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Seen03 綾雛形


「どうやら、少し……あなたを過小評価し過ぎていた様だ」
 ジリジリと間合いを調整するナイトの挙動に対し、……何を思ったか、綾雛は戦闘態勢を解除した。
 その挙動は不可解そのもので、ナイトは大きく距離を開く様に一層の警戒を強める。
「そんなそちらさんに、私、綾雛からのプレゼント」
 そんなナイトの対応を前にして、ふっと綾雛が口を切っていった言葉は到底この場に相応しくはないものだった。言うが早いか、綾雛は左手に握り持った長刀の鞘を道端の草むら目掛けて無造作に放り投げ、ジャケットの胸元から一枚のステッカーを取り出してみせる。
 それは割と作りのしっかりとしたもので、薄っぺらい一枚の紙の様でありながら、自然と折れ曲がることはないものだった。「プレゼント」といった様に、綾雛はそれを「パンッ」と指先で弾くとナイトへ向けて飛ばして見せた。
 綾雛の手を離れたステッカーはナイトの胸元に届く位置まで勢いよく飛んできて、そして急速に加速度を失う。この区画を吹き抜ける風のない無風状態だとはいえ、綾雛のそのコントロールは見事だといって良いだろう。
 胸元の高さを右に左に漂うステッカーをナイトは顔色一つ変えずに握り取る。
 ナイトの手にステッカーが渡ったことを確認すると、押し付けがましく綾雛は言った。
「それはまだ試作品なんだけどね。……喜んでよ? それを実際に受け取ったのはそちらさんが最初なんだから」
 綾雛を一度睨み見た後、ステッカーへと目を落としたナイトは「堪らない」という風に含み笑いを滲ませた。
 ステッカーに綴られた文字。それは「破邪顕正」である。
 綾雛が一向に戦闘態勢を取る気配を見せないからか、ナイトも構えを崩して戦闘態勢を解除する。
 綾雛、ナイトと、お互いが街灯の下に立って、その明かりに照らし出される格好だった。街灯は全て等間隔の距離を置いて立っていて、両者の合間には誰を照らすこともない街灯が一本存在していた。二人の間にあったものはそんな長くも短くもない距離だけだ。しかし、ふっと気付けば、そこに漂っていたはずの張り詰めた緊張感はいつの間にか掻き消えてしまっていた。それはお互いに不審な動きや画策を持って挙動を取れば、確実に相手にばれる状態に身を置くからかも知れない。一歩を退いても進んでも、街灯の下に身を置く両者の影は即座にその形を変えるのである。それは偽りようがない。
「……あなたはあなたの正義を立証出来るのか?」
 唐突に口を切ってナイトがぶつけた質問に、綾雛は「待ってました」と言わないばかりに答えた。
「現状の曖昧な把握しか出来てない今、これを使うにはちょい相応しくない気もする。でも、優勝劣敗って言うのはある意味、この世の理じゃない? だからこそ、正義は勝るものとして邪悪を打ち破る存在でなくてはならないと思うわけ」
 生き生きと口を切って言う綾雛の様子は何ら臆する所のないものだ。但し、それはナイトの問いに真っ向から答えを返すものではなかった。尤も、ナイトの口調はこの場で綾雛自身の正義を立証してみせろと要求したわけではない。
 綾雛の見解を黙って傾聴していたナイトの苦笑いはより一層その度合いを増したものへと変わる。
「随分と危険な思想だ」
 ナイトはそれを「危険なもの」と切って捨てると、俯く様に瞑目し教え諭すがための言葉を用いて続ける。
「あなたがあなた自身の基軸として持つ絶対的な正義に疑問を抱いた時、自己矛盾に苛まれることを危惧する」
 危険な思想と切って捨てられたことに、綾雛は不服の顔を隠さなかった。「聞き捨てならない」と言う具合に、くっと方眉を吊り上げたのだ。しかし、同時に綾雛はそのナイトの見解がどこから来たのかを既に明察していた格好だ。
 その相違の根幹となるもの。それは綾雛とナイトとの間に存在する「正義」そのものに対する考え方の相違である。
 だから、そこに綾雛は綾雛なりの正義に対する見解を前提として付加する必要があった。
 危険な思想とナイトに切って捨てられたものを、ナイトの中で成り立つものへと転化させるためにである。
「それと、もう一つ。多分この世に絶対的な正義なんか存在しないことを言っておくよ。この世に存在するのは相対的な正義だけだと私は思うわけ。そう、今回のことを言ってもそうだよ。そちらさん、設計図を力尽くで強奪しにきたわけじゃない? それは正当な手順を踏むものでもなければ、やり方として正しいものでもない。それは非難されて然るべき行為であり行動である。だから、それを退けるべく正義を行使出来ると考えるわけ」
 綾雛は臆することなく、そして胸を張って自身が持つその正義についての見解を述べた。
 相対的という言葉を用い「全ては比較の上でしか成り立たない」と、綾雛は持論を説いたのだ。
「私の正義は私が決める」
 これ以上はない大胆不敵な顔をして綾雛はそれを言い放った。
 それは同時にナイトが綾雛を見て言った「基軸として持つ絶対的な正義」という言葉を真っ向から否定したものだ。
「組織と言う存在に属しながら、そこに正義がないと理解すれば、私は私の正義に殉ずる決意がある。もし仮に、そこに矛盾が生まれたのなら、私はそこで一度立ち止まって相対的な正義を模索するんだよ」
 そして、続ける言葉で綾雛はさらにナイトの危惧を否定した。
 自己矛盾で綾雛という一個の基軸が崩壊することがないことをである。
「分かり難いこと言ったかも知れないけれど、つまりはそちらさんが正当な「理由」を持つなら、私はこの設計図を手渡す可能性も十分あるって言うことだよ。組織だとかそう言ったややこしい柵は関係なくしてね」
 綾雛は大きく左腕を広げる様にして、ナイトに訴える。
 必ずしも組織の規律に縛られないことを説く綾雛の姿はナイトの目にどう映ったか?
「そちらさん、最初に言ったわけじゃない? 設計図を手放すことが私のためになり、私の属する組織が重視する国益だとかいうものを得ることに繋がるってさ。……その結論に至る過程を説明して貰いたいわけ。やましいことがないなら腹割って話なよ? 設計図を欲する理由は何?」
 首を傾げてナイトに答えを要求する綾雛に、ナイトは反問をぶつける形で答えた。
「それを説明することで、あなたが大人しくその設計図を手渡す可能性が本当にあると言うのか?」
 無造作に丸レンズの眼鏡を押し下げ、ナイトは余計なものを間に挟まない形で綾雛の瞳を注視した。それは綾雛の真意を推し量る鋭い目だと言って良いのだろう。これ以上はない真摯で鋭い目。それは相手を射竦めるためのものとは根本的に異なるものだった。しかし、それでも、それに絡め取られるからには居竦まざるを得ない様な威圧感を持つ瞳だった。
「もちろん。それが私を納得させられる理由ならね」
 綾雛は「当然じゃない?」と、自信たっぷりの顔をして明言した。
「くく、くくッ、くくく……。あなたは本当に面白い類の人種だな」
 一瞬、呆気にとられた様な表情をしたナイトだったが、次の瞬間には声を出して笑っていた。まるで「笑い」を押し殺せなかったと言わないばかりにである。
 それは綾雛を侮蔑するタイプのものではない。……どちらかと言えば感心したからこそのものに近かった。
 一頻り笑った後、ナイトは神妙な顔をして切り出す。
「……生憎、臨機応変に対応することが出来ない部類の人間と言うものもこの世の中には無数にいるのだ。一度始めたやり方を簡単には変えられない部類の、意固地な人種は往々にして存在するのだ」
 それはナイト自身が綾雛の要求には添えないことを遠回しにいった言葉だった。
 ナイト自ら、一度やり始めた「強奪」と言うやり口を変更出来ないと、そう言ったに等しいものだ。
「それでは、仕切り直しと行こう」
 淡々としたナイトの、しかし、どこか状況を楽しんでいるかの様な言葉が漏れ出る。
 それを境にナイトが長刀を身構え、綾雛にも構えることを促す険しい目が向いた。
 綾雛は疲れた顔をして「はー……」と、一つ長い息を吐き出すと、キッと表情を戦闘に際するものへと切り替える。
 そして、地を蹴ったのはほぼ同時。「ガァァァギキィィィィン……」と金属音を響かせ互いの太刀筋が打っ違いに重なる。「ガチガチガチガチ……」と頻りに金属同士の摩擦音が鳴り、双方が力任せの鍔迫り合いを演じた。
 鍔迫り合いから先に身を引いたのはナイトだ。
 渾身の薙ぎを綾雛に右手で受け止められた印象が強く頭にでも残っているのだろう。
 最も得意とするはずの力勝負で先に引いて見せ、ナイトは連続攻撃を繰り出す攻撃のパターンへと切り替える。
 それからは異質な時間が経過することになった。太刀音を二度三度と鳴り響かせることを一括りにし、それが何度も何度も繰り返される。殊更、闇夜の薄暗さが金属音を強調するかの様だった。
 規則的だからこそ、酷く耳障りな太刀音なのかも知れない。そして、酷く不気味なのかも知れない。
 規則的な太刀音とは対照的に、街灯に照らし出される影の形は歪にもその姿を一定のパターンに留めることはない。
 綾雛とナイト。両者の力が拮抗などするはずがなかった。
 少なくとも、タイプの違う二人がそうやって規則的な太刀音を鳴り響かせるなど、到底あり得ない話だった。
 どちらかが相手の力量を図って力を抑えているか、さもなくば、敢えて相手の力量に併せることで剣戟の時間を長引かせていた。もちろん、時間を長引かせることで一撃必殺を繰り出す一瞬の隙を狙っているかも知れない。ただただ、相手の体力を奪うことを考えているだけかも知れない。そして、それら全てである可能性さえも否定は出来なかった。
「……動きは鋭く、防御に関しても申し分ない。斬撃を繰り出す速度も平均を著しく凌駕し、狙いも緻密で正確。攻撃の組み立てにも不足はない。しかし、所詮は一介の我流と言うことか?」
 不意にナイトが口を切る。
 それは綾雛を分析し、全体像を評して言った言葉だ。「しかし」といって続けた言葉に綾雛はカチンと来た。
「生憎、知り合いに剣術家だとか剣客だとかいう特異な人種がいなくてね。……そちらさんはどうなのよ?」
 それは我流を打ち負かすことの出来ないナイトを皮肉った言葉に近かっただろうか。……少なくとも「そちらさんも我流なんじゃないの?」と、ナイトに問うたものではない。綾雛は否応なくも感じさせられていた。ナイトが扱う剣の太刀筋などが持つ「隙のなさ」が、我流で剣の腕を磨いて身に付く類のものではないことをである。
「ただただ力任せに斬撃を繰り出している風に見えるのか?」
「そういうことを言いたいわけじゃないんだけどね。……どうやら、判って貰えないみたいだね」
 呆れた口調で問い返すナイトに対して、綾雛は苦笑を灯して言葉を返した。
 やはり、そのニュアンスは伝わらなかったらしい。
 ナイトの丸眼鏡のレンズに赤い光が明滅した直後、今まで以上の俊敏な踏み込みが来た。まるで「では、我流ではないことを教えてやろう」とでも言いたい風だった。今更、それは「勘違い」だといっても通じはしないのだろう。
 ヒュンッと一際激しく風を切る音が鳴って、ナイトの一撃が振り下ろされる。「ガァァァギキィィィィン……」と鳴り渡るけたたましいまでの金属音。そして、すぐさまナイトの太刀筋は流動的に動きを変えて薙ぎに転じる。
 再度「ガァァァギキィィィィン……」と、激しい金属音が鳴り響いた。その音に混じって「パキッ」と一つ嫌な音が鳴ったのを綾雛は聞いていたた。しかし、それを気に掛けている余裕など綾雛にはなかったのだ。
 ナイトが攻勢を強めても、綾雛が防戦一方に追い込まれることはなかった。しかし、攻撃回数と言う点で、途中から綾雛を圧倒的に上回ったのはナイトの側だ。攻撃の種類に置いてもナイトは力押しで一貫している様に見えながら、その実、綾雛の防御を崩すがために中下段を織り交ぜた広範囲の攻撃を展開していた。
 綾雛が攻撃へと転じる機会は確実に減少の一途を辿っていた。決定的ではないにしろ、綾雛の不利は否めない状態だった。だから、綾雛の思考は「如何にして加速を有効的に使用するか?」と言うこと、それに集中していた。
 追い詰められた状況で逃げの一手に加速を使ってしまえば、ほぼ確実に勝機は失われる。恐らく、綾雛に加速と言う技があると言うことを念頭に置けば、ナイトはそれに対処するだろう。一足飛びには無理でも、徐々にその対処方法を身に付けるはずだ。十中八九、ナイトはそう言ったことを臨機応変に行っていけるだけの場数を踏んでいた。
 言ってしまえば、経験という分野でナイトが持つ攻撃の厚みは綾雛よりも数段上だった。
 純減してきた攻撃に転じる機会を最大限に活かそうと考えるから、綾雛の攻撃は徐々に大味なものへと切り替わっていく。ダメージ重視・威力重視にその傾向を変え、その分、単調で先の読みやすい力任せの攻撃へと移り変わった。
 そして、それは綾雛が大袈裟の一撃を繰り出した時に起こった。ちょうど、ナイトが防御のために構えた長刀と打っ違いに重なった時のことだった。「パァキィィンッ」と金属音が鳴って、綾雛の長刀が中程からへし折れたのだ。一つ遅れて、綾雛の後方で「トスッ」と鋭い音が鳴った。恐らく、それはへし折れた長刀の破片が大地に突き刺さった音だった。
「嘘……だ」
 綾雛は心の内に生まれた動揺を呆然の体で呟いた。既に、隠す、隠さないの問題ではなかった。
 大きく目を見開いて、動揺の表情の後に残ったものは当惑以外の何物でもない。けれど、落ち着き払って状況の再確認をする時間は綾雛に与えられていなかった。綾雛に動揺が生まれた隙を逃すことなく、ナイトが大袈裟で切り込んでくるからだ。
「それら、ナイトの攻撃をどう防御するか?」
 否応なく集中せざるを得ない事態は綾雛に取って逆に好都合だと言うことさえ出来た。あれこれと分析する余裕などなく、選択を誤れば即座に敗北へと直結するのだからだ。
 窮した綾雛は敢えてナイトの懐に飛び込む様に距離を縮める。ナイトの一撃を受け流すことをせず、刃の付け根部分に左手を添え、中程からへし折れた長刀でその一撃を受け止めようと言うわけだ。綾雛はナイトの一撃を受ける角度に細心の注意を払う。額には冷や汗が浮かび、ここに来て、綾雛は今までにない真剣さを灯していたほどだ。
「ガァァァギキィィィィンッッ……、ガチッガチガチッガチ……」
 もう、何度と知れない太刀音と鍔迫り合いの音が響き渡って、場は一気に緊迫感を帯びる。
 圧倒的不利に顔を歪める綾雛に対しても、ナイトが優勢に慢心することはない。誰が相手でも、何が相手でも、ナイトは持てる力の全てを尽くして戦うタイプらしい。それが相手に対して礼を尽くすことだと考える朴念仁なのだろう。
 綾雛は不利な体勢に身を置きながら、しかし、そうすることでナイトが薙ぎの攻撃へと転じる道筋を潰した格好だった。そして、そんな防御に専念するかの様な綾雛の体勢が功を奏したとも言える。
 一歩引いて、再度、大袈裟に切り込むナイトの挙動を誘った。
 切り札を隠し持つ綾雛が勝機を狙って、それを発動させるチャンスは今しかなかった。
 体力的にも、技量的にも、綾雛がこれからナイトの攻撃を防ぎ続けるには到底無理がある。
 ナイトが一歩引いたその瞬間に、綾雛はさらに一歩を踏み込んだ。
 刀身のへし折れた長刀を無造作に土の上へと投げ捨て、綾雛は命令を下す。義足同様に完全な思考制御で動いている右手へ……である。しかし、それは義手ではない。神経が通い、血が通い、痛みや痒みまでをも本物と何の相違なく感じることが出来る「人」の腕そのものである。
 人の卵子から採取される細胞を培養することで、人は魂の通わぬ人の複製を作ることが可能になったのだ。それも実際は一昔前の時代の話で、現在はそこから人工筋肉や蓄電機能を付加する研究も実現可能な段階まで来ている。そして、技術的には実現可能な、それらの研究の成果を実際に試験段階として享受したのが綾雛であるのだった。
 それは視覚ではっきりとその輪郭を確認出来るほどの球体をしていた。そして、時折激しく「バチッバチッ」とヒューズが飛ぶ様な音を響かせ、恰も燐火の様な淡く美しい青色をした放電だった。
 綾雛は大きく開いた掌でそれを持っているかの様。
 相手を倒すにあたって、絶対に外すことの許されない装填数一発の綾雛の切り札。
 威力を抑えて使用しても二回三回に分けることは出来ず、再充電には日数を要する制限の多い切り札だ。しかし、だからこそ、使用するからには全力で撃ち放つことを要求される一撃だ。遺伝子操作で人為的に創り出された様な怪物を行動不能にすることを想定して作られていて、一撃の威力には佐土原のお墨付きがある。
 激しい放電が続く綾雛の右手がコートの上からナイトの胸元を捉えた。絶縁体で身体を覆ってでもいない限りはもう防ぎようがない。右手の放電はナイトに触れるか触れないかの距離で、既にナイトを完全に標的として捉えているのだからだ。そのまま、直線上に撃ち放ってもほぼ確実に直撃する位置にナイトはある。
 そして、命令が下った。
 電流が流れる際に鳴る「バチッ」と言った類の音が一際大きく轟いたのを皮切りに、激しい空気の振動が生まれる。綾雛の手を離れて肥大化する球体にナイトの身体は一瞬にして飲み込まれていた。すぐにナイトの姿は青白い放電の中に掻き消え見えなくなったのだ。
 放電を行う腕が痺れを覚えて、徐々にその腕が感覚を失い始める。左側頭部に電気が走った様な、針で刺すかの様な痛みが広がることもこの切り札を使った際の特徴だった。しっかりと「意識を保とう」と思わなければ、徐々に意識が朦朧としてくるのも既に慣れた感覚だとさえ言えた。最初の頃は既にこの時点で「放電を止める」だとか「止めない」だとか思えるほど、はっきりとした意識を保ってはいなかった。そこから見ると、だいぶこれらの「感覚」にも慣れたのだろう。
 頻りに「バチバチッ」と放電に異音が混ざり始めると、完全に放電が止むまで多くの時間は要しない。
 全身の感覚が軽くなって宙に浮くかの様な状態まで進行すると、プツリと終わりが訪れる。
 綾雛の放電が止むと、そこには仁王立ちをしたまま微動だにしないナイトが姿を現した。「ジジッ、ジジッ」と電気の走る嫌な音がナイトの眼鏡からは鳴っていた。
 ナイトは長刀をその手に握った格好のまま、一度グラリとふらつく様に横に揺れると前のめりに倒れ込む。「ドゴォッ」と激しい音を鳴り響かせながら、しかし、どうにかナイトは片膝を付いて突っ伏すことだけは免れた格好だった。
 放電をまともに食らってナイトが気絶していないこと自体、到底考えられないことだった。コートの素材に用いられた衝撃吸収素材が耐電効果を発揮したと考えても、それは信じ難い結果である。放電がナイトに対してもたらした影響はどんなに低く見積もっても、まともに超高電圧スタンガンを突き付けられた以上のダメージにはなったはずなのだ。
 けれど、さすがにナイトの様子は既に意識を保っているのがやっとの状態にも見えた。苦痛に顔を歪め「ハアハア……」と、荒い息を吐くナイトの様子を見れば、決着は喫したと言っても良いだろう。
 綾雛は徐にナイトに背を向けると、茂みの中から投げ捨てざるを得なかった「CZE Vz83」を拾い上げる。
「チェックメイト」
 綾雛は「バサッ」と音を立てて半身の姿勢で身構えると、その銃口をナイトの頭部に定めた格好だ。
 ナイトは微動だにしなかった。しなかったのか、それとも、出来なかったのは定かではない。険しい視線を綾雛へと向け、ナイトは「撃て」と言わないばかりの形相だ。互いの視線が交差する数秒の時間を挟んで、綾雛は戯ける風に言った。
「……なんてね」
 ジャケットの下に装着するホルスターに銃を戻し、綾雛は満足げな含み笑いを灯した。
「今回は引き分け。私が見たところ、そちらさんはそう時間が経たないうちに動ける様になる。私の仲間を呼んでも、警察組織をここに介入させても、恐らく、そちらさんを捕獲することは出来ない。そして、何よりも、私の目的はそちらさんを殺すことじゃないわけ」
 鼻を蠢かす様にして、どこか勝ち誇った態度を綾雛が取ったことは否定出来ない。しかし、その態度が強がりから来たものだったことも、強ち「嘘」とも言えなかった。……綾雛にはナイトに対して飲み込んだ発言があったのだ。
 綾雛を見るナイトの目は鋭く険しかった。色の入ったレンズ越しではあったが、その目はまだ戦意を喪失してはいない。綾雛の選択一つで、放電の影響が多分に残る身体に鞭打って戦うことも厭わない。そう訴える目つきだった。
 ナイトが動ける様になって、再度、戦闘を展開することになったなら今の綾雛には万に一つの勝ち目もない。虎の子であるタングステンカーバイト製の長刀をへし折られ、放電という切り札も使い切ったのである。もし、今この場に第三勢力の介入があったなら、綾雛は例外なく加速を用いたこの場からの離脱を選択するだろう。例え、それが綾雛の敵だと確定せずとも、味方であるという確証がない限り、その選択は揺らがないはずである。
 もちろん「今のうちにナイトを縛り上げるなりすればいい」と言う考えも綾雛の中には存在していた。それを躊躇わせたのは綾雛を捉えて放さない一つの思考だった。それは「放電をまともに食らいながら、ナイトは行動可能な状態にあるのかも知れない」と言うものだ。もちろん、かなりの無理をして……と言う前提がそこには付く形ではある。
 不確かな、ただの推測に過ぎないことではある。しかし、ナイトの目に灯る戦意がそれを物語っている気がして仕方がなかった。加速というもう一つの「札」を残しながら、綾雛が推測の域を出ない疑問の答えを確認することはなかった。
 片足を付いた格好のままのナイトにクルリと背を向け、綾雛はその場を去ることを選択する。
 へし折れた長刀の束が残った残骸を屈んで拾いあげると、綾雛はそれをジャケットのポケットにしまい込む。近場に転がっていた鞘の方は靴の先を器用に使って、サッカーボールを真上へと浮かせる要領で拾い上げた。
「そちらさんには必ず「破邪顕正」を見せ付ける。だから、今回は引き分け」
 去り際のこと、綾雛はナイトを横目に捉え「クスッ」と不敵に笑ってそう言った。
 後ろ手を振って「じゃあね」と言う意をその場に残すと、綾雛は振り返ることなく歩き始める。
 綾雛の後ろ姿が完全に闇に解けて見えなくなるまでナイトは微動だにせず、その後ろ姿を注視していた。


 工場の区画を離れて綾雛が向かったのは湯澤の待つビジネスホテルではなかった。一度、屈環方面へと向かって、そこから私鉄に乗り込み、再び利賀根技工大へと足を向けた格好だ。下手をすると帰りは終電に間に合わないぐらいの時間帯だったわけだが綾雛はそんなことまで思考を巡らせる余裕のない状態らしかった。
 工場区画を離れた後の綾雛はどこか心ここにあらずの顔付きをしていたのが印象的だった。携帯の液晶画面に埋め込まれた認証コードで銀行口座から直接料金を引き落とすタイプの改札口を通過した際も、半ば無意識のうちにそれを行った風だった。そこにはやはり、利賀根技工大通学時代の慣れと言うものもあっただろう。利賀根技工大へと向かう私鉄が停車するプラットホームまでの足取りは実に慣れたものだった。
 プラットホームへと停車した私鉄はその座席の大半が空いていた。乗車率をパーセンテージに換算すれば、その私鉄は二桁を切っている様な状態だ。もちろん、帰宅の途に就くサラリーマンなどが向かう方角へと走る路線ではないと言うこともあるだろう。遠目に見た下篠園の住宅地方面へと向かう私鉄はそれなりの乗車率があったのだからだ。それでも、一応はうとうととするスーツ姿の乗客を窓から疎らに車内に確認出来る中、綾雛は最も人のいない車両を選んで乗り込んだ。
 綾雛は電車の乗車口を入ってすぐの場所にある手摺りに寄りかかる様にポジションを取った。天井を見上げ、一つ長い息を吐く綾雛の表情には強い疲労の色を窺える。しかし、綾雛には座席に腰を下ろすつもりはないらしい。
 出発時刻が迫ることを知らせるけたたましい警告音が鳴り響いた後、私鉄の乗車口が音もなく閉ざされ、微かな縦と横の小刻みな振動の後、私鉄はプラットホームをゆっくりと離れ始め、発車した。
 プラスマイナスの電極を用いて電車を浮かせ車両の制御をする今のスタイルがデファクトスタンダードになってから、長距離区間を走行する電車の移動速度は著しく向上した。しかし、短距離区間を各駅停車するタイプの電車はあまりその恩恵を受けたとは言えない。確かに、各駅間を移動する速度的なことを言えば、僅かな短縮が成されているのかも知れない。しかし、それで電車の利便性が著しく向上したかと言えば、それは「いいえ」だろう。
 相変わらずの通勤ラッシュは改善されていないし、人の乗り降りを機械の技術的な進歩でどうこう出来るわけもなく……という具合に、改善出来ないボトルネックを抱えたままであるわけなのだ。言ってしまえば、基本的な性能の向上もここ数年来は見られていない。既存のレールをこの技術を用いた路線に置き換えたために、カーブを曲がる際の速度的な問題などがそのまま残ったことが挙げられる。ボトルネックを改善するためには規定のものを少しずつ新しい基軸に沿ったものへと交換しなければならないところまで、既に時代は来ているのだ。
 最終的に電車というものは地上数メートルの位置を、電気的なエネルギーを用いて吊して走らせるスタイルになるだろうと言う予測もある。移動にはプラスマイナスの電極を用いる技術をそのまま応用し、ただ、なぞって走るレールが上にくるか下にくるかの違いになるという話だ。これも技術的には既にクリアしている段階にあるわけだが、実現にはコスト的な面・整備的な問題があり、それがデファクトスタンダードになるのはまだまだ先の話というわけだ。
 カーブ時に揺れを感じる以外はほとんど左右の揺れのない私鉄に揺られながら、綾雛の表情は複雑だった。「気落ちしたものか?」と言えば、そうではないし、では「長刀が折れたことを深刻に悩む風か?」と言えば、そうでもない。
 やはり、綾雛はどこか心ここにあらずの茫然自失の体だった。手摺りに深く身体を預け、俯く様に小さく首を傾げる様子は次のナイトとの戦闘に向けて前向きに何かを検討する様にも見え、その深慮の中身は推し量れない。
 綾雛は徐にへし折られた長刀をジャケットのポケットから取り出すと、その束を握った。「ギッ」と音が鳴るほどに力を込めながら、綾雛はじっとその折損面を注視した。……それはこれ以上ない綺麗な折損面だ。
 ナイトが長刀をへし折るつもりだったのか、成り行き上こうなったのかは判らない。けれど、一つ気に掛かることは、やはり「所詮は一介の我流」とナイトに切って捨てられたことだった。切り札を用いて勝ったには勝ったが、それはやはり勝利の味と言うよりかは敗北の味に近い。
 ふっと鋭い目をして、虚空を睨み付ける綾雛の焦点はここには存在しないものに向いていた。
 恐らくは長刀がへし折られた場面を鮮明に思い出してでもいたのだろう。
「折れたものは仕方ない」
 ボソリと呟き出して、綾雛はそれを吹っ切ろうとする。
「……仕方ない、だけど!」
 しかしながら、胸中に凝りの様にまとわるその「イメージ」は強烈だった。簡単に払い退けてしまえるほど、弱いイメージではなかった。長刀の扱い方に非を見つけられないから、綾雛自身、その言いようのない不安は相当のものだった。


 私鉄を「利賀根技工大学前」駅で降りると、駅のホームから一段標高の高い土地に位置する大学を確認することが出来る。尤も、それはこの一帯に、ビルにしろ何にしろ縦に長い建物がないことが影響しているだろう。
 ではこの一帯が「住宅街か?」と言うとそうではない。もう少し郊外に行けば、一軒家の建ち並ぶ閑静な住宅街に街の風景は変容するが、この一帯は取り分け商業地区としての特色を持っている。
 商業地区として成功しているかと言えば、より歓楽・飲食街として色の強い下篠園などに見劣りする形ではある。しかし、学生の足が遠退かないぐらいには商業地区としての特色を持っている。四つの大学を統廃合して生まれた莫大な総数の学生を抱える利賀根技工大の需要を当て込んだと言う点で、ここは商業地区として成功していると言えるのかも知れない。
 私鉄の駅に隣接する大通りから、直接、利賀根技工大の左門へと抜けることの出来る歩行者専用の通りがある。私鉄の駅を出て、すぐの場所にあると言う利便性もあって、私鉄通学の利賀根技工大生の多くが利用する通りだ。
 コンビニや軽食喫茶、アクセサリなどを売るファッション系の店舗に書店などが軒を並べ、アーケードになっていることもあって普段から技工大生以外の人通りも多い。平日、夕暮れの時間帯になると、ある意味、技工大名物といっても過言ではないラーメン屋台も姿を見せる。昼間に限らず、夜の時間帯になっても基本的には人気のあるのが特徴だ。
 もちろん、さすがに平日深夜の時間帯となるとその人影も疎らなわけだが、通りに位置するコンビニで雑誌を立ち読みをするハーフパンツにウインドブレーカーを羽織っただけの男はどう見ても大学生のそれだった。
 平坦な部分と、緩い坂部分とに分かれたその通りを上っていくと利賀根技工大の東キャンパスへと抜けることが出来る。私鉄の駅からは行きにくい正門を通ることなく大学校内へと入ることが出来るので、綾雛が佐土原のゼミに入ってからは特に愛用した道だ。
 利賀根技工大の東キャンパスは完全に静まり返っていた。色取り取りのタイルが敷き詰められたデザイン指向の東キャンパスながら、闇夜の中にあって人の目を楽しませるその面影はない。建築理論を論ずる著名な教授が設計した一種不思議な空間は夜の闇の中にあって、ただその不気味さを増しただけだった。
 疎らに街灯の灯る薄暗い東キャンパスの中を綾雛は東研究棟と呼ばれる建物のある方角へと歩いていた。東研究棟には利賀根技工大の東門があり、そこから直接、東研究棟へと入ろうという考えだ。深く考えることもなく、東門を通過し、東出入口の扉に手を掛けた綾雛だったが「ガシャンッ」と音が鳴って扉が開かなかったことにハッとなった様だった。
 時間帯が時間帯なのだから、少し考えれば出入り口が施錠されていることは容易に推測出来たことだ。しかし、次の綾雛の行動は明らかに常軌を逸した選択だった。「施錠を解除して貰おう」と考えて、インターホンを押したのだ。
「はい、こちら利賀根技工大学事務局です。どう言ったご用件でしょう?」
 事務員の女性だろうか、その応答に綾雛はまたもハッとなる。
 正門にいるゲートキーパーの警備員に身分証を提示すれば、大学校内には時間帯に拘わらず出入りすることが出来る。そして、基本的に学生や教授の夜間の出入りは正門の利用が義務づけてられている。
 利賀根技工大とは予め指定された数日の完全閉鎖期間以外は時間帯に拘わらず眠りに就かない大学だ。それは複数個の大学機関を統合して生まれたが故に相当数の教授陣を懐に抱え、国際的な活動を余儀なくされているからと言って良いだろう。現に教授の部屋が軒を並べる三階建ての東研究棟には点々と明かりが灯っているのが確認出来るのだった。
 利賀根技工大の卒業生なのだから冷静になって考えれば、それぐらいのことは即座に判断出来て然るべきことである。綾雛の動揺は完全に収まったというわけではないらしい。そして、それは今もまだ強く尾を引いているらしかった。
「あの、すいません、私、卒業生の綾雛伊久裡と言う者なんですけど、夜分遅く申しわけありませんが佐土原恒史(さどはらつねふみ)教授の研究室まで内線を繋いで貰えますか?」
 インターホーン越しのおかしな要求ではあったものの、事務の女性はその要求を快く受け容れた。
「畏まりました、佐土原教授ですね。少々お待ち下さい」
 尤も、向こうは監視カメラで綾雛の姿を確認しただろうし、卒業生一覧を収めたデータベースでその言葉が真かどうかを確認したかも知れない。
 僅かな時間を挟んで、女性事務員は申しわけなさそうに切り出した。
「もしもし? えーとですね、佐土原教授はもう利賀根にはいらっしゃいませんね」
「え、と、……もういない? もういないってのはどういうことですか?」
 明らかに動揺を隠さない声で、その詳細を確認する綾雛に女性事務員の丁寧な説明が返った。
「函深工業大学で行われる義足の思考制御についてのディスカッション参加のため、今夜、利賀根を出発したんですよ」
 女性事務員の説明に綾雛は深い溜息を吐き出した。そして、その場にペタリと腰を下ろした。
 しばらくは「このままどうしようもない」と判って、一気に気が抜けた格好だ。
 へし折れた長刀の修復が出来る佐土原がいないなら、綾雛一人が慌てたところで事態が改善されることもないのだ。
「そう、……ですか。お騒がせしてすいません」
 女性事務員に力無く答えながら、綾雛は差し当たって「これからしなければならないこと」を頭の中で整理していた。開き直って腹を括った辺りから、綾雛の頭脳は再び冷静な判断力を取り戻した格好だ。
「……あの、何か急ぎの用件があるのなら宿泊先ホテルの電話番号を教えましょうか?」
「あー、いえ、一応、携帯番号を知っていますので……」
 女性事務員の申し出を断ろうとして、綾雛はそこで一旦踏み止まる。
 佐土原がホテルにチェックインしてから綾雛のコールに気付くかどうかは正直微妙なところだと考えたわけだった。
 電車はその電極の制御で動いている構造上の問題から携帯電話による通話が出来ない仕様になった。いや、マナーなどの問題を考慮して、通話出来なくしたと言って良いのだろう。通話それ自体を可能にする技術は存在していたのだからだ。
 確実に連絡を付けようとなれば、やはり未だに固定電話が選択されることも否めなかった。固定とは言ってもそれは有線によるものではない。固定電話というものも回線自体は静止衛星を用いて繋がるものへと変わったのである。
「……いや、やっぱりホテルの電話番号の方を教えて貰っても構いませんか?」
「はい、ちょっと待ってくださいね。……えーと、後、ホテルにはまだ時間的にチェックインしていないはずですから、もしホテルに電話を入れるのなら、もう一時間ぐらい経過してからの方が良いと思います」
 インターホーン越しではあったがカタカタとと女性事務員が慌ただしくキーを打つ音を聞き取ることが出来た。
 恐らく、女性事務員がホテルの電話番号をモニタ上に再表示しようとしているのだと綾雛は思った。綾雛が一度申し出を断る素振りを見せたから「聞かれるだろう」と踏んでモニタに表示していたその電話番号を女性事務員が消してしまったと考えたわけだ。その綾雛の考えは当たらずとも遠からずと言ったところだろうか。
「その、重ね重ね、すいません」
「いいえ、それではホテルの電話番号ですね」
 綾雛の言葉に女性事務員は「これも仕事ですから」と、そう言わないばかりの爽やかな受け答えを返した。
 綾雛はすっくと立ち上がると現在の時刻を確認し、女性事務員の言葉に耳を向けた。




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