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Seen08 head or tail?


 第二ラウンドはどちらから攻め込むという風ではなく始まった。
 挨拶みたいな雑談が尻切れ蜻蛉に途切れた後には、既にその雰囲気が漂ってしまっていたのである。
 切り込んだのは綾雛、ナイトの双方であり、どちらが遅れて……ということではない。そう、それはほぼ同時。
 雨音だけに包み込まれた静寂の世界には、一際けたたましいまでの太刀音が鳴り渡った。
「ガァァァギキィィィィン……」
 双方、一切の迷いなく力押しの一太刀だった。
 綾雛のことを言うなら「懲りずに」となり、ナイトのことを言うなら「型通り」となるのだろう。
 踏み込む際の足音が一際大きく反響する中、天井から釣り下がった旧式の裸電球が頻りに揺れていた。ここにあるのは、綾雛、ナイトの両者が斬り込みの際に踏み出す一足の衝撃だけだ。裸電球を揺らす様な衝撃はそれしか存在しない。
 ゆらりゆらりと揺れる薄暗い電灯の明かりは光の斑な部分を作り、そこに僅かな感覚の狂いを生じさせる空間を作り上げていた。狂いとは綾雛とナイトの間合いだったり、視覚上に置ける相手までの距離の目分量だったりする。
 しかし、一際、その狂いが大きかった側は言うまでもない。場数として劣る綾雛の側である。
 それでも、道幅も天井の高さも必要十分を充たすこのコンコースはどの様にでもその間合いを修正出来る場所だった。完全に平坦にはなされていない所々に凹凸のある床にさえ注意を払えば、コンコース中央に等間隔で存在する柱を盾にすることだって可能なのだ。そんな場所としての要素を先に利用しよう考えたのは綾雛だった。
 力押しの鍔迫り合いから身を引き、ホルスターから「CZE Vz83」を左手で抜き取ると、間合いを調整しながら撃ち放つ。「トタタタタタ……」と響き渡る銃声は片っ端から衝撃吸収素材製品相手に弾かれる格好ではあった。それでも、コートに守られていない部分をガードする必要があるために、ナイトの動きを制限する程度の役には立つわけだ。
 コンコース中央に存在する柱を利用して、射撃の間隔を広げたり狭めたりと試行錯誤をしてはみるものの、基本的にナイトは綾雛の動きに注意を払っているらしく、その射撃を挟んだことで隙という隙が生まれることもなかった。
 即座に攻撃を射撃から長刀で切り込むものに切り替えても、綾雛はナイトの対処を崩せなかった。ふっと気付けば、攻守を逆転される形で綾雛は何度も何度も距離を置かざるを得なくなる「悪いパターン」がそこには存在していた。どう足掻いても「長刀と銃撃の組み合わせでは突破口を作れないのか?」と試行錯誤が続く最中、それは発生した。
 それは突然のことだった。そして、綾雛の脳裏へ焼き付いた苦い一コマを鮮明に思い起こさせる瞬間でもあった。「この連撃を前回と同じように防いでしまったらまずいことなる!」と直感した。そう「この角度はまずい!」と思った。
 ここを踏み込まれてしまったなら、前回と同じパターンまで後はトントン拍子に進むことを否定出来なかった。タングステンカーバイト製の長刀をナイトの横に薙ぐ渾身の一撃でへし折られた、あの「パターン」まで進んでしまうのだ。
 例え、この一撃で新品の長刀が破壊されることがなかろうと、どうしても回避しておきたかった。
 ここに来て初めて、綾雛は「融通の利かない右足」というものを体感することになる。「まずい!」と踏んでから加速の発動を、反射的に、ほぼ無意識のうちに選択した後、ゼロコンマの時間を挟み、そこには確かに躊躇いが生まれたのだ。だから、それが義足ではなく自分の「足」だったなら、その躊躇いで加速の使用は確実に中断されていたはずだった。
「この切り札を逃げの一手で使ってしまうわけにはいかない」
 そんな強烈なイメージを伴う思考が躊躇いの直後に、綾雛の中には生まれたのだからである。
 聞き慣れた地を蹴る音、何度も味わった加速度。既に、慣れた反動が綾雛の身体を襲って、加速は発動した。
 綾雛の胸中を塗り潰した戸惑いは相当のものだった。同時にギリッと唇を噛み締め、綾雛は激しい歯痒さを覚えた。
 一つ遅れてナイトの長刀が「ヒュンッ」と空を切った。ついさっきまで、そこに綾雛の胴があった空間をナイトの長刀が薙ぎ、風切り音を響かせたのだ。渾身の薙ぎに転じた、……それも一撃を見舞う確かな目算を持って繰り出したナイトの攻撃を綾雛が回避してみせたことで、ナイトは大きく踏鞴を踏んだ。立てて加えて、それが加速の発動による動きだとは瞬時には理解出来なかったらしい。ナイトは目を大きく見開いた怪訝な顔で、マジマジと綾雛を注視した。
 一方の綾雛は身体一つ二つの距離を加速を用いて高速後退したわけだった。長刀の構えは崩れてはおらず、すぐさま反撃に転じられる状態にある。ナイトの体勢が崩れた今、そこに畳み掛けて致命的なダメージを与えるというには絶好の好機だとさえ言えた。しかし、綾雛はそこでドジを踏む。着地の際にバランスを崩す形で僅かに蹌踉けたのだ。言えば、綾雛自身が望まなかった加速の発動に気を取られたから故だったが、その隙は逆にナイトによる一撃を許すことに繋がった。
 ドゴォッと鈍い音が鳴り響いた。
 長刀を振り回す、それ一辺倒の戦闘を展開していたナイトが綾雛の腹部に下から突き上げる様なハイキックを叩き込んだのだ。長刀を使う時とは明らかに異なる間合い、そして、踏み込みの速度だった。不覚の「加速」に意識を取られていた綾雛では到底回避不能な、意表を付いた一撃だった。
 それが、もしも、大袈裟に構えて切り込むナイトお得意の力押しの攻撃だったなら、まだ、対処は利いただろうか?
 そう、臨機応変など簡単に崩れる。経験が足りなければ、それはただの泥縄に過ぎないのだ。
 綾雛は自分の身体が浮き上がるかの様な激しい衝撃を感じていた。尤も、実際には微かに後退したに過ぎない。
「ゴホッ、……クハッ、そちらさん、……やってくれるじゃない」
 苦痛というよりかは抑制出来ない咳が込み上がってきたかのよう。そして、後から痛みがじわりじわりと輪郭を伴って浮き上がってくる。……嫌な苦痛だった。それは脳が危険を察知し、咄嗟に痛みを遮断したに近いものだろう。
「あなたがどんな身体構造をしているのかまでは判らない。しかし、普通の女性が持つそれ以上の重量を持っているだろうことは先の一件である程度推察出来た。今回「加速」と言うあなたの能力を見たことが確信になった」
 ナイトの言葉に綾雛は苦笑いを見せていた。
 はっきりと口にして明言しなかったがナイトは確かにそこに臭わせた格好だ。綾雛の弱点が判ったことをである。
 重量があること、実際それが仇となったわけだった。腹部へ決まったハイキックで吹き飛ばされていたなら、逆にそこまでのダメージを受けることはなかったはずだ。重量があるからこそ、ナイトの一撃による衝撃を綾雛自身の身体で相殺しなければならなくなったわけだ。もしも、吹き飛ばされていたなら衝撃の大半はそのまま加速度に変わったのだ。
「はんッ! 前回、行動不能になったそちらさんの言葉とは思えないよ、それ?」
 綾雛としてはそんなナイトに対し、まだ、強がりを見せる余裕があることがせめてもの救いだろう。
「まだ、……やるつもりなのか?」
 綾雛は長刀で空を薙いで「ヒュンッ」と風切り音を響かせると、言葉で返す代わりと言わないばかりに身構えた。
 既に長刀の扱い方云々を考えている余裕など、綾雛にはなかった。時間が分刻みで経過する毎に、ズキズキと苦痛はその度合いを増していって、ハイキックのダメージが尾を引いている状態にあるのだ。……肋の一本二本は持って行かれたのかも知れない。
 荒さを増した綾雛の攻撃を巧みに捌きながら、ナイトは綾雛の放電を警戒している様だった。それさえ凌ぎ切ってしまえば、綾雛の負けが確定的になることを判っているからだろう。あの放電さえなければ、前回ナイトが苦杯を嘗める様なこともなかったのだ。尤も、ナイトを行動不能に陥らせた一撃だったのだから、そのナイトの警戒も当然だろう。
 例え、加速で高速移動をされても、例え、加速度を伴った威力の高い一撃を繰り出されても、ナイトはどうとでも対処は出来ると考えているらしかった。長刀を扱うナイトに対して、遠距離から加速を用いて、直接、懐に飛び込む様なやり方は綾雛の側も相応の危険を伴うことになる。
 それでも、重量があるなら、その重量を活かした攻撃に転じるしかないと綾雛は思った。
 そんな綾雛の思考はまさに開き直りの域に達していただろうか。
 しかしながら、剣戟で勝ち目がないなら剣戟以外の部分でそれを補うしかない。まして、既に加速という取って置きの切り札を相手に見せてしまった以上、後はアイディアなり、戦略性なり、奇襲なりでナイトの意表を付くぐらいしか攻める手だてがないのも確かである。恐らく、正攻法ではもう既に綾雛がナイトを倒すことなどまならないのだからだ。
 距離を取って「CZE Vz83」を身構えるとナイトは衝撃吸収素材製品のコートにくるまる様に身を隠す。綾雛はそんなナイトを中心に置いて、円を描く様に移動しながら射撃をした。「トタタタタタ……」と鳴る銃声はすぐにマガジンの弾切れで途切れる格好だったがマガジンのストックは多量にあるのだ。それを活かさない手はなかった。
 手早くマガジンを入れ替え、一定の距離を保ちながら綾雛はナイトへの射撃を続けた。
 接近し過ぎれば、間違いなく、ついさっきのハイキックを繰り出した速度でナイトの一撃が来ると思っていた。ただただ、ナイトが弾切れを狙っているとは思えないわけだ。防御に徹する体勢を取りながら、弾切れになるまでの間隔を読むなりなんなりして、一瞬の間を狙ってくると思っていた。
 綾雛としては何としても、ナイトが防御に徹しているうちに好機を広げておきたかった。
 綾雛がナイトの右斜め後方の位置まで来た時のこと。綾雛は意を決して、次の攻撃に転じる。トンッと床を蹴ると、右足で踏み込む体勢を取って加速を発動させたのだ。……狙うはナイトの後頭部。綾雛の蹴りは「ドゴォッ」と鈍い音を響かせて、振り向き様のナイトの顎下に命中した。
 綾雛は自分の身体の中で最も重量のある右足に全体重を乗せ、さらに加速による加速度を上乗せした格好だ。
 ナイトはナイトで足音が消えたことに不用意に様子を窺ったのが仇になった格好だった。回避する間などないほどの一瞬の出来事だったのだ。間合いを瞬時に、それも足音もなく詰められてナイトは声を立てて笑った。
「くく、くくく、早いッ! 想像以上に早いなッ! これがあなたの「加速」か!」
 ナイトは綾雛の大凡の着地点を読んで、大袈裟に長刀を身構え切り込もうと体勢を取った。しかし、実際に踏み込む間際になって、ナイトは自身の身体の反応が鈍いことを理解する。
「まともに顎下に決まったわけだから、ちょい脳震盪を起こすぐらいの人間らしさを見せて欲しいものだよね!」
 そんな愚痴を零しながら、綾雛は着地と同時に身構えナイトの攻撃に防御態勢を整えた。けれど、実際にはそこにナイトの攻撃が繰り出されることはなかった。
 綾雛の全体重を乗せた顎下への一撃はナイトが思う以上にナイトの身体にダメージを残していた。
 三桁台に乗る綾雛の体重だ。それも加速による加速度を伴って直撃したのだから、それも当然と言えば当然だった。
 ナイトは一度グラリとふらつくと、しっかりとその手に握っていたはずの長刀を床へと落としてしまう。ナイトが見せる一瞬の苦笑い。しかし、それもすぐに、心底楽しげな、ただの含み笑いに変わっていた。
 長刀を拾う動作と、長刀を諦め間合いを詰める両方の動作を警戒し、綾雛が左手で「CZE Vz83」のマガジンを入れ替えたのとほぼ同時。ナイトは長刀を拾う挙動を見せず、三メートルと離れていない位置に着地した綾雛へ接近することを選択した。……双方、良い腹の探り合いだと言えた。
 下半身を狙った「CZE Vz83」の射撃で接近を牽制しようとするが、またも綾雛はナイトに意表を付かれる格好になる。
 ナイトが「バサァッ」とコートを翻し、それを綾雛へと放ったのだった。「トタタタタタ……」と一つのマガジンが空になるまで撃ち放ってから、綾雛はハッとなって後退する。
 衝撃吸収素材製品に「パンッ、パンッ、パンッ……」と弾丸が弾かれる音が鳴り響き、同時にその音によってナイトの足音が包み隠された状況だった。そして、コートによってナイトの姿を捉えることも出来ない状況下。
 しかし、逆にそれが綾雛の危険信号を点灯させた格好でもあった。反射的に「CZE Vz83」を持つ側の左腕を曲げて頭部をガードするポーズを取ったことが功を奏したと言って良いだろう。
 そこにナイトからの右ストレートが決まった。
 ふっと気付けば「ガシャアアンッッ」とけたたましい音が鳴って「CZE Vz83」は床に転がっていた。
 左頬に痺れを感じつつ、それが確かな痛みへと変わったのは直後のこと。口に広がる血液の味に口を拭うと、唇の左端が切れていることを綾雛は認識した。それでも、……直撃を食ったハイキックと比較すれば微々たるダメージである。
「もう一撃、来る!」
 そう状況を読んだ時点で、既に綾雛は加速を使用していた。
 加速を用いて真横に思い切り飛んで、壁際まで転がっていってしまった「CZE Vz83」を拾い上げる。初めはそのつもりだった。しかし、加速を使ってその場を離れた綾雛をナイトが見失ったことで状況は一転する。
 ナイト自身、自ら放ったコートに視界を奪われた格好だった。そして、まさかそこから綾雛が加速を用いて真横に逃げるなどとは予測出来なかったのだろう。
 そうだ、臨機応変など簡単に崩れるものだ。それは蓄積された経験によって初めて生きるものである。
 ナイトといえども、加速という能力を自由自在に用いる相手とこうして戦った経験などないわけである。
 綾雛はコンコースの側壁に、重力を無視して着地する格好で、再度、右足に加速の命令を下した。体勢を整えることに細心の注意を払い、側壁に右足が密着したタイミングで加速を意識したわけだ。そう、加速を重ねることだけを意識した。「ドゴォッ」とけたたましい音が鳴って壁の側面には、綾雛の右足が接した点を中心に円形の窪みが生まれる。
 加速に加速を重ねようとすること自体が初めての経験だった。一度も試したことはないし、まして、佐土原がそんなことを想定して義足を制作しているとは考えられない。しかし、それでも、もう後には退けない。一か八かである。
 恐らく、脳の中でおかしな化学物質でも生成されてしまっているのだろう。
 そんな無茶を進行形で行っているにも関わらず、綾雛は著しい「高揚感」を感じていた。まるで、思考の一部が麻痺しているかのよう、成功するイメージだけが先行し失敗を危惧する思考は一つとして存在しない。
 ナイトは側壁が窪んだ音で綾雛の位置を察し振り返る。しかし、綾雛は既にナイトとの距離を詰めている段階だ。そこには咄嗟の回避が間に合うだけの距離は存在しない。
 再び、ドゴォッと鈍い音が鳴り響いた。
 しかしながら、それはクリティカルヒットとならなかった。
 尤も、どうにか直撃を免れはしたものの、ナイトが計り知れないダメージを負ったことは一目瞭然ではある。ナイトのその行動自体、咄嗟に取らざるを得なかった苦肉の策だとさえ言って間違いないだろう。
 綾雛の全体重を乗せて頭部を狙った蹴りはナイトの左腕によって受け止められた格好だった。見た目にも綾雛の太もも以上はあるだろう左腕が「ギシッ」と軋んだ音を立てたのだ。しかし、綾雛が狙ったナイトの頭部に直撃したと言うわけではない。ともあれ、全体重を乗せた綾雛の右足での蹴りをナイトは防ぎ切ったわけだった。後は手の空いている右腕で、綾雛の足を掴むなりして振り払えば、綾雛の攻撃の流れをプツリと絶つことが出来る。左腕に著しいダメージを負いはしたものの、ここから戦闘を組み立て直せばまだまだ勝機はある。ナイトの思考はただただそこに集中していた。
 ナイトは綾雛を掴んで放り投げようとする。けれど、眼前をちらついた長刀の一撃に反応せざるを得なかった。
 綾雛はいつの間にか左手に長刀を握り替えていて、逆手に構えた長刀を今まさに振り下ろそうというわけだった。
 ナイトは右手で長刀の切っ先を掴んでその綾雛の攻撃を封じた。……それで、一気呵成を狙う綾雛の攻撃の全てを防ぎ切ったかに見えた。この好機を逃すまいと畳み掛けた攻撃の全てに対処したかに見えた。
 綾雛が放電のために右腕を身構える様子を、ナイトが確認したのはまさにその直後のことだ。
 下手をすると綾雛自身にも放電の影響があるかも知れない密着状態。しかし、綾雛は躊躇うことなく右手に放電の命令を下した。コンコースを青白い放電の光が駆け抜ける。


 どのくらい綾雛はそこに横たわっていたのだろう。
 徐々に、小雨が「サアァァァァ」と降りしきる音を聴覚が正常に捉え始めて、綾雛は閉じていたその目を開いた。
 放電を撃った後に残る後遺症とも呼べる影響が消えるまで、綾雛は冷たいコンクリートの上に横たわっていた格好だ。その影響が消えるまでにはいつもよりも随分と長い時間を有した気がした。
 そのまま、しばらくコンクリートの上に横たわっていたい欲求を払い除け起き上がったわけで、綾雛の表情はイマイチ優れない。しかし、タイムリミットに間に合わせようと思うからにはゆっくりと横になっている時間など無いのだった。
 身体のあちらこちらが痛みを訴えてきたわけだったが、それらを無視して綾雛は側壁に手を付きながらコンコースを歩いた。一度、横目にナイトの様子を確認するも、ナイトは大の字で横になった状態のままでピクリとも動かなかった。今の内に縛り上げようかとも綾雛は考えたが、それよりも何よりもやはり優先するのはハートレイである。
 長いコンコースを抜けるとそこは小ホールの様な空間だった。
 そして、綾雛がハートレイの姿を確認するよりも早く、小ホールには綾雛に向いた声が響き渡る。
「ここまで無茶をする奴を見るのは久し振りだぜ、ホント。……あんたも執念ってぇのを見せてくれるぜ」
 ハートレイは例の趣味の悪いバンダナを頭に巻いた状態で小ホールの奥の壁に背を預けて立っていた。
 そんなハートレイをマジマジと注視する綾雛の様子に「事情説明」を要求されたとでも思ったのだろうか。ハートレイは綾雛が何を言うでもなく、口を開いて説明を始める。尤も、その内容は綾雛としても大凡推測出来る範疇のことだった。
「もしも、ナイトが勝った場合、欠陥に付け込めることを海保の連中に教えるために、俺はこのまま試作品で事故を走らせるつもりだった。もちろん、あんたから設計図を奪った後はきちんとした修正版を提供するつもりだったさ。尤も、それが実際に使われたかどうかは判んねぇけどな。……そして、もしも、あんたが勝った場合、あんたを通して欠陥を証明するやり口に変更するつもりだった。俺としてはどちらであっても大差なかったわけだからな」
 そこで一旦言葉を句切ると、ハートレイはゴソゴソとズボンのポケットを漁った。相変わらず、ハートレイは膝や脛の箇所にポケットの付いたナイロン製のズボンをはいていた。どうやら、それらのポケットには様々なものが入っているらしく、ハートレイは目的のものを見付け出すまで、忙しなくズボンのポケットを次々と漁った。
「まぁ、結果は後者になったわけだよ、……見ての通りな。海保の連中も、欠陥に付いて身を以て実感しただろうさ。もう、俺の出る幕はねぇよ。……後はあんたの交渉のやり方次第でどうとでもなる問題のはずだぜ」
 そう話したハートレイの調子はどこか投げやりだった。
 既に、新兵器云々の話は自分の手を離れたことだとでも考えているらしい。
「こいつがあれば、ミサイルに設定された全ての項目を初期化することが出来る。中に入ってるチップで送受新画面にアクセスすることで全てにリセットが掛かる仕組みだ。構造を説明するのもメンドクサイから、暴走をリセットした後にでも、分解でも解析でも自由にやってくれ」
 ハートレイは長刀の時にそうした様に、その場に屈んで綾雛の求めるものを床へと置いた。さすがにそれは学生証の様なカード型に収まるものではないらしく、小型の文庫本ほどの厚さを持った大きさだった。
 危害を加える意志がないことを示すためだろう。ハートレイはそれを置いた場所から綾雛の方を向いた格好のまま、後退する。足を止めて見せれば、首を傾げる様にして「それを拾ってくれ」と言うハートレイに、綾雛は質問を向けた。
「ちょいナイトについて聞いても構わない?」
「あー、ナイトの本名は俺も知らねぇ。それに、あいつとはただ単に利害が一致したから協力関係にあっただけだ。俺だけじゃ、あんたから設計図を奪い取ることなんて出来ねぇからな。……ナイトの要求と俺の望みとが一致したんだよ。欠陥を修正した設計図を作るっていう共通の望みだ。当人の話だと、設計に携わった恩のある一人に依頼を受けたみたいなこと言ってたけど、詳しくは知らねぇ」
 綾雛の要求に、ハートレイはハートレイが知り得る全てのナイトの情報を口にした様だった。それはまるで、警察署の取調室で聞かれていないことから何から全てを吐露する犯罪者の様だった。尤も、それは観念してというよりかは自棄になって……と言う風だ。
「俺もナイトに話したいことがあったんだけど、……ついさっき、挨拶の一つもなく立ち去っていきやがったぜ」
 苦笑いの表情で呆れたと言う風に吐き捨てたハートレイに、綾雛は慌ててコンコースの方へと向き直る。
 ハートレイが言った様に、既に、そこにはナイトの姿は確認出来なかった。長刀の刀身を受け止めた掌から滴ったのだろう血痕も柱の回りに点々としか存在しておらず、ナイトがどの方角に立ち去ったかも特定出来ない状態だった。
 コンコース途中の柱の一番目立つ位置には「破邪顕正」のステッカーが張られていて、綾雛は複雑な表情をした。
 この結末までをも見て貰わないことにはナイトが綾雛に求めた「正義の立証」など叶わないわけだったが、どうやら、これから始まる検討会議の顛末をナイトがどこかで確認することを期待するしか道はない風だ。
 放電をまともに食らってから、まだ、多くの時間が経過したとは言えない。綾雛の前に立ち塞がって「まだ決着は付いていない」と宣ることも出来ただろうに、既にその姿はここにないのである。行動不能に陥った時点でそれを負けと理解したのだろうか。ともあれ、ナイトは敗者として潔くこの場を去ったらしい。
 また、綾雛の前に無骨な顔をしたナイトが再戦を願って現れるのかも知れない。
 ジャリッと床を踏み締める音があって、綾雛はハートレイへと向き直る。
「はー……、これで俺も追われる身だな」
 感慨深げに溜息を吐くハートレイは、ちょうど、クルリや綾雛に背を向けたところだった。
「そんじゃあな、割と楽しかったぜ、綾雛伊久裡情報調査員」
「ちょい待ちなよ、修正パッチの当たった設計図とやらは作って貰えないわけ?」
 天井に向けて挙げた手をヒラヒラと振って見せて、この場を去ろうとしたハートレイを綾雛が呼び止めた。
「……俺に設計図を手渡すとでも言うのかよ?」
 そう問い返したハートレイは半身に向き直る格好で、綾雛の真意を窺う怪訝な顔をしていた。
 綾雛は設計図を手渡すことに既に問題がないことを説明する。
「欠陥の証明が為された以上、この導入検討の話は間違いなく流れるよ。欠陥に付け込めることもそちらさんが完全に立証してくれたわけだしね。もう、この設計図をどうのこうの言う理由は私にはないわけ。……もし、そちらさんが検討会議の場に立って修正パッチのあたった新規の設計図を提供すれば、それを元に次の検討会議の流れが出来るかも知れない」
 そこには綾雛からの提案も含まれていた。
 拒否反応と言わないばかりにハートレイの表情は「乗り気ではない」という風に切り替わる。しかしながら、ハートレイはそこに鋭く切り返す反発の言葉を用いることはなかった。
「それで、……どうするよ? 例え検討会議の場で、俺が修正版を作りますって言ったって、俺はただのチップメーカーだぜ? アルゴリズムや新兵器の他の系統は弄れねぇ。……俺が担当する以外の箇所にも欠陥があったなら、俺はそいつを発見することもままならないわけだ。俺が見つけた以外の箇所にも、恐らく、ブラックボックスで開発を進めた影響として欠陥が出てくる可能性が高いんだぜ? 俺は俺の技術が疑われない様に、俺の拘わった……」
「一度請け負った仕事として半端な仕事はしたくないって言わなかったかな? そちらさんが依頼を受けた仕事っていうのは海上保安庁が導入する新兵器を作ることだよね? 第一弾の企画が流れたのなら、新規の提案をすればいいだけなんじゃないの? 海上保安庁の面々は今回のブラックボックスを用いたやり方が失敗だったと学んだ、次があれば、そちらさんの主体的な設計を望むはずだよ。……技術屋は必要なら集めればいい、まぁ面子は大幅に変わる可能性もあるわけだけど」
 長々と言い訳を口にするハートレイの言葉が言下のうちに、綾雛はそれを遮る様にして話し始めていた。形としてはハートレイに「それをやろうとする意志があるのか否か?」を、綾雛は詰問する様なものになっただろう。
 実質的に発破を掛けられた格好のハートレイは呆れた顔をして綾雛を見ていた。
「……あんた、相当の変わりものだぜ」
 ハートレイは自身が床に置いた試作品の暴走を停止させる装置を拾い上げると、ゆっくりと綾雛の方へ歩み寄る。後数歩と言うところでハートレイはその装置を綾雛に向けて放り、その綾雛の手から設計図を鷲掴みにして取っていった。
 ハートレイが警戒を強めて綾雛の一挙手一投足に注意を払っていたその矢先のこと。
 綾雛はわざとパンッと小気味の良い音を響かせ、ハートレイの放った装置を握り取ったのだった。
 ハートレイは思わずビクンッと肩を振るわせていた。ハッとなって綾雛の顔をマジマジとみたハートレイに、大胆不敵な笑みが印象的に残った格好だった。
「少し肩の力を抜いた方が良いね。確かに、そちらさんは検討会議の場なんかに出るとコチコチに緊張する質にみえるから、そう言う堅苦しい場を嫌うのも判らないでもないよ。でも、やるべき時にはやることやんないと後悔しちゃうぜ? そちらさんは報酬が云々じゃなくて、ものを作る機会が欲しいんだろ?」
 ハートレイ自身、自分が激しい緊張に晒されていることをその綾雛の戯けた言葉でようやく認識出来たのかも知れない。その表情は微苦笑のそれだった。過去のハートレイの言動から鎌を掛けたに過ぎない綾雛の言葉だったが、ハートレイは微苦笑を満足げな感情が色濃く乗った程度の酷いものへと切り替えると、声を立てて笑っていた。
「へ……へへへ、まぁ、取り敢えずは俺の拘わった箇所を完全なものにした修正版ってのを作ってやるぜ。その後のことは、そうだな、……あんたに修正版を提供した後にでもゆっくりと考えることにするぜ。……じゃあな」
 そう言い残すとハートレイはふらふらとこの場を去って行った。
 静まり返った未完成の私鉄駅の中で、綾雛は「ふぅぅぅ……」と、大きな溜息を吐き出した。しかしながら、一休みをしているだけの余裕はなく、携帯を取り出すとすぐさま湯澤の番号へと連絡をコールを入れる。
 現在時刻はかなり際どく、後は湯澤の頑張り次第に掛かって来る格好だ。綾雛は「湯澤さんの車に乗って菱戸まで付いて行くことだけはどうにかして避けないといけない」とか、無責任なことを考えながら呼び出しコールを続けていた。緊急事態とあって、焦っている状態の方がハンドル操作を誤るだとかいう類の事故の確率が高そうなことは言うまでもない。
 携帯の表示が呼び出しから通話に変わり、綾雛は湯澤が第一声を発するよりも早く口を切る。
「あぁ、湯澤さん? 試作品の暴走を停止させる目処が付いたわけだけど、湯澤さん、……今、どこにいる?」




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