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「異式錯落区画の未知標 -北霞咲新濃園寺コンフリクト-」のトップページに戻る。



Seen00 主窪峠の起脈石


 人通りも車通りもほとんどない鬱蒼と緑の生い茂る山中に二つの人影があった。一つは百七十中〜後半の男のもので、もう一つはそれよりも軽く頭一つは小さい女のものだ。
 忙しなく周囲を伺うような仕草を見せるでもなく、疲労や不安に項垂れ足を止める様子もない。二つの人影はせっせっと上り坂を歩いていた。それは即ち、彼らが何らかの目的を持ち、自分の意志の下この山中にやってきたことを示唆していたが、その時刻と場所は問題だと言えるだろう。
 時刻はもう後僅かで夕暮れ時に差し掛かろうかという頃合いだ。
 周囲を山に囲まれていることを考慮するなら、日が暮れ始めてしまれば辺りはあっという間に夜の顔を覗かせ暗闇が支配するはずだ。何より、彼らが進む道には街灯一本見付けることができないのだからだ。尤も、街灯は疎か、四方数キロ圏内に渡って村落一つ存在する気配すらないというのが実際だった。
 彼らが歩く上り坂にしてもそうだ。どうにかアスファルトによる舗装が為されてはいるものの、あちらこちらに大小様々な罅割れが縦横無尽と走っているのだ。お世辞にも管理が行き届いた状態にあるとは言えない。そして、仮にそんな足場の悪さに目を瞑ったとしても、アスファルトの罅割れからは通行に支障を来すレベルの雑草が生い茂る様が散見されるような状態だった。
 道幅についても言及しておくと、どうにか小型車二台がギリギリ行き交う幅が確保されているに過ぎない狭い道だ。言ってしまえば、道路の両脇を人が歩くことを考慮した作りをしておらず、そもそも人が安全に通行することが想定された道ではないのかも知れない。
 そんな上り坂の酷道を、二つの影は心なしか右端に寄る形で歩いていた。
 そして、二つの影がちょうど山の形に添って大きくカーブを描く区画に差し掛かった時のこと。長く続いた鬱蒼と茂る森が割れ、真っ赤に空を焼く真ん丸の夕焼けが二つの影を照らし出す。
「おー、眩しいね」
 鬱蒼と茂る森の中をひたすら登り続けるこの道の終わりを「待っていました」と言わないばかり、二つある影の内の小さい方、即ち、女の方が走り出していた。
 カーブにはガードレールは愚か簡素な手摺りや道路の終わりを示す段差すら存在していない。カーブの終わりは崖に面しており、万が一、自動車でここに差し掛かった時にハンドル操作を間違えたなら崖の下まで真っ逆さまだろう。
 尤も、仮に真っ逆さまと相成ってもカーフの終わりの崖は「断崖絶壁」という程の急斜面ではない。加えて、崖の斜面のあちらこちらには幹の太い木々が青々と生い茂っていることもある。崖の中腹辺りで、原形を留めた形では止まってくれるのだろう。酷い話だが、もしかしたらそう言う悪い意味での楽観と、コストの兼ね合いからガードレール設置は見送られているのかも知れない。
 女は背負ったスクールバックを罅割れたアスファルトの上へ無造作に置くと、真っ赤な夕陽を全身に浴びながら大きく伸びをする。心地よさそうに頬を緩ませてはいたものの、そんな状況下で彼女の口を付いて出た言葉はそんな穏やかな表情とは似ても似つかぬ内容だ。チクチクと相手を刺す為の棘が、これでもかと言うほど鏤められた言葉である。
「んー!! こんなのもたまには悪くもないのかな。段取りの悪さから自然以外何の取り柄もない場所に、ハイキングっていうにはちょっと無理がある運動を強いられつつ投げ出されるのもさ!」
 その辛辣な言葉が誰に向けられていたかは言うまでもない。それは鬱蒼と緑の生い茂る山中の上り坂を、並んで歩いてきた男に対して向けられたものだ。
 当の男の方は、随所に棘の鏤められた言葉を向けられてなお、そこに何かしらの反応を返さないでいた。そもそも返す言葉がなかったのかも知れないし、下手な弁明は意味を成さないと端から諦めていたのかも知れない。
 崖の際に立って赤く焼けた山の稜線へと視線を走らせる女の年の頃は、十代半ばが精々といったころだ。どんなに上を見ても後半ぐらいが関の山だ。百五十中〜後半の身長、体格にしてもパッと見で飛び抜けて目立つ部分はない。
 上から下まで眺め見て、もしも違和感を覚える部分があるとするなら、間違ってもハイキングに適した格好ではないという部分ぐらいだろうか。
 春先というには少し遅い季節に差し掛かっているとはいえ、場所が場所だ。日が沈む時間帯へと差し掛かれば、それ相応に温度もまだまだ下がる。加えて、一時的にではあるかも知れないが、あっと言う間に天気が崩れる可能性だってある。
 それなのにも関わらず、女の格好は、下は黒ストッキングの上にジーンズ地・濃緑色の膝上ハーフパンツで、上にはデザイン指向のポロシャツだけを合わせるといったラフなものだ。動き易さよりも装飾性を重視したスニーカーもそうだし、頭にちょこんと乗せるハンチングにしてもそうだ。街中へとふらっと電車で散策にでも出て来たかのような格好なのだ。
 男の方も年齢は同年代だろう。下は濃紺色のジーンズに、デザイン指向のポロシャツと薄手のカジュアルコートを羽織ると言ったラフな格好で、こちらも「ハイキングに来ました」という格好とは懸け離れていた。
 女の方と比較すればまだマシな方だと言えただろうが、どちらもこの時期・この時間に「山中のハイキングコースをこれから散策するところです」というには違和感しかない格好だろう。
 女は頭に被るハンチングを手に取ると、首下までの外ハネの髪を風に靡か目を細める。
「見渡す限りこれでもかって程に新緑の大自然しか見るものないけど、割と悪くない景色だね。下からこのうねる山道を見上げていた時は、まさかこんな場所まで自分の足で登ってくることになるなんて微塵も思ってなかったけどね」
 眼下に広がる大森林と、山の稜線をはっきりと確認できる雄大な光景を前にして女の口からは感嘆が漏れた。しかしながら、そこにはその雄大な光景を目の辺りにするに至った「男の段取りの悪さ」を責める棘を忘れない。
 その非難を向けられる側の男の方はと言えば、今まさにその雄大な光景を目の当たりにせんとするところだった。カーブへ向かって走り出した女とは対照的に、歩調を変えず坂を一歩一歩とゆっくり登り進めてきたからだ。
 男は女の横に立って眼下の大森林を眺めると、途中途中に点在するトンネルを指差しながら弁明する。そのまま言葉を返さない、弁明しないという態度を貫き通すことが不可能だと悟ったのだろう。
「旧道のトンネルをタクシーが通行できなかったんだ、仕方がないだろ?」
「そういうところも踏まえて、しっかりと下準備しておくんじゃないのってところを言いたいわけだよ、正威(まさたけ)。今回は時間を指定された上での待ち合わせじゃないし、そもそも待たせて怒る相手でもないからまだいいけどさ」
 弁明が言い終わるか終わらないかの内に、女からは間髪入れずにさらなる批判が口を吐いて出て、正威と呼ばれた男は見るからにしゅんとなって肩を落とした。そんな構図になってしまえば、申し訳なさそうな顔付きをして正威が謝罪を口にするまでにそう多くの時間は掛からなかった。
「そうだな、ごめん、萌(きざし)。今後は気をつける」
 尤も、正威が実際に謝罪を口にするまでには、げんなりとした表情も合間に覗いた。それはそのままぐちぐちと萌から小言を続けられては堪らないと言った思いから来た顔だったろう。そうしてみると、素直に謝罪を口にし、しゅんと肩を落として見せた態度というものも、この場を切り抜けるため入念に練られた上でのものだというのが解る。
 そう、萌の不平不満を和らげるためのものだ。そして、そんな正威の態度は抜群の効果を発揮した。即ち、それ以上チクチク責め立てても仕方ないと萌に思わせることに成功したのだ。
 萌は「この話はここまで」と言った具合にスパッと話題を切り替える。
「でもだよ、どうしてこんな霞咲(かすみざき)の外れの辺鄙なところを、……星の家だっけ? 彼らはわざわざ選んだんだろうね?」
 萌のその疑問は、二人がこの場所へと赴くに至ったそもそもの理由に帰結していた。
 正威はその疑問の答えを「辺鄙であること」こそが選定条件だったと推測する。
「そのアクセスのし難さこそが、彼らの望んだ条件の一つだったのかもな。何より、ここなら単純に発見され難いだろうしな」
「まぁ、そんなところなんだろうかね。そもそものタレコミがなかったら、あたし達だってこんな辺鄙な場所に疑いの目を向けるようなことしなかっただろうしね」
 自分達に当て嵌めて考えた上で、萌はその推測が大凡的を射ているだろうと納得したようだ。
 辺鄙と萌が表現したように、ここは霞咲の中心部から大きく大きく外れた場所だ。位置的なことを言えば、どうにかギリギリ霞咲市という枠内に収まる場所ではあるものの、ここはこのままうねる山道を登っていくと櫨馬(はぜま)市に抜けることが可能な数ある峠越えルートの一つである。
 そして、そんな峠越えルートの中でも、そこは格別車通りのない道だった。
 高さ・幅ともにコンパクトカー1台がどうにかギリギリ通行可能なサイズのトンネルが、道中に複数個あるためだ。当然、トラックなどの大型車両は通行不可であり、普通車であってもミニバンクラスの高さを持つものは通行できず引き返す羽目になる。
 一応、道中にはトンネルを通行可能な車両サイズを記した看板が設置されているらしいのだが、そもそもの設置数が少ない上「見落とし易い場所に設置されていて不親切極まりない」と悪い意味で評判だ。看板についても言及すると、縦と横のサイズ値だけが記載された看板であり、パッと見ただけでは内容を理解し難いものであるらしい。自分が運転する車のサイズを理解していないドライバーも相当数居て、年に数回は必ずトンネル内で身動きが取れなくなる類の事故が発生する道としても有名だ。
 さらに言えば、大きく峠を迂回するルートにはなるものの、既に新道が十数年前に整備されていて、こちらは旧道となった道だということも車通りが極めて少ない点に寄与していただろう。それこそ旧道マニアといった余程の物好きか、最短距離を突き進む設定でカーナビゲーションに案内されて来た何も知らない運転者か、山菜採りなどの確固たる目的があって進入しない限りは通行者のほとんどない道だった。まして、この道を歩いて通行しようとするものなど、という道だ。
 萌は大きく深呼吸をすると、くるりと踵を返しまだまだ長く上り坂の続く山道へと向き直る。
「ねぇ、一つ確認して起きたいんだけどさ。どこまで登ればいいんだっけ?」
 不意に萌の口を突いて出た問いに対する正威の受け答えは、非常に歯切れの悪さが目立つ形となる。
「俺の記憶が正しければ、……その、どこまでとは聞いてなかったな。唯一確かなことは、この主窪峠(おもくぼとうげ)旧道の、山道途中にあるトンネルで待っているということだけだったはずだ」
 萌は山頂までまだまだ先の長い山道の道程を目で追う形で確認すると、これ見よがしに溜息を吐き出して見せた。山道の道程には、みーここから見上げるだけでもまだ無数のトンネルが散見できる。
 萌は突拍子もなく、一つの要求を正威へと突き付ける。
「もし待ち合わせのトンネルが山頂付近のだったら、正威、カスミ・アーバンターミナルに新しく出店した甘味処栄月(えいげつ)で和風ケーキバイキングの食べ放題、奢りだからね?」
 カスミ・アーバンターミナルとは霞咲中央に位置するファッションブランドが数多く入居する大型ショッピングモールである。そして、甘味処栄月とはそのカスミ・アーバンターミナルの半年間にも及ぶ一部大幅改装時の新規出店で目玉となった人気店舗名だった。
 低価格路線のところであれば、味はともかく2000円台、下手をすれば1000円台後半からケーキバイキングを堪能させる店舗がある中で、甘味処栄月は高級路線で有名な店舗の一つだ。それこそ、新渡戸稲造が一人お釣りなく居なくなる店だ。
 いくら今回の件で正威に大いなる不手際があったにせよ、安易に「奢る」ことを了承するにはなかなか敷居の高い店だと言って間違いなかった。
「はー、まだまだ先は長そうだよ、正威?」
 しかしながら、追い打ちを掛けるように「それがなければモチベーション維持が出来ない」と言わないばかりの気怠い態度を萌が装って見せれば、当の正威は眉間に皺を寄せる渋面ではあったもののあっさりとその要求を了承する。
「ああ、……解った」
 正威の受け答えを前にして、萌は驚きを隠さない。
「へー、そう来るかぁ」
 もちろん、要求が通ったことで不満の全てが解消されたわけではなかっただろう。けれど、スクールバックを拾い上げ、すっくと背負い直す萌からはついさっきまでの気怠い調子は微塵も感じられない。
 そこには、どうにか「モチベーションは維持された」というよりか、寧ろ俄然やる気が首を擡げたといった方が適当な雰囲気が漂ったぐらいである。左手に付けた腕時計に目を落とし日が沈むまでそう時間がないことを再確認する萌の目付きには、ぱっと見で解るほどのやる気が灯っていた程だ。
 正威の口からは、要求に対し妥結点を探る交渉の言葉が続くと萌は思っていたのだろう。到底受け容れ難い高い要求を最初に突き付けて、徐々にそのランクを落としてそこそこの妥結点を得る常套手段を萌は仕掛けたつもりだったわけだ。到底受け容れ難い筈の高い要求が通ったことで、萌は俄然気を良くしたようだった。
「それじゃあ、日が完全に沈む前までに片を付けちゃいますか!」


 どちらからともなく再び山道に向き直り上り坂を歩き始めると、二人の眼前にはすぐにトンネルが姿を現した。夕焼けの光を背にする形で山道を上り、再び現れた鬱蒼と木々の生い茂る山中を突っ切った後に姿を現したトンネルだった。
 内部に街灯は設置されていないようで、不気味な程の暗闇がぽっかりと穴を空けているように見えるのが特徴だと言って良いだろう。立てて加えて、トンネルは相応の長さを伴っていて、且つ内部でカーブしているか、トンネルの出口付近を夕焼けの明かりが照らしていないらしく、反対側の出口の様子が一切窺えなかった。行き止まりと言うことはないだろうが、足を踏み入れるのを思わず躊躇う不気味さがそこには横たわっていた。
 正威の心に生じたそんな物恐ろしさは、萌にあっさりと見抜かれたらしい。
「見た目が不気味なだけで、トンネルの中に不自然な感じは何もないよ。日が落ちるまでに依頼者には会っておきたいんでしょう? ちゃっちゃっと進んじゃおうよ」
 萌からそんな具合に発破を掛けられ、正威は暗闇がぽっかりと穴を空けたトンネルへと続く坂道を意を決して登り始める。そして、今まさに一歩を踏み出した矢先のこと。背後から二人の名前を呼ぶ野太い声が響き渡る。
「神河正威(みわかわまさたけ)様、神河萌(みわかわきざし)様、お待ちしておりました」
 正威と萌はその場で足を止め、声のした方へとゆっくりと振り返る。
 野太い声のようと言ったものの、それは声と言うよりも「人間のもの」のように聞こえる「音」に近い。甲高い風切り音が人の叫び声であるかのように聞こえる奴だ。
 尤も、二人の名前を名字を含めてはっきりと発音する偶然の音なんてものがあるはずもなく、それは確かに声だった。但し、その声は「人でないもの」によって発せられたものではあったが。
 二人が振り返った先には二メートル近くの体格を持った異形の存在が立っていた。服をまとっておらず、その代わりに全身は密に生えた毛皮で覆われていた。尾はなく、人間と比較すると比率のおかしい太く長い四肢が体格的な特徴だろう。足の形状も手の形状も人間のそれとは一線を画しており、ネコ科のものに近い形状をしている。尤も、特徴というなら、真っ先に目も鼻も関係なく頭部を包帯でグルグル巻きにした風貌が挙げられただろう。
 そして、包帯をグルグル巻きにした頭部には、文様の描かれた紙が貼り付けられている。「符」と呼べるほど上品な体裁を整えておらず、それは体良く繕った言葉で表現しても精々が「紙」だった。雑誌に用いられる用紙に近い材質で構成されているのか、薄汚れた感のある包帯と相俟って頭部は鼠色で統一されている形だ。
 人間で言うところの目元にも孔のようなものはなく、視界が確保されていないように思えたが、正威へと近付く足取りはしっかりとしており、周囲の状況を把握する別の手段を持ち合わせているようだった。
 一目で人間ではないと解る出で立ちだったが、正威にしろ萌にしろ叫び声を上げたり僅かにさえも身構えたりということをしない。それは即ち、この主窪峠でその異形の存在と出会うことは、最初から予定されていたことを意味しただろう。
「こんな場所までわざわざ御足労頂き、本当に申し訳ない」
 深々と頭を下げて見せる主窪峠の異形に合わせ、正威も会釈を返す。
「構いません。それよりも神河へと情報提供頂き、久和が介入することを許容して頂き本当にありがとうございます」
 正威がそこまで感謝の言葉を口にした時点で、主窪峠の異形はさらりとまとう雰囲気を変える。
「霞咲でのことに久和(くわ)が介入することを快く思わないものも少数いるが、気にすることではない。恐らく、これは我々だけでは解決困難な事象になってしまっている。久和への打診が遅れたことで手遅れになってしまっては元も子もない。そういう点を踏まえて、概ね久和の血族が間に入ることに皆一定の理解を示してくれている。久和ならば、久和が管理している土地であるかのように解決してくれるだろうという思いがあるようだ」
 ひしひしと肌へと刺さるかの如く周囲の空気が重々しさを伴ったのは、ここで最初に久和を牽制して置かねばならぬという確固たる意志が相手にあったからだろう。例え、それが形式上のものであったとしてもだ。
「久和、……ね」
 その名称で呼ばれることに、萌は不服そうな表情を露わにする。尤も、萌が食って掛かって主窪峠の異形に訂正を求めるようなことはなかった。それは即ち、そうやって神河を久和と括ってしまうのも「やむを得ないこと」だという認識を萌が持っていたと言ったに等しい。
 萌の態度はあくまで久和と呼ばれたことに対し条件反射的に反応しただけの不満の態度だったけれど、正威はやや強めの口調で名前を呼び窘めるということをする。
「萌」
 当の萌はふいっと顔を背けてしまって、それ以上主窪峠の異形とのやりとりについて関知しないという態度を見せる。
 正威は溜息混じりにそんな萌の悪癖を呆れ顔で眺めたが、その場で口論するわけにもいかないと考えたのだろう。主窪峠の異形へと向き直る。
 しかしながら、そんな萌の不敵な態度を前にして当の主窪峠の異形は大口開けて笑うのだった。大口を開けることで薄汚れた包帯には大きな隙間が生じ、そこから鋭い牙が見え隠れしたものの、既にそんなことは些細な問題だったろう。
「くははは、申し訳ない。確かにこの場に至って君達が久和の血族だからというのは言い方がまずかった。神河には久和とは異なる神河のスタンスもあるだろう。神河の名を持って活躍する君達の活躍も音に聞いている。しかし、覚えておいて貰いたい。この地域で多くの縁の繋がりを持つ久和の血族でなければ、そもそも声すら掛からなかったことだろう」
 どちらかと言えば、最初の丁寧に畏まった態度ががらりと崩れ、久和に対して主窪峠の異形の取る態度がざっくばらんなものになったことの方が神河には重要な変化だった。久和に対して、そういう対応を取る・取れる「ポジション」にある存在なのだと認識できたのだからだ。
 概ね、霞咲の「人でないもの」は久和を中途半端にしか信用していないらしい。彼らの期待に応えられなければ、容易に状況が一変しかねないだろうことはこの時点で想像に難くなかった。
 正威にしろ、萌しにしろ、請われてこの場に足を運んだという意識があっただろうが、その気になれば主窪峠で出会ったこの異形も、恐らく最初に触れた「介入することを快く思わない」側へと簡単にその立ち位置を変えるのだろう。
 ともあれ、それはそれ。
 主窪峠の異形から「久和に属する者だからどうにか声が掛かった」趣旨の発言をされ、萌はさらに憮然とした表情を見せるのだった。
 主窪峠の異形は、なにやらそんな萌の姿勢が愉快で堪らないらしかった。そんな態度の萌を前にして愉快であるという姿勢を微塵も隠そうとしないから、当然萌からは鋭く冷たい怒気の混ざった視線が向けられる。
 さぞかし、正威はそんな萌の言動を窘めたかっただろう。いつそこに割って入って口を挟んでもおかしくない険しい顔付きで、そのやり取りを注視していたぐらいだ。それでも正威がそこに口を挟まなかったのは、やはり相手側の受け答えや物腰の所為だったろう。
「くははは、常々、久和は力を落としたと聞かされていたが、君達のようなものがいるのであればまだまだ安泰なのだろうな。現状を良しとせず、若さ故の荒々しい貪欲さを持つ。それで多少の諍いは生じるだろうが、ただ朽ちていくのを座して待つよりかは余程良い」
 一頻りにやにやと心地良さそうに破顔する気配をまとった後、主窪峠の異形はくるりと踵を返す。
「早速だが、向かうとしようか? もうじき、この辺りも暗闇に覆われる」
 そういうが早いか、主窪峠の異形は取り出したランタンに火を灯し、先導するように歩き始めた。


 主窪峠の異形が先導しランタンに灯る炎が暗闇のトンネルを照らし出すと、そこが割と立派なトンネルであることが理解できた。天井にしろ側壁にしろコンクリートできちんと固められたトンネルであるのだ。尤も、お世辞にも高さや幅が十分あるとは言えないところは難点だろう。
 先導する主窪峠の異形は黙々とトンネルを先へと先へと進むだけで言葉を発さない。特別、主窪峠の異形の方から話さなければならないことなどなかったのかも知れない。
 しかしながら、目的地へ到着するまでに正威には確認して起きたいことがあるのだった。そうなると、ランタンで照らし出されるトンネルの様子を眺めながらただだだ黙って、主窪峠の異形の後を追い続けるというわけにも行かない。歩き始めたことを境に生じたこの沈黙を打ち破らなくてはならないのだ。
 では誰がその役目を担うのか。
 それは正威以外にはいなかった。
 萌は相変わらず憮然とした態度のままであり、自ら話し始めよう何て気はさらさらない様子だったし、先導する主窪峠の異形にしろ相変わらず自ら話題を振ろうなんて気配は微塵もまとっていなかったからだ。そうなると、必然的にそこへ会話を切り出せるものは正威しか居なかったわけだ。
 主窪峠なんて辺鄙な場所にわざわざ赴いたのは仕事を完遂する為だ。そして、ここで仕事を完遂する為には、依頼主である主窪峠の異形から状況を聞き出す必要性があった。
 最初に言うべきことは言い終えたと言わないばかりの相手方と、未だ不機嫌な表情を灯したままの萌に任せておいたら、それこそ目的地に到着するまで事務的な応対すら試みようとはしないかも知れない。
「星の家、でしたっけ? 彼らがその呪物を設置したのはどのくらい前の出来事だったんですか?」
 正威の問い掛けに、主窪峠の異形は振り返らず足を止めることもなく返答する。
「一週間は前の出来事だった。今よりももう少し後の時間に、小型の自動車で霞咲方面から三人ほどでやってきて、手慣れた様子で手早く呪物を設置し戻っていった。時間にしても二時間程度も作業はしていなかったように思う」
 そのやり取りの中に、正威達がこの場所をこうして訪れるに至った理由の大半が含まれていた。即ち、星の家と呼ばれる者達がこの辺鄙な霞咲の外れに呪物と呼ばれる何かしらの物体を設置していったため、正威達がそれを確認しに来たというわけだ。
 正威は腕組みに右頬を摩る仕草を交えて思案顔を合間に挟むと、その二時間程度という設置時間について率直な感想を口にする。
「事前にある程度下準備を整えていたとしても、それは非常に短時間ですね」
 非常に短い時間という見解は、主窪峠の異形からもすぐさま同意が返る。
「そうだ、短時間過ぎるぐらいだと感じる。あれが彼らの呪物の正しい設置方法であり、呪物としても正しく効果を発揮できるやり方なのだとすれば、最初に数を用意してしまえば複数箇所へ短期間での設置も容易いだろう」
 正威は継続して右手で右頬を摩りながら、神河という立場で同様のことを実施する際にどれだけの手順や技術が必要となるかを算出しているようだった。そうして、正威が得た星の家という集団に対する認識は「厄介な相手」かも知れないというものだった。
「呪物がどんな代物なのかを確認できていないので、設置に要した時間の妥当性は正直推測の域を出ていません。だけど、事前に教えて頂いた内容から推測するに、周囲に歪みを生じさせ兼ねない程の影響力を持ったものを、そんな短時間で設置するというのはかなりの高等技術を用いていると考えられます」
 しかしながら、正威の認識を受けて主窪峠の異形が示した見解は、それとは真逆の可能性を指摘するものとなる。
「高等な技術を持ち合わせており、その高等な技術を用いてどうにかしているのならば、まだ良いのだ。呪物を正しく扱っていない可能性を我々は強く危惧している。もちろん、呪物そのものを設置するという行為についても当然問題視はしているが、差し当たっての懸念はどちらかというと前者だ」
 正威の認識が「正しい」可能性を、主窪峠の異形は望んでいた。それは即ち、星の家という集団が高等な技術を持つ厄介な相手であった方が、最悪の事態を想定した場合に生じる被害が格段に少ないといったに等しかった。
 まだ呪物を実際に目の辺りにしていない状態ながら、主窪峠の異形の見解を前に正威は緊張から生唾を飲んだ。
 主窪峠の異形は不意に立ち止まると、トンネルの天井や側壁といったものへと向き直って見せる。
「今のところ、大きな異変は生じていないように見えるだろうが、これもその実、関知できていないだけという可能性も考えられる」
 パッと見、そこに何か異変を感じ取ることは出来ない。いいや、視覚に頼らず周囲の状況を捉えているだろう主窪峠の異形をもって「大きな異変は生じていないように見える」と言わしめているのだ。どんなに入念に調査をしても、そこに異変を感じ取ることは難しいかも知れない。にも関わらず、主窪峠の異形は関知できていない可能性に言及するのだから、その呪物が生じさせた歪みは想像を絶するものだったと言わざるを得ない。
「呪物を実際に確認しましたか? どういったものでした?」
 一頻りトンネルの様子を窺った後、再び先導するべく進み出した主窪峠の異形へ、正威は呪物の具体的な形状について尋ねた。
「お前達が旧道主窪峠の主窪第四覆道と呼ぶ道の脇へと設置された呪物は、それこそどこにでもある記念碑みたいな大きさの石材が一つだけだ。そうだ、主窪峠のあちらこちらにお前達人間が設置した記念碑の大きさを想像しておけば間違いない。整った形状をしておらず、加工してない石材をそのまま何処かから運んできて設置したような感覚に近い」
 主窪峠の異形が呪物の大きさや形状について説明してくれる中、当の正威はその言い回しの中に気に掛かることがあってそちらに気を取られる格好だった。それは、主窪峠の異形がわざわざ呪物について「旧道主窪峠の主窪第四覆道と呼ぶ道の脇へと設置された」と場所を事細かに特定したことだ。
 正威の脳裏には、星の家が設置した呪物が「他にもあるのか?」という思いが過ぎった形だ。しかしながら、その疑問を主窪峠の異形へと正威が向けることはなかった。そこで一旦話が途切れる格好となったためだ。
「正威」
 それは、ちょうどトンネルの中腹へと差し掛かった時のこと。それまで全く会話に参加しようとしなかった萌が、不意に正威の名前を呼んだのだ。その声色からその理由を判断するに、ここに至って何かを察知した様子だった。
 トンネルの出口側の様子は、まだ全くと言って良いほど窺えない。即ち、それはトンネルと直結しているはずの覆道まではまだまだかなりの距離があるということだったが、トンネルの中腹で立ち止まる萌は「その場所を境として、そちらとこちらで何かが違う」と目で訴えてくる。
 主窪峠の異形は、呪物が「周囲に歪みを生じさせかねない」と説明した。呪物を中心として、萌が立ち止まった場所まで歪みが生じている可能性も容易に考えられた。
 正威は覆道を目指して先導しているのだろう主窪峠の異形を呼び止める。
「ちょっと待って下さい。既にこの辺りで呪物の影響が及んでいるみたいです」
 主窪峠の異形はその場で立ち止まると、先程そうして見せたようにトンネルの随所を確認するかのように天井や側壁と言った部分に向き直る。
「そう、なのか。我々ではその差異に気付かないが、君達がそういうのならそうなのだろう」
 出来ることならば、自身も「違い」を感じ取りたいと主窪峠の異形は考えているのだろう。尤も、その違いを感じ取ることは出来なかった様子で、主窪峠の異形の態度には若干の困惑の色が混ざった。
「案内はここまでで結構です。今から呪物の撤去を試みたいと思います。あなたはこのトンネルを入り口側に向かって戻って下さい」
「手を貸すことがあればと思ったが、道案内だけで構わないのか?」
 主窪峠の異形からの思いも寄らない申し出に、正威は感謝の意を示しながらそれをやんわりと断る。もちろん、それは主窪峠の異形の協力が邪魔だという理由からではない。
「星の家に取ってそれが可能かどうかは解りませんが、仮に呪物に近付いたものを記録する仕組みがあって、あなたの存在が星の家に感知されると色々まずいことになるかも知れません。止めた方が良いでしょう」
「それもそうだな。解った。では、ここから先は任せよう」
 主窪峠の異形は正威の見解に基づき、そこであっさりと身を退いた。
 呪物を設置した星の家という組織に対して、主窪峠の異形がどういうスタンスを取っているかが垣間見れた一瞬だった。そして同時に、星の家を主窪峠の異形がどう捉え、どう思っているのかが滲み出た一瞬でもあった。
 そこにあったものは星の家に対する恐れといったネガティブなものではない。敵対するのか、歓迎するのか。その立場を保留するかのような、中立的な感情のようだと正威は感じた。主窪峠に呪物を設置するという行為自体は突然のことでも、星の家という組織はここ霞咲で前々から何らかのアクションを起こしているのかも知れない。
 正威がそんな思考を巡らせていた矢先のこと。不意に主窪峠の異形から正威に言葉が向く。
「ここで別れるのならば、最後に言っておこう。星の家は呪物のことを「起脈石(きみゃくせき)」と呼んでいた。何かその呼称から感じ取る部分があれば、注意して欲しい」
「起脈石、ですか」
 反芻するかのように聞き覚えのない呪物の名称を口にする正威には、今の段階で感じ取ることの出来る「何か」はないようだ。そうして、萌の方へと向き直った正威が、目顔で「何か感じ取ることがあるか?」を萌に尋ねるも、ふるふると首を横に振るというジェスチャーが返るだけだった。
 そんなやりとりの様子を黙って窺っていた主窪峠の異形だったが、そこで突然頓狂な声を上げる。
「そうだった。これを君達に貸しておこう。元々君達の為に持ってきたものだ。君達ではこれからの闇夜は辛かろう。これがあれば、今夜一杯は闇夜を切り取ってくれる。使い終えたら、主窪峠を霞咲へと下る最後のトンネル出口の脇に居並ぶ七つ地蔵の隣り辺りにでも置いておいて貰えればそれで構わない。君達が冠権(かんごん)トンネルと呼ぶ、主窪峠への出入口のトンネルだ」
 そう申し出るが早いか、主窪峠の異形はランタンをアスファルトの上へと無造作に置いてみせる。そうして、顎をしゃくるジェスチャーで正威へランタンを手に取るよう促した後、正威の返答を待たずにくるりと踵を返してしまった。
 するりと正威の横を抜けてトンネル入口へと進む主窪峠の異形だったが、萌の横を通り過ぎたところで不意に足を止める。ランタンを手に取ることを躊躇う正威の様子を、身動きを取ろうとしない気配から推し量ったようだ。
 主窪峠の異形は振り返ることもなく正威へとランタンの必要性と、人が扱うことに対して危険の伴わない代物である説明を口にする。
「呪物を撤去し終え、戻って来てトンネル外へと出れば、明かりという明かりは既に月明かりだけだろう。この主窪峠には人間の設置した街灯も数えるほどしか残っていない。闇夜を打ち払うものは必要となるはずだ。それと、それを使うことによって生じる影響を警戒する必要はない。それは我々の世界の産物ではなく、かなりの年代物ではあるものの人の手によって作られ人の手によって使われていたものだ」
 そこまで言って貰ってようやく、正威は安心したようだった。
 もしも「このランタンも何かしらの呪物だったなら」ということまで考慮に入れて、正威は対処方を模索していたらしい。主窪峠の異形がトンネルから姿を消した後、呪物を扱うための下準備を始めてと言った段取りを頭の中で組み立てていた矢先の安堵だったようだ。
「ランタン、感謝します」
 正威は無造作にアスファルトの上へと置かれたランタンをマジマジと眺める。
 改めて見返すランタンはゴテゴテとした装飾こそないものの、高さにして40cm強はあろうかという金属製の大型ランタンだ。高さ方向で言えば、1.5Lのペットボトルよりも大きい体格だ。あちこちには錆も目立ち、見るからに年代物の風格を漂わせており、何より印象的だったのが灯油を燃やす匂いだろうか。独特の香りを漂わせることだった。
 グッと腰を入れ正威はランタンを持ち上げる。しかしながら、ランタンを持ち上げた正威が見せる表情は、拍子抜けしたそれだった。その見掛けから想像していたものよりもずっと軽ったのだろう。尤も、ランタンが「軽い」といってしまうと、やはりそこには語弊がある。あくまでも「正威が想像していたよりも」と言うだけで、腕力に自信のない女性や子供が扱ったなら、やはりずしっと来る重さのある代物で間違いない。
「それでは起脈石の対処を頼む、神河一門」
 トンネルを照らす灯りが揺らいだことで、正威がランタンを手にしたことを把握したのだろう。主窪峠の異形が、声の端に何とも言えない感情の色を滲ませながら正威達へと発破を掛ける。強いてその色を表現しようとするのなら、それは「興味」となっただろうか。
 失敗しても良いし、成功しても良い。ただ、どこまで「神河」がやれるのかをその目で見たいと言った類の感情だったろうか。ともあれ、そういうが早いか主窪峠の異形は闇に溶けるかのように去っていった。
 途中までその背中を目で追っていた萌だったが、その気配が完全に掻き消えたことを確認すると、背負ったスクールバックを暗いトンネルの床へと下ろした。
「準備するからこっちを照らして貰って良い?」
 萌の声色から「面白くない」といった類の感情を読み取ることは出来なかったが、そうやって発破を掛けられたことに対しては色々と思うところがあるはずだ。ランタンで自身を照らすように要求する萌の言葉にはほぼ抑揚がなく、要求に応えて萌へと灯りを向ける正威が見たその表情にも思案の顔付きが滲む形だった。
 ともあれ、準備を始めると言う萌の横顔をマジマジと窺い続けるわけにも行かないことは明白だ。
 正威はランタンを萌が床へと下ろしたスクールバックの脇へと置くと、自身の視線を暗闇へと向ける。
 起脈石への対処に際して、萌がスクールバックの中から取り出すものは組立式のハンマーだった。それは手で持つ柄の部分、柄の部部から対象物に叩きつけて力を加える頭部までを繋ぐ部分と、頭部の三つから成る。
 その三部品構成のどれもが金属製であったが、柄の部分から頭部とを繋ぐ中継部分はメッシュ構造を採用していて、重量に関しては軽量化を意識した作りになっていた。構造自体はかなり簡素で特別な工具といったものを必要としない作りを達成しており、パチンッパチンッと金属製のバネで留める仕組みだ。三部品のどれを取っても、スクールバックどころかビジネスバックに収納可能なサイズを実現しており、持ち運びのし易さと実用性が両立された優れものである。
 萌はそれを手慣れた調子で組み立てる。ものの十数秒程度で組み立て終えてしまったそのハンマーの大きさは、萌の身長の六割近くに達するほど巨大なものだった。ハンマーの中でもスレッジハンマーと言ってよい大きさを有しており、且つその区分の中でも特別サイズの大きい部類で間違いない。
 到底片手での使用を想定していないサイズであり、いくら軽量化が為されていたとしてもかなりの重量物であることは言うまでもないだろう。サイズ的にも持ち運びに難があると思えたが、萌はそれをひょいと持ち上げてしまえば、準備運動とでも言わないばかりに難なく機敏に振り回して見せた。
 使い慣れているといえばそうなのだろうが、それでも一般人がパッと見れば、ギョッとする光景に違いない。
「さて、そっちはどんな感じ?」
 萌は一通りハンマーの感触を確かめ終えたようで、暗闇に向かって神経を研ぎ澄ます正威に向かって進捗の確認をする。既に頭を切り換えてしまった後なのだろう。萌の表情に思案顔の色はなく、起脈石の対処に際する仕事モードの顔付きがそこにはある。
 一方の正威も既に仕事モードの顔付きに移行していたが、対照的にその表情には困惑が滲んでいた。萌から進捗状況を尋ねられたが「進捗よりも気に掛かることがある」と言わないばかりに、正威は答えに窮する形となる。
「まだ、正直何とも言えない。けど、仮にも中に呪物を隠した結界がこんな簡単に境を気付けてしまえる作りだなんて、……意外だよ。正直、御粗末な作りだと言わざるを得ない」
「自分達なら……って思っちゃうよね。そもそも、そんな大層な役目を担わせない、それこそ一時的な簡易結界であったって、もっとそれなりに仕立て上げるもんね」
 そこまで言って、萌は自分がそこまで言うほど丁寧に簡易結界を仕立て上げていないことを鑑みたのだろう。続ける言葉で自分達の仕立て上げる一時的な簡易結界の出来を正威制作によるところが大きいことを述べる。
「まぁ、そこは正威が性格的に几帳面っていうところも多分にあるだろうけどさー」
 そこまで言葉を続けたところで、萌は首を傾げて思案顔を覗かせた。性格的に几帳面とは言えないと、自分自身そう思っているのだろう萌の目を持ってしても、それは余りにも「御粗末」な作りだったのだろう。そこに至って、一つの懸念が頭を過ぎったらしい。
「どう思う? 罠の可能性もあると思う?」
 それは萌自身、深読みのし過ぎかも知れないだろうことを感じていたのだろう。だから、それは正威に対して確認をするという内容となっていた。
 尤も、正威も正威でその「深読み」の度合いについては答えに窮する形になる。
「……どうだろうな。ただただこっち方面の技術に疎いだけかも知れない」
 結局、トンネル内部の暗闇に神経を走らせながら、その稚拙な結界の境を探る正威は星の家の単純な技量不足に言及した。相手の力量を図り兼ねているというのも正直なところではあっただろうが、その稚拙は正威の中で十中八九、星の家の単純な技量不足だと結論付いていただろう。にも関わらず、万に一つの「罠」の可能性を排除できない理由についても、正威の口からは付いて出る。
「ただ、相手の話が本当なら、起脈石とやらは周囲に歪みを生じさせる程に強力なものらしいからな」
 そこには、そんな強力な呪物を扱う存在が「こんな稚拙な結界を用いるはずがない」と言った類の、神河サイドの常識が要らない慎重さを助長した形だ。
「正しく扱い切れていないかも知れないみたいなことも言ってなかったっけ?」
 それが固定観念に固執してる可能性について萌から指摘されても、結局、正威はその思いを捨てきれなかった。恐らくは固定観念に囚われているだけだろうと内心解りながら、石橋を叩いて渡ろうとする自身の判断を前に自嘲の混ざった笑いを溢し、正威はこの稚拙な結界に対する行動指針を萌に向けて説明する
「はは、中身が相応にやばいもので、それを覆い隠そうとする技術がこれだとして、制御方面の技術も同程度のものだとしたら本気でぞっとするな。急いては事をし損じるってこともあるかも知れない。限られた時間の中でどうにかしろとかいうわけでもないんだ、慎重に進めよう」
 結局、正威は罠である可能性も考慮して、効率優先の手荒なやり方を排する方を選択した形だった。萌からも反論は上がらず、ひたすら稚拙な結界の弱点を探る作業が正威には待っていた。
 そうなると、空間の継ぎ目を慎重に探る正威を尻目に、その様子を退屈そうに眺める萌という構図が生まれた。
 正威がそんな萌の対応に文句を付けないところを見ると、それは元からそういう役割分担なのだろう。時間にして十五分程度、そんな構図が続いただろうか。
「比較的どこもかしこも脆い感じだけど、この辺りが一番脆いな。ここを叩けば結界に孔を空けられそうだ」
 トンネル内部、側面から1メートル離れているかいないかの空を正威が右手で指差す。ちょうど、トンネルの入口からの場所で示すなら、萌が境を感じて立ち止まった場所から五〜六メートルほど出口方向へと進んだ場所でもある。
「結界の全体像を把握してはいないけど、ここから覆道方向へと進めば進むほど層が厚くなっていく感覚がある。とは言っても、ぶち破れないような強力なものという感じじゃない。言ってしまえば、その気になればここでなくとも至る所からぶち破れそうな感覚だ」
 そんな結界に対する説明を聞きながら、萌は正威へと近付いていく。そうして、空を指差す正威の右手首をがしりと掴み、トンネル出口方向へと向かって視線を走らせた。
「んー、確かにね。この全体的に薄っぺらい感じ。向こう側が透けて感じられるもんね」
 何もないはずの空間を忙しなく確認する萌の目は、一般的な視覚で捉えることのできない何かを「感知」しているかのようだった。
 そうして、右手を掴み取るといった萌の行動に対して正威が驚いた顔の一つさえ見せないのは、その行為がいつものやりとりの一つであることを示唆していただろう。
 正威は萌に握り取られたままの右手をゆっくりと上から下へと何かをなぞるように動かしてみせて、視覚で捉えることの出来ない結界について話を続ける。
「正直なところ、触れる機会が少ないタイプの結界だな。出入りを物理的に阻害する力場みたいなもの、と言えば適当なのかな? 高密度のエネルギーがゆっくり流れる力場自体がこの結界の本体と言っていいみたいだ」
「だったら、さくっと力場を拡散させちゃえばいいわけだ」
 萌が打ち出す方向性に正威が異論を挟むことはなかった。尤も、小難しい顔で稚拙な結界と対峙する正威は「力場を拡散させる」という方向性以外の手段も捻り出そうとしていたようだったが、結局一枚の符を萌へと差し出す形でその方策で進めることに同意した。
 符を受け取る萌は、それをハンマーの柄に巻く形でくしゃっと握り締めると威勢の良い声を上げる。
「それじゃあ、とっととぶち破りますか!」
 萌はハンマーを水平方向に構えると、それを破壊鎚のように結界へと勢い良く突き立てる。その瞬間、青白い光が突き立てた場所を中心にぶわっと広がった。青白い光は波のない水面へ落ちた水滴のように波紋となって広り、そして徐々に掻き消えていった。青白い発光もゆっくりとその光度を失っていけば、後には何事もなかったかのようにトンネルの薄暗さだけが横たわっていた。
「かっ……たー!」
 そして、一つ遅れてそこには頓狂な萌の声が響き渡った。
「ちょっと! 脆い部分をピンポイントで叩きに行って、これ? 腕が痺れてじんじんしてるよ! 何これ? 分厚い金属製の扉を物理的に破壊しに掛かった感じ」
 萌からは正威に対する苦情が向く。稚拙な結界に対する解析結果が妥当なものだったのかどうかを問い質す内容だが、当の正威はその解析結果自体を疑うことはなかった。その代わり、攻め方が間違っていた可能性について言及する。
「高密度のエネルギーを拡散させようっていう攻め方が良くなかったのかも知れないな。叩き付けてみた感想が萌の言う通りなら、いっそ物理的に叩き壊す方面で進めるか」
 大凡予測できていたと言わないばかり、正威は懐からすぐさま次の符を取り出すとそれを萌に向かって差し出した。
 正威から符を受け取る萌の視線には強い非難の色が滲む。そういった結果に繋がる可能性についても予測していたのなら「最初に言え」とその目で要求した形だ。
 ともあれ、萌はどっしりと腰を下ろすと、再度ハンマーを水平方向へと構える。先程のような事態が再び起こり得ることを想定して、事前に身構えたから故の行動だろう。そうして、再度、破壊鎚のようにハンマーを勢い良く結界へと突き立てる。
 但し、今回の一撃は柄部で握る符の種類が異なる。そして、叩き付けるハンマー頭部の向きも変えていた。丸頭の形状を持つ方で放たれた形だ。「物理的に破砕する」ということで、より威力を高めた一撃を放ったのだ。
 ハンマーの丸頭部が結界にめりこんだその瞬間のこと。ついさっきの一撃の比ではない発光が生じ、耳を劈くほどの凄まじい破砕音が響き渡っていた。尤も、破砕音にしろ青白い発光にしろすぐに収まって行き、そこにはまるで本当にマジックミラータイプの硝子窓か何かが存在していたかのようにポッカリと孔が生じていた。
 目論み通りにことが進み、正威と萌はどちらからともなくハイタッチをする。パンッと小気味良い音が響き渡るが、そこにこの結果を喜び分かち合うような雰囲気は微塵もない。どちらかと言えば、一先ず一段落付いたことを形式的に再認識し合って、気合いを入れ直す為のものという意味合いの方が強かっただろうか。
 先程響き渡った耳を劈く程の音を「巨大な硝子を盛大にぶち破ったもの」に似ていたと評したが、結界に生じた孔はそこまで大きなものではなかった。拡張しようと思えば同等の方法で行えただろうが、正威と萌の二人が身を屈めて潜るには十分な大きさではある。実際、正威にも萌に孔を拡張するつもりはないようで、手早く孔の向こう側の様子を窺う次の行動へと移っていた。
 尤も、孔には薄紫色の靄が掛かっており、こちら側から向こう側の様子を視覚的に捉えることはできそうにない。もし、それをやろうと思えば、上半身を潜らせて向こう側の様子を窺うなどする必要がある。
 しかしながら、では実際に上半身を孔に潜らせて向こう側の様子を確認するかというと、その前段階としてやって置かなければならないことがある。孔にはこちら側から向こう側への空気の流れ込みが生じているにも関わらず、靄が薄まる気配が無いのだ。それがただの靄ではないことは明白だった。
 孔を潜ってその向こう側へと進み出る前段階として、正威はまず壊した結界の縁を確認する。
「すぐに結界が修繕されるってことはないみたいだな。自動修復機能があるかは解らないが、力場として高密度のエネルギーがゆっくり流れているようなイメージだから孔を後から覆い隠すように力場が埋める可能性は十分考えられる」
 正威が結界の縁を調査するその傍ら、萌が薄紫色の靄へ右手を翳しその性質を解析していた。
「靄の方は力場が急に崩れたことで生じた残滓みたいなものだね、特に問題なく素通りできる代物」
 萌はポロシャツの胸ポケットに手を突っ込むと、一枚のコインを取り出した。それは安っぽい光沢をしていて、パッと見でコインゲームか何かのものだと解る造形をしていた。萌はそれを自身の中指と親指で作った輪っかの上に載せると、パンッと弾いて孔の向こう側へと放った。
 コインが孔を通過し向こう側へと消えた後、一分近く孔の様子を窺ってみてもそこに変化はが生じない。少なくとも、何かが通過した後すぐに孔が修復を始めるというようなことはなさそうだった。
「まー、結界に空けた孔がすぐに塞がる代物だったからといって、孔を空けただけで向こう側に侵入しないなんて選択肢はないんだけどねー」
 萌は振り返って正威と顔を見合わせる。目線で「その認識で良いか」の可否を問うた格好だ。
 正威が二度軽く頷き返すのを確認した後、萌は孔に向かってひょいっと身体を滑らせる。そうやって、まず萌が孔を潜る。先行した萌から制止の言葉が発せられなかったことで、ランタンを手に正威が後に続く形を取った。
 尤も、声や音と言ったものをその孔があちらとこちらで隔絶していた可能性もあったが、萌が先行している以上そこに正威が続かないという選択肢は有り得ない。
 孔を境に正威達が真っ先に感じた変化は温度と湿度の変化だった。ぐぐっと気温が下がったのだ。体感温度にして5〜6℃近くは一気に変化しただろう。そうして、肌にまとわる澄んだ湿度がぐぐっと上昇する。
 正威が孔を潜って着地した際に感じた感触は、柔らかい絨毯の上に足を置いたような感覚だった。実際には湿った土の上に着地した形だったが、足場が確かであることが解れば真っ先に目線を走らせて確認するのは萌の存在である。
 萌は正威の着地点から二メートルと離れていない位置で、天を仰ぎ見るように立っていた。尤も、その視線の先に満天の星空が広がっているようなことはなかった。
 ランタンの灯りを向けるとその暗闇の先に何があるのかがはっきりと解る。
 そこには無数の背の高い広葉樹が、これでもかというように枝を広げ葉を茂らせ月明かりを遮る囲いがあったのだ。
 孔を潜って目の前に広がった世界は、鬱蒼と緑の生い茂った森林地帯だった。森林地帯とは言っても土地は平坦ではなく、ざっと四方八方を確認するだけでもかなりの高低差を持つ凹凸があちらこちらに遍在していることが見て取れた。
 それでも、優に十数メートルの高さに達していそうな背の高い樹木の生える密度自体がそう高くはないため、人間がこの森林地帯を移動すること自体はそう難しくないだろう。移動の際に邪魔となるだろう膝下程度の高さで生い茂る雑草が、岩肌の露出する箇所にまでは茂っていないのだ。そして、ランタンで照らし出してざっと周囲を見渡すだけでも、岩肌の露出する箇所の面積は広大だ。
 幸運だったことは、結界をぶち破って空けた孔がちょうど足場のない高所に繋がっていたりしなかったことだろう。
 萌は正威の存在を確認すると、つまらなさそうに口を開いた。
「二人別々のところに飛ばされるような仕掛けもなし、か」
 その言い回しはそうなることを期待していたようにも聞こえるけれど、トントン拍子にことが進みサプライズがないことに面白味を感じられなかったからこそ出た言葉だったろう。
「何で残念そうなんだよ? そもそもわざわざそんな高度な仕掛けをするぐらいなら、ぶち破られないような結界を仕立て上げると思うよ。まして、そんな高度な仕掛けを用いるということは、端から侵入されることを星の家が想定していたと言うことになる」
「まー、そうだよねー」
 萌は軽く相槌を打つと、スパッと頭を切り換えたようだ。ひんやりとした空気に手を翳して見せて、そこから可能な限り情報を吸い上げようとする。それは湿度や気温と言った肌で感じ取ることの出来るものから、第六感で広い取るような淀んだ気の流れといったようなものまでだ。
「ここ、空間がずれているのは間違いないとしても、時間もずれた世界だと思う?」
「どちらかというと人でないものの領域に足を踏み込んだ感じに似ていると思う。だから、時間的なずれということであれば多少は生じているかも知れないけれど、誤差の範疇だと思う。どういう仕組みかは解らないけど、あの結界を境に二つの空間を繋げているんだろうね」
 不意に萌から向けられた疑問に、正威はこの場に立って感じた率直な感想を返していた。
 空間的に言えば結界の中と外は、隣接していない完全に離れた別の場所であることは間違いない。しかしながら、その内外で大きな時間的ズレはないと正威は結論付ける。
 生い茂る木々の隙間からは月明かりが差し込んでおり、ランタンがなければ足下の確認も覚束ないほどに暗い夜の時間帯がそこには広がっている。
 しばらく萌は気を張って周囲の様子を窺っていたが、今すぐに対処しなければならないような「何か」が存在しないことを確認したのだろう。一つ大きな息を吐き出す。
「差し当たって、直近で対処でしなきゃならない大きな課題はないみたいだね」
 そう結論付いてしまうと、続いて俎上に載ってくるものは退路の話だった。
 正威達は揃って後方を振り返る。そこにはぶち破って侵入してきた孔が存在したままになっていた。
 結果的に、結界内部への侵入前に正威達が危惧したいた事態に陥ることはなかった。即ち、孔を潜って結界内部に進入した瞬間に、通過してきた孔がすぐに塞がり結界内部に閉じ込められるという事態が一つ。もう一つは、この脆い結界自体が罠で、中には侵入者を撃退する為の存在が無数に配置されているという事態である。
 もちろん、孔の方はすぐに塞がることがないだけで、時間を掛けてゆっくりと修復していくだろうと正威は推測している。それは萌も承知の上のようで、退路の確保について正威へと指針を尋ねる。
「どうする、正威? 塞がっちゃうかも知れない可能性を考慮して、中からもぶち破れるかどうか試してみる?」
 萌のその言葉は「指針を尋ねる」という体裁を取ってはいたものの、石橋を叩いて渡るタイプである正威が「そうしよう」と発言するのを確信した上での最終確認に近かった。
「いいや、その必要は無さそうだ。中も外もこいつの構成自体に違いはないみたいだ。仮に孔が塞がったとしても、その気になればどこでも孔を空けることが出来そうだよ」
 だから、正威から「その必要はない」と返されたことは萌に取って驚くべきことだったようだ。
「えッ、……そう?」
 萌しは動揺を隠そうともせず頓狂な声を上げていた。
 そして、萌はその結論に至った見解について、一歩踏み行った疑問を正威へとぶつける。
「それって結局、星の家って連中が展開した結界が、内からも外からも容易にぶち破ることのできる稚拙さの際立つものだったって結論付けたっていう認識でいいわけ?」
 星の家という集団に対する認識を、改めて口に出して確認した萌を正威は否定しない。つまり、こと結界を仕立て上げるという点に関して言えば、星の家という集団は正威から「程度が低い」と烙印を押された形だった。
「んー……、まぁ、慎重にことを運ぶタイプの正威が言うのなら、そういう方向で進めますか」
 萌は右頬を人差し指で掻くような仕草を取りながら、退路についての対応を飲み込もうとしているようだった。今まで石橋を叩いて渡ってきたからこそ、その行程を省略することに違和感を覚えているのだろう。尤も、視線を背の高い木々が鬱蒼と生い茂る森林地帯へと切り替えてしまえば、その違和感に囚われることもなくなったようだ。
 その代わりと言わないばかりに、森林地帯に存在する違和感について萌は言及する。
「話変わるけど、ここ、空間を歪めるレベルの呪物が設置されていると言う割には、何に付けても静まり返った場所だよ。もっと、バタバタ良くないものが彷徨いていてもおかしくないのに、その類の、呪物に引っ張られて生じる歪みの欠片も感じられない。どこにでもある不気味な夜の森って感じ」
 その萌の言い回しは「どこにでもある不気味な夜の森」相当の危険さが、この森林地帯に潜んでいると言い切ったものだ。しかしながら、同時にその危険度を遥かに凌駕するはずの「呪物の影響力」が伴っていないことに対して言及したものでもある。
 森林地帯の様子を探った結果として、萌は拍子抜けしたと言わないばかりの顔で正威へと向き直る。
 ここまで来て起脈石に接触しないなんて選択肢は有り得ないものの、萌としてはどういうアプローチを取るのかを確認しておきたかったのだろう。
 正威が腕組みをしながら左手で右頬を摩る。その表情は優れない。この森林地帯に対して感じ取るものに萌が口にした以上の何かを見付けられないからこそ、起脈石接触に至るアプローチをどうするべきか迷っている風だった。
 正威が何らかの決断をするまで手持ち無沙汰なのだろう。萌は近くの大木へと身体を預ける形で寄り掛かる。そうして、萌が一つ深呼吸をした矢先のことだ。萌の視線が鋭さを増し、寄り掛かる大木を挟んだ後方の様子を探るように動く。
 その直後のこと、萌は瞑目し口元を笑みで歪めていた。
「何かこっちに向かってやって来るね。ようやく、場違い感満載の何かが来たよ」
 そうやって何かの気配を察知するが早いか、萌はハンマーを手に取り身構える。
 萌が知覚したそれは視覚で捉えることのできない位置に姿を隠すだとか、そういった小細工なしに出現する。
 正威と萌が居る場所からは若干高さのある場所で、ちょうど二本の大木の根っ子が激しく巻き付き激しい自己主張をする付け根の部分からひょっこりとその姿を現した格好だ。
 そいつは膝下までの長さがあるパーカーを羽織り、パーカー付属のフードを頭からスポッと被ったような出で立ちだった。しかしながら、パーカーの裾はゆらゆらと揺れる度にボロボロと崩れては新たに再生するのを繰り返している。恐らくはパーカーの形を模しただけの、怪物の体の一部なのだろう。
 パーカーの怪物は正威と萌の様子を一瞥すると、それと解る形で戦闘態勢を整える。
 萌に慌てる様な調子は微塵も見受けられない。侵入者を排する仕組みが存在することは、端から想定の範囲内だったと言わないばかりだ。さらに言えば、萌の警戒は出現したパーカーの怪物一体に向いておらず、さらに増加するだろう「侵入者を排する仕組み」を想定して周囲の暗がりへと向けられていた。
 しかしながら、萌の警戒に反して周囲にさらなる気配が出現することはなかった。代わりに、パーカーの怪物が戦闘態勢を整え終えたと言わないばかりに、ゆっくりと萌への距離を詰め始める。
「へぇ、侵入者を排除する仕組みがこんなの一匹だけ? 星の家って集団は余程この脆弱な結界に自信を持っていたのかな? それとも、こんな辺鄙な場所の呪物を襲撃されるとは心にも思っていなかったかのかな? 奇襲成功って奴?」
 煽る萌の言動にも、パーカーの怪物は全くの無言だった。そうして、正威と萌の居る場所とほぼ同じ高さの場所まで一言も言葉を発することなく進み出るとそこで足を止め、僅かに開いたパーカーの胸元から黒く巨大な腕を、真横に、これ見よがしに伸ばして見せる。いや、それを「腕」と表現するのは間違っていただろう。人間の腕の形を模してはいるものの、途中で枝分かれする形で二対となっていたし、指と思しき造形は十数本にも及んでいたからだ。
「端からこういう攻撃を仕掛けますよって感じで、手の内を見せるかのように牽制して来るのは作戦だと思う? それともただ単にそこまで回す頭がないだけだと思う?」
 正威にパーカーの怪物の作戦について問う萌の声は大きく、パーカーの怪物に筒抜けである。もちろん、それも一貫してパーカーの怪物を「煽る」為のものではあっただろうが、回す頭がないという見解は大凡的を得ていたかも知れない。
 パーカーの怪物には人の言葉を理解している様子が微塵もなかった。
「絶対に負けるはずがないっていう自身の表れかもな」
 改めて、パーカーの怪物をマジマジと窺い見た後で、萌はそんな正威の意見に首を横に振る。
「ないな、ないない」
 同時に、ニィと口元を歪めるように笑みを灯した萌は、パーカーの怪物の力量を瞬時に推し量ったようにも見えた。もちろん、萌の推量から見たパーカーの怪物の力量は「そう大したものではない」と言った類のものだ。
 萌からの低評価を受けたパーカーの怪物の表情を窺い知ることは出来なかったが、そもそもパーカーの怪物に表情なんてものは存在しなかったかも知れない。パーカーのフードをすっぽりと被っているとはいえ、顔の輪郭の造形すら掴み取れないのだ。パーカーと思しきものが形を模しただけの怪物の体の一部であるかのように、パーカーの中身も不定形の靄のような存在なのかも知れない。
 萌は不敵な笑みを灯したままの好戦的な態度を前面に押し出す格好で、一歩二歩と進み出る。それはそちらから近付いてこないのなら、こちらから進み出て「お前を攻撃可能な距離に捉える」という意思表示をした形だ。
 正威も交戦することに対して反対するつもりはさらさらないようだ。そうして、萌の推量が大凡正しいとも感じているようだった。萌へと向ける言葉に後退することを視野に入れた調子は微塵もない。
「何にせよ、油断するなよ。ここは奴らの領域だからな」
「了解。取り敢えず適当に接近戦を仕掛けるから、バックアップは宜しく!」
 そう正威に要求するが早いか、萌はすぐさまハンマーを担ぎ上げるとパーカーの怪物へと距離を一気に詰めることを試みる。ゆっくりと距離を詰めてきたパーカーの怪物とは対照的に、萌の進行は慎重さもへったくれもなかった。到底、重量物を担いでいるとは思えない速度と俊敏な挙動で、瞬時にパーカーの怪物までの距離を詰めた形だ。相手の出方を窺うとかそういった思惑は、一切そこから読み取れない挙動だったといっても良い。
 泥濘なんかが存在するかも知れない。そんな足場の善し悪しを確認できていないにも関わらず、そんな急接近を試みるという行為に萌の無謀さが浮かび上がったようにも見えただろう。
 しかしながら、萌が選んだルートは全て大地から顔を出す岩肌の上を渡るという、それなりに「足場」を選んで確保したルートだった。確実性には乏しかったとはいえ、ある程度の勝算を持って打って出た行為であったわけだ。満足に月明かりも差さない暗闇の中という状況下にあって、その決断と行動力は驚嘆に値するものだと言えた。
 夜目に対する絶対的な自信があったのか。バックアップを正威に任せているといった意識がそこに働いていて、正威の援護に全幅の信頼を置いているといとうのもあっただろうか。それとも、どんな反撃があっても凌いで見せるという過剰な自信がそこにはあったのだろうか。
 ともあれ、萌が一手にパーカーの怪物の攻撃を前衛として引き受ける形で争いの火蓋は切って落とされた。
 既に攻撃態勢を整えていたパーカーの怪物は、萌の接近にも臆することなく迎撃の一撃を繰り出す。しかしながら、お世辞にもそれは臨機応変に萌の挙動に対応したものとは言えなかった。十数本にも枝分かれした細く長く撓る鞭のような指の扱いも単調そのもので、振り翳しては萌を狙って薙ぎ払うのみのワンパターンと言っても過言ではないだろう。それこそ、本当に決められた手順に沿って決められた単調な反応を返すだけの、工作機械みたいな存在なんじゃないかと思わせられるぐらいだ。
 そんな単調極まりないワンパターンが崩れたのは、萌がパーカーの怪物まで後僅か五メートル近くという距離まで縮めた時のことだった。今の今まで薙ぎ払うことのみに特化していた動きが、萌を掴み挙げようとするものへと変わったのだ。
 パーカーの怪物が掴み挙げまいとして今まさに伸ばした左腕は、しかしながら、萌によってあっさりと擦り抜けられてしまう。
 その結果をパーカーの怪物が想定していたのかすら定かではなかったが、そこで再びワンパターンだった動きに変化が生じる。恐らくは、胸元付近まで切り込まれることを何よりも嫌ったのだろう。一際大きな挙動を持って右腕を振り翳し、前方数メートルに渡って、より広範囲に、より高さ方向を拡大した薙ぎ払いを繰り出してきた。
「やっとらしい動きを見せてくれたじゃない? 機械的な動きは変わらないけどさ!」
 十数本にも及び細長く伸びた指をそういう風に用いて攻撃を繰り出してくるだろうことを萌は端から想定していたようだった。大木の側面を足場に見立て、三角飛びの要領でフェンスを跳び越えるかのような軽やかな動作でその薙ぎ払いを回避する。立てて加えて、萌は回避の動作に合わせパーカーの怪物の胸元へと切り込む格好だ。
 空中を浮遊する間にハンマーを握り直して攻撃態勢を整えてしまえば、萌は着地と同時に攻撃に打って出る。振り上げたハンマーからは、パーカーの怪物の側頭部と思しき位置に強烈な一撃が振り下ろされた。
 それは何かしらの仕掛けがないと、その細腕から繰り出した一撃とは思えない程の威力を伴うものだった。パーカーの怪物は見るも無惨に吹き飛ばされ、固い木の根っこやら岩肌が地面から顔を出す箇所へと頭部から落下し激しく打ち付けられる格好となる。
 それが人間であったなら致命傷間違いなしのまずい落下の仕方だったが、当のパーカーの怪物はさも何事もなかったかの如くむくりと起き上がって見せた。加えて言えば、体格的にかなりの重量を持っている風であるにも関わらず、落下時に生じた音は「ザアァァァ……」といった、木の葉が風に舞うかのようなものであり、改めてパーカーの怪物が「人間」に該当しない別の何かであることを強く意識させる。
「物理的な手応えがほとんどない感じだねー、パーカー君。これがただのハンマーじゃないからどうにか吹っ飛ばすことが出来ただけで、ダメージが通っているかどうかは甚だ疑問」
 ハンマーへと視線を落とし、冴えない表情を覗かせる萌からは、パーカーの怪物への手応えに対する率直な見解が述べられた。今のままの攻防では撃退出来ない旨を如実に述べたものだったが、そこに具体的な対策案はまだ示されない。
「霊体とか残留思念とか、実体がない感じか?」
「どうだろ、でもご覧の通り純粋な物理攻撃でどうにかなる相手じゃないのは間違いないだろーねー」
 今のままではどうにもならないという状況に至ってなお、萌の口調は非常に軽かった。肩の力が抜けていると言えば聞こえは良いが、そこには緊張感と言った類のものが微塵も感じられないほどだ。
 それだけパーカーの怪物の攻撃が萌に取って想定の範囲内のものであり、実際に想定以下の威力しか伴っていないのかも知れなかったが、傍目には相手を見くびっているかのようにも映り兼ねない言動だったろう。
 尤も「ではどうするか?」を萌が模索していないわけではない。
 その攻略手順を思索しているのだろう萌の表情は、お世辞にも上品な顔付きとは言い難かった。ゲームか何かを楽しむような顔付きで、如何にして勝ちを取りに行くかを簡素に貪欲に求める享楽的なそれだ。そして、端から最適解を求めようとしていない。もちろん、これが弱点と見切った一撃でどうにかなれば儲けものだろうが、それが駄目だったなら何度でも何度でも萌は試すだろう。
 マジマジとパーカーの怪物の様子を窺っていた萌から、不意に要求が飛ぶ。
「正威、結界破りで最初に使った力場拡散の符を頂戴。パーカー君、多分あれがクリティカルヒットするタイプ」
 萌が直感的に感じ取ったものを、否定する理由は何もなかったのだろう。
 萌に要求されるがままに、正威はその符を用意する。
「了解」
 胸元から符を取り出して、それを前方に放って薙ぐように正威が手を動かすと、その符は一直線に萌へと向かって飛んでいく。当の萌は後方を振り返ることもなく後ろ手でその符を掴み取れば、そのままクシャッと握り締める形でハンマーの柄へと巻いてしまった。
 そこからの機敏な萌の攻めは、先程パーカーの怪物の胸元まで切り込んだ速度を遥かに凌駕していた。パーカーの怪物に細く長く撓る鞭のような指を繰り出す間も与えず、ハンマーを破壊鎚に見立てて突進した形だ。
 今度の萌の一撃は、パーカーの怪物の体の一部を瞬時に霧散させた。その一撃がヒットした箇所は、人間で言うところの右膝側部と言えば良かっただろうか。ともあれ、その箇所を中心にパーカーの怪物は下腹部から右足に掛けての全てをパーカーごと霧散させ失っていた。当然、立っていることなど適わず、パーカーの怪物は大きく蹌踉めく。
 そうして、そうやって体勢を崩したパーカの怪物の腹部目掛けて、萌の追撃がヒットする。それはボールをバットで打つ要領で、腹部を下からハンマーで叩き付ける形だ。パーカーの怪物の右膝側部にハンマーを突き立てた勢いを殺さず、そのままくるりと回転して、大きく体勢を崩したパーカーの怪物の腹部へ追撃を叩き込む当たり、萌はそのハンマーを用いた攻撃に熟練していた。
 数メートル近く吹き飛ばされて、大地に叩き付けられたパーカーの怪物は、下腹部同様大きく抉るように胸元から下を失っていた。頭部と腕二本とを繋ぐ上半身の一部がどうにか残っているだけで、既にまともに動き回れるような状態ではないと言って良かっただろう。
 それでも、パーカーの怪物の怪物は戦意を喪失せず、黒い腕を振り翳す。
 尤も、それが萌をどうにかできる起死回生の一手だったかと言えば、そんなことがあるはずもない。言ってしまえば、それはもう、それ以外に打つ手のない苦肉の策だ。
 黒い腕を振り翳すという単調な攻撃は、萌にあっさりと間合いを読まれて回避される。そうして、途中で二対に枝分かれする黒い腕の付け根部分にハンマーを破壊鎚に見立てた一撃で叩き込まれてしまえば、パーカーの怪物はすぐに攻撃手段さえも失った。
 地面に横たわるパーカーの怪物の霧散した肉体が再生する気配はない。それは破壊鎚のようにハンマーを突き立てられて霧散した黒い腕にしても同様だった。勝敗は決したと言って良かっただろう。
 萌は地面へ横たわったまま、もぞもぞと芋虫のように動くパーカーの怪物へとゆっくりと近づき冷めた目で尋ねる。
「……口聞くことは出来る?」
 上半身だけとなり岩肌へと横たわる格好となってなお、パーカーの怪物は這って進む形で萌へ接近を試みる。そんな執念とも受け取れる行動を見せるにも関わらず、知能自体はそう高くないようだ。萌の問い掛けに対しては何かしら反応を返すことさえしなかった。
 萌は呆れた様子を隠そうともしなかった。そうして、窮鼠となったパーカーの怪物の背中部分から不意に放たれた一撃さえも難無くするりと回避してしまえば、残ったパーカーの怪物の上半身へと向けハンマーを振り下ろし決着が付く。
 萌は符の力を解放してハンマーを振り下ろしたようだ。
 パーカーのように見えたものの布きれ一枚ぐらいは形として残るかとも思われたが、そこには何も残らなかった。
「終わったよ、正威」
「みたいだな。お疲れさん」
 正威は萌へ労いの言葉を向けながら、周囲にまだ敵が存在していないかどうか気配を探る。当然、萌も同じように気配を探っていただろうけれど、念には念を押してというわけだ。そして、ぐるりと周囲の様子を正威が確認するのには、敵の存在を確認する以外にも意味があった。
 この近傍に存在するだろう起脈石という呪物の位置を特定するためだ。
 パーカーの怪物が掻き消えた地点まで周囲の様子を確認しながらゆっくりと進む正威だったが、岩肌の上に立つ萌は「探るまでもない」と言わないばかりにクイッと顎をしゃくって見せる。
 正威の居る場所からは感じ取れなかったものの、萌の立つ岩肌に近付くに連れ確かにそれは簡単に知覚できるようになった。パーカーの怪物の痕跡やらを確認するまでもない。呪物がその在処を主張しているかのようと言っていいだろう。
「隠すつもりなんて全くないよね?」
「結界の中へと侵入し、パーカー君を打ち破った時点でチェックメイトまで進んだのかもな」
 萌はパーカーの怪物が掻き消えた岩肌へと視線を落とした後、正威へと起脈石へどうアクセスするかを確認する。
「あたしが先行するで良い?」
 ざっくりと気配を窺ってみた限りでは、敵が周囲に身を潜めていないだろうことまでは把握出来ているのだ。だから、その申し出はこの先に罠が鏤められている可能性を考慮した上で確認したに等しい。先行すると言うことは、罠を一手に引き受けることを意味したが、さもそれが当然であるかのように確認する萌の態度を見るに、この二人の関係でいうのならそうやって前衛を萌が務めるというパターンが通常の流れのようだ。
「ああ、頼む」
 その申し出に対する正威の答えも「任せる」という内容だ。
 大凡、パーカーの怪物がこちらに向かって進んできた方角へと歩いて行くと、それは容易く発見することができた。距離にして三百メートル近く離れた位置に、一目で「起脈石」だと解る記念碑めいた石柱が鬱蒼とした森林の中に佇んでいたのだ。
 罠もへったくれもなかった。鬱蒼とした森林地帯には獣道さえなく、疎らに雑草の茂る足場の悪い土地をただただ進むだけだった。
 萌は歩調を緩めることなく一直線に起脈石へと歩みを進め、容易に手を伸ばせば起脈石へと触れられる場所まで接近する。そうして、起脈石を前にハンマーを身構えてしまえば、萌は複雑な表情で何の変哲もない石柱と見紛うそれに視線を向けていた。
 正威や萌の感覚で言えば、パーカーの怪物という起脈石の守護者は余りにも程度が低いと言わざるを得なかった。起脈石へと近付かせない為に用意したのだろう結界にしてもそうだ。余りにもちゃちな代物だと言わざるを得なかった。
 だからこそ、この「起脈石」という呪物そのものが「罠かも知れない」と、勘繰る思考が脳裏を過ぎるのだろう。
 すぅと息を吐き、萌が動きを見せる。
「やっちゃうよ?」
「ああ、やっちゃってくれ」
 少し離れた場所に立つ正威からのゴーサインが下れば、萌は躊躇わなかった。
 起脈石の真正面からハンマーを破壊鎚に見立てて勢い良く突き立てる。
 すると、起脈石は硝子細工か何かのように、脆くあっさりと崩れ落ちてしまった。
 符の力を用いて、そこに何かしらの追加効果をもたらしたわけでもない。それこそ、何か良くない相乗効果が生じる可能性を危惧して、萌は自身の腕力だけでそれを行った形だ。にも関わらず、起脈石は拍子抜けするほど簡単に壊れてしまった印象だ。
「起脈石の探索、破壊に際して特に手間取るようなこともない……か。随分あっさり発見できたし、随分あっさり壊れてくれるものなんだな」
 それは正威の率直な感想だったろう。もっと手間取ると思っていたし、もっと呪物たる起脈石の破壊に時間を割くことになるだろうといった予想だったのだ。そこには、空間に歪みを与えるような代物がこんなに簡単に壊されて良い筈がないという正威なりの経験則が滲んだ。
 正威が感じる呆気なさは、すぐに萌からも肯定される。
「そうだね、呆気なく行き過ぎだよね。後、付け加えると、パーカー君も断然見掛け倒し。正直なところ、拍子抜けしちゃった感じ。「こんなんで良いの、星の家?」って思いだよ」
 パーカーの怪物、延いては星の家に対する萌の評価は手厳しい内容に終始する。
 パーカーの怪物がどういう層を相手に立ち回ることを想定していたのかにもよるが、少なくとも、結界をぶち破って侵入してくるような相手に対処する能力を持っていなかったと萌は評価したようだ。
 萌の肯定があったからというわけではないが、正威の感じる呆気なさ、延いては疑惑は起脈石そのものへも向いた。
「起脈石って呪物にしてもそうだろう。当初聞いていた内容と、こうして間近にして感じる感覚とでも大きな差異があると言わざるを得ない。……ただ単に、稼働前の状態だったっていうのかも知れないけど、それにしてもだ。稼働状態では周囲に歪みを生じさせる規模の影響力を、これが発揮させられる代物だっていうのか?」
 そこまで口にしたところで、正威は表情を曇らせる。それは、自身が口にした内容を「有り得ない」と切って捨てたわけではない。星の家のこの為体で、その影響力を行使し維持した場合の様々な懸念に対して顔を顰めた形だ。
 正威は半壊した起脈石を再度マジマジと眺め見る。しかしながら、正威の推測を確認する術はない。
 起脈石の破片をいくつか手に取り、それを胸元に締まってしまえば、ここで出来ることはもう何もなかった。
 半壊した起脈石を前に腕組みをして思案顔を覗かせる正威に、大木に寄り掛かる形で背を預ける萌から声が向く。そこには正威に対する「悪い癖が始まった」といった類の呆れが見え隠れしていた。
「長居は無用じゃない? 色々考えたいことがあるのは解るけど、まずはさっさとここから離脱しちゃうおうよ」
 そこまで言い終えると萌は正威の反応を待たず、起脈石に背を向けその場を先に後にした。
「そうだな。破壊されたことに気付かない程、相手さんも間抜けじゃないだろうからな。相手さんの対応次第では、主窪峠で鉢合わせなんてことになもなりかねないもんな」
 ズカズカと来た道をさっさと戻って行く萌の背を追う形で、正威も半壊した起脈石を後にした。一度立ち止まって振り返り、起脈石だったものの残骸を見返したものの、すぐに萌の背を追う速度を速めてその場を後にした。
「まずは、欠片を調べてからでも遅くはないか」
 ボソリと呟いた言葉の端には、微かな不安の色が滲み出ていた。




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