湯澤、棉柴と別れ、綾雛は一人、下篠園から私鉄を用いて利賀根技工大を目指した。
佐土原との約束の時刻まではまだかなりの時間がある格好だ。しかし、綾雛は約束の場所に早めに到着することを選んだ。湯澤らと一緒にJRの駅がある内宮原へ行っても、時間的には十分に佐土原との約束には間に合う目算だったのだが湯澤に「早く行け、良いから行け」と、引き裂かれた感じでもあった。
しかし、そんな湯澤の横暴に素直に従ったのはやはり綾雛なりの勘が働いたからかも知れない。
このまま、何事もなく一日が終わるという方が、ある意味、問題なのである。
下篠園の駅を降りて、利賀根技工大学の正門へと向かうために綾雛はいつもはあまり通ることのない大通りを選んだ。片道二車線の四車線道で、緑の生い茂る中央分離帯を持つ幹の通りである。この四車線道に利賀根技工大の正門は面している。そこは大学通りとも呼ばれ、道幅の広く作られた歩道の上には光の透過度が高いガラス製の屋根があって、道の端にはベンチなどが設置される名物通りだ。
そして、それは綾雛が大学通り途中の、一際人通りのある区画に差し掛かった時のことだった。
そこは利賀根技工大の敷地から見て道路を挟んだ真向かいに大型デパートが立地する場所だ。利賀根三番横線と呼ばれる緩やかな坂の四車線道が合流する交通量も人通りも多い区画の一つでもある。そこに加えて、大学通りを通行するバスの停留所もあり、始発から終バスの間の時間帯なら、いつ通ってもバス待ちの人の列を見ることが出来る場所でもある。
そこにじっと綾雛を注視する特異なタイプの男がいた。
膝の上に肘を置く格好で上半身を屈め、ベンチに腰を下ろしてマジマジと綾雛を注視する男の様子には遠慮の欠片もない。自分の存在を綾雛に強く主張する何とも言えない異様な雰囲気を男はまとっていた。
端から見る分には目立ちたがり屋か、ネジが一本飛んでいるタイプの人間に見えるだろうか。服装自体はポロシャツに、膝や脛の箇所にポケットの付いたナイロン製のズボンという自己主張のない出で立ちだ。しかし、薄緑色の下地に真っ赤な星がいくつもあしらわれた派手なバンダナを巻き、髪は茶髪と言うよりも赤褐色と言った方が適当だろう。
右耳タブにはピアスをしていたが、それも円形ピアスの先に無数の小さなコンデンサが付いた風変わりなものだった。ファッション的なものと言うよりかは自分の存在を誇示するためのものと言って良いのかも知れない。
少なくとも綾雛にはそう感じられたわけだが、恐らく、その印象が大きく的外れと言うことはないだろう。
男は「コトッ」と音を立て、置き時計と言うには少し大きい楕円形の本体に二つの足がチョコンと付いた様な機械をベンチの上へと置いた。……男の挙動は周囲の人の気を引くために、わざと「音」を立てた風だった。
そして、その音を聞いた面々は一部の例外を除き、音のしたその男の方を向いたのだった。もちろん、綾雛もである。
ベンチの上に置かれた機械はくすみの強い灰色で、アナログメーターの様なものが前面に存在していた。針が左右に微少に触れている状態で、恐らくそれはスイッチを入れられてベンチの上に置かれたのだろう。
綾雛は「拘わらない方が良い部類の相手だろう」と、男を視界の隅にやってその前を通り過ぎようとする。
「あれー、ここ携帯繋がらないんだっけ?」
不意にそんな言葉が綾雛の耳に飛び込んできたのは、まさにその時のことだった。
思わず綾雛はその声のした方を向いていた。
声の主はちょうどT字路のスクランブル交差点で信号待ちをする若い女のものだった。真向かいのデパートにでも向かうのだろう、女は携帯を手慣れた手つきで操作しながら怪訝な表情だった。
「そんなわけねぇじゃん、今時、利賀根の街中で携帯繋がらない場所なんてねぇから。……ほら、見てみろよ? 電波だってきちっと立ってるし、お前のが壊れただけなんじゃねぇの?」
「だったら、あたしのに掛けてみなよ。なんかさ、変な音鳴るだけで全然掛かんないんだから!」
若い女は男連れだった。友達か、恋人か、それは定かではなかったがそのやり取りは綾雛に酷い違和感を与える。
男の言う通り、この利賀根には携帯電話の電波が届かない場所など存在しないとさえ言ってしまっても良いだろう。下篠園覆道の地下六階層でさえ、綾雛がナイトと剣戟を展開した工場区画の入り組んだ場所でさえ、携帯電話が通じないなんてことは有り得ない。南地区に存在する指定保護区の雑木林の中でさえ、携帯電話は通じるらしいのだ。
そして、何より、男の「電波だってきちっと立ってる」といった言葉がその違和感の引鉄になった。それは即ち、携帯が使用する帯域に置ける電波の送受信自体には問題がない状態だということを表している。
現行の携帯というものは数世代前の軍事通信技術を凌ぐ性能を持っている。元データに対してノイズの比率が多く乗る様な状態にあっても、様々な手法を用いて元データを復元するなどというのは既にお手のものなのだ。磁場の関係などで電波が安定せずとも問題なく通話を可能にする技術が既に応用されている現状だ。電波が携帯電話に届いている限りは「通話出来ない」と言う状況の方が異常な事態なのである。
「あれ、……ホントだ、何で繋がらねぇんだ? つか、メールの送受信もエラーが出てるし……、おっかしいな」
男の方もぼやきながら頻りに携帯をカチャカチャ操作し始め、恐らく設定項目でも確認しているのだろう。
そんなやり取りを聞いた後だったから、尚更、綾雛はベンチの男の存在を意識した格好だった。綾雛はそこにそのまま立ち止まることをしなかったものの、再度、男の様子を横目に確認しようと視線を走らせる。
男はついさっき居たはずのベンチがある場所から、ちょうど綾雛との距離の中間点辺りに立っていた。絶えず人の流れのある往来の中にあって、男は綾雛の側に向かってくるでもなく、ベンチの場所へと戻るでもない。
次の瞬間には綾雛も立ち止まってしまっていた。男が不意に取り出し手に持ったものに見覚えがあったからだ。
男はへし折られたタングステンカーバイトの長刀の残り部分を摘む様にして持っていた。綾雛をじっと見据えながら自慢げな顔付きをして、男はそれを胸元辺りで軽く左右に揺らして見せる。それはまるで「これはお前のだろ?」とでも確認する風にである。
綾雛の表情が俄に険しさを帯びた。
そんな綾雛の表情を前に男は満足そうに頷いた。そして、ゆったりとした緩慢な動作でその場へ屈むと、それをタイルの上へと置いた。男はわざわざアスファルトではなく、この通りの舗装の所々に用いられている磁器質タイルの上を選んで長刀の欠片を置いた様だった。長刀の欠片がタイルの上に置かれた際には「カツンッ」と綺麗な金属音が鳴る。
男はすっと立ち上がるとヒラヒラと両手を振りながら、一歩二歩と綾雛の方を向いた格好のまま後退った。その様子は「危害を加えるつもりはないから拾いな?」とでも言っている風だ。男は元居たベンチの場所まで戻ると、再度、首を傾げる様に体勢を取って、今度はそれを拾い上げるよう強く綾雛に促した。
ゆっくりとした挙動でタイルの上に置かれた長刀の欠片へと近付く綾雛を男は興味深げに眺める。
綾雛は男の様子を窺う格好のまま、前屈みに腕を伸ばして長刀の欠片を拾い上げる。触り心地と折損面を確認し、綾雛はそれがナイトにへし折られた長刀の残りであることを確信した。そして、それを確認したからこそ、綾雛はより一層、男に対する警戒を強めた格好だ。
男は男で、綾雛が取った一連の自分を訝る表情に気を悪くした風ではなかった。それは綾雛の警戒に対してもそうだ。
「それの材質、タングステンカーバイトって言うんだっけか? ……結構、軽いんでビックリしたぜ」
男はここに雑談でもしにきたとでも言わないばかりのフランクな顔を見せていた。口調にもナイトがそうした様な、牽制・威圧の雰囲気はない。少なくとも、この場に設計図を力尽くで奪いに来たと言う風には感じられない。
「そちらさん、……どちらさん?」
怪訝な顔をする綾雛に、男は苦笑いをして答える。
「あー、わりぃ、名前は名乗れねぇ。……ナイトみたく通り名だとか格好いいものも持ってねぇしな」
ナイトの関係者であることを口にした男の真意を綾雛は判断し兼ねた。
常識に照らし合わせて考えて、ナイトの名前を出すことは綾雛の態度を不用意に硬化させる効果しか持たない。手の内を見せて綾雛の警戒を少しでも和らげようとしたのなら、それは逆効果以外の何物でもない。そして、恐らく、そう言う効果しか得られないだろうことは男の側にも簡単に推測出来て然るべきことだ。
ナイトの名前が出たことで綾雛は確信する。この男がナイトの属する組織に、同じように属する存在であることをだ。
「周囲にジャミングを掛けた?」
「ご名答。こいつは市販品に俺がちょっと手を加えた妨害電波発信機だとでも思いねぇ」
ベンチの上に置かれたアナログメーターの付いた機械をポンポンと軽く叩いて男は言った。
「あんたのお仲間とかに連絡入れられちまうと、落ち着いて話とか出来ねぇからさ。……まぁ気を悪くしないでくれよ。もちろん、人体に害が及ぶ様な特殊なものじゃねぇ、それは保証する」
男は「落ち着いて話が出来ないから……」とジャミングの理由を話し、ここに話し合いをしに挑んだ旨を説明する。
ジャミングに関して「人体に害が及ぶ様なものではない」といった言葉は恐らく間違いないだろう。そんな高出力の、人の感覚を狂わせる様な代物ならば、義足をコントロールする綾雛の脳が真っ先に異変を感知したはずだ。
綾雛が警戒を緩めることはなかったが、話し合いに来たと言う意を酌んでその用件を男に尋ねる。
「一体私に何の用件があるのか、……それを聞いても構わない?」
「同じ技術屋ってぇ話だから、あんたとは実際に会って話してみてぇって思っただけだ。サラッとあんたのことを調べてみた限り、学歴だとかそう言ったくだらねぇもの重視するタイプじゃないみたいだったしな。もしかすっと、俺の考えを理解してくれるんじゃねぇかって期待も多少はある」
男は何でもないことを告げる風に、サラリと言って退けた。
「サラッと調べてみたなんて、簡単に言ってくれるじゃないよ?」
「そう怖い顔すんな、判ったことなんて微々たるもんだよ。利賀根技工大のデータベースで関係者なら誰でも検索可能な何年度の卒業生とか、在籍年数は何年から何年で佐土原教授さんのゼミの卒業生とか、大学在学時代のことばっかだぜ」
カラカラと笑って見せて、男は綾雛についての情報を満足に仕入れられなかったことを言った。
「特に、情報調査室入室後のことはサッパリだ」
男は「忘れていた」という風に付け加えて言った。男のその言葉が謙遜でも偽りでもなく本当だったなら、その情報収集能力はそう優れてはいないと言うことになるだろう。
男はベルトにチェーンで繋いだビニール製の財布を、ズボンの膝回りに設けられたポケットのジッパーを開けて取り出す。そして、その中から一枚のカードを取り出すと、弾く様にして綾雛へと放って見せた。「カツンッ」と音を立ててタイルの上へと落ちると、それはそのまま綾雛の足下までタイルの上を滑ってやってきた。
そのカードは遠目にも、綾雛に取って見覚えのある彩色をしたものだった。
足下のカードを注視する綾雛に、男は首を傾げる様にして「拾ってくれ」と促した。
「二宮尊徳?」
カードを拾い上げた綾雛は頓狂な声を上げて男をマジマジと見た。それは利賀根技工大の学生証だった。しかし、男に不似合いなその名前も然り、明らかに不正な学生番号が記載されていて、一目に偽物だと判る代物だ。
「もちろん、その学生証は偽物だぜ? 菅原とか言う技工大大学院生の拾い物の学生証からコピーして作った。中のチップのデータ書き換えて回路にちょいと細工して、技工大データベースの認証を回避出来る様にしてある」
未だに人を騙すよりかはコンピュータを騙す方が簡単だと言うことだろう。
男の言葉を聞きながら、綾雛はそれを思わずにはいられなかった。
ともあれ、自慢げに説明をする男に対して、綾雛は呆れた顔をして言う。
「よくまぁ、あのコンピュータセキュリティの第一人者を自負する教授の作った鉄壁の認証を破ったものだね」
表情は苦笑い混じりのそれだったが、綾雛の口調は確かに男を感心する風だ。
男もそこに「褒め」の気持ちを感じ取ったらしい。そして、得意顔でにやける様子も随分と板に付いていた。
「いやなに、そいつは中身を覗くことしかできねぇからな。データベースの中身を書き換えるとか、そう言うことに必要な方の暗号は全く持って意味不明だし、成り済まして何かするってぇのも無理だ。俺は暗号解読屋でもなければコンピュータ関係のスペシャリストでもねぇ。計算は割と好きだがアルファベットの羅列するプログラム言語だか何だか言うのを見てっと頭痛がしてくる」
そんな謙遜を口にしてはいるものの、実際、男の様子はまだまだうわついた風だった。実は「扱い難いタイプじゃないのかも知れない」と、綾雛が呆れ顔で思い始めた頃、男はハッと我に返った様に言った。
「おっと、……余計なことは喋らねぇ方が身のためだな。口は災いの元ってぇのは言い古された言葉だしな、ホント」
男の方もどうやら自分の欠点と言うものは把握出来ているらしい。それでも、正直、軽薄な印象は否めないだろうか。
上手く乗せてしまえば、会話を有利に進めるぐらいはそう難しいことではない様に綾雛は感じた。
……端から見ている分には学生同士が偶然この大学通りの路上で来合わせたとでも思えただろうか。時折、往来の中、振り返る人もいたわけだがそのほとんどは綾雛とこの男の存在など気に掛けてはおらず、精々が「往来のど真ん中で話し込む常識知らずの迷惑な学生」という認識だっただろう。
その常識知らずの二人のやり取りは俄に雰囲気へと緊迫感を混ぜ、続いた。
「今から三年前の話だ。利賀根技工大で教授が留守の最中に事故が発生した。教授の監督が必須事項の実験で、学生が勝手に装置を起動し発生した事故だったらしいぜ。死者こそゼロだったが重傷の者が数人出た。あー……、あんたが巻き込まれた事故のことだぜ?」
回りを気にすることもなく饒舌に口を切り始めた男だったが、男が見せていた心得顔はその言葉の途中で徐々に不満げなものへと変わっていった。あまりにも「自分には無関係なこと」という顔をして、その話を聞いていた綾雛の様子に不安になったのかも知れない。最後には確認する風に、男はそれが「綾雛」の巻き込まれたものであることを強調していた。
そこまで言われて、ようやく綾雛はニコリと大胆不敵な笑みを口元に灯す。「言われるまで気が付かなかった」と、そう言いたげな何喰わぬ顔も然り、どうやら、動揺を誘う手練手管は綾雛の方が一枚上手の様だ。
尤も、こういった手練手管は綾雛の得意とするものではない。極端な話をすると、ただただ男が下手なだけだろう。
「まぁあれは起きるべくして起きた事故だったんだよ。実際にそれを体験した私がこんなこと言うのもおかしな話だけどね。あの場に顔を揃えてた連中はみんな、あの時、一言二言でも構わないから何か学会で喋りたいと本気で考えていたからね。私を含めて、どいつもこいつも一度没頭しちゃうと……って、奴らばっかりだったわけだしね」
クスクスと声を立てて笑ってみせる綾雛はその時の情景を懐旧している風だった。「懐旧」とは言っても、それほど長い年数が経っているわけではない。しかし、やはり学生から社会人へと立場を変えたという点が、精神的にも感覚的にも一つの節目を挟んだ思いを綾雛に感じさせるのだろう。
男は心なしか険しい表情をして綾雛の言葉を聞いていた。その表情は黙ってそれを聞いているのは気にくわないと言う風だ。……にも拘わらず、口を挟む様子を見せないのは口を挟めないからだろう。
事故の話で、まさかまさか嬉々としてその事情を詳しく説明されるとは露にも思わず、動揺も誘えなかった。
恐らく、そんな男の胸中を表情から推察した綾雛の思考は当たった格好だった。
それは「この男が事故が起きるに至った背景を知らない」と言う推察でもある。
「数年に一度あるかないかの特別な年だったんだ。全世界の大学から教授とか技術屋だとかが集まって、技工大の大講義室でディスカッションをすることが決まっていて、その場で技工大の学生が論文を発表する時間も持たれることが決まっていたの。事前に提出をしなきゃならない論文の締切があの事故の日でね、……論文を書き上げるためにはどうしてもあの日、実際の実験結果が必要だった。誰も勝手に加速装置を起動させようって意見を止める奴はいなかったんだよ? 誰もあの複雑な装置の扱い方なんて熟知してないのにだよ? 今考えると笑っちゃうよね」
ここに来て再度、クスクスと笑い声を言葉に混ぜる綾雛は交じり気のない懐旧の顔だった。
男の表情がより一層、憮然なものへと変わった辺りが綾雛の推察が正しいものであることを証明しただろう。
「あの後、運び込まれた総合病院で佐土原教授に怒鳴られたな。あぁ! 辿々しい日本語を話す普段は穏和なハーリッシュ教授にもか。ふふ、今でも鮮明に思い出せるこれ以上ない教訓かな」
綾雛は目を閉じるとその時の映像が鮮明に思い浮かぶのだろう。
男の前で瞑目する綾雛の様子は既に男の存在など眼中にないと言わないばかりだった。
「そして、右腕を失い、右足の切断を余儀なくされたあんただけが望んだ。佐土原っつー教授が研究中だった最先端の義足と、特殊な代替腕の移植を……だ。それがデュアル・ユーズ・テクノロジーだと判りながらな」
男はそれを厭う様に、半ば強引に口を切って綾雛に言葉を突き付けた格好だった。それは疑問形でも命令形でもなかった。しかし、だからと言って、それを述べることで綾雛の反応を窺おうとするでもなかった。言えば、この話題が綾雛の独擅場で結末を迎えることを嫌って口にしたもので、手練手管に劣る男の様子をまざまざと改めて証明した言葉だった。
「まぁ、ホント、あの事故の中で誰も死ななかったことが不幸中の幸いだったわけだよ。……それで、そちらさんは私にこんな昔話をさせるために私の前に現れたわけ?」
瞑目した目をゆっくりと見開いた綾雛はそんな男の言葉に鋭い瞳と大胆不敵な笑みを持って答えた。
そんなことを綾雛にぶつけて見せて男が一体「何をしたいのか?」が判らないから、それは尚更だ。
「あー……、あんた、あんま時間取れないんだっけっか?」
「悪いんだけど、そちらさんから事前にデートの予約を入れて貰ってないからね」
綾雛の受け答えに対してばつが悪そうに男は「参ったな」と言う顔をした。佐土原との約束の時間に綾雛が遅れた場合、そこから湯澤辺りに連絡が行くことを危惧しているのかも知れない。男は口にしてはいないものの、恐らく、その綾雛が現在置かれる背景を知っていた。佐土原との約束があることだとか、そう言ったことをだ。
「しゃーねぇ、率直に聞くとするか」
唐突にそう切り出した男の顔は色々と吹っ切れたものだった。そうして、男は綾雛を訝る風に眉を顰め、ジッと見据える。一段低い声を持って男が切り出した男の持つ「疑問の核心」は次の様なものだった。
「……あんた、一体全体、何なんだ? 情報調査室とか言うところから出てきて海保の検討会議に出席してるって、普通じゃ考えらんねぇことだろ? 利賀根技工大ってのはこの件に何か噛んでるのか?」
男が何を基準にし、それを普通では考えられないことと結論づけているのかは綾雛にも判らない。実際、そこを訝られても綾雛には何も返す言葉はない格好だ。基本的に、情報調査室は各関係機関から要請されれば出向する立場を取っていて、それは今回の件に関してもそうである。検討会議には要請されたから出席している立場に過ぎない。
そして、海上保安庁が組織としてアドバイザーを活用しないかどうかも綾雛には皆目見当の付かないことだ。
「そうかな? 検討会議なんかにアドバイザーを呼ぶってことはそんなにおかしなことかな?」
そんな経緯を踏まえて、綾雛が反問の形で返した対応は一般論をなぞったものだ。
付け足す言葉で綾雛は男のもう一つの疑問に対して明確な否定の言葉を口にする。
「それとそちらさんが訝ってる所を率直に答えちゃうとだね、技工大はこの海上保安庁の件に関して何の関係も持っていないよ。技工大と関係があるのは私で、そのことについても言っちゃうと技工大に在籍する一部の教授と関係があるに過ぎない。だから、技工大と言う一つの組織全体が私に拘わってくるわけじゃないよ」
「……アドバイザーねぇ。海保の次長連中はあんたへ手渡した設計図に問題があることを説明したのか?」
男の口にした「問題」という単語に対し、綾雛は肩を竦める様にして素知らぬ顔をした。
男は熱心に綾雛の一挙手一投足を窺い、その綾雛の反応を訝っている風だ。
結果、そこには沈黙が生まれ、先に進むにも後に引くにも難しい雰囲気が漂うことに繋がる。
その「探り合い」から生まれた沈黙を打ち破ったのは綾雛の側だった。それは提案をすると言う口調を取っていて「取り敢えず、この雰囲気を何とかしてしまわない?」と持ち掛けた風でもあった。
「一つ疑問があるんだけど、良いかな?」
「はんッ、駄目だと言っても聞くんだろ? ……何だよ? 答えられることなら答えてやるぜ」
吐き捨てる様に男は言った。綾雛の対応が嘘か真か判断出来ないから、綾雛の出方を見ざるを得ないのだろう。
「どうして、私が設計図を手渡されたことをそちらさんは知っているわけ? ……ナイトって名乗った例の彼もそうだけど、どうして、検討会議の中の情報を持っているの?」
首を傾げて根本的な疑問点の答えを求める綾雛に、男は「何だ、そんなことか」と言う顔で答える。
「あんたに費用対効果の算出をするよう依頼した次長がいるって話が流れて来たからさ。費用対効果を正確に算出するためにはどうやったってチップだの何だのの詳細な設計図が必要だ。あんたが設計図を持っているって確信はなかったが、九割方は持っていなきゃ可笑しい話だったってことなわけさ」
そこは双方が腹の探り合いをしながら質疑応答を繰り返す異様な空間だった。いや、探り合いと言うよりかは化かし合いの方がしっくりと来るかも知れない。必要ならばはぐらかし、必要ならば鎌をかけ、必要ならば要点を省いた説明で相手の問いに答えているのだからだ。
ともあれ、一般人の往来がある雑踏の中の一区画で、何でもない雑談を立ち話している風でありながら、そこに漂う緊迫感はかなりのものだった。当然、往来の人の中にも、そこに漂う違和感を感じ取って振り返る人が増えた格好だ。
このままでは埒が明かないと男は思ったのだろう。先に一つ駒を進めたのは男の方になった。
「へへ、やっぱり、利賀根技工大の卒業生のあんたに欠陥のことを隠して話をしても始まらねぇか。設計図があんたの手元にあるんじゃ、例え欠陥について知らなくとも、いつか必ず発見するだろうからな」
その男の発言に綾雛は疲れた顔をして「はぁー……」と一つ重い息を吐き出した。
確かに利賀根技工大は佐土原の様な、本格的な技術オタクが集まる傾向にはある。好き好んで研究室に閉じこもり気味の生活を送る様になったり、研究に没頭する様な輩も、確かに他の大学より多いと言えるのだろう。しかしながら、誰も彼もがそう言った技術一辺倒の学生生活を送るわけがないのである。玉石混淆と言ってしまっても過言ではないだろう。
そこで技術屋としての資質に欠く挫折を味わう者もいれば、入学することで満足し燃え尽き症候群を味わう者もいる。人間関係に疲れて学校に来なくなる者もいれば、趣味やバイトに没頭して新たな才能を開花させる者もいる。
大学は雑多な考えを持つ無数の人間との交流を持って「視野」を広める場所という意味も兼ねている。そこで感化されれば、当初の目的よりもずっと大事な何かを見つける学生など無数にいるわけだ。そう、誰も彼もが高い技術水準を持って利賀根技工大を卒業するわけではない。まして、利賀根技工大は工業系の総合大学であって、その工業の持つ意味は非常に広範囲になる。専攻、専門の違いによっても知識と言うものは大きく異なるのだ。
「利賀根技工大出身って言ったって、大学って組織の中にはピンからキリまでいるんだよ? 技工大の出身だったなら誰でも彼でも一様に図面から簡単に欠陥見つけられるなんて思わない方がいいんじゃない?」
「そういうもんか? まぁ、そんなことはどうでもいいことだよな」
半信半疑の顔をしながら男はあっけらかんと言った。その男の様子だと綾雛の言葉を謙遜とでも受け止めたらしい。
一つ神妙な顔をして間を置いた後、男は一つの提案をする。
「なぁ、どうにも俺は腹の探り合いってのは苦手なんだ。……だから、そろそろ、腹割って話そうぜ?」
「あは、それ、願ったり叶ったりだよ」
男の提案を綾雛は二つ返事で承諾した。寧ろ、綾雛の側もそれを「どう提案しようか?」と、迷っていた感じだ。
「それじゃ、一つ腹割って話しましょうよ? ……そちらさんが設計図を欲しがっている理由って言うのは欠陥に付け入る方法を欲しているからなわけ?」
「おいおい、心外だな! 俺は一度請け負った仕事として半端な仕事はしたくないだけだぜ。……なぁ、おい? 仮にも完成品が簡単に外部からのアクセスで乗っ取られちゃったりしてみろよ? その製作に関わった俺の抜け目のない技術まで疑われることになるんだぜ? そんなん耐えられねぇってさ!」
鎌をかけた綾雛に男は色を失って声を荒げた。綾雛自身その反応にはビックリした格好だ。
男は紛れもない本音を勢いのままに口にしたらしかった。言ってしまってから、ハッと我に返って舌打ちするとヒョイッと顔を背けて不機嫌になったのだ。それが男の演技だったなら、……大したものである。メディアに露出するそこいらの大根役者よりは遙かに良い演技である。
綾雛は口を開かず男の様子を注視した。本音を口にしてしまったのだろう男の次の反応を待つというわけだ。
男はサラリと本音を口走ってしまったことが余程気に食わない様子で、苦虫を噛み潰した様な顔で、再度、舌打ちをする。けれど、一度わなわなと震えた後にふっとその肩の力を抜いてしまうと次に続く言葉はさらりと口を付いて出た。
「なぁ、俺はその欠陥を完全に改善した新規の設計図を海保の連中に提供したいだけだぜ? 名前だとかそう言ったことだって証せるものなら胸張って証してしまいたいんだよ。でも、それが出来ないちょいとした事情がある。新兵器に欠陥があると判ったら、設計に拘わった俺以外の連中の中にも、そこにセキュリティパッチだとかを当てた完全版を作りてぇって奴はいると思うぜ?」
その男の訴えは綾雛に取っても頷けるものだった。特に「自分の技術が疑われるのは我慢出来ない」と声を荒げて言った男の最初の訴えは共感出来る内容だ。それらを踏まえ、綾雛は男にその「ちょいとした事情」の説明を要求する。
「どうして名前を証せない?」
「報酬を受け取った段階で、今後一切この件に関わることを禁じられちまったからな。下手すりゃお縄、まぁ、それも普通のお縄だって言うならまだ良いんだけどよ。こう、……何。下手をしちゃうと変な施設に放り込まれて、一生出てこれないとかあり得そうなわけじゃんよ?」
両手を揃えて前に出し、警察に手錠を掛けられると言った類のジェスチャーを交えて男は言った。
余りにも意外過ぎた男の「事情」に綾雛は一度キョトンとした顔を見せる。
まさかまさか、そんなことを海上保安庁の新兵器開発に拘わった技術屋が恐れているとは思わなかった格好だった。
「……割と律儀じゃない」
クスクスと微笑みながらボソリと呟いた綾雛のそれは、到底、男の耳に届く様な声量の言葉ではなかった。しかし、それは的を射た綾雛の感想でもあった。設計チームの面々を評し棉柴は「契約なんて有ってないものだと切り捨てる可能性のある連中」と言ったわけだから、その綾雛の寸感も何ら不思議のないものだろう。
「海保の連中は欠陥の説明をしてくれたかい? まぁ、どうせ奴らはあんたにカウンタープログラムが云々言っただけだろ? 俺の予想通りにことが運ぶとだな、奴らは恐らくこう言うね。「カウンタープログラムをどうやってミサイルないし管制システムの制御コンピュータに走らせるんだ?」ってさ。そんな見当違いなこと宣ってから、仕組みも何も理解出来ねぇ野郎が口出すんじゃねぇって言うんだよな、ホント」
それは確かに検討会議に出席する面々が言い出しそうな言葉だった。実際、欠陥について綾雛が臨時の検討会議で発言する際には必ず誰かがそう言い出すことだろう。……男は割と良い洞察力を持ってる様だった。
「機能を制限して、ただの魚雷ライクなミサイルとして使ってる分には今の設計のままでも何も問題ねぇよ。命中精度は二十一世紀始めのパトリオット地対空ミサイル並みに低下するかも知れないけどな。けど、実際に移動標的追尾機能をオンにして、海保の求めた半端ない命中精度の恩恵を得ようってなるとあれが持つ欠陥ってぇのはかなり厄介なんだぜ?」
身振り手振りを交え、男は海上保安庁が導入を検討している兵器について分析した。
それはかなり含みを持たせた言い方で、綾雛を試したに近いものだっただろうか。
「……座標軸から位置情報の修正をリアルタイムで行う送受信システム、か」
その「含み」だけで、綾雛は敏感にカウンタープログラムを走らせる手段について男が言いたいことを察した。同時に、綾雛は目を見開いて、自分自身が口にした言葉のその蓋然性の高さに驚いた様だった。
「それもあれは現行最大レベルの超高感度の送受信装置が付いていやがる。静止衛星、及び、一定距離以上離れた管制システムとは、直接、光に情報を持たせてやり取りする仕組みを持っている。あれは秒間十数回って座標軸のやり取りと、その位置情報の修正を行わねぇと、ご自慢の移動標的追尾機能もお話にならねぇからな」
男は綾雛の言葉を肯定も否定もせず、分析を続けた。
綾雛はそれをまだ「ただの推測の段階」であることを自分自身に強く言い聞かせた。しかし、それがカウンタープログラムを実際に走らせることを想定した上で、かなりの蓋然性を持った推測だということを否定出来なかった。
「なぁ、新兵器の設計図をくれよ? あんなものをそのまま大量生産されたんじゃ、良い恥さらしだぜ」
仕切り直しという風に男は、再度、要求する。
それが設計図を欲する紛れもない本心であることを真摯な目をして訴えたのだ。
「……悪いけど、それは出来ない。新兵器導入の停止が決定しているのならともかく、まだ次の臨時の検討会議で脆弱性の立証しなきゃならない現段階でそれは無理だよ。……但し、そちらさんが臨時に行われる検討会議の場に出席して、設計者として欠陥について説明してくれるというのなら話は別だ。身分の照会をして、設計チームの参加者であることと、その修正パッチを作る意志を検討会議の場で証明して貰えれば、……ね」
その男の訴えに対し、綾雛も率直な要求をぶつけた。
それが必要最低限、男にどうしても飲んで貰わなければならない条件だった。
「おいおい、馬鹿言うんじゃねぇぞ? 俺は海保の連中と保守義務を含んだ契約をしてんだぜ? それとも、あんたが俺の契約破棄、契約不履行を奴らに見逃すように圧力掛けられるとでも言うのかよ?」
「うん、させられるよ。何なら、そちらさんの身柄を、一旦、情報調査室に置いて貰える様に掛け合ったっていい。私が把握出来ている情報から総合的に判断しても、そちらさんに否はないし、何より正しいことやろうって言うのにそれが罷り通らないでは不合理過ぎる。そちらさんに関して、契約の一部を見直させる様に海上保安庁を説得してもいい」
男はそれが無理難題だと思っていたから、綾雛の返答には思わず呆気に取られた顔をした。
「……は、はは、ははははは、おいおい、何言ってやがるんだ?」
大きな身振り手振りを交えて男は「冗談言うなよ?」と訴える。
しかし、そこに対する綾雛は真顔で首を傾げて見せるだけだった。
「……情報調査室ってのは何なんだ? そんな権力を持ってる組織だなんて、今の今まで聞いたことはなかったぜ?」
綾雛に質問をぶつける男の表情は非常に複雑なものだった。恐怖に、期待に、……と、そこには様々な感情が交ざっていて、動揺さえも色濃く窺うことが出来るものだった。
「国家安全保安局みたいなものだよ。主目的は情報を収集することなわけだけど、その名にある通り、必要に応じて調査をし、そしてさらに必要があるなら処置を行う。警察組織の様な万能な権力を持っているわけじゃないみたいだけどね。私も正直なこというと、どこからが駄目でどこまで可能なのか、まだ判らない。だけど、これに関しては私が責任を持つ」
男の心が揺れ動く様子をそこに見て取れるから、綾雛の対応は丁寧なものだった。この男を刺激しない様に綾雛が意識したのはここに来て初めてのことかも知れない。大胆不敵な態度もこの時ばかりは影を潜める格好だ。
「……悪いな、その話には乗れねぇ。まず、第一にあんたが俺に信用を置けない様に、俺もあんたに、まだ、イマイチ信用を置けない。お互い情報が少なすぎるってことなんかね。そんで第二に、……面白いこと思いついちまった」
思案顔で「うーむ」と何度も何度も唸って見せた男だったが、結論は検討会議で証言は出来ない旨だった。「面白いこと思いついた」と含みを持たせ、男はさらにその「面白いこと」についてこう仄めかす。
「へへ、欠陥に付け入る方法ってねぇ。案外、あれにカウンタープログラムを走らせるのは簡単なことだって思うぜ? ついさっき俺が言った様な方法で、後は試行錯誤を繰り返すだけだからな。……まぁ、今回は残念ながら物別れだな」
男はクルリと向きを変えてベンチまで行くと、例の機械の摘みをぐるりと回し、それを脇に抱える様に拾い上げた。
綾雛はそんな男の次の挙動を警戒する。
十中八九「ここから逃げるための手を打つ」と予想される状況なのだが、……万が一と言うことも考えられたからだ。
「……おいおい、まさか、ここでサブマシンガン身構えてぶっ放すってわけにはいかないだろ?」
徐に上着のジャケットの中へと手を差し入れた綾雛を男はそんな言葉で牽制した。それもわざわざ声量を上げ、周囲の注目が綾雛に集まる様にした格好だ。さすがの綾雛も動くに動けない状態に置かれ、表情は自然と険しくなった。
「次の臨時検討会議とやらの話は俺も今初めて聞いたわけが、その時までにもう一度あんたに連絡を入れることにするぜ。次はきちんとしたデートのお誘いになると思うから、まぁ、楽しみに待っててくれよ」
それだけを言い残すと男は軽く手を振って、綾雛が歩いてきた私鉄駅の方へと歩き去っていった。すぐにその背は人混みの中へと紛れ、見分けが付かなくなった。一際、目立ちそうな赤褐色の男の髪も目印にはならなかった。