臨時検討会議が開かれる当日の天気は早朝から小雨がぱらつく生憎のものだった。
時折、小雨がビジネスホテルの窓を「サアアァァァ……」と強く音を立てて打ち付けるものの、利賀根を吹き抜ける風自体はさほど強くはないらしい。地上十数メートルの地点に位置するビジネスホテルのこの部屋の窓が常時カタカタと音を立てる様なこともないのだ。恐らく、利賀根の街の中を吹き抜ける風というのも微風なのだろう。
綾雛が起床してからこっち、外の様子は大きな変化もなくずっとそんな調子だった。
見渡す限り空にはどんよりとした雲が掛かって、太陽が沈む頃の薄暗さに近いものがある。室内の蛍光灯を点灯させても夜の闇とは違った薄暗さの様なものが残る感覚である。実に、この二日の間に利賀根の天気は急速に悪化したのだった。
棉柴と面会した日から数えると、日数にして実に二日しか時間は経過していない。言ってしまえば、この期間の短さが棉柴の本気の度合いを示しているだろうか。
湯澤の話だと棉柴が臨時検討会議の日を決めたのは下篠園で別れた後の内宮原までの移動の最中だったらしい。
湯澤が運転する車の後部座席で携帯片手に声を荒げ、日程的な無理を半ば強引に押し通して交渉したという話だ。
そんな棉柴の頑張りも影響して、結局、バンダナの男からの連絡はまだない状態だった。バンダナの男にしても、綾雛との接触から、まさか二日後に臨時検討会議が持たれるなどとは露にも思っていなかっただろう。
尤も、臨時検討会議が二日後に開かれるといった湯澤の説明を受けた段階で、綾雛は既にバンダナの男からの連絡は「無理だ」とスッパリ諦めた格好だった。さすがに二日の時間しか間に挟まないのでは期待をする方が難しいわけである。
それでも、綾雛の心の片隅に微かな期待が残っていたことを否定はしない。そう、バンダナの男から欠陥を付く論理的な手法の証明について何かしらの行動があるかも知れない。その可能性はゼロだとは言えなかった。しかし、綾雛の中には諦めの色の方が色濃く存在していたわけだった。二日という時間は余りにも短か過ぎる。
それは綾雛にしてもそうである。
棉柴に「任せて下さい」と言った手前、どうにか証明に至る道筋を立てようとはしたものの、二日という時間ではどうしようもなかった格好だった。学部的に不得手の分野を含む以上、例え佐土原ら教授陣の力を借りても無理だっただろう。
「綾雛、七時にはここを発つぞ? 浅三谷インターチェンジから高速に乗ってしまえば後は流れるだろうが、問題は浅三谷までだからな。通勤ラッシュの時間帯に差し掛かる前にはインターチェンジから高速に入ってしまいたい。向こうにはかなり早く到着する計算になるが、何なら途中で昼を兼ねる軽食を取っても良い」
湯澤はビジネスホテルに備え付けの薄型液晶テレビで天気予報を確認する綾雛へと向けてそう告げた。
基本的に、湯澤はいつもビシッとした格好を好むわけだが、それはこういった会議などの際にも例外ではない。湯澤は一段と気合いの入った文句の付けようがない格好で、全身が映る大鏡の前でネクタイを締めているところだった。
この色の組み合わせは似合わない。こっちのネクタイを選ぶ方が全体的な色調に合致している。
そう言った取っ替え引っ替えの時間の掛け方をしないながら、湯澤はセンス良く服を着こなすタイプだと言えた。それはこれから国際的な会議の場で何か発言をすると言っても何ら不思議ではないほどの、シックで落ち着いた格好だ。
言えば、綾雛よりも服装には気を掛けているだろうか。湯澤には半ば奇を衒う様な最先端ファッションに興味はないのだが、ブランド物の選び方を始めそう言った点は綾雛よりもずっとしっかりとしていると言えるだろう。
綾雛の格好はタイトスカートにいつものジャケットを羽織るだけの簡素なものである。化粧にしてもファンデーションに軽くアイラインを乗せるだけで、アクセサリを身につけるでもない。
湯澤と並んで立っていれば、湯澤の方が綾雛よりも格好としては映えるだろう。
「今日の利賀根地方は全域に渡って小雨のばらつく生憎の天気になるでしょう。また所々によって、時折、強い降雨が予想される地方もあり、お出かけの際は傘を忘れずに。では詳しい時間ごとの降水確率と予想降水量ですが……」
天気予報士が説明する様に、テレビ画面に映る利賀根地方の縮小地図にはどこもかしこも雨マークが付いていた。予報によるとこの小雨は明日の夜までシトシトと降り続くらしい。移動は自動車で、臨時検討会議の出席という屋内の用事ではあるものの、一応「傘の用意をした方が賢明か」と綾雛が席を立った時のこと……。
「はい、調査室の湯澤です」
突然、営業向けの湯澤の丁寧な受け答えが聞こえて、綾雛は何の気なしに湯澤の方へと目を向けた。
ちょうど湯澤も綾雛の方を向く状態で、二人はそこで目が合う格好になる。
「えぇ、はい。今から検討会議の場に向けて利賀根を発とうとしていたところですが、……え?」
湯澤は携帯片手に真顔で電話の相手とやり取りをしていた。
本日持たれる臨時検討会議絡みの確認か何かだろうと、綾雛は湯澤の話すやり取りを取り立てて気に掛けることはしなかった。しかし、湯澤がまとう雰囲気が俄に不穏な空気を持ち始めたことで、綾雛はそのやり取りを注視しし始める。
湯澤が綾雛に携帯を放ったのはまさにその直後のことだった。
「綾雛、棉柴次長から電話だ」
「……私に?」
湯澤が放った携帯をパンッと手に握り取ると、綾雛は湯澤同様に営業向けの声で応対する。既にその必要はなかったわけだが、相手が棉柴だと意識すると自然と一オクターブ高い声が出るのだから不思議なものである。
「お電話替わりました、綾雛です」
「緊急事態が発生した、綾雛君。率直に説明するぞ? 菱戸(ひしど)という倉庫群からなる港があるんだが、そこに格納してあった新兵器の試作品が外部からのアクセスを持って欠陥を付かれ起動した。内部のプログラムまで強制上書きする厄介なやり口で、現在、菱戸港は緊急封鎖中だ」
開口一番、緊張感漂う口調で棉柴は切り出した。時折、疑問系を混ぜながら、それでいて綾雛の反応を見ずに言葉を続ける辺り、それは棉柴が置かれる緊迫度を測る一つの指標になっただろう。
「菱戸というと、利賀根の北に位置する都市でしたよね? 霞咲(かすみざき)の南南西にあって貿易港のある……」
「その通りだ。海上保安庁が利用する物品の貯蓄保管庫などもあの倉庫群の中に位置する」
綾雛、湯澤ともに試作品が菱戸港に存在していたなどというのは初耳のだった。
尤も、例え、前もって試作品の情報を得ていても、この事態の回避などは不可能だっただろう。
「話の腰を折るかも知れませんけど、棉柴さん、……もしかして菱戸の貯蓄保管庫っていうのは電子チップを用いた認証管理してました? 電子チップを埋め込んだカード式の鍵で開閉する様な奴のことです」
ここまでの棉柴の話を聞いた段階で、綾雛には既に犯人の心当たりがある格好だった。綾雛は心当たりを確信に変えるべく、貯蓄保管庫のセキュリティシステムについて棉柴へ確認を求めたわけだ。
「二世代ぐらい前のものだが、それでも当時で言う最新式のものだぞ? 三重層の防御壁を搭載したもので、解析監視暗号化システムのついた融通の利かない認証だ。……少しでも不正なアクセスをしたり、三重層防御壁のアクセスの方法を間違うと、例え正規のマスター鍵によるアクセスであっても、凍結処理が為される奴だぞ?」
綾雛がこれから述べようとする事実が何であるかを察したらしい。棉柴の動揺は相応のものだった。
もしかすると、棉柴自身、マスター鍵を用いたアクセスでロックが掛かった経験があるのかも知れない。特に「融通の利かない」と言った辺りがそれを連想させたが、……問題はアクセスの処理云々ではなかった。その認証そのものを綾雛の心当たりは回避した可能性さえ否定出来ないのだからだ。
「保有する技術力の高さに注目して人選したって言いましたよね、棉柴さん? 今回はちょい相手が悪かったみたいですよ。多分そういう融通の利かない奴をどうにかして破ってやろうって、常日頃から考えている様なのが今回の相手ですよ」
その当人は貯蓄保管庫のものよりも、ずっと厄介かも知れない利賀根技工大の電子チップ型の認証システムを回避したと言ったのだ。それが本当ならば、三重層防御壁から成る認証システムを易々と認証回避したとしても何の不思議もない。
技術力優先の目の付け所としては、ある意味、海上保安庁のそれが間違っていなかったことを証明した格好だった。
「……破られたものは仕方ない。今はそれよりも、綾雛君。菱戸港には君に対するメッセージが残されていたことの方が重要だ。差出人はナイトとあった。……良いか? 読み上げるぞ?」
棉柴が口にしたナイトの名前に、綾雛の表情には瞬時に緊張が走った。
「あなたの居る場所を特定出来なかったから、この様な手段を取らせて貰った。気象衛星の解析映像を元に、気象予測専門にカスタマイズされた演算ユニットを用いて天気予報を配信するサイトの情報によると、このメッセージがあなたの耳に届く頃には利賀根全域は生憎の空模様になっているらしい。恐らく、晴天に恵まれることはないだろう。しかし、本日、ここにあなたとの再戦を望んでいる旨を報告させて頂く。臨時検討会議の開催日時までもう少し間があったなら、天候も選べたのだが今回はやむを得ないと判断させて頂いた。臨時検討会議までに欠陥の証明が出来れば、新兵器の導入を凍結させられるといったあなたの旨を受けて、今回、外部からのアクセスを持って試作品の暴走を試みた。止める止めないの判断、及び、再戦に臨む臨まぬの判断は全てあなたに一任する。ことが全て順調に運んだ場合、本日の正午に目標物に向かって発射される設定が為されている」
「……後六時間を切ってるじゃないですか」
綾雛は置き時計の時刻表示を確認すると、これ以上ない苦笑いの顔でその逼迫した現状を認識した。菱戸までの片道の移動時間を考え、その残り時間から差っ引くと、現実的な数字となってタイムリミットが浮かび上がってくる。
湯澤に無理を承知で菱戸まで車をかっ飛ばして貰っても、利賀根で活動出来る残り時間は三時間が精々だった。
「下篠園私鉄駅、西エントランスにある認証式ロッカーの中に、割り振られたナンバーの削り取られたものがある。その中に必要なものは全て入れておいた。認証式ロッカーの鍵はあなたに預けたままの「二宮尊徳」の学生証だ。指定の場所にはあなたが一人で来ることを望んでいる。追伸、デートの誘いにゴチャゴチャと部外者がついて回る様な無粋なことはいくらあんたでもしねぇだろ? ……メッセージの内容は以上だ」
綾雛はジャケットの上着にあるポケットを漁って、その二宮尊徳の学生証を取り出した。それは確かに上着の胸ポケットに入っていた格好だったが、正直なことを言うと綾雛には「預けられた」という覚えはなかった。
「確かにありますよ、二宮尊徳の学生証……」
再度、その学生証をマジマジと注視しながら、綾雛は学生証を保持していることを棉柴へと告げた。
「監視カメラの映像を解析した限り、試作品は午前二時頃に起動したらしい。ナイトと思しき大男の姿もハッキリと確認出来た。それも、メッセージの入った磁気ディスクを残す様子までもがバッチリとだ。現在、正規の手段を踏んで設定の解除を試みているところだが内部で扱うパスコードを全て変更されてしまっている様だ。下手にシステムの破壊を試みようとすると、予定時刻を待たずにミサイルを目標物に向けて発射すると言うことが専門用語を含めた長ったらしい文章で警告されている。……そして、うちの技術班はこれをただの脅し文句とは思えなかった」
技術班の判断は正しいだろう。例え、結論としてそれが脅しであっても、端から脅しと受け止めることは避けた方が良い。間違いなく、それを実行に移せるだけの技術力を相手は持っている。海上保安庁での欠陥についての認識が認識だったために、綾雛はその危険性を勘繰ったわけだがそれはどうやら取り越し苦労で終わった様だった。
「ちょい一つだけ聞いても構いませんか? ちなみに目標物ってのは一体何なんです?」
「艦搭載式管制システムを積んだ高速哨戒艦だ。艦上からの追尾システムのテストを行う予定で、こっちも例の新兵器に連動した試作品が積み込まれたものだ。……今現在、日本海を航行中でもある」
もしも、棉柴の説明した通りにことが運んだなら、前代未聞クラスの笑い話になるわけだった。追尾システムの機能をフルに発揮して、その追尾システムを制御する管制システムを破壊しようというのである。それが実際に起こった日には誰もその試作品をそのまま量産しようと発言する者などいなくなることは必至だろう。
綾雛は苦笑いを押し殺せない格好で、それを上手いやり口だとさえ思わされた。
「最終手段としてはここで爆薬を用いて、ミサイルを爆発させてしまうことも検討している。尤も、試作品を格納しているこの倉庫群にも相応の被害は出るだろうが、最悪の場合はそれもやむを得ない。現在、最終手段としての爆薬の輸送をしているところだ。……正午ギリギリまで待つぞ、綾雛君。止めることが可能なら止めて欲しい」
「最善を尽くします」
切実な棉柴の要求に、綾雛が返した言葉は「最善」という何とも曖昧な物言いに終わった。
自信がないというわけではない。いや、……綾雛自身、絶対的な自信が持てていないことは確かだ。
綾雛は壁に立て掛けられた長刀を手に取り、その白布を剥ぎ取った。「シュルッ」と音を立てた後、バサッと白布は翻り、そこに傷一つない真新しい長刀が姿を現す。佐土原に無理を言って強行軍で作って貰った割には今まで出番さえなかった長刀だ。綾雛はその光沢のある刀身をじっと眺めて、佐土原とのやり取りを思い出していた。
「タングステンカーバイト以上の硬質金属か……。材質をケースベルトあたりにでも代えてみるかね?」
さらなる高質化を求めた綾雛に、そう返した佐土原は乗り気ではなかった。
実質、長刀に適した新たな材料を選別し、生成し、加工するとなればかなりの時間が掛かる。試作品を製造し、強度的なテストを始め様々な性能を試し評価する必要も生まれるわけだ。
それでも、実際にはナイトとの再戦までに、長刀が間に合わないだろうことも覚悟はしていたことだった。
そして、自信が揺らいでいるという点を言うなら、佐土原に言われたことも尾を引いている格好だ。
「伊久裡、儂の本音を言わせて貰えば、これ以上の硬質化を求めることはあまり意味を持たないことを言わせて貰おう。……実際、気休め以上の何物にもなりはしないだろう。タングステンカーバイトの次を求めることを問題視するわけではないよ。しかし、ただ、硬質化を追求していけば良いというわけじゃない。タングテスンカーバイトでひとまず必要最低限は十分に満たしているはずだ。こいつを折られたと言うのはもはや扱い方の問題で、言えば、技術的な問題だな」
技術的な問題という言葉を用いて佐土原が何を言いたいのかを理解出来ないほど、綾雛はナイトの戦い方から学んだものがないわけではなかった。同時に、ただ硬質化を追求すれば事態が改善されないことも十二分に理解出来ている。
「既にタングステンカーバイトの長刀を折られている以上、材質を他の硬質金属に変えたところでそれが結果を左右する要因になると言うのはほぼ有り得ないことだ、伊久裡。ケースベルトや他の硬質金属に置き換えたところで、窮極的にその結果というものは長刀の扱い方によって決まる。確かに武器としての耐久力は上がるかも知れん、……だが、扱い方を変え様としない限り、最終的な結果としてへし折られることに変わりはないはずだ」
扱い方を変えない限り……とまで率直に言われた辺りは逆に心地良かった。
ナイトと同様、剣の扱い方は力押しが主体。しかし、綾雛とナイトとの間には絶対的な相違がある。
「どうする? バックアップが必要なら突入用の人員を可能な限り短時間で用意するし、……その、大口径のハンドガンをお前がナイトとの再戦で必要だと思うなら……」
神妙な顔で長刀の刀身を眺める綾雛に、湯澤は一度二度と言葉を飲み込んでから覚悟を決めて切り出した。それは、一度、湯澤自身がいった言葉を引っ込める形になるわけだから、下手をすると綾雛の反発を買うかも知れないものだった。
「いやいや、それは違うよ、湯澤さん。お相手さんの要求があくまで私との再戦を望んでいるわけだからね。それをデートと言われちゃうとゾロゾロと人数引き連れていくって言うわけにはいかないわけよ、私としても。……長刀の方は良い機会なわけじゃない? 技術的に色々と模索しながらやってみる。何度へし折られても、いくらでも修繕は利くわけだしね」
微苦笑を混ぜながらいう綾雛の言い分を湯澤はただ黙って聞いた。
そして、その後に続いた多少の弱音の混ざった綾雛の言葉もだ。
「それに、試作品の爆破を回避しようと考えるなら、多分、そんな時間の余裕はないと思う」
置き時計の時刻表示は、そろそろ、ここで対策話をしていられる様な表示ではなくなりつつある。
否応なく綾雛は腹を括らなければならない。……それぐらいのことがちょうど良いのかも知れなかった。
「……案ずるより産むが易しってね。そろそろ始めようか、湯澤さん?」
ニィと不敵な笑みを灯してみせれば長刀に白布を巻き、綾雛は湯澤を引き連れてビジネスホテルの部屋を後にした。
下篠園の私鉄駅、西エントランスで指定された認証式ロッカーはすぐに発見出来た。認証式ロッカー自体の数が多くないこともあるが、人通りのある目立つ場所に設置されているというのが何よりも大きかっただろう。
ちなみに利賀根技工大の学生証に内蔵される電子チップを認証の「鍵」として用いることが出来るのは利賀根に存在する認証式ロッカーだけである。基本的には携帯電話に内蔵される電子チップや、専用の機械に通して金額をチャージする特殊なカード型電子チップを用いて利用するのが一般的である。
メッセージに残された「割り当てられた番号の削られた……」の下りも一目でそれと判るもので、綾雛は一つだけ識別番号のないロッカーの認証機器に二宮尊徳の学生証を添える。ロッカーの中には目的地が赤丸で記された地図と、学生証と同サイズのカードが入っていた。
カードには一切の印刷などが為されておらず、一目でコピー品だと判る粗い作りだ。制御コンピュータとやり取りをするための送受信面が存在することから中には「二宮尊徳の学生証」同様に電子チップが組み込まれているのだろう。
基本的に、この手のカード型の鍵には「どの組織で使用されているものなのか」を記述することが義務づけられている。機械は機械の防衛策を取るとして、人の目にもコピー品か否かを判別出来る様にするのがその目的だ。その記述はシンボルマークだったり、シンプルな組織名の印刷だったりするが、高度なホログラム処理や特殊な印刷技術を用いたものも、基本的には視覚的にコピー品か否かを判別出来る様にしているわけである。
綾雛は湯澤に私鉄を用いて移動する旨を伝え、同時に目的地を報告する。利賀根の外に出ない限りは公共交通機関での移動の方が早いということもあって、湯澤とは完全に別行動を取る格好だ。尤も、菱戸まで移動をしなければならなくなった場合のことを考え、湯澤は車で綾雛の後を追う形である。
綾雛は赤丸が記された場所に何が存在するかを思索しながら移動した。
その目的地は利賀根の市内である。一応は利賀根技工大の周辺地区と同じ商業地区であるが、公共交通機関の便が非常に悪い場所だという以外は取り立てて特徴は思い当たらない。下篠園の様な観光スポットもなく、故に活気のある場所というわけでもなく、近隣の住民が利用する以外にはわざわざそこへ赴く理由がない場所だと言い換えることも出来る。
綾雛在学当時の話題を掘り返して考えてみてもそうだ。大型家電量販店が進出したが経営不振と予想の集客力が見込めず二年ちょっとで他の地域へ移転したというぐらいのことしか思い当たることはない。
カード型の鍵を用意したからには何か存在するのだろうが、結局、そこに存在する特別な何かを綾雛が移動中に思い出すことはなかった。綾雛との再戦を望むナイトに取って都合の良い場所など存在しない様にさえ思えた。
人気がなく、邪魔の入らない、思う存分に剣戟を楽しめる空間など思い当たらないわけだ。それこそ条件を満たす場所は南地区にある指定保護区の雑木林ぐらいだ。この雨さえ降っていなければ、その条件を満たす最適解は雑木林だろう。
「次の目的地が記された地図か何かが、このカード型の鍵で開く箱か何かに入っているのかも知れない」
そうも考え始めた綾雛の目に飛び込んできたものはかなり意外なものだった。実際その目に見ない限りはパッと閃くことの難しいものだと言って差し支えないだろうか。私鉄をJRへと乗り換えて、そこからさらに廃物油と小型燃料電池で走る一昔前の小型エコバスに乗り込み、綾雛はその赤丸の付いた目的地へと到着した。
小傘を開いて綾雛はバスを降りる。利賀根市内というよりは中規模地方都市の裏通りにでも来た雰囲気だった。
ナイトによって指定された場所に存在していたもの、それは未完成の私鉄駅だった。
私鉄駅とは言っても、現段階ではその面影を感じられるものは何一つとして存在しない。大体が路線自体もまだ整備が為されていない状態で、外観にしてもコンクリートが剥き出しになっている着工途中の段階である。
予定では一年後の完成を目指しているらしいが、恐らく、その完成は先送りにされるだろう。岩盤がどうの、ガスが吹き出し地盤沈下がどうのと、ここの二つ前に当たる駅予定地で問題が続出し、予定が大幅に遅延しているのである。
その未完の建造物の入り口を探し、綾雛はぐるりとその周辺を一周する。駅の裏手はモデルルームの展示場になっていて、駅の完成と共にこの近隣の発展を見込んでいるらしい。しかしながら、平日の真っ昼間、それも小雨が降りしきる天気とあって、駅の裏手は完全に静まり返っていて、まさにそこには雨音だけの世界が広がっていた。
綾雛はこの未完の私鉄駅の裏手のどこかに入り口が存在することを確信する。この人気のなさはナイトらに取って何をするにしても都合の良い場所だ。そんな綾雛の推察通り、未完成の私鉄駅は裏手にひっそりと入り口を構えていた。
通報装置が付いた扉の制御コンピューターに、下篠園私鉄駅の認証ロッカーの中にあったカードを翳す。それは最新型の自動ドアの様な仕組みではなく、普通のドアに無理を承知で認証システムを付加した様な構造だった。「カシャンッ」と音が鳴って施錠が解除されてしまえば、後は普通のドア同様にノブを回して中へと入る格好だ。
一応は利賀根技工大の認証システムと親戚になる仕組みを用いていて、中にチップを内蔵したカード型の鍵を用いたものではある。しかし、それは綾雛にでも認証カードなしで通報システムを回避出来てしまう様な簡易なものだった。
小傘を畳んで扉を開くとそこにはご丁寧にも傘立てが存在していた。尤も、それをナイトが用意したかと問えばその答えは「いいえ」だろうが、その存在は恰もこの雨を見越して置かれていたかの様だった。
未完成の私鉄駅の内部はお世辞にも風通しなどの環境が良いとは言えない場所だった。それはジメジメとした湿気を肌で感じられるほどの湿度があって、小雨に打たれる野晒しの中よりはいくらかマシという程度だろうか。天井を完全に覆う様に掛けられた雨風を凌ぐための青いビニールシートの隙間から、外の明かりが差し込む格好だったが中の薄暗さは否めない。尤も、見た感じ採光窓がない様なので晴天の日であっても未完成の私鉄駅内部の薄暗さは余り変わらない気もした。
正直、内部の段階は未完成と言うよりも着工直後といった感じだった。
そんな薄暗さの中を歩いていくと「パチンッ」と言う音と共に、あちらこちらに点在する裸電球が一斉に点灯する。ある一定の薄暗い環境下、人の通過を確認すると自動的に点灯する仕組みらしい。横目にコンクリートの壁を確認すると、そこにはタッチパネルの入出力画面を兼ねたセンサーの存在が確認出来て、綾雛はそんな不意打ちに心底驚いた格好だった。
未完成の私鉄駅内部はコンクリートの壁で仕切られ部屋の様になっている場所もあれば、恐らくはホールの様な場所になるのだろう柱も存在しない広い吹貫の空間もあった。
時折、視界の端には二回の天井と思しき縦と横で交互に組まれた鉄骨を見つけることも出来る。
ざっと中を見渡し歩いた感じ、ここには三〜四階の広大な私鉄駅の完成が予定されているらしかった。
綾雛は徐に足を止めると、その建造物内のあらゆる場所に感覚を向け、人の気配を探り始めた。
ここにはナイトがいるはずなのだ。いや、その当人が呼び出したのだからいなくてはならない。
小雨がビニールシートを打つ「サアアアァァァ……」と鳴る静かな音に包まれた世界。そこは酷く人の気配を探りにくい場所だった。時折「ポツッポツッ」大きな滴がアスファルトに落ちる不規則な音がその難易度をさらに高める。
綾雛が足を止めたその場所は恐らくコンコースの様な場所として出来上がるのだろう。コンクリートの壁が左右の両端に設けられていて、十数メートル先まで真っ直ぐに続いていた。中央には等間隔に円柱形の柱が立っていて、途中までは天井も作られている。途中からは剥き出しの鉄筋だけが天井を構成していたが、そこは何とはなしにこの場所の完成図を想像させる確かな雰囲気を持っていた。
そこに立ち止まったままグルリと未完成の私鉄駅内部を見渡した後、綾雛は改めて身体をコンコースへと向けた。
真っ直ぐに伸びるコンコース。そこに誰かがいるという確信はない。
しかし、第六感の様な、何とも言えない後頭部を刺す感覚が、そのコンコースに何かが潜んでいることを訴えた。
「そのまま、待ち伏せでもしたいつもりなわけ?」
綾雛はすぅと息を吸い込むとコンコースへ向け口を開いた。
雨音だけの静寂の空間を引き裂いたその言葉に呼応するかのよう。未完のコンコースの、ちょうど、その中程にある円柱形の柱の影からナイトは姿を現した。例の衝撃吸収素材製品を身にまとい、丸レンズの端に赤い光の明滅するサングラスと、その出で立ちは前回と全く変わってはいない。
ナイトは「失礼」とでもいう意味合いを含めたのか、一度立ち止まると小さく一礼をした。
そうして、ゆっくりと顔を上げると、コートをはだけさせて有無を言わさず長刀を引き抜いて見せる。
そんなナイトの相も変わらずな無骨さには綾雛も呆れ顔を隠さなかった。
「味な真似、してくれるじゃないよ? 欠陥の証明についてはこれ以上ない効果だったはずだよ、計画の変更は議論の余地無く決定した様なものだろうね。だから、そろそろ、試作品の暴走を止めて貰っちゃくれないかな?」
綾雛の要求に対し、ナイトは顔色一つ変えずに淡々と答える。
そして、それは「自分ではどうしようもない」ことを口にしたわけだった。
「それを選択出来る立場にいるのはハートレイだけだ」
「……ハートレイ?」
聞き慣れない名前に綾雛は首を傾げてナイトへ問い返した。
「名乗る名前がないのもやりにくい様だ。これから、通り名としてそう「名乗る」と言っていた」
「あぁ、バンダナの彼の通り名ってわけね」
淡々と、ハートレイについての説明をしたナイトにはすぐにでも「再戦」に移ろうとする意図が見え隠れした。熱が入り過ぎているというか、……少なくとも既にナイトには綾雛の話を長々と聞く余裕などない状態に見えた。だから、綾雛は前置きなしでそのものズバリ、核心に触れる話を口にする。
「ちょい今回は急いでるんだけど、決着とか付けたいって言うんだったら次回にして貰えると嬉しいかな?」
その暴走停止を選択出来るハートレイ相手に話を付けた後なら、綾雛もナイトと再戦をすることに対し何も言うことはなかっただろう。ナイトには悪いが現時点での綾雛の最優先事項はあくまでハートレイとの接触であり、試作品の暴走を時間内に停止させることである。
「用件は前回同様に変わることはない。一貫して要求してきた通り、あなたの手にある設計図を譲り受けることだ」
そんな綾雛の要求をナイトは顔色一つ変えることなく一蹴した。
さすがの綾雛もその対応には微苦笑を隠さなかった。
「あのさ、実はそちらさん、言われたことしか実行出来ないサイボーグだとか言うオチじゃないよね?」
「もちろんだ、技術の著しい進歩があるとはいえ、現段階では機械にこの動きを再現させることは不可能だ」
一意専心に同じ要求を突き付けたことを皮肉った綾雛の言葉もナイトには満足に通用しなかった。そればかりか、ナイトはサイボーグの取り得る動きについて言及し、さらなる綾雛の苦笑いを誘う。綾雛はそれが話をはぐらかすための意図的なものかどうかも皆目見当付かない格好だ。
それでも、今の最先端技術を持ってなお、機械には迅速な動きや臨機応変な間合いの調整が不可能なことを口にするナイトの話に敢えて綾雛は乗った。そこから何らかの会話の糸口に繋がるなら儲けものだと考えたのだ。
「それは同感だね、現行の人工知能が人間らしい会話能力を手に入れたって言ったって、所詮はプログラムによって人の会話思考パターンの大部分を網羅して、選択肢の中から適当なものを選んでいるに過ぎないもんねぇ。階層型ニューラルネットワークを不完全ながら再現出来たとはいえ、複数のコアを集積した超高性能演算装置とナノレベルによる超大容量化の恩恵が大半じゃあ、今後しばらくロボットは完全に人の動きを再現なんか出来ない。なにせ人の動きを統括する最も重要な「頭脳」が出来上がっていないわけだものね」
珍しく「再現させることは不可能だ」なんて、ナイトが技術的なことに言及したわけだから微かな望みはあった。そこに居たのは柄にもなくカラカラと笑みを混ぜながら、話をし易い雰囲気と言うものを必死でこの場に織り込む綾雛だった。
「でも、その点を言っちゃうと、そちらさん、一昔前の人工知能みたいで愛着沸いちゃうんだけど? 利賀根技工大って所は人工知能の仕組みを知ると言う名目でプログラムを組ますんだよ。私はコンピュータプログラムを含めた情報系列の学科じゃないから、ホント、お遊びみたいなものだったけど、……作ったなぁ、人と簡単な会話の出来る人工知能。……とは言っても、そんなご大層なものじゃないんだけどさ。そちらさん、まさに当時の人工知能組み立て専用のプログラムを組んで出来た人工知能そっくりだよ。……ここまで人間っぽさは出てなかったわけだけど」
「それは褒め言葉と取って良いのか?」
「……まぁ好きに取ってよ」
ナイトに取り付く島などなかった。
雑談に乗ってくる様な雰囲気もなければ、感情の起伏さえも見せることはない。
綾雛は一連のやり取りが骨折り損に終わったことに疲れた顔をして「はぁぁ……」と一つ溜息を吐き出すと、すぱっとナイトの腹を探ることを諦めた。その前段階にさえ辿り着けないのだから、全く持ってお話にならないわけだ。
「ちょい一つだけ確認しておきたいわけ。ここでそちらさんを倒せば、そのハートレイには会えるわけ?」
綾雛は真顔に戻ると、率直に、どうしても譲れないラインをナイトに問い掛けた。そこが確認出来ないならば、ナイトとの再戦に挑む理由が掻き消える最重要項目でもある。
「あぁ、……それは確約する。そして、この再戦の結果がハートレイの選択を左右することも確約しよう」
ナイトの含みを持たせた言い方に、綾雛は大凡ここに漂う意図というものを感じ取った格好だ。
この建造物のどこにハートレイがいるのかは判らない。しかし、確かにこの場所のどこかでハートレイはこの綾雛とナイトとの再戦の行方を見物しているというわけだ。
それが恐らく、ナイトの意を酌み、またハートレイの意を酌んだ「面白いこと」なのだろう。
「大体、事情は飲み込めた。……味な真似、してくれるじゃないよ?」
綾雛が長刀を包んだ白布をはためかせて、その刀身を引き抜いて見せるとナイトは心底「意外」という顔をする。
「もう次の剣を用意したのだな。……てっきり、大口径のハンドガンでも用意していると思っていたが、面白い」
ここに来て、初めて綾雛はナイトが笑みを零した顔を見たのだった。唇を「ニィ」と切り上げ、一度長刀を折られた経験から綾雛が何を学んだのかを見極めようとでもしている風だ。すぐさま、それは戦闘に挑む際の真顔へ切り替わってしまったわけだったが、そこに綾雛に対する私怨は見受けられない。
工場区画での引き分け、……いや、実質的な敗北はナイトの中で尾を引いているものということではない様だ。
あの時の負けを取り返すと言うよりかは、心機一転、改めて勝負を挑むと、そんな感覚なのだろう。
「スコーピオンと、マガジンのストックはザッと用意して来ているよ。……これが私の基本装備だからね」
そんなナイトに対し、綾雛はバサッとジャケットをはだけて見せる。マガジンのストックが無数にあることをご丁寧にもナイトに示したわけだ。
そんな綾雛の挙動にもナイトは表面上の反応を示さなかった。しかし、そうやって手の内を証して見せた綾雛に、ナイトはまとう雰囲気というものをガラリと入れ替えた。そこには一瞬にして、ナイトが綾雛に対して感じた「愉快さ」が伴った格好だ。そして、それは同時に激しいナイトの戦意を呼び込み、ただただ、あくまで貪欲にこの闘争を楽しもうとするナイトの姿を浮き彫りにした。