デフォルト設定での「フォント色+背景色」が読み難い場合、下記プルダウンからお好みの「フォント色+背景色」を選択して下さい。

「綾雛形」のトップページに戻る。



Seen01 利賀根技工大


「次のインターチェンジを降りて、直ぐの二車線道を右です」
 高速道路を走行中の車内に聞き慣れたナビの音声が鳴り、綾雛はくっと不可解そうな顔した。車外の流れる光景に向いていた綾雛の視点も、そのナビの案内を境に車内へと向けられた格好だ。
 事実、高速道路に入ってからはこっち、綾雛のその表情は今まで影を潜めていたものだった。
「ねぇ、あれだよ、湯澤さん。絶対「国道何号線を右です」って説明の仕方に切り替えた方が解りやすいって。……湯澤さんに取っては本当にこっちの方が聞き易いものなの?」
 綾雛は「もう我慢出来ない」と言わないばかりに運転手である湯澤に向けて言った。
 最近のナビは非常に賢い。
 現行のものが何世代目と呼ばれているものなのか、その詳細は解らない。けれど、この「世代」と言うものが既に二桁に達していることだけは確かである。
 世代毎にナビは改良に改良を重ねられ、様々な機能が付加され改善されてきた。しかし、メーカーによって癖のある操作性が問題にならなくなったのは最近のことである。対話サポートと言う機能が標準的に搭載される様になって始めて、この問題は解決されたのだ。
 曖昧な日常会話でのやり取り。即ち「対話」を用いた項目の設定などが技術的に可能になり、この「機械の音声認識」という分野は著しく成長した。この数年来で、既にその恩恵を感じられるものもナビに限らず無数に世に放たれている。
 綾雛は右足の上に左足を置く形で組んだ足を解くと、助手席から身を乗り出す様にしてナビの操作画面へと手を伸ばした。しかし、その手は「パンッ」と小気味の良い音一つを響かせて、湯澤によって叩き落とされる。
「利賀根のこっちの方面には滅多にこないからな。国道だとか幹線道だとかがどこを横切ってるだとか、そう言うことをいちいち覚えていないんだよ」
 湯澤は多少棘の混ざった口調で綾雛を牽制する。
 言えば、運転の初心者向け道案内とも言える現在の説明が利賀根の地理に疎い自分には適当であると認めたのだ。
 事実、綾雛が「逆に解りにくい」と嫌うとは言え、この道案内は驚くほど精密な状況説明と道案内をしてくれる。まるで、走行中の車の中に周辺の道を熟知した同乗者がいて、その人物が道案内をしてくれているかの様にである。それも、その同乗者は説明上手で、目的地近隣の地元民でさえ知らない様な情報にまで精通しているのである。「次の交番がある二車線の大通りを右に曲がる。その通りへと入ってすぐにちょっと薄汚れた国道の看板があって……」と言う具合にだ。
 静止衛星と情報をやり取りして交通情報を把握。そして、昔の国土地理院にあたる組織と協力し、現在の都市部の景観状況、建造物の位置関係、目印にあたるものなどを高い頻度で確認・把握しているらしい。道案内の設定項目には実移動時間優先とか、移動距離優先とか、様々な設定があり、特にこういった道順説明機能は多岐に飛んでいるのである。
「ふーむ。まぁ、利賀根という名前になってから、この近隣の道も一気に複雑化したらしいから湯澤さんが道を覚えられないのも仕方ないのかもね。でも、そろそろ覚えても良いんじゃないかな、初対面の私に自分の記憶力の自慢をした湯澤さんらしくないよ?」
 口許に軽く握った拳を置き、その笑みを隠す様にしてクスクスと笑う綾雛に、湯澤はぶすっと不機嫌な表情になった。
 利賀根とはそれ一つで市や街の名前を示すのではなく、それらを一つに括った地方名を指していう言葉である。地方名と言ったわけだが、では、その名が昔からこの地域を指して呼ぶ名称かと言えば、そうではない。
 この利賀根という地方名は最近になって、ここいら辺り一帯を指して呼ぶ名称に設定されたものなのだ。
 それは十数年前から活発になってきた都市集合体議論の影響を諸に受けたものである。都市集合体とは市町村合併の考え方をより発展させたものの一つである。簡潔に言うと、財政の厳しい複数個の市町村が一つの市として合併し垣根を越えた協力関係を築くに留まるのではなく、一つの地方としてさらに発展した組織として存在していこうと言う話である。
 そもそも、時折活発化する市町村合併の考え方をさらに一つ推し進めなければならなかったのには大きな理由がある。それは合併をして誕生した新生都市が当時の政策に置いて優先的に補助金などの恩恵が与えられるにも拘わらず、次々と財政危機に陥っていったためだ。詳細な説明をここでは省くことにするが、一足飛びに合併を良しとしていた当時の議論自体に問題があった格好だ。
 ちなみに、利賀根の名前はこの地方にとって縁のある名称で、その由来は江戸時代だか室町時代だかまで遡るらしい。その由来こそがこの地方の住民の反発なく、また地方を総称する名称としてすんなり受け入れられた所以なのだろう。ともあれ、様々な諸問題を乗り越えるためのテストケースとして、利賀根という地方は一つの複合組織にまとまったのだった。
「大体、どうして利賀根技工大までの移動ルートをお前が覚えていないんだ?」
 不機嫌さを微かに横顔に残す湯澤がふっと口を切って言ったその疑問は、ある意味、尤もなものだとも言えた。
 なぜなら、ついこの間まで綾雛は利賀根技工大に在籍する学生だったのだからだ。
 そこに切り返す綾雛はまず自分が自動車の運転を出来ないことを挙げた。
「いや、まず第一に、ほら、私、自動車免許を持ってないから。それに、技工大への通学にしてもそう、上篠園(かみしのぞの)から電車で二駅っていう感じだったから、私はあんまり大学付近を散策したことないんだよ。……バス通学したこともないしね。そりゃあ、友達の車の助手席に乗せて貰って何度か自動車通学もしたけど、やっぱり運転をする側じゃないと詳しい通学ルートだとか、そういうことまでは覚えないものなんだよ」
 それは一理がある様に上手く段階を踏んだ受け答えだった。確かに、聞きようによっては「大学近隣を散策したことがない」と言うのは、ある種、決定的な理由に聞こえないこともないわけである。尤も、だからといってそれを安易に通った大学までの道順が解らないという理由には結びつけられない。何も脇道や近道を駆使して利賀根技工大へ行こうというのではないのである。
 湯澤はふっと綾雛の全体的な評価を記した書類のことを思い出す。それは湯澤が綾雛のオペレータをやると決定した際に、手元へと渡ってきたものだ。履歴書だとかそう言う類の堅苦しいものではない。言えば、綾雛の自己申告による自己分析の様なものと思って頂ければいいだろう。
 それには利賀根技工大の新卒だとか経歴面のことから始まって、性格や趣味、嗜好などが綾雛の自己申告で書かれていたわけである。その書類に目を通し、湯澤の「綾雛」に対する先入観としてばっちりと刻み込まれたものは「こいつは変な女だ」と言うものだった。
 趣味に「ステッカー収集」と来て、好きな言葉には「悪即斬」、取得資格に「教員免許」である。
 ある種、その先入観もやむを得ないものだろう。
 湯澤はくくっと含み笑いを零してから言う。
「ステッカー収集癖のある綾雛らしくないじゃないか? ……てっきり、その手の品を扱う店は技工大周辺のものを始め、利賀根に点在する隠れた名店クラスのものまで制覇していると思っていたんだがな」
「ああ、……その手の品を扱うお店ねぇ」
 湯澤は綾雛をからかうつもりでそれを口にした格好だ。
 しかし、綾雛がそんな売り言葉に乗ってくることはなかった。……と言うよりも、綾雛の受け答えはステッカーと言う単語に反応をして心ここにあらずのものだった。「忘れていた」と言わないばかりにポンと手を叩いてしまえば、綾雛はモゾモゾと車の助手席で活動を始める。具体的に何をすると言うわけではないが、まるで値踏みでもするかの様にキョロキョロと忙しなく車内に目を向け始めたわけである。
 そんな綾雛の動きは湯澤に取って不穏以外の何物でもないわけだが、ちょうど車は高速を下るカーブへと差し掛かり湯澤は完全にその不穏な挙動を見落とした格好だった。
 クロソイド曲線の緩やかなカーブを下っていって、湯澤の運転する車は料金支払所に差し掛かる。速度制限を示す赤い斜線が引かれた料金支払所の分岐点に差し掛かり、湯澤はスピードを緩め、ゆっくりと料金支払所へと進入した。自動課金の料金支払所を通過してしまえば、眼前にはすぐにナビの説明した二車線道が確認出来る光景が広がる。
 今下ったばかりの高速道の下を横切り、利賀根技工大へ行くにはちょうど都心から郊外へと抜ける形になる。中央分離帯のある二車線道は高速道下を走る国道と交差し、利賀根で最も混雑する場所の一つして知られるわけだが、ここを通過してしまえば利賀根技工大までそう距離はないのだった。
 二車線道へと入って渋滞の中へと進入すると、湯澤は運転席の座席を一段傾けた。渋滞自体はいつものことだとは言え、これらは慣れてしまえる類のものでもない。未だにしぶとく生き残り、恐らく、今後も解消されることのない通勤ラッシュと似た様なものだと言えるだろう。そう、慣れてしまえるものではない。
「湯澤さん、この車って禁煙車だったよね?」
 そんな気怠い雰囲気が漂い始めた中、唐突に、綾雛が切り出した質問に湯澤は不審そうな顔をした。しかし、湯澤はその内容に何か特別な意図を勘繰る理由は見つけられない。まして綾雛の調子には雑談を切り出す風な雰囲気があったから、湯澤は尚更深く考えることもなく答えた。
「うん? あぁ、そうだ。煙草ってのは、……どうにも頭の回転数が下がる気がして駄目だ」
「それは同感だね。こう、あれは思考能力が一瞬にして低下する感じがする。特にこの身体になってからはあの煙で各所の反応が確実に鈍化する感じがするよ。多分、実際に反応速度を測ってみたら、その低下の度合いも証明出来ると思うよ」
 瞑目してコクコクと頷く綾雛は心底その湯澤の意見に同意すると言う風だ。続けざまに個人個人の曖昧な感覚を身振り手振りを交えて説明しようとする綾雛の言葉を、湯澤はただ黙って聞いていた。
 その綾雛の説明の最中、これからの道順についてナビが音声案内を始める。だから、湯澤について言えば綾雛の言葉を「聞き流していた」と言った方が適当かも知れない。実質、湯澤の視点は「至浅三谷(あさみや)」などの方向が図示された標識へと向いて、湯澤の意識にしても八割方はナビの音声案内に集中していたのだからだ。
 綾雛は適当な相槌を打つでもない湯澤の様子を、一度、横目に捉えていながら、それを気に掛けた風はなかった。
 寧ろ「都合が良い」と言う風に、笑みさえ灯して見せたのだった。
「さて、そんな禁煙車両に、私、綾雛からのプレゼント」
 綾雛は唐突にスパッと話題を切り替えてしまうと、生き生きとした表情で脇に抱えるシックなレザー製ポーチのファスナーを開けた。
 湯澤がハッと我に返る具合に、綾雛の方を気に掛けたのはまさにファスナーを開く音を聞いた時のことだった。
 同時に、湯澤はこの時点で頭を刺すかの様な、嫌な予感を直感的に覚えていた。
「うん? 何、おい、ちょっと待て、……今、何言った?」
 車の運転中と言うこともあって、湯澤は綾雛に向き直ってどうのと言うわけにはいかない。まさか、ハンドルを離して綾雛からポーチを取り上げるわけにも行かない。目的地を指定するだけで、人工知能が勝手に自動車を制御する自動走行技術は未だ現実の物ものとはなっていないのだ。そして同時に、不測の事態に自動的にブレーキが掛かる様な機能もである。
 綾雛はポーチの中から、ちょうどステッカーを一枚取り出したところだった。
 湯澤の嫌な予感はその期待を裏切ることなく的中した格好だった。
「おいおいおい、馬鹿ッ、またぞろ人の車に変なステッカー持ち込んでからに!」
 叱責にも似た湯澤の言葉を気に掛けることもせず、ニコニコと微笑む綾雛に湯澤は顔を顰める。
 綾雛の手にあるステッカーは、今まさにペリペリと粘着部の保護テープが剥がされるところだ。
「こいつは私のお気に入り、数多くのステッカーを世に送り出している「SMART & SMILE」社のステッカーで、その単語の種類から洗練されたフォントデザインの造形、アイディアに至るまで……」
「そんなことは聞いていない!」
 綾雛の言葉が言下の内に湯澤は声を荒げる。しかし、その手のキツイ口調が牽制になるかと言えば、そうではない。
 まだ長いとは言えない綾雛との付き合いではあるが、湯澤は綾雛が怒鳴られて黙るタイプの女ではないことを嫌と言うほど理解している。
「相棒の趣味ぐらいは寛大な心で認めるものだよ、湯澤さん?」
「そのお前に取っての相棒の俺が本気で嫌がってることも、理解して然るべきなんじゃないのか!」
 ハンドル片手にどうにかその傍若無人な振る舞いを止めさせようと攻防を繰り広げたが、善戦叶わず湯澤の制止は無下に振り切られた。綾雛はそのプレゼントと称したステッカーをダッシュボード下の小物入れの開閉部にぺたりと貼り付け、満足げにクスクスと笑いながら説明をする。湯澤が望んでもいないステッカーについての説明をである。
「これは凄いよ。そして、結構値の張るものなんだから。布だとか普通の糊では剥がれやすいものに対しても、ぴたりとくっつき決して離れない特殊な構造をしているステッカーで……」
「馬鹿野郎ッッ!!」
 ステッカーに書かれたデザインフォントの「禁煙車両」の文字を見て、湯澤は思わず「もう我慢が出来ない」という具合に口を切っていた。綾雛の説明にしても、その憤怒の一言を口にさせる原動力になっただろうか。
 綾雛を後部座席に乗せていたこのコンビが成立当初の頃のことだ。
 綾雛によってバックガラスに無断で張りつけられた「煽り上等!」のステッカーがまるで瞬間接着剤か何かで張り付けられたかの様だったことを今になって湯澤がむざむざと思い出したと言うのもある。無理にステッカーを剥がそうとして酷い跡が残ったことも、湯澤に取って今でも笑い飛ばせない出来事の一つだった。
 後になってそれが質の悪い「冗談」で、剥がし方にコツがあることを綾雛に教えられたのだが、湯澤はその時の一悶着でも心底疲れ果てたことを鮮明に思い出すことが出来た格好だ。
 湯澤の口からは見ていて胃がキリキリと痛んでいそうなほどの深い深い溜息が吐いて出た。


「佐土原教授」
 綾雛の呼び掛けに佐土原と呼ばれた初老の男が顔を上げた。
 佐土原はもう満足に漂白も利かないのだろう鼠色に染まった油の汚れが目立つ白衣を着ていて、茶褐色フレームの眼鏡を掛けていた。老眼が入っているのだろう、佐土原は目を細めて綾雛の顔をマジマジと注視し確認すると、眼鏡の位置を直してから机の脇に置かれた置き時計へと目をやる。
「伊久裡か。……そうか、もうそんな時刻になったのか」
 佐土原が向き直った机の上には無数の書類が散乱していた。机上には他にもノートパソコンと、中途のページが見開きにされた二冊の分厚い書籍も見受けられる。そんな具合に、机上は余すところなく物で埋め尽くされている状態だった。
「何か、急ぎの論文でも片付けている最中でしたか?」
 綾雛の口調は「何なら時間を置きましょうか?」と尋ねるものだった。
 しかし、佐土原はその心遣いに首を横に振る。
 利賀根技工大の三号研究室棟の二階に位置する佐土原研究室に綾雛らが到着したのは近場のインターチェンジを降り、一時間近くが経過した後のことだった。綾雛と佐土原の間に「本日、研究室を訪れる」と言う以外、明確な約束の時刻というものはない。しかし、既に午後の二時を回った頃であって、訪問という目的から見ると「適した時間」と言えるだろう。
「いや、構わん。それより、入室する時はノックをしろと研究室に来た時からいつも口煩く言っただろう? 伊久裡も社会人になったのだ、それくらいのマナーぐらいはきちんとした方が良い」
 コホンッと咳払いを一つ、綾雛の瞳を見据えて言う佐土原に、綾雛は苦笑いを返した。
「嫌だな、教授。私、研究室の扉を何度もノックしましたよ?」
 小さく首を傾げる様にして佐土原へと確認をする綾雛の様子は「しっかりしてください」と言わないばかりだった。そして、当の佐土原はと言えば肩透かしを食った様な顔をして、一瞬言葉に詰まった様だ。
「そうか。どうにも耳が遠くなった様だな。……それに加えて、熱中するとものが見えなくなる癖も悪化の傾向にある」
 ばつが悪そうに右の側頭部を掻く佐土原は綾雛から視線を逸らすのだが、ちょうどそこで湯澤と目が合う格好だった。
 湯澤は湯澤で佐土原に挨拶を切り出すタイミングを窺っていたわけであり、その機会を逃がす理由はなかった。
「失礼します、佐土原教授」
 ペコリと深く頭を下げた湯澤のそれは型にビシッとはまったものだ。
「おぉ、湯澤君……だったかな? 伊久裡のオペレータ兼一人前になるまでの仕事補佐、教育係だったかね」
 歓迎の意志を全身で示すかの様に両手を広げ、佐土原は湯澤を招いた。研究室に入ってすぐの扉の横に直立不動で居る湯澤に対し「そんな隅に居ずにもっと中まで入ってきなさい」との意思表示をしたわけだ。
 湯澤は遠慮がちに頷くと自分とそう変わらない位置に立つ綾雛へ前に進むよう促した後、研究室の中央まで進んだ。
「えぇ、まぁ、そんなものです」
 湯澤の表記上の役割を言えば、あくまで湯澤は綾雛のオペレータでしかない。しかし、現在、佐土原が言った様な役割を担っていることは否めず、湯澤は苦笑いを一つ、曖昧にお茶を濁した格好だ。湯澤がまとう雰囲気には「これ以上、そのことには突っ込まないでください」と訴えるものがある。
 湯澤の持つそんな雰囲気を敏感に感じ取ったからと言うわけではないだろう。
 佐土原はサラリと話題を変えて、その矛先を綾雛へと変えた。
「どうだ、伊久裡? 必ず右足を軸に行動を展開し、右足で行動を終わらせることに徹しているか? 加速状態をお前の左足で終わらせた日には、十中八九、骨折による長期離脱は避けられんぞ? 尤も、お前のその大根足ならもしかすると一度や二度の負荷には耐えられるかも知れないがの」
 ポンポンッと綾雛の左後ろ太股を叩いて豪快に笑う佐土原に、綾雛は「はー……」と溜息一つを吐き出した。
 そして、綾雛は白布にくるまれた長刀を身構える様な挙動を見せてこう言った。
「刀で前髪を綺麗に切り揃えられたくなかったら、その手の冗談は止めた方が良いと思いますよ?」
 ニコッと微笑む綾雛の様は「満面の笑み」とも言える類のものだ。しかし、確かに見開いた両の目には鋭く光る牽制の色も灯っている。それは満面の笑みに似ても似付かぬ鋭さを伴ったものである。そう、もしかすると、前髪ぐらいなら本当に切り揃えてしまっても可笑しくはない類のものだった。
 しかし、そこには同時に出不精がちの佐土原へ「髪ぐらい切りに出てください」と、暗に言葉を含めた意味もあっただろうか。事実、研究室に籠もりがちなのだろう佐土原はボサボサの髪の頭の側頭部を掻き、ばつが悪そうに頷いたのだ。
 そんな一連のやり取りが終わると、湯澤が佐土原との他愛のない雑談をする横で、不意に室内には衣擦れの音が響き渡った。湯澤は怪訝な顔付きをしてその音のした方向へと向き直ったのだが、すぐに顔を赤面させてその目を逸らすことになる。その衣擦れの音が綾雛のタイトスカートを脱ぐ音だと理解したからだ。
 湯澤の目には確かに薄いピンク色をした綾雛の下着が焼き付いた格好だった。覗くも覗かぬも、仕切るものが何もない佐土原の研究室で唐突にスカートを脱ぎだしたのだから湯澤に非はないだろう。しかし、偶然だったとはいえ、横目にの姿を捉えたことに湯澤が罪悪感の様な感覚を覚えたことも確かだった。
「な、何でスカートを脱ぐんだッ?」
 上擦った様な言葉付きになった湯澤の問いに対し、綾雛はあっけらかんと答える。
 そこにはスカートを脱いで下着姿を見られた側よりも、見た側の方が気恥ずかしさを感じるおかしな光景があった。
「着たままでも問題ないんだけど、やっぱり送受信のデータに誤差が出る可能性があるんだよ。より正確なデータを取るためには布一枚でもないほうがいいってわけ。やっぱり曲がりなりにも技術を囓った一人なわけで、こういう時には万全の状態を整えたいって思っちゃうんだよね」
 綾雛がそこに気恥ずかしさを感じている様子はなかった。
 その言葉で湯澤はここに来た目的の一つを思い出す。
 それは綾雛の「右足」をメンテナンスすることである。それは定期的に綾雛が利賀根技工大へと足を運ばなければならない理由の一つであり、また、綾雛の右足を維持する上で絶対的に必要なことである。
 しかしながら、相棒の湯澤が実際にそのメンテナンスの現場を見るのはこれが初めての経験だった。
 そして、綾雛も湯澤が実際にメンテナンスの現場を見るのは今回が初めてだと気付いた様だった。綾雛は自分の右足の、その付け根付近の場所をトントンッと軽く叩いてみせて、こう話し始める。
「ここに制御コンピュータの稼働状態を外部の機器と送受信するためのチップが埋め込まれてるの。これは日常生活のちょっとしたことで破損されたらお話にならないもので、防磁・防電などあらゆる処理が施されてるわけ。でも、その分データをやり取りする仕組みがちょっと複雑でね。特殊な処理の為された周波数の違う信号をこのチップに当ててやるとその周波数に対応した一つの情報を返す仕組みになっているわけ。つまり、周波数の違ういくつもの信号をチップに送り、そこから返すデータを読み取るわけなんだよ」
 一技術者、一研究者の顔をして説明をする綾雛に対し、湯澤は返す言葉を何も見つけられなかった。逆に、湯澤は自分一人、綾雛の格好に対して気恥ずかしを感じ赤面していることに自己嫌悪さえ覚えている風だ。
「うむ、今から信号を送るから動くんじゃないよ、伊久裡」
 長方形の金属板の様なものに摘みだとか制御装置が付いた機械を手に、佐土原はさっきのものとは打って変わった真剣な表情をしていた。制御装置から伸びるケーブルは机上に置かれたノートパソコンの側面にあるポートに接続されていて、そのデータとやらは液晶画面に直接出力されるらしい。
 金属板の部分を綾雛の右足側面、接するか接さないかのスレスレの位置に制止させ、佐土原のその手は摘みに、その目は液晶画面にと向けられていた。摘みを回しては止め、回しては止めを繰り返して行くと、液晶画面には複数個のウインドウが開いて行った。
「どうです?」
 綾雛はそう佐土原に尋ねはしながら、実際、問題がないことを確信しているかの様だ。
 微塵の緊張感をも含まないその綾雛の口調が全てを物語っていただろう。
 湯澤はその綾雛の問いに対する佐土原から何かしらの言葉が返る前に、そこに割って入った。
「そう、それでですね、綾雛のオペレータとして一つ聞いて置きたいことがあります、佐土原教授。理解していらっしゃるとは思いますが、僕らが危惧しているものはやはり加速についての使用頻度のことです」
 ちょうど足の状態を確認しているこのタイミングを逸してしまうと、それを聞く次の機会がいつになるか解らないと湯澤は考えたのかも知れない。
 佐土原は眼鏡の位置を直して顔を上げると思案顔で腕を組む。そうやって、一度、深く考え込む仕草を見せると、佐土原はそこに明確な制限など設けられないことをサラリと説明した。
「極端な話、伊久裡がこれ以上は無理だと感じなければ問題はないと思うがな。……ちょっとやそっとのことで、この義足にガタが来たらお話になるまい? 仮にもこれらは最先端技術の結晶体みたいなものだぞ? 尤も一昔前のが混じっていると言えば、それも確かだがな」
 そのまま「待たせた状態」にある伊久裡へと向き直ろうとした佐土原に、湯澤は呼び止める形で要求する。
「少し、義足についての詳細な説明を頂けますか?」
 小さく頷く佐土原は手に持つ例の機械を慎重に机の上へと置くと、再度、眼鏡の位置を直して見せてニィと気分良さげに笑った。それはまるで得意なことを「やって欲しい」と頼まれて、それを自慢げに実演する少年の様な顔だ。
「義足の制御コンピューターは伊久裡の神経と直結し、伊久裡の思考によって完全に制御されている。もしもの時を想定し、破損時は加速などの特殊機能をバサリと切り捨て、歩行に必要な機能だけを残し沈黙をする」
 クルリと綾雛の方へ向き直って、その義足の機能の素晴らしさを説明する佐土原に湯澤は真摯な目を向けていた。言えば、そこからこれからの「綾雛」の運用に関して気を付けるべき点を聞き逃すまいとする湯澤生来の真面目さからだ。
 そうは言っても、その当事者であるはずの綾雛は佐土原の嬉々とした表情に対し「……またか」と言った具合の疲れた表情で「我感せず」の態度を見せていた。
「そして何より、やはりこの見た目だよ、湯澤君。航空機・衛星などが晒される苛酷な環境下での運用を目的とした技術の中で培われた過度の金属疲労や温度変化をも耐え抜く軽量化金属を主軸として、そこにいくらかの生体工学を詰め込んで設計製造された、……見ての通り、生足とみまがわんほどの出来だ」
 言葉を句切って何を言うかと思えば、佐土原が仰々しく口にしたことは見た目の美しさだった。
 湯澤としてもそれが「重要ではない」などと言うつもりはサラサラないわけだったが、だからと言って、佐土原の様にそこまで重要視を出来るものでもなかった。「はぁ」とだけ、曖昧に頷き返した湯澤の心境はそんな感覚だ。
「綾雛が感じる側の触感こそ完全に人のものを再現出来ていないが、それでも、不完全ながらの触感もある。まぁ、尤も、こっちは生体工学の方の、儂の専門分野ではない方の技術だがな。あーだこーだと言われてもどうにも出来んさ」
 触感の説明に際して佐土原は熱が入り、パシパシと綾雛の右足を軽く叩き始める。
 綾雛は苦笑いの表情をして「いい加減にして下さいよ?」とでも言わないばかりだったが、相変わらず「我感せず」の態度を貫いていた。
「……差し当たっての問題は重量と言ったところですかね」
「……うむ、そう、だな。くく、くくくく、そうだ、どんなにダイエットをしたところで、体重三桁の大台から下など罷り通らんからなぁ。はっはっはっ、話が分かるじゃないか、湯澤君」
 湯澤としては冗談を言ったつもりはなかった。事実、湯澤がその言葉を口にした際の表情は真剣以外のなにものでもなかったのだ。しかし、当の佐土原にそう言う類の下世話な話でのものに受け止められて豪快に笑われてしまった以上、湯澤としても愛想笑いを返さないわけにもいかない格好だ。
「あ、あはははは……」
「湯澤さん?」
 ちょっと前に佐土原へと向いた類の、迫力を伴った綾雛の満面の笑みが湯澤へと向いた。
 湯澤はゾクリと来るものを感じたのだろう、ビクリとその肩を振るわせる。
 綾雛はそのままポンッと肩でも叩いて、抜刀一振り、前髪でも切り揃えてしまいそうな迫力を伴っていた。
「そ、そう言うことを言いたかったわけじゃないんだ。俺はだな、日常生活に置いてだとか、重量から来る行動範囲の制限だとか、そう言ったものを……」
 引きつった顔でしどろもどろになりつつある弁明をする湯澤だったが、綾雛がそれ以上の追求をしなかったことで事態はあっさりと収拾を迎えた。湯澤は不用意な愛想笑いで肝を冷やした格好だった。
 綾雛は「ふぅ」と、一つ小さく深い息を吐くと脱いだスカートを利き手で拾い上げ、佐土原へと義足の確認を求めた。
「佐土原教授、もうデータの方はオーケーなの? 今回、ちょい実戦感覚で加速を使ったから、その負荷が残っていないかどうかの確認をお願いします。素材がリノリウムと磁器質の黒タイルだったから問題はないと思いますけど……」
 綾雛は手早くメンテナンスを終わらせてしまいたいのだろうか。まるで、それは佐土原に対してデータ解析を急かすかの様な口調だった。しかしながら、綾雛がまとう雰囲気の中には「急いでいる」といった感じはなく、その相違は酷く湯澤にアンバランスさを感じさせるものだった。
「あぁ、送受信の方は完了した。解析結果はちょっと時間が欲しいな、……今、表にして画面に上げる」
 ふいっと液晶画面へと向き直った佐土原の横で、綾雛はスカート片手に湯澤の方を見る。その瞳にはどこか湯澤を咎める風な色も滲んでいて、湯澤の物怪顔はさらに度合いを増したものになった。
 そんな湯澤に対し綾雛は「そっちに行ってて」と言わないばかりに、ヒラヒラと手を降ってその甲を見せると、表の出力された液晶画面に視線を落とした。




「綾雛形」のトップページに戻る。