそれを解っていながらでも啓名は一刻も早くこの場を離れたいと受け取れる。それは背後に得体のしれない気配を感じる恐怖から解放されたいとかいうのではなくて、バックス・多成と席を共にした交渉を踏まえ、一つ二つと突っ込んだ話をしたかったからだろう。
 ややもすると、この場所では廃神社境内にまだ顔を揃えているだろう八百万の神様に声が聞こえてしまい兼ねない。
 先を急ぐ啓名の横顔にそんな背景が透けて見えてしまえば、何を議論したいと思っているかについても容易に推測できてしまう。
 そんな啓名の心中を知ってか知らずか、唐突にバックスが口を切る。
「多成さん、駄目ですって。仮にも総責任者って立ち位置のあなたが全面衝突も辞さないなんて態度を一寸でも見せちゃあ。血の気の多い下っ端が勝手に暴走して小競り合いをしてしまいましたじゃあ済まなくなる」
 言葉付きはともかくバックスからきつめの態度でそう苦言を呈され、多成は明らかに機嫌を損ねた顔つきをする。
 先行していた啓名が足を止め、背後を振り返ってバックスを見る。驚きを隠さない啓名の表情は「ここでその話をする?」とでも目顔でバックスに詰め寄る感じだ。尤も、バックスに「さっさと先を進め」と言わないばかりに掌をひらひらと返されてしまえば、口にして啓名が制止を求めることはなかった。
 啓名が会話を許容したことで、多成もバックスに反論を向ける。
「そうは言うがな、全面衝突も辞さないという構えをただのポーズで済ますつもりはないぞ? 全面衝突で手っ取り早く決着をつけてしまえるのならば、全面衝突でも構わないではないか。奴らから柔和な態度を引っ張り出せないならば、早い段階で見限ってそうすることも十分あり得る話だ。既に起脈石を破壊されるという実力行使に出られている以上、懐柔策では足元を見られるだけだろう? 妥協点を引き出せないと解っていて交渉に臨むなど、それこそ時間の無駄ではないか」
 多成の見解を聞き、啓名はすぐさまその反論の意図を問い質す。
 尤も、その足を止めることなく、且つ振り返る事もせずだ。
「例え無駄かも知れなくとも、その前段階をしっかりと踏まえた上で全面衝突するのと、最初から喧嘩腰のまま全面衝突に突入するのでは訳が違います。北霞咲に起脈を敷設して「終わり」じゃないです、ここで生まれた星の家の悪評が後々に続くことにだって繋がりかねない。多成さんだって重々理解しているとは思いますけれど、星の家の目的は起脈敷設だけじゃないんです。それを理解した上での発言がそれですか?」
 多成から反論を向けられたはずの当のバックスは、啓名の怒りゲージが溜りに溜まっていることを察して口を閉ざすという判断をしたようだ。啓名が何も反応を返さなかったならば何かしらの言葉で多成にさらなる苦言を呈したのだろうが、啓名が割って入るのなら啓名に任せるというスタンスらしい。
 多成の位置からは啓名の横顔さえも窺うことはできない。だから、啓名がどんな表情でその怒気を孕んだ言葉を発していたかを実際にその目で捉えてはいなかったが、多成がその迫力に若干怯んだことは紛れもない事実だった。
 啓名に対し面と向かって反論、ないし意見を述べることを躊躇ったのだろう。多成は突きつけられたその矛先を、ここに来て黙りこくるというスタンスに移行したバックスへと差し向ける。
「だ、そうだ。啓名の見解を聞いてどう思う、バックス? 櫨馬で散々暴れまわったお前の悪名は取り消しなど利かないんじゃないのか?」
「汚れ役が汚いことやっている分には良いんですよ。「ああ、こいつは噂に違わぬ阿呆なんだ」と思われるだけだ。ただ、組織としてその傾向でことにあたるつもりでないなら、総責任者はそれを窘める態度で臨まないと。そうだろう、多成さん?」
 しかしながら、バックスはバックスで、再び突き付けられた矛先にもさらりと軽口を言って退けるから質が悪い。仮に、同じように啓名から矛先を突きつけられても、バックスはそう切り返したのだろう。もちろん、櫨馬では前段階をしっかり踏まえた上で暴れまわったという自負があったからかも知れない。とはいえ、それを知り得る手立てもなく、そこに啓名や多成が言及するつねりがない以上、今それを言っても詮無い話ではある。
「……」
 不機嫌故の仏頂面ここに極まれりという眉間に皺を寄せる酷い顔で、多成は黙り込んだ。啓名とバックスから叱責に近い口調と態度で苦言を呈され「拗ねた」という見方もできるが30後半の良い歳の男がして可愛げのある態度では到底ない。
 多成が黙ると、場にはただただ石段を下る靴の音だけが響いた。
 暫しカツンカツンと石段を叩く靴の音だけが鳴る気まずく重苦しい雰囲気がその場に漂ったのだが、啓名にそれで良しとする気はないようだった。改めて唐突に口を開く形で、多成に追い打ちをかけ始める。
「多成さんがここで「もう柔和な態度を引き出せない」と判断するのだとしても、交渉は続ける必要があります。それとも各地で衰えた八百万の神々に起脈参加を働き掛けている「他のプロジェクト」に迷惑をかけることになるのだとしても、今この段階で全面衝突を選択しますか? ここでの悪評が、こことは無関係な地域の八百万の神々の態度を硬化させることになるのだとしても、それをやりますか?」
 顔を見せない啓名に言葉で詰め寄られ、多成は不承不承という体で頷く。
「解った。その必要な前段階とやらを踏む為だけに、交渉という名の茶番劇を演じるとしようか」
 あちらこちら棘の埋まった不満たらたらの台詞ではあったものの、啓名の方針を許容したプロマスの言葉がそれだった。尤も、ここで啓名の意見を飲まなければ、多成はほかの場所で糾弾されることになっただろう。
 啓名が主体的に「糾弾」という行動を起こしたかどうかはともかくとして、バックスは何食わぬ顔をして「こんな問題行動があったんですよ」と他のプロマスに平然と雑談めいた口調で話したことだろう。その流れが多成の糾弾に繋がれば(いや、繋がるように仕向けるのだが)、啓名も意見を求められて黙ってはいないはずだ。
 バックスが表立って誰かを糾弾する動きをしたという話を耳にしたことがあるものは、星の家の中にも居ないと思われる。しかしながら、遊撃部隊という立ち位置を取り、様々なプロジェクトにスポット参戦するバックスやそれに連なるものはその役割も担っている節がある。
 ともあれ、不承不承ではありながら多成が懐柔策の継続を受け入れたことで啓名は一息付けたようだ。
 安堵の息を合間に挟み、啓名は自身がまとった怒気をやや和らげる。
「では、それを踏まえた建設的な話をしましょう」
 今後の方針が懐柔策での動きとなることが決まったところで、ちょうど往々と茂る濃緑が開け長々と下った石段の終わりが見える頃合いとなった。
 尤も、石段の終わりに差し掛かったからといったところで、先頭を進む啓名が足を止めることはない。後ろの二人の様子を確認することもなく、寧ろより歩く速度を増した気さえした。
 ちなみに、石段から先の道はある程度草木が踏み固められた砂利道と、背の高さが膝下まである雑草の生い茂った獣道とに分かれる形となっている。補足すると、ある程度草木が踏み固められた砂利道へと分岐を進むと、神河と主窪峠の異形が登ってきた参道入口へと出ることになる。さらに言うなら、神河と主窪峠の異形が登ってきた参道を特に周囲へと注意を払わずに登ってきたのなら、その獣道に気付くことはないだろう。即ち、星の家の面々は廃神社の境内へ、この獣道を上ってやってきたのだ。
 当然、先頭を進む啓名は迷わずその分岐を獣道へと突き進む。
「まず言わせて貰いますけど、バックスも多成さんも、前面衝突に繋がり兼ねない言動は控えてください」
 啓名から苦言を呈されるも、多成は苦笑しながら今まで何度となくそうしてきたことを盾に取って開き直る。
「なに、前面衝突が決定的になった瞬間、啓名が退路を確保するだけだろう? 櫨馬で何度かそういう事態に陥ったように、同じ対処をするだけだろう?」
 啓名は見るからに苛々の度合いを増した様子だったが、当の多成には起脈に参加することを良しとしなかった神の眷属を櫨馬で討伐してきたという思いがあるようだ。前面衝突こそが成功体験として刻まれていて、程度の差こそあれ霞咲でも同様にことが運ぶと考えている節さえある。
 櫨馬で討伐の先頭に立ちその悪名を轟かせた「バックス」がこの場に同席していたことも、北霞咲の八百万の神々に対しても「同様の手段で問題ないだろう」という認識を強めた要因だったはずだ。そう、例え一戦交えることになっていたとしても、相手を牽制しつつ廃神社の境内から離脱することは「難しいことではない」という認識があったわけだ。
 もちろん、そんな多成の認識に、啓名は苛々と呆れの色を強くするだけだ。当然、多成の認識を正すべく、啓名からは強い非難が続く。
「もちろん、そういう事態になった場合には、あたしの全身全霊を持ってでも退路は確保します。それは当然ですけれど、櫨馬のようにすぐさま星の家の遊撃部隊や討伐部隊を引っ張り出してこれる場所じゃないんです。霞咲では起脈を利用することもできないんです。櫨馬と同じようにことが運ぶなんて思わないでください!」
 しかしながら、非難の言葉の節々からでも「交渉の場から離脱すること」に関して、啓名に絶対の自信が見え隠れするのも事実だった。事実、似たような多勢に無勢の状況下からでも、櫨馬では難無く何度なく離脱して来たのかも知れない。
 ともあれ、櫨馬と同等の手段で霞咲を攻めることに関しては、バックスも啓名同様異を唱える。
「アルフが再三注意するよう言ってた、赤い瞳のブロンドセミロングの女の件もあるわけだしな」
 もちろん、啓名の立場からすれば、それを理解した上で「交渉の場にあの態度で挑んだのか?」といった類いのバックスに対する不満が込み上げる思いだったのは言うまでもない。
 尤も、バックスに取ってしてみれば、アルフの忠告さえも楽しみの一つに過ぎなかった。言ってはあれだが、アルフの忠告を話半分に受け取ったという側面もあったのは否めない。
 実際のところ、アルフが起脈石を破壊されるという事態に陥った後、この交渉の場に望んだ星の家のネゴシエーターたる三人はアルフと直接顔を合わせていない。アルフの忠告はあくまで通話越しで簡素に為されたものに過ぎず、アルフがまとっていた必死さとか深刻さとか言った類いのものは、大きく刮ぎ落とされて伝達された形に等しい。
 バックスの感覚で言えば、アルフがまんまと起脈石を破壊されたことに対し「殊更、大袈裟」に伝えたという認識だ。
「俺を相手に回しても遅れを取らないレベルの厄介な奴だとか言っていたから、どんな奴なのか楽しみにしていたんだけどな。啓名だって気になるだろう? アルフの話が本当なら、記号を用いず記号以上の力を振るったらしいぞ?」
 アルフを撃退したブロント髪の女の話を振られ、啓名は神妙な顔つきで答える。
「背後に八百万の神様の眷属達が付いているのなら、何も不思議なことじゃない。記号を介さずとも直接力を引き出せるよう契約しているだけだと思う。まして、八百万の神様の眷属達に請われて星の家の邪魔をしているのなら、八百万の神様の眷属達に協力を取り付けるのに苦労なんかしないはずだし」
 啓名の見解は「記号を用いず記号以上の力を振るった」ことに対しても、その背景を鑑みるに何ら不思議に思うところは何もないというものだ。星の家が起脈を通して不特定多数の人間で達成しようとしていることを、ブロンド髪の女は一対一、もしくは一対複数として構築しただけのこと。
 それでも、それが「言うは容易く行うは難し」であることを啓名は身を以て知ってもいる。だからこそ「不思議ではない」ものの、ブロンド髪の女が何者なのかが気にならないかといえば、そんなことはなかった。
 それを知ってか知らずか、多成が一つの可能性について言及する。
「実はこっそり紛れていたが、こちらが気付かないようにしていたってことはないのか?」
 しかしながら、多成が言及した一つの可能性を、啓名は首を横に振り「否定的」のスタンスを取る。
「あの境内に何かを隠す術式を用いていた痕跡はありません。こちらが気付かないほど高度なものを用意していた可能性もあるにはありますけど……」
 あくまで「ない」とはっきり断言はしなかったものの、曖昧に言葉を濁す啓名の様子を見る限りその線は「ない」らしい。そして、術式を用いて隠すという面を否定するに辺り、啓名は推測を交えてこう続ける。
「そもそも、既に起脈石を破壊するに当たってこちらに姿を晒している以上、隠してまであの場に居合わせさせる理由はないと思います。寧ろ、あの場に帯同させないことで、こちらを刺激しないよう努めたんじゃないですか?」
「それもそうか。既に実力行使へと打って出ている顔の割れた面子を、わざわざ折衝の場に帯同させるわけはないわな。前面衝突を望んでいるのならばまだしも、建前上あの場は折り合いを付ける場……か」
 啓名の推測を聞き、多成はあっさりと頷き納得した。
 あの場にわざわざブロンド髪の女を潜ませるリスクを犯して、得たい何かが八百万の神々サイドにあるか?
 もし、星の家にブロンド髪の女の存在を察知されたら「付けいる隙」を与えることに繋がり兼ねない。常識的に考えるのならば、関与を滲ませながら裏手で暗躍させておいて、引っ掻き回すのが上分別だろう。直接的な繋がりをぼかすことで、星の家に「起脈石の設置を許容しない」という確固たるスタンスを明示しつつ、実力行使に打って出るのも厭わないという圧力を掛けながら、そんな奴は知らないと八百万の神々サイドは白を切ることもできるのだ。
 ともあれ、多成や啓名に取って、ブロンド髪の女は八百万の神々サイドの一人という認識だった。確固たる証拠はないながら、アルフの運搬していた起脈石を破壊する等の状況証拠から背景を推し量る限り、そう考えるのが一番しっくりくるのも否定はできない。
 櫨馬と同様の手段で霞咲に対処すべきではないという啓名の見解同様、ブロンド髪の女に対する見解についてもバックスは啓名と同様の意見だった。
「少なくとも、あの場に人間の気配は一つもなかった。人間に似通った気配もあるにはあったが、神様でも妖怪でも異形でも、それに類する気配を持つ存在なんて腐るほど居る。アルフ曰く、赤い瞳のブロンドセミロングの女は似通ったものじゃなく、人間そのものの「気配」をまとっているらしいから今回は「居なかった」で間違いないだろうな」
 やがて啓名が進む獣道も、人が雑草を掻き分けながら進まざるをえないものから、自動車がどうにか到底通行することのできる荒れ果てた悪路へと姿形を変える。道幅が広くなり始めると、小型自動車二台がどうにか行き違うことが可能な砂利道へと出るまでにそう時間は掛からなかった。
 尤も、道幅があるとはいえ、きちんと手入れの為された道には程遠い。砂利道の凸凹は、とてもではないが自動車が速度を出せるようなレベルではなく、低速域でガタゴトと激しい縦揺れを味わいながらどうにか進行することができる道だ。林業関係者が通行するため最低限の整備が為されているだけで、通行時の事故発生などに対して自己責任を強いられる類の道である。
 小型自動車二台がどうにか行き違うことのできる砂利道まで出てきてしまえば、後は市街地方面へとひたすら歩き続けるだけだ。降りてきたポイントが異なるだけで、その砂利道は神河が市街地方向から御沼間主神社へと向かってひたすら歩いてきた例の一本道である。
 しかしながら、啓名が足を向けたのは市街地方面へと続く方角ではなかった。そして、誤った方向へと進み出たと思しき啓名を呼び止める声がないところを見る限り、進む方角自体は間違っていないらしい。
 先頭を歩く啓名が市街地方向とは逆を進むこと五分強。
 砂利道の脇に、雑草がところどころ生い茂ってはいるものの開けた場所が見えるようになる。御沼間主神社が廃神社となる前に、駐車場として機能していた場所のようだった。塗装が剥がれあちこち錆まみれの看板が生い茂る雑草の中から顔を覗かせていて、そこにどうにか解読できるレベルで「駐」と「場」の文字を認識することができるのだ。
 開けたその場所には、一台の大型SUVが停車していた。
 それをパッと見で「個人タクシー」だと認識する人は少ないだろう。黄色の下地に黒字で「個人タクシー」と書かれた社名灯がルーフに乗っていても、きっと多くの人が二度見するに違いない。
 それは個人タクシーという看板を掲げてはいるものの、所謂高級セダンの類ではなく悪路走破性などを重視した作りのモデルだ。もちろん「SUVだから個人タクシーだとは思わない」なんて単純な話ではない。そのSUV車は艶消し塗装が為された黒色のボディーに、ほぼ前面に渡って大小様々の引っ掻き傷を付けているのだ。
 大型SUVという括りで見れば特段ビッグサイズとは言えないものの、廃神社まで続く砂利道の幅でいうと車幅は目一杯でそれ故に生じた引っ掻き傷という見方もできたが、傷の大半はここ最近でできたもののようには見えなかった。
 大型SUVの運転席側のドアに寄り掛かるようにして、運転手と思しき男がスマホを片手に缶コーヒーを飲んでいた。上はブルーのワイシャツに紺地のジャケット、下は紺地のパンツといった所謂ドライバーユニフォームに身を包んでいるものの、体格は大凡職業ドライバーというには不相応に思えるほど筋肉質でがたいが良い。
 運転手と思しき男は人の気配をいち早く察し、緊張した面持ちでスマホから顔を上げた。尤も、姿を現したもののが自身がここまで送り届けてきた客だと解ると、その物腰は一気に柔らかくなった。
「随分と早かったな? 今までで一番短い交渉だったんじゃないのか?」
「待たせたな、明泰(あきやす)」
 多成が明泰と呼んだ相手の胸元には「立木(たてぎ)」と書かれたネームプレートがある。しかしながら、ネームプレートには下の名前まで記載されていない。まして、そうやって下の名前を知り得ていて「明泰」と呼び捨てにするからにはそれなりに親しい付き合いのある相手なのだろう。
 ともあれ、立木の「一番短い交渉」という認識に、バックスは首を捻って疑問を呈す。
「あの交渉、短い部類だったのか? 交渉の場に居合わせるなんてことはそうそう滅多にないんで何とも言えないが、その滅多にない俺の経験の中では割と長々話し合いをしていた方だと思ったんだけどな」
 バックスの感想を聞き、啓名は絶句したと言わないばかりの声を出す。
「バックス、あんた……」
 尤も、そうやって咄嗟にバックスの名前を呼んだは良いものの、そこにどんな言葉を続けるべきかを実際に声を出した後になって啓名は迷ったのだろう。その言葉は尻切れ蜻蛉にトーンを下げ、そこに続けるべき言葉を紡ぎ出せないまま終わる。とはいえ、そのまま思いの丈を口にしたところで、すらすらと「呆れ返った」という趣旨の言葉が続いただけで、バックスのその経験則から来る認識を正せはしなかったはずだ。
 代わりに、啓名は立木の「短い交渉」という指摘を溜息交じりに肯定する。
「短いかと言われれば、間違いなくそうでしょうね。交渉はものの見事に決裂しました」
「そいつは、まぁ、……ご愁傷さん」
 ガクッと肩を落とす啓名の様子に苦笑しながら、立木からは労いの言葉が続いた。
「でも、だったら尚更ここに長居は無用だな。バックス君や啓名ちゃんほどそういったものを敏感に感じ取れないはずの俺ですら、ここでは凄い敵意のようなものを感じる。一刻も早く、ここから離れた方が良いと思うぐらいにはまずい場所なんだろう?」
 立木が言うほどには切羽詰まった雰囲気でもないが、そこには依然として廃神社境内から尾を引く得体の知れない視線があるのも事実だった。いや「視線」といってしまうと語弊があるかも知れない。敵意や視線と表現できるほど、それは存在感を伴ったものではない。適当な表現を探すのならば、気配が周囲に存在していて、常にちらちらとこちらを牽制しているかのような錯覚を抱かせる物恐ろしさを伴う圧迫感だ。
「立木さんの言うとおり、長居は無数です。ただ、ここから先は十分に注意して下さい。危害を加えられる可能性もないとは言えません」
 仮に危害を加えられるとすれば、それは恐らく直接的に彼らが姿を現してという形ではないだろう。落石や倒木といった間接的なものになるのだろうか。突風、濃霧といった現象を発生させてという線も十分考えられる。
 啓名の発言を受けて、立木はグイッと缶コーヒーの残りを飲み干した。だったら、こんなところでのんびり缶コーヒーを味わっている場合ではないといった風だ。そうして、SUVの運転席へと乗り込むと、すぐに助手席側ドアと後部座席ドアを開け放つ。個人タクシーらしく、電動開閉である。
 立木が言葉にして「早く乗れ」と促すようなことはなかったが、いざそうやってドアを開閉されてしまうとやはり乗り込まないというわけにもいかない。多成が運転席側の後部座席へ、バックスが助手席、啓名が助手席側後部座席へと乗り込む形だ。
 そうして、全員が席に着いたことを確認すると、立木はハンドルの脇に配置されたスイッチを操作し各所のドアをさっさと閉じてしまった。
「危害が加えられるって言うのはつまり、神罰っていうわけかい? そいつはちょっと勘弁して欲しいね。仮に、俺も神罰とやらに巻き込まれて、商売道具が破損するような場合、保険は効くものなのかね? 良くて、自損事故扱いで何とかってレベルかな?」
 立木の言葉は雑談でもするかのような口調で重々しさこそないものの、その端々からは神罰に巻き込まれた場合の被害を危惧する様子が滲み出ていた。それこそ、神罰で原因不明の不調が発生するようになり、満足に保険も効かないとなったなら溜まったものじゃないというわけだ。
 尤も、神罰の被害を危惧する立木を、多成は一笑に付す。
「何を言っているんだ、お前は? そういった妨害をものともしないための運び屋だろう?」
 多成が立木に対する認識を「運び屋」といったところに、立木はあからさまに呆れたといった雰囲気を醸し出す。
「何かと邪魔をされることに慣れているとは言え、その邪魔のランクが「神罰」と言われるとさすがにぞっとしないぜ。それと、何度も言っているが、俺はあくまで個人タクシーを営むただの一個人事業主だぜ? 弘俊は個人タクシーに対する認識を大幅に間違えてる」
 多成に対して軽口めいた反論を返しながら、立木はプッシュ式のイグニッションキーを押しSUVのシステムを立ち上げる。すると、立木はそのまま運転席脇のモニターで後部視界を含めた死角をさらりと確認した後、星の家の誰に断るでもなく立木はSUVをバックさせた。
 SUVの発進に際して響き渡ったのは僅かな電子音だけで、エンジンのけたたましい振動や音はない。しかしながら、けたたましい振動や音がないからこそ、静かな室内には激しい縦揺れとともに車両の足下からガタゴトと鳴る低音が嫌に耳く形だった。
 危害を加えるべく八百万の神々の眷属達が暗躍するのならば、狙い時はそうしてSUVが道悪の砂利道を走行している間だろうと思わせるぐらいには、その騒音は周囲に気を張る啓名やバックスの集中力を削ぐ役割を果たしていた。
 加えて言えば、激しく突き上げて来る縦揺れにしてもそうだろう。SUVのシートには本革が採用されており、シートとしての出来も体をホールドする適度な硬さを伴った上品な座り心地を実現していたが、その突き上げの中では快適さなどは欠片もない。寧ろ、硬過ぎるくらいでお尻や足の付け根付近に軽い痛みを覚えるぐらいだ。地味にそれも、周囲に気を張る啓名やバックスの集中力を削ぐ役割を果たす要因であるわけだ。
 それでも、車内で普通に会話ができる程度には静音性やらが保たれている辺りは、個人タクシーとして駆る大型SUVに対する立木の拘りも垣間見える。走破性も、お客さんの満足度に直接掛かわる快適さも妥協はしたくないという拘りだ。
 ともあれ、立木はさっさとSUVを切り返し方向転換すると、廃神社から離れるべくSUVを発進させる。
「この世界の大多数の個人タクシー運転者は、法人タクシー業界に多くの雑費を献上したくないか、会社なんて下らない組織に時間的拘束を受けたくないか、その両方の理由から艱難辛苦に耐えた解放者の集まりだ。頼まれれば、どんな危険も顧みず、どんな妨害もものともせず、どんな場所にでも物資や人を運ぶ機関じゃない。そういうのをお望みならば、星の家が贔屓にしているその手の会社を使えば良いし、何なら民間軍事企業傘下の運送屋を頼ればいい」
 立木の反論を聞いた後、次に呆れたという雰囲気を醸成するのは多成の番だった。
「何が「艱難辛苦に耐えた」だ。タクシー会社に所属していた職業ドライバー最初期の時分から、裏で運び屋・逃がし屋紛いのことをやっていたお前が大多数の個人タクシードライバーの一人であるかのような顔して語るなよ。そもそも、妨害をものともしないために各所に手を加えた特別製の個人タクシーを乗り回しておいて、よくもまぁそんな台詞が吐けるものだと感心さえする」
 そんなやりとりが楽しくて堪らないと言わないばかり、立木は口元を切り上げて笑みを作ると「各所に手を加えた特別製の個人タクシー」を乗り回す理由をこう続ける。
「世の中物騒だからね。ここ、櫨馬界隈はちょっとものを知りすぎると、警察官が善良な一市民を「死人に口なし」で平然と葬り去ろうとする場所だ。何をするにしても、用心するに越したことはないさ」
 多成と立木はそうやって反論をし合う仲のようだ。
 それでも「星の家」という単語を口にして置きながら、立木が星の家に属しているということはないのだろう。立木が反論の中で「星の家が贔屓にしているその手の会社を使えば良い」と言ったように、あくまで旧知の仲であり幾らか多成の事情を知っているというだけなのだろう。
 だからという訳ではないだろうが、SUVに乗り込んだ後、廃神社での交渉についてや今後の進め方についてバックスや啓名が口を開くことはなかった。
 SUVが道悪の林道を相変わらず激しい縦揺れの中、ガタゴトと音を立てながら低速で走行しているとはいえ、車内での会話に支障を来す音ではない。現に多成と立木が数分にわたって雑談を続けていたぐらいなのだ。やがて、多成が林道の景色へと目を向け、肘掛けに頬杖をついて押し黙るようになれば、SUVの車内には走行音だけが鳴り響くようになる。
 多成はともかく、啓名とバックスが押し黙っていたのは車外の様子に対して気を張っていたからだろう。SUVが発車し砂利道の林道を走る間も、例の圧迫感が霧散しなかったからだ。廃神社から離れるに連れて徐々に圧迫感は薄れていったものの、廃神社を後にして15分が経過しようかという頃合いになってもそれは完全に霧散しない。その気になれば、どこからでも圧迫感は増大し、いつSUVに危害を加えるようになっても何らおかしくはない。
 そんな口を切り難い空気が漂う中、徐ろに話し始めたのは運転手である立本である。
「一応聞いておきますが、お客さん方。お届け先は新濃園寺のいつものビジネスホテルで良いんだな?」
「ああ、いつも通りだ」
 多成の回答に、一人バックスだけが思い出したと言わないばかりに異を唱える。
「ああ、そうだった。多成さん、俺は一度櫨馬に戻りますよ。起脈石が破壊されたってことで霞咲まで出張ってきたはいいですけど、最初は完全にスポット参戦のつもりだったんでね。多成さんのプロジェクトに参加するって形で霞咲にしばらく滞在するのなら、それに合わせて準備はして置きたい」
「そうか。それは、……そうだろうな。参加プロジェクトを移るのならば申し送りもあるだろうからな。尤も、お前が律儀にそんなことをするとは到底思えないがね」
 バックスが口にした内容は至極当然の内容だ。
 それこそ、多成が「それは駄目だ」とけちを付けるような余地などない程には当然の内容だ。しかしながら、バックスから一度櫨馬に戻ると言われた多成が、一度閉口したのを見逃すものはいなかった。すぐに、立て直して見せて軽口を混ぜる多成らしさをまとったが、SUVの車内にいた面子が違和感を覚えたことは否定しようがなかった。
 何か思うところがあったのは間違いないのだろうが、多成がいつもの調子を装うのならばSUVの車内の面子にはわざわざ藪を突くつもりなどないようだった。
 バックスも、多成の軽口に対して、いつものバックスらしい軽薄さをまとって答える。
「失敬な。俺だって、俺が伝えるべきと思ったことぐらいはきちんと伝えますよ。まぁ、これぐらいはお前らで気付いて然るべきってことは、スパルタ式にテメエで気付けってこともやりますけどね」
「はは、それが律儀じゃないって言っているんだ」
 笑う多成はどこか心ここにあらずというか、何か思案を混ぜながらバックスに対応している風だった。そして、その「風」が事実だったことを、多成自身が次の言葉で証明する。
「……バックス。だったら、総栄エクスプレスの佐名護(さなご)営業所に顔を出してくれないか? 明日中で良い」
 唐突に、多成から真顔で頼み事を向けられて、バックスは首を捻る。
「佐名護? 東櫨馬の山奥にある辺鄙な営業所でしたっけ?」
 バックスの認識の中では、総栄エクスプレスの佐名護営業所とはここに来て訪問するべき理由の思い付かない場所のようだ。言葉にこそしなかったものの、そこにはさも「何のために?」と目顔で訪ねる態度がある。
 当然、多成もそう返されるだろうことは想定の範囲内だったようだ。
「何かあった時の為の、予備の起脈石が倉庫に一つ保管してある。話は付けて置くから、霞咲まで運んできて欲しい」
「へぇ、予備なんて隠し持っていたんすか? 総栄さんの小型トラックで運ぶ形で良いですかね? どこに運び込めば良いですか?」
 多成の口から出た内容は、バックスに取っても啓名に取っても驚くべき内容だったようだ。バックスは「それは責任重大だ」だと言わんばかり、食い気味に話へ飛びつく。啓名にしても思わず目を真ん丸にして、多成をマジマジと注視したぐらいだ。
 そして、多成の口から出た「予備の起脈石」を境に、今度は啓名が心ここにあらずという風に思案を混ぜる番だった。
 ともあれ、予備の起脈石の取り扱いについて、多成はまだ何も決めていないことを説明する。
「まだ霞咲での保管場所は確保していない。というか、こいつは本当の隠し球だ。こんな事態を予測して用意したとかそういった類のものじゃないんだ。調整し終えたら連絡するが、アルフの件を踏まえると、また襲撃される可能性も視野に入れておかなければならないんだろう? 下手な場所は選択できない」
「起脈石の隠し場所を霞咲に用意するより、総栄さんの佐名護営業所の倉庫にそのまま仕舞っておく方が安全なんじゃないですか?」
 まだ何も決めていない状況にあって、それでも明日運搬をする可能性について言及した多成に、バックスは身も蓋もない疑問を投げ掛けた。もちろん、バックスの疑問も当然だろう。多成が予備の起脈石について発言するまで、啓名もバックスもその存在を知らなかったのだ。身内さえ知り得ないものを、八百万の神々の眷属が知り得るものだろうか。
 このままこの場の三人が、予備の起脈石について口を噤んだままで居れば「その情報が漏れ出ることはない」と考えるのも当然だろう。そして、総栄エクスプレス佐名護営業所の倉庫にそのまま仕舞っておく限り、これまで通り忘れ去られていたかのように保管され続けるというわけだ。
 多成もその安全性については、身も蓋もないバックスの意見に同意する。しかしながら、多成にも多成なりの考えがあって予備の起脈石を霞咲へと移すといったわけである。
「そうかも知れない。だがな、いざ起脈石が必要になった時、総栄エクスプレス佐名護営業所の倉庫から北霞咲まで運搬する作業だけでも一日仕事になる。できることならもっと近場においておきたい。それに、もし予備の起脈石の情報が何らかの不手際で外部に漏れた場合、今のまま総栄エクスプレス佐名護営業所の倉庫に保管しておくなど好きに破壊してくれといっているようなものだ。言ってはあれだが、総栄エクスプレス佐名護営業所の倉庫は堅牢性の欠片もないに等しい。人員を配置して守るという観点からも、防衛拠点には向かない」
 バックスとしては即時性を持って「予備の起脈石」をどうこうする必要がない点を口にしたつもりだった。もちろん、いつまでも総栄エクスプレス佐名護営業所の倉庫においておけば良いという認識だったつもりもない。
 しかしながら、それを差し引いても、多成は予備の起脈石をできる限り早く別の保管場所へと移してしまいたいようだった。予備の起脈石があるという事実は、何も多成だけが知り得るものというわけでもないのかも知れない。まして、多成の口振りは「何らかの不手際で外部に情報が漏れる」可能性が、それなりにあり得ることだと危惧している節もある。
「どうするかは多成さんの判断に任せます。が、明日運搬するにしろしないにしろ様子は見に行った方が良いっつーことですよね?」
 多成の口から「様子を見て欲しい」といった内容は語られていない。しかしながら、バックスは「分かっている」といった具合の心得顔で、多成にそれを確認した形だった。そして、多成もそれにさも当然だというかの如く答える。
「そうだ。しばらくほったらかしになっている物だ。使用に耐える状況かどうかもその目で確認して貰いたい」
「分かりました。中西辺りを引っ張っていって、明日午前中には確認を終わらせる感じで対応しますよ。正直、起脈石がらみのことでアルフに面直で確認したいことがある気もしますが、……まぁ。なんで、どこか近場の、快速特急か区間快速が停車する駅で降ろして貰えますか、立木さん」
 アルフの口から出た降車地点の要求に、立木は思案顔を合間に挟むまでもなく「応えられない」ことを告げる。
「残念ながら、この辺りにはローカル線の駅しかないねぇ。区間快速どころか、電車が上り下りで一つのレールを行き違う路線だよ。取り敢えず、各駅停車の鈍行で緑苑平(りょくえんだいら)の駅まで出て、そこから櫨馬に向かう形が良いだろうね。緑苑平なら複数の路線が集まっているし、快速特急も区間快速も停車する。……何なら、緑苑平に立ち寄って降ろして行くって形でも良いが、どうする? その方が緑苑台まで掛かる時間も短くて済むかも知れない」
 要望に応えられないことに対し立木から続いた代案に、バックスは一度押し黙って思案する。わざわざ緑苑台に鈍行で向かうよりかは、このままSUVに揺られていた方が時間も手間も掛からないのは言うまでもない。しかしながら、バックスが下した結論は、立木の代案に対して首を横に振るというものだった。その心は、仮に時間が掛かっても「二手に分かれることに意味がある」という内容だ。
「俺は別行動の方が良いでしょう。実際問題、林道を抜けた辺りで、この圧迫感なんてものはあっさり掻き消えるかも知れない。が、掻き消えなければ、二手に分かれることで上手いこと分散させることができる筈だ。そして、仮にどちらか一方を狙うという話になるのなら、十中八九、一人別行動した方を狙うでしょうしね。色気を出してばっさりやるって言う腹なら、対象は一人別行動をしている方がやり易い筈だし、そうでないとしても廃神社での俺の立ち居振る舞いは嫌でも目を引いたはずだ。ヘイトは俺に向いたでしょう」
 正直、そこまで考えた上での「廃神社での立ち居振る舞いだったのか?」という疑問はあったが、あの立ち居振る舞いがあったからこそのこの判断という点は疑う余地がない。もちろん、計算尽くでやったものであるわけがないのだが、それをこうやって生かして見せる辺りは、良くも悪くも「汚れ役」を続けてきた経験があるようだ。
 別行動を押すバックスの理由を確認した上で、立木がその申し入れを断る理由はない。二つ返事で、バックスを最寄りのローカル駅で降ろすことを了解する。
「分かった。それじゃあ、バックス君を最寄りのローカル線の駅で降ろすことにしよう」
「唯一懸念があるとすれば、俺が集めたヘイトが足りず、奴らが廃神社での多成さんの立ち居振る舞いに怒り心頭で、是が非でも多成さんをっていうつもりだった場合ですかね」
 懸念事項としてバックスが続けた内容は、当の多成によってさらりと一笑に付される。
「その時は、啓名に気張って貰うさ。なに、まだあの交渉で前面衝突に転んだ場合に備えた装備に身を包む啓名だ。どうとでも退路は確保してくれるさ」
 ちらりと啓名がまとう装備に目を向ける多成の言うように、その事態になけばそれこそ啓名は「全身全霊を以て」退路を確保するだろう。そして、バックス・多成ともに、いざという状況下で、その専用装備を身にまとって退路を確保する啓名の能力には一目置いているようだ。
 バックスまでもが、自身が口にした懸念事項は無用だったと笑う。
「はは、確かに。退路の確保とくれば、啓名の晴れ舞台だ。しかも、退路確保のために誂えた専用装備に身を包む今の啓名を相手に、襲われた場合の心配をするなんざ啓名の存在意義を疑うようなものでしたね」
 尤も、バックス・多成による自身の評価を効いた啓名は今一納得できないという顔だ。
「……なんか、まるで退路確保しか能がないと言われてるように聞こえるんだけど?」
「何言ってんだ、胸を張れよ。退路確保の能力に掛けて、啓名の実力を疑うものはいないって点は認めてるんだ」
 啓名は相変わらず「何かしっくり来ない」という表情だったが、バックスのそれは一応褒め言葉で間違いない。もちろん、乱暴な言い方をするなら「退路確保しか能がない」というニュアンスに近かったことは否定しようがないものの、啓名は例え一つでも強みを評価して貰っているのだと前向きに捉えたようだ。そうして、自身の評価がどう受け止められているかと言うことよりも、二人の発言を受けて「これだけは言っておかなければならない」という点について多成に念を押す。
「多成さん。一応言っておきますが、これはここぞという時のための装備なんですからね? 一度使用したら再補填にお金も時間も掛かるものが多分に含まれているんです。使わなくて済むなら、使わないに越したことはないものです。そこは分かっておいてくださいよ?」
 ともすれば、まだ何か一悶着やらかし兼ねない雰囲気を、多成がまとっているかの如く啓名の目には映ったのだろう。
 それは良くも悪くも多成がいつもの調子の裏側で、様々な思案を張り巡らせて今後の対応を模索していたからだ。
 多成はまじまじと啓名に見据えられると、態とらしく意地の悪い笑みを作って見せる。
「分かっているさ。わざわざ、今から危ない橋を渡ろうなんて馬鹿な提案をするつもりはないから安心しろ」
 多成へと向ける啓名の視線はやがてジト目へと変化したが、結局そんな多成を疑い続けることはできなかったようだ。ふいっと視線を外してしまえば、何かを企んでいるかも知れない多成を啓名がそれ以上追求しようとすることはなかった。
 視線を外してSUVの車外の景色へと目を向けた啓名に、多成はふと今思いついたと言わんばかりに確認を向ける。それは啓名が念を押したことによって初めて、浮き彫りとなる問題である。そして、恐らく啓名が言及しないことには、啓名以外のメンバーが気付かない内容だ。
「しかし、あれだな。再補填に時間が掛かるって下り、……確か予備を用意する許可が下りないからだったか? 状況によっては立て続けに必要となる場合もあるだろうに。ちょっくら俺がゼネマネ辺りに掛け合ってみようか?」
 多成に取って、それは何の気なしに言った気紛れから来るものだったかも知れない。しかしながら、啓名を食い付かせるには十分すぎる程に、大きな話題であるようだった。
 しかも、そうそう予備など用意できないはずの起脈石に対して、多成はその予備を隠し持つなんてことをやっていたのだ。さらに言うのなら、遊撃部隊という特性から様々な情報を耳に入れる機会の多いバックスや、起脈に関してならばそこらのプロマスよりも情報が集約される立場に居る啓名ですら、知り得ないところで多成はそれをやっていた。
 啓名の期待も俄然高まるというものだ。
「……原則できないと言われ続けてきましたけど、多成さんの根回しがあれば何とかできちゃったりするんですか?」
 多成は唇の端を釣り上げて印象の悪い笑みを表情に灯すと、自身満々に胸を張る。
「できないはずの予備を用意させたり、備蓄がないはずのものを融通して貰ってくるのは俺の数ある得意分野の一つだ。任せろ。「原則できない」は、原則で定義される以上の状況下にあることを明示してやればいいだけだし、道がないとも思えんな。尤も、啓名が用いる消耗品の類いに関しては他の紅槻連中との兼ね合いもあるのだろう。元々用意に時間が掛かる代物で、他の紅槻連中からも数を要求されていれば、慢性的に不足していることも考えられる。そうなると、予備を用意させると言ってもすぐというわけには行かないかも知れん」
 その意味するところは「恐らく、できる」という内容だった。
 啓名はそこで一端瞑目する。その心に生じたもの、それは葛藤だ。
 多成とは異なる理由で、啓名もまた予備は欲しいのだ。いや、寧ろその必要性を「身を以て理解している」と言ってしまっても過言ではない。予備があれば、あらゆる場面で退路確保の為の最も効果的な手を躊躇わずに打つことができる。これは啓名の精神衛生上、非常に強大なバックアップとなる。
 しかしながら、十中八九、予備の手配は正規の手段ではない。
 だから、それを多成に頼んで良いものか、啓名は葛藤したわけだ。
 原則、予備の手配はできないらしい。では、その原則を破り、不正の手段で予備を手に入れ、もしそれが露見した場合、どれだけの罰則となるかが問題だ。啓名に予備の手配を踏み止まらせる重しの方は、既にそこまで後退してしまっていた。正規の手段ではないから「しない」というラインはとっくに踏み込えていて、今その「罰則」という重しさえもその効力を持たなくなる一歩手前にまで来ていた。
「用意できるのなら、して貰いたいです」
 くっと下唇を噛んだ後、啓名はとうとう多成に予備の手配を頼んだ。
 再び、多成が唇の端を釣り上げて見せる類いの「印象の悪い笑み」を見せて、満足げに応える。
「任せろ」
 こう言っては何だが、啓名に取ってそんな多成の態度は心強いことこの上なかった。
 多成は向こう見ずで独善的な面を持つ自信家で、色々と性格的な問題を持つ面も確かにある。だが「できる」「できない」に対して下した多成の判断に置いては、その結論を大きく違えたことはない。状況や情勢を見定める視野はかなりのものなのだ。
 廃神社で多成が匂わせた全面衝突だって、究極的に突き詰めれば櫨馬にある星の家の戦力を投入し、短期的に強力な罠を用いることで勝利を収めること自体は恐らく可能だろう。今の段階で、多成以外の面子がそれを望んでいないとはいえ、関係が修復不可能なところまで言ってしまえば必然的にそうなり、全面衝突での勝利をもぎ取る形になるのは必至だ。
 啓名から予備の手配を頼まれ、多成はすぐにスマホへと視線を落とし、そこに思案顔を覗かせる。予備の手配を達成するべく方策を頭の中で巡らせているのだろう。
「それにしても、啓名は随分と酷い顔だな」
 不意にバックスから「酷い顔」と言われ、当の啓名は溜息交じりに答える。
「……ただでさえ睡眠時間が短かったところに、気の重いあの交渉だったからね。それもまぁ、取り敢えずは一山越えて、ふっと気が抜けたら、何か色々とぐっと疲れが出て来た感じかな。……というか、そういうバックスもあたしに付き合って主窪峠の起脈石を確認しに行ったのに、良くそんな「余裕です。疲れなんかありません」っていう顔ができるよね?」
 バックスに向かって棘の混じった言葉を返しながら、啓名は大きな欠伸を噛み殺す。そうして、口にしたことでより疲労を顕著に感じるようになったのだろう。啓名はそのままボスッとSUVの本革シートに背中を預ける。しばらく宙を眺めていた啓名だったが、やがてゆっくりとその瞼も閉じていく。
 そんな啓名の様子をバックミラー越しに確認したのだろう。運転席の立木が申し訳なさそうに口を切る。
「啓名ちゃん、疲労困憊のところ悪いんだけど「眠っていても構わない」とも言えなくてね」
「分かっていますよ、立木さん。何か異変を感じたら、すぐに教えます」
 本革シートに深く背中を預け瞑目したまま応える啓名からは、やはり疲労が色濃く滲み出ていた。それはバックスの軽口に対して、素直に疲れを認めた辺りからも見て取れる。返す言葉に棘を混ぜる辺りにもそれは窺えるものの、まだ言葉に棘を混ぜるだけの元気があるとも言える。
 人間誰しも疲労によって苛々する面を窺うことができるが、こと啓名に至ってはそれが無視といった類いには結びつかない正確をしている。本当に限界が近ければ、必要最低限の会話のみ返すようになるのが啓名という人間だった。
 多成にしろバックスにしろ、それなりの付き合いがあるからこそそういった啓名の状況の度合いをある程度は把握できるようだ。多成がバックスへと目配せをし、半ば強引に話題を切り替える。
「アルフは今頃、土倉と襲撃者の情報をまとめあげているところか。どんな報告が上がってくるのか見物だな」
「電話口で聞いた話だと、相手は一人。俺やアルフみたいな日本人離れした外見で、啓名と同年代の女って話ですけどね。他の特徴として上げていたのが「自分よりも10cmぐらい高いたっぱがある」「髪の毛の色がライトブロンドで、長さはセミロング」「瞳の色が燃えるような赤色だった」「流暢な日本語を話す」だとかいった感じだったんで、そこから人海戦術で目星を付けるのは至難の業でしょうね」
 バックスのその口振りからは、アルフが上げてくる報告書など電話口のものとそう変わらない筈だといった確信が見え隠れしていた。そうして、そこから導き出される今後の対応についても、襲撃者の特定が困難で「泣き寝入りになる」と結論づける。
 多成もバックスの認識を否定することはない。寧ろ、それらの外観上の特徴を並べ立てても対象者は数多に上るといい、それを踏まえて如何にして襲撃者に対する情報を周知徹底するべきかの議論を始める。
「くく、今の櫨馬地方には吐いて捨てるほど居るな。日本生まれの日本育ちで、外見だけが日本人離れしていて中身は生粋の日本人といったところか。今やここ櫨馬地方には経済特区化によって流れ込んだ移民の血を引くハーフが五万と居る。確かに人海戦術で襲撃者を見つけ出すという線はないな。そうなると、再びあちらから攻めて来る場合に備える形になるが、……そうそういなさそうなのは「瞳の色が燃えるような赤色だった」といった辺りか? 北霞咲の起脈石配置予定エリアで「この特徴にピンときたらプロマス多成まで連絡を」とか言った類いのクエストでも発行するか?」
 バックスが首を横に振りながら、バックスが発案したクエストには致命的欠陥があるという。
「知らないんですか? 今の時代は、瞳の色なんざコンタクトレンズやら目薬やらでいくらでも偽装できるらしいですよ? そうすると、そうやってこちら側に印象付けるため「燃えるような赤い瞳」に偽装していた可能性も考慮しなきゃならない。そこに引っ張られ過ぎると、それこそもっと重要な点を見落とす可能性だってある」
 バックスと多成がああだこうだとアルフを襲ったブロンド髪の女について話をした矢先のことだ。不意に瞑目したまま黙っていた啓名がそこに割って入ってくる。
「アルフの件で思い出したんですけど、多成さん、襲撃者によって破壊された起脈石を確認しましたか?」
「うん? それはアルフが運搬していた起脈石を、ということか?」
「ええ、そうです」
 素直に頷く啓名を前にして、多成はそんな啓名の言わんとするところをさらりと察知したようだ。恐らく、啓名が聞きたいことは確認の有無だけではない。一歩踏み込んで、確認したのなら破壊された起脈石を見てどう感じたかを確認したかったばずだ。
 だから、多成は確認したことを明示した上で、自身がどう感じたかを交えて答える。
「実物は見ていない。が、アルフから転送されてきた画像ファイルという形では確認した。正直、驚いた。あの起脈石をあそこまで木っ端微塵に壊せるものなんだな、と。率直に言って「聞いていた話と違うじゃないか」とさえ思ったよ。何せ、アルフの話を効く限りでは、横っ面を叩き付けるハンマーの一撃で大小様々な無数の岩石の欠片と化したらしいからな」
 聞いていた話と違うとは、星の家の面子が試験的に起脈石の破壊を試みたいくつかの記録のことを言ったのだろう。何度となく行われた起脈石の評価の中で、星の家は評価基準の中に壊れ難さや壊れ方という項目を設定している。少なくとも、その評価の中では、幾度となくハンマーで叩き付けても起脈石が一撃で大小様々な無数の岩石の欠片と化したことはないのだ。
 ともあれ、アルフが運搬していた起脈石の現状について確認した啓名の次の言葉は、多成にもバックスに取っても意外な内容となる。
「多成さん、計画を変更しましょう」
 不意に真顔で計画変更を提案した啓名に、それでも多成は驚いた様子一つ見せなかった。眉間に皺を寄せるぐらいはするかと思ったが、マジマジと啓名を見据えるだけだ。そうして、啓名が本気でその提案を口にしていることを理解すると、多成は肘掛けに体を預けるようにして頬杖を付き、具体的な変更プランを説明するよう要求した。
「どうするつもりだ? 言ってみろ」
 何の異論も上がることなく変更プランを説明するよう促されたことに、計画変更を口にした側の啓名が驚いたぐらいだった。一度、ぽかんとした顔を合間に挟んだものの、啓名はすぐさまそのプランについての説明を始める。
「すぐに扱える起脈石の予備が一つあるのなら、その一つを有効的に使いましょう。桂河、主窪峠に起脈石を設置することが起脈を体感して貰う上でもベストなのは言うまでもありません。でも、今日の交渉を踏まえれば激しく抵抗されるのは目に見えています。なので、桂河から主窪峠を通って廃神社に至るルートに、破壊された起脈石の欠片を起脈体としてばらまき、廃神社付近へ手持ちの起脈石をゲリラ的に設置する。もちろん、これが破壊されてしまっては元も子もないので、日時は次の交渉の場を設ける前日辺りが良いと思います。これでまずは彼らに起脈を体感して貰う、どうですか?」
 啓名の提案する変更プランを、多成は眉一つ動かさず聞いていた。
 当然ながら、啓名が提案する変更プランは「懐柔策を推し進めること」を前提としたもので、如何に相手の妨害を受けることなく、相手に起脈を体感させるかといった内容だ。
 多成はじっと啓名を見据えていた視線を外し、ゆっくりと瞼を閉じる。啓名の本気に対し、多成の口から飾ることのない本音が漏れ出る瞬間だった。
「正直、俺は「起脈を体感して貰う」ってことについて拘る必要なんかないんじゃないかと思っている。だが、啓名の言うように、確かに北霞咲へ起脈石を設置して「はい、終わり」じゃないのも確かだ。だから、俺だけでその変更プランを受け入れるかどうかを判断するのは止めておこう。ちょうどこの場には、俺よりも場数を踏み、櫨馬で悪名を轟かせる星の家の大虚けの一つがあるんだ。今の啓名の案を聞いて、バックスはどう思う?」
「最終的にはやりあうことになるかも知れませんが、手を尽くした上でそうするのと、融和策から一転掌を返して騙し討ちするのとじゃ意味合いが大きく異なりますよ。多成さんも理解して頂いてると思いますが、霞咲に起脈を敷設して「はい、終わり」じゃない。だったら、悪名はなるべく被らないよう手を尽くすべきだと、櫨馬での経験を踏まえた上で俺もそう思いますけどね」
 意見を求められたバックスが口にした内容は、啓名のプラン変更に同意するというものだ。
 それが多成の望む言葉だったかどうかは分からない。例え多成が意見を求めた結果として、バックスが啓名の側についたからといって、プロマスたる多成が「NO」と判断すれば、その話はご破算だ。立場上、プロジェクト進行の最終決定権は多成が持っているのだ。
 瞼を開いた多成はまずバックスを見る。
 バックスは口元を歪ませて笑みを作り、多成に向かって首を傾げた。その挙動は「そうでしょう?」と同意を求めるようでもあったし「そうするべきだ」と強く多成に目顔で圧力を掛けるもののようにも見える。
 続いて、多成は神妙な顔付きで多成の判断を仰ぐ啓名に目を向け、唇の端を釣り上げる例の印象の悪い笑みを作った。
「解った。どうせ計画に沿うよう起脈石を今から用意しようとしたところで、もう遅延は確定的だ。一つならまだしも、二つもどこかから融通して貰うなど現実的じゃない。啓名の変更プランを呑もう」
 多成の態度には、どこか「それしか手がない」と自分自身を言い聞かせたかのような雰囲気が滲んでいたのも事実だ。
 それでも、多成が啓名の変更プランを呑んだのは、やはり計画通りにプロジェクトを進めることが、半ば不可能だと理解していたからこそだろう。
 破壊された起脈石の代わり二つ用意するなど、簡単なことではないのだ。起脈石の設置を目指す他のプロジェクトから運良く融通して貰えればまだしも、これから新規に作る段階からとなれば軽く二ヶ月〜三ヶ月程度は時間を有する流れになる。そもそも起脈石として使用可能な成分比率の岩石を用意しなければならないし、紅槻の息が掛かった業者が呪鍛をするリードタイムといったものも必要となってくる。
 ともあれ、変更プランを受け入れると明言してしまえば、多成はすぐに思案顔を滲ませ次の対応の算段へと移る。
「……そうなると、色々今後の見通しが変わってくるな。起脈体を通して起脈のネットワークを構築するというなら、下級管理人が相当数必要になる。啓名、お前の専門分野だ。起脈のネットワーク構築に掛かる必要人数の算出と、変更プラン下に置ける最適な起脈石の配置場所の算出はお前がやるんだ。バックス、啓名が提案したプランを踏まえて必要になる人員と、次の交渉の日時やそれまでの計画の草案を明日まで立案しておく。さっき言ったように、明日、総栄エクスプレスの佐名護営業所に寄れるよう準備しておいてくれ」
 八百万の神々サイドとの交渉でのように態度や言動・考え方にいくらか問題があるとはいえ、多成のプロマスとしての資質は相応なのだろう。改めてバックスに明日の予定を取り付けると、ブツブツと小さく何かを呟きながらそこに至るストーリーを頭の中で早速構築し始めたようだ。自身が明言したように、明日までに計画の草案を練り上げるつもりらしい。
 計画変更を踏まえ、多成が俄然やる気を出し始めたことでバックスの目の色も変わる。
「そうすると、こっちも明日までにアルフの二の舞を演じないよう入念に準備しなきゃならんわけですか。やっぱり、アルフと面直で話をしておきたい気もしますけど……。啓名と多成さんはこのまま新濃園寺のいつものビジネスホテルでアルフと合流でしたっけ?」
「そうだ。スターリーイン新濃園寺には、アルフも宿泊する」
 バックスがアルフに拘るのは、襲撃者の情報が喉から手が出るほど欲しいからだろう。仮に、総栄エクスプレスの佐名護営業所に明日赴くことになるのならば、何かしら対策を立てる時間も考慮するとそれこそ猶予はほとんどない。有効的に時間を使いたいと考えれば、情報を吸い上げるのは今夜が望ましい。即ち、バックスは二手に分かれるという選択が悪手になり得る可能性を視野に入れた形だった。
 その場ではっきりと思案顔を滲ませたわけではなかったが、バックスの頭の中にこのままSUVに揺られ新濃園寺のビジネスホテル「スターリーイン新濃園寺」へ行くという選択肢が過ぎったことは間違いなかった。
 それを知ってか知らずか、啓名がバックスにこう申し出る。
「もうあたしが新濃園寺に止まる決定的な理由なんてないから、役割を交換しようか?」
 桂河と主窪峠の起脈石が破壊されておらず、アルフの起脈石が予定通りに設置されていれば、啓名が霞咲でやらねばならないことはまだまだあったのだろう。しかしながら、そこが崩れてしまっている以上「新濃園寺に止まって何をする?」というのが正直なところのようだ。
 だったら、啓名が最寄りのローカル線から緑苑台へと出て、櫨馬に戻るというのも一つの手だと言ったわけだ。もちろん、バックスに取っても櫨馬に戻らなければならない理由があるのだから、アルフと対面後に今夜遅くか明日早朝に櫨馬へ移動しなければならないことに変わりはない。
 あくまで啓名が担うところは、二手に分かれて八百万の神々の眷属達を攪乱するという点だ。尤も、啓名がバックス程にヘイトを集めた事実はないわけで、二手に分かれたところでSUVに向く圧迫感は薄まらない可能性も多分にある。
 しかしながら、そういったことを全て引っくるめた上で悩むバックスに、首を振る決断をさせたのは背中を押すべく啓名が発した言葉になる。
「新濃園寺に止まることであたしが得られそうなメリットなんて、早い時間にスターリーイン新濃園寺へチェックインできて睡眠時間を長く取れそうってことぐらいだし」
 北霞咲の新濃園寺地区へと止まることに対して、さしたるメリットがないことを証明するべく啓名は頭を捻った。そうして、どうにか引っ張り出してきたメリットが、今の啓名に取って必要なものの一つだったのだ。
 啓名自身、自ら言葉にしていて気付いていない様子だったが、バックスがそれを聞き逃すはずもない。
 当然、バックスは苦笑しながら指摘する。
「何だ、今の啓名に取ってそれは重要なメリットじゃないか。疲れが溜まりに溜まって、頭が回っていないんじゃないのか? ビジネスホテルでアルフと合流後、色々と聞き出したいことはあるのかも知れないが、……悪いことは言わない。今夜は余計なこと考えずにさっさと眠っちまいな」
 そこをバックスに指摘され、啓名はばつが悪そうに顔を顰めた。しまったと言わんばかりにだ。そうして、そもそもそれを指摘されなければ、ビジネスホテル到着後にアルフと合流するなり、破壊された起脈石について根掘り葉掘り聞き出そうと体に鞭打った節さえあった。
 啓名はまだ何か言いたそうな雰囲気をまとっていたものの、今の状態でバックスと言い合ったところで何か進展を得られるとは思わなかったのだろう。「今夜は余計なこと考えずにさっさと眠れ」といった忠告に、素直に頷いた。
「……そうね。そうする」
 そんな結末で啓名とバックスとの一連のやりとりが終わると、今度は多成が最終確認をする番だった。
「どうする? 何なら、今からでももう一部屋、確保できないこともないぞ?」
 そんな多成の申し入れを、バックスは即座に断る。
「いや、止めておきますよ。俺が行けば、当然アルフから情報を吸い出す流れになるだろうし、そうなったらそうなったで啓名も多成さんもその場に居合わせようとするでしょう?」
 バックスからそんな可能性について言及されてしまえば、多成も啓名もそれを「あり得ない」とは断言できない。
 多成と啓名が何も言葉を返せないでいると、この話はここで終わりと言わんばかりにバックスは運転席の立木へと改めてローカル線の最寄り駅で自身を降ろすよう要求する。
「というわけなんで、やっぱり俺は別行動になります」
「分かった。今からなら、運が良いことにちょうど一時間に二本しか運行がない緑苑台へと向かうローカル線の鈍行に間に合わせられそうだ、少し速度を上げるから、舌を噛まないようにしてくれよ」
 縦揺れの度合いは、御沼間主神社の駐車場跡と思しき場所を出発した湯所からは格段に改善されていたが、それでもまだドンッドンッと下から来る突き上げに時折体勢を崩しそうになるぐらいには酷い。そんな中にあって立木はSUVの走行速度を上げのだが、立木が注意を向けた程には車内の騒音やら下からの突き上げが悪化することはなかった。
 ともあれ、ローカル線の最寄り駅でバックスが降車すると決まったことで、多成は既にそれを踏まえた今後の準備を始めたらしい。
「バックス、連絡を受け付ける相手はプロジェクトに関係しそうな面子に限っておくがいいな? 明日以降の行動予定は共有した上でこまめに更新するようにするから、時間が空いた時に確認してくれ。こっちも公開レベルはいつも通りに設定しておくが、バックスの都合で「こいつも見られるようにしておけ」というメンバーがいれば連絡しろ」
「まぁ、俺が声掛けて引っ張ってこれる面子なんて、レーテやら中西やらいつもの面子ですよ。大凡いつも通りの面子が集まるんだと思いますけど、仮にニューカマーが居る場合は連絡させて貰います」
 砂利道と凹凸の林道は、立木が露骨に速度を上げたこともあってものの十分程度で通過した。そこから道路の作りが改善したこともあって立木の駆るSUVはさらに速度を上げ、さらに十五分も走ると山間の中に等間隔で集落が点在するようになった。その頃には街灯の明かりが灯り始める時間帯と相成り、周囲を薄暗がりが包み始める頃合いだった。
 そんな薄暗がりが広がり始める中、バックスは最寄りのローカル線の駅前でSUVから降車した。
 例の圧迫感はほぼ掻き消えたかの如く息を潜めていたが、その手のものを敏感に察知することのできる人間ならばまだまだ感じ取るに難しくなかっただろう。
 そして、バックスの目論み通りに、二手に分かれることが攪乱の効果を発揮したかどうかはともかく。その日の内に八百万の神々の眷属達が星の家を襲撃することはなかった。
 そう。「眷属達」が襲撃することはなかった。





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