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Seen00 新参者の調査員


 一面黒タイル張りの床へと片膝を付く格好で腰を下ろし、綾雛(あやびな)は時折物音の激しくなる廊下に聞き耳を立てていた。反射率の高い黒タイルに、下手をするとタイトスカートの中身が映り込んでしまうことを気に掛けながら、けれども、綾雛の意識の大半は遠く廊下の向こう側にある物音へと向けられている。
 けれど、いざ、その物音側の立場に立つと、廊下へと警戒を向け様子を窺う綾雛の発見はそう困難ではなかった。なぜなら、綾雛が廊下の様子を窺うたびに肩下までの綾雛の髪がはらはらと揺れる様子が見て取れるのだからだ。
 そんな初歩的なボロを出す綾雛に警戒を命じたのはこの廊下にいて同じ様に腰を下ろす頭の上がらない相手だった。
「湯澤(ゆざわ)さん、……ちょい聞きたいんだけど、海上保安庁の新兵器導入検討会議って言うのはこの手の闖入者って珍しくないものなの?」
「そんなことは知らん、……僕に聞くな!」
 湯澤と呼ばれた黒髪ショートカットの男は声を荒げる様にピシャリと言った。湯澤は声を荒げた際に、汗で滑って位置のずれた黒フレームの眼鏡のズレを直しただけで、綾雛の方を向くこともしなかった。
 そんな二人の様子を対比すると、取り分け湯澤の方が綾雛よりも様子を窺う役目を担うのに適した風貌・出で立ちをしている。しかし、その湯澤は手に持つ小型の携帯パソコンを必死の形相で操作していて、まさに「手が離せない」状態にあった。結果、必然的にこの場で警戒の役目を担えるのは綾雛しかいないというわけらしい。
 しかし、綾雛はその警戒しつつ待機というもの自体、性に合わない様だった。頻りにジャケットのポケットにある携帯を取り出し時刻を確認してみたり、壁にもたれ掛かる様に体勢を取ってみたりと、ソワソワと落ち尽きがないのである。綾雛が様子を窺う役目に適さないのは風貌・出で立ちという点だけではなく性格的な面のことをいってもそうだった。
 湯澤はそんな綾雛の様子を時折気に掛けながら、掌に載るサイズとまでは行かないまでも非常に小型で携帯性のあるノートパソコンのキーボードを頻りに叩いていた。何かしらのレスポンスを待っている際にも、湯澤はノートパソコンの筐体をトントンと中指で忙しなく叩いて、その苛立ちを隠そうとさえもしなかった。
 重量にして1Kgにも満たないものながら、湯澤が独自に拡張を加えたノートパソコンのインタフェースは非常に豊富だ。一世代、二世代前に世間一般の装備からは外された様な、僅かに業務用途で残る様なインタフェースまでを未だに完全な形で残しているのだ。尤も、外部からアクセスをするという点ではその「業務用途で残る」と言うのが重要な部分である。
 湯澤の手にあるノートパソコンからのびた一本のコードは廊下の天井を伝う一つの配線に結び繋がれていて、その液晶画面には監視カメラの映像が映し出されていた。時折、酷いちらつきがあり、また液晶画面そのものが小さいということもあって、非常にその映像は見づらいものではあった。しかしながら、こと綾雛らが置かれている現在の状態を把握するという観点から言えば、それは非常に有用な情報であるのだ。
 思い返せば、警報装置による警告音が鳴り響いたのはちょうど海上保安庁の新兵器導入検討会議が始まってから一時間ほどが経過した時のことだった。
 初めは検討会議の出席者の誰もが「火事に類する災害が発生した」と判断し避難の準備に取り掛かった。しかし、その警告音の直後に流れた「武装をした男がビル内に侵入した」という内容の放送がその対応を一変させた。誰もが「我先に……」といった具合の慌ただしい避難の動きを止め、避難経路の確保と状況の打破を待つ形になったわけだ。
 現在、検討会議出席者の面々は警備員の不審者に対する対処の結果を待とうという結論に落ち着いている。そこに混乱がないと言えば嘘になるが、だからこそ、こうして綾雛が動いているとも言えるわけだった。
 一向に状況の報告が上がってこないこと。
 それに対応する避難勧告が上がってこないこと。
 見掛け上には存在しない混乱が、現在、検討会議の場には漂っているわけだった。
「大体ね、私は工学系の総合大学・利賀根(とがね)技工大出身なんだから、あんな経済云々の話なんてされたってトンとサッパリなんだって。今回のことを言わせて貰うと適材適所って奴を間違ってるよ、情報調査室」
 綾雛は黒タイルが続く廊下の先へと目を向ける格好のまま、湯澤に向けて検討会議に対する愚痴をポロリと零した。そんな綾雛の態度は一見すると不真面目と受け取られてもおかしくはないわけだが、こと携帯パソコンを操作する側の湯澤の心境から言うと一概にはそうとも言えない。
 なぜなら、見ようによってはその綾雛の態度というものは湯澤を気遣って故のものとも受け取れたからだ。
「その利賀根技工大出身の、工学的な見地から見て新兵器導入のメリットが金額的に適正かどうかを判断しろと言っているんだよ、……恐らくはな」
 液晶画面に目を落とした顔を上げると、湯澤は綾雛の方を向いて愚痴に対するそんな受け答えを返した。同時に、湯澤は溜息一つを吐き出すと携帯パソコンの筐体を頻りに叩くのを止めた。焦っている自分にハッとなったと言えば適当だろうか。ともあれ、そんな会話を一つ合間に挟んだことで、湯澤は「失敗は出来ない」と言う類の、必要以上の緊張感に囚われた状態から解放されたらしい。
 湯澤が愚痴を言った綾雛の態度に対して、続ける言葉で注意をしなかった点を見ても、そうやって雑談を交わしたことが湯澤のメリットに繋がったと考えるのはそう難しいことではなかった。言ってしまえば、最初のやり取りで「声を荒げる様にピシャリと言った」その一言で、湯澤なりにある程度吹っ切れてしまったといって良いだろう。
「綾雛と言う重い手荷物を持っているのだから、一度や二度の失敗もやむを得ないはずだ」
 そんな開き直りの色濃く混じった思考を、湯澤が描き始めていたことも事実だった。
「無茶言うよ、……確かに新兵器の大雑把な技術的仕組みや仕様なんかは理解出来るかも知れないけどね」
「……警備員が数人、殴殺されているみたいだな」
 使用に耐え得る映像を確保出来たらしい。湯澤はキッとそれまで以上の真顔を見せて、監視カメラの映像を次々と切り替えてみせた。……そうは言っても、それらをパッと見ただけで、すぐさま何らかの決断を下せるだけの状況把握が出来るわけもなく、湯澤はそれまで以上ののみ取り眼を持って液晶画面に目を落とした。
 対する綾雛にしても愚痴を言って場を和ませている段階ではなくなったと踏んだらしい。
 瞬時にその顔付きを一転させ、湯澤に対して状況把握を突っつき急かし始める。
「侵入者は今も取り押さえられていないの?」
「あれだな、経費削減とかで実質数が削られているんだろうよ、……恐らくはな。人海戦術が出来れば、侵入者の総数が余程の相当数にならない限りは対処出来るものなんだよな、……尤も、一昔前の理論ではあるんだけどな」
「もしもの時のための予算を削減するって言うのも考えものってことだね。……阿呆と狂人は忘れた頃にやってくるって奴だ、確か」
 湯澤は綾雛の言葉に「くく」と苦笑いを見せた後、すっと液晶画面から顔を上げ綾雛へと向き直る。
「タングステンカーバイト製の長刀、……ここに持ってきてるのか?」
 綾雛へと質問をする湯澤の声には真剣な調子が見て取れた。しかしながら、必死の形相で携帯パソコンへと視線を落としていた時のものと比較すると、その真剣さの度合いは大きく減衰したと言っても過言ではないだろう。それは即ち、湯澤が現状を危機的状況だと最終的な判断を下していないことを示唆した。
「……白布に包んで持ってはきてる。刃こぼれとかはしてないんだけど、一応、本格的に始動する前に細かな傷の修復とか教授にやって貰おうと思ってたからね」
 綾雛はその質問に答えながら、現在手元にはないそのタングステンカーバイト製の長刀の在処を思考の中で探索する。そうして「今、気付いた」と言わないばかりに一つ大きな声を上げる。
「あ! でも会議室横の壁に立て掛けたままだから、取りに戻らないといけないか」
 湯澤はそんなタイムロスなど「大した問題ではない」と言わないばかりに、綾雛へと状況の説明を続ける。
「敵の総数は二人。……監視カメラの映像を確認する限り銃は持っていない様だが、……一人は鉄パイプの様なもの、もう一人は金槌の様なもので武装してる」
 そんな湯澤の調子に綾雛の方も「何が言いたいのか」を理解した様だ。一つ大きな溜息を吐き出した。「どうしろ」とははっきり言わないものの、その意図を理解出来ないわけがない。そんな言い方も出来たかも知れない。
 湯澤は綾雛の方へと携帯パソコンの液晶画面を向けたが、それを綾雛がマジマジと注視することはなかった。
 ただ、その代わりと言わないばかりに、そこには頬杖を付いて惚けた顔をする綾雛がある。
「はー……、こんなところで戦うはめになるんだって判っていたら、わざわざタイトスカートなんてはいてこなかったのに。……そしたら膝の手入れだってしなくて良かったわけだし、あー……なんだかなー」
 そんな気怠さをまとってはいたものの、綾雛のその瞳には既にやるべきことを認識した確かな決意の色が灯っていた。
 トンッと黒タイルに手を付いて立ち上がってしまえば、湯澤との携帯回線を開きっぱなしにした携帯片手に綾雛は検討会議が行われていた一つ上の階の会議室を目指して走り始めた。それは状況の急展開があった場合、いつでも湯澤からの通達を受け綾雛が臨機応変に対処出来る様にと配慮が為されたから故のものである。
 意図せぬ侵入者が容易に検討会議の会場へと辿り着くことはなかった。
 三階建て建造物の最上階にある会議室で検討会議が行われていたことが妨げになった格好だ。そして何よりも、それ以上に侵入者の面々がビルの三階部にある会議室で検討会議が実施されていることを知らなかったことの方が大きいだろう。
 彼らはまず最初に、一階部に存在する部屋を手当たり次第に探索した。
 それは彼らの襲撃が計画的な犯行ではないことを表す良い指標だっただろうか。
 検討会議出席者に面々に直接的な危害が及ぶ可能性が低くなるという点で、彼らのそんな行動は有難いとさえ言えた。しかし、その手当たり次第の行動が余計な被害を及ぼしていると言う事実だけは頭痛の種でもあった。検討会議に直接関係を持たない、本来なら、被害を被る理由のない人間までもが侵入者の影響を受けることに繋がったのだ。
 湯澤が言った様な経費削減の煽りが本当のものかどうかはともかく、確かにビルの警備にあたる人員がビルの規模から見て少ないことは否めなかった。一階部ではたった二人の侵入者を警備員が取り囲むに取り囲めず、睨み合いと牽制を続ける拮抗状態だった。言えば、追加要素がない限りはそのまま改善もしないが悪化もしない状況だ。もしも、この均衡が崩れる様な侵入者のさらなる増加が合った場合、検討会議出席者の面々は著しい被害を被る可能性すら合っただろう。
 綾雛は「ドンッ」と音を立てて検討会議が行われていた会議室へと入室した。……もちろん、急いでいたということもある。それでも、その行動は事態の把握もままならない室内の面々に対する配慮に欠けたものだと言えただろう。
 会議室内には一般的なウォールナット材質の折り畳み式横長テーブルを積み重ねたバリケードが作られていた。検討会議出席者の面々はバリケードの後ろに身を隠し、海上保安庁の役員バッチを胸元に付ける様な方々が前面に立ってそれを守る様な状態だ。けたたましく入室した綾雛に対し、彼らは例外なく一様にジッと強い警戒の目を向けたのだった。
 タングステンカーバイト製の長刀は白布に包まれた状態で壁際に立て掛けられたままになっていた。綾雛は颯爽とした調子を漂わせると、緊張感漂うそんな雰囲気の中を壁際まで立ち止まることなく一気に歩き切る。ただ、長刀をその手に握り持っても、検討会議出席者の面々から綾雛へと強い「畏れ」を伴った険しい視線がいくつも向く状態は変化しなかった。
 綾雛も綾雛で、澄ました顔をしてはいたものの心中ではそこに漂う著しい緊張感にたじろぐ格好だ。「忘れ物」を手に取り黙ってその場を立ち去ると言うには雰囲気的にも立場的にも精神的にも無理があり、綾雛は「自分が事態を収拾する」旨をその場で明言するはめになる。その言葉は酷く辿々しい滑り出しになった。
「あー……、皆様ご心配なく、今からちょちょっと行って、下の方、制圧してきますから」
 片手間の用事でも片づけてくる、まるでそう言わないばかりの口調で話した綾雛の様子に、会議室に雁首並べる綾雛よりも遙かに年上の面々はじっと目を据え綾雛を見ていた。検討会議が実施されていた時間の中では大きな存在感を示さなかった上を見ても二十代後半が精々の女を、彼らは今になって「彼女は一体誰なんだ?」と気にし始めた様子だった。
 そんな一種異様とも取れる視線に晒され、綾雛はどう反応して良いのかを躊躇っている様子だった。具体的に言うと一目で苦笑いと判る表情をして退室しようにも出来ないでいる格好だ。せめて誰かが何かしらの反応をしてくれれば、まだそこを起点に話をするなり何なり出来るものの、こう水を打ったように静まり返られてはどうしようもないわけである。
「君は確か、あれだな、情報調査室所属の……」
 そんな何とも表現し難い雰囲気を打ち破ったのは海上保安庁のお偉いさんだった。
 それも、どうやら、彼は綾雛についての情報を覚えてくれているらしかった。
 綾雛はニコリと笑みを作ると彼の言葉が言下のうちに、再度自身の自己紹介を口にする。検討会議の冒頭で、自らが口にした自己紹介よりも格段にハキハキと元気を伴ったインパクト十分の口調で……である。
「ええ、情報調査室所属、綾雛伊久裡(あやびないくり)と申します。まぁ、入室したばかりの新参者で、名字の一つにある様に「雛」そのものなんですけどね。もし良かったら名前ぐらい覚えておいてやって下さいな」
 戯ける様に言って綾雛はくるりと踵を返すと、長刀を包んだ白布をバサリとはためかせつつ投げ捨て、勢いよく廊下へと躍り出ていった。その長刀は「刀」と言うよりも「剣」と言った方が的確だろう。微かな金属の摩擦音を響かせて、綾雛がその刀身を鞘から抜き取ると西洋刀に見る真っすぐに伸びる諸刃の刀身が姿を現す。その刀身の長さは綾雛の肩先から手首ほどまであり、見た目にかなりの重量を持っている風に映るのだが、綾雛はそれを右手で軽々しく振り翳すとヒュンッと一つ小気味よい風切音を廊下に響かせた。
 二階へと下りしまえば、綾雛はすぐに長く続く廊下の先に特徴的な湯澤の後ろ姿を発見する。
 綾雛は「ニィ」と笑みを灯すと足音を意図的に消して、湯澤へと忍び足で近づいた。
 湯澤は階段ギリギリに位置取って階下の様子を窺っている状態だった。頻りに激しい言葉のやり取りが聞こえる階下へと注意は向いているらしく、その背中は無防備そのものである。それが尚更、綾雛の悪戯心をくすぐるわけだった。
 そんな湯澤の肩をトントンと叩くと、綾雛はすっとその横を擦り抜け悠々とした足取りで階下へと足を向ける。予想だにしていない方向からのアプローチにビクンッと大きく身体を震わせた湯澤に対して、綾雛は背を向けた状態のまま掲げる様に挙げた手を小さく振って見せる挨拶をした。
 綾雛は踊り場を曲がった所でその足を止めると、耳を澄まして一階部にある物音の方向を探った。途中、開きっぱなしの携帯回線から「この馬鹿野郎!」と言った類の、湯澤からの叱責があって綾雛は悪戯っ子の様に意地の悪い笑みを見せたが、それも一瞬。すぐにその表情には真剣味が灯った。階下に複数の人の気配を感じることが出来たからだ。
「新兵器導入の検討会議をしている責任者を出せ! 海上保安の強化に伴い、停止勧告を無視する不審船や領海侵犯船籍に対して機械制御でエンジンを狙い、同時に電子機器を妨害する妨害電磁波を照射する追尾型魚雷導入の検討会議をしている責任者を出せと言っているんだ!」
 喚く様に叫ぶ声がある。
 ……声の位置は遠くなく、恐らくは一階部を総当たりで調べてそこに検討会議の会場がないことを理解し、いざ二階部へその行き当たりばったりの総当たり式を移そうという頃なのだろう。
「その導入を為すことの何が問題だと言うつもりなの?」
 カン、カン、と短い靴音を響かせて階段を下り、物々しい雰囲気が漂う方へと向き直ると、綾雛の目には白ワイシャツに紺色のズボン姿の神経質そうな二人の男が映った。見た目には肉体労働に職を置く体付きで、彼らからは所謂「インテリ風」の感じはしない。眉間に皺を寄せる険しい表情だからだろうか、年の頃は40代とも50代とも見て取れる。
「あ、危ないですから下がってください! 警察には既に通報済みですから、避難を!」
 警備員の一人が口にする切羽詰まった感の漂う言葉を聞きながら、クルリと周囲の状況を見渡すと、やはりその警備員の少なさが際立つ格好だった。綾雛は「ふぅ」と小さな溜息を吐き出した後、キッと二人の侵入者を睨み見る。
「お嬢ちゃん。あんたが責任者なのかッ?」
「導入をすることの何が問題だというつもりなの? ……答えてみなさいよ」
「今すぐ、それを取り止めると確約をしろ」
 意見を求める綾雛の強い口調に、けれども彼らは聞く耳など持ってはいないらしい。その後には譫言を繰り返すかの様に、ただただ「取り止めろ!」と「なってもいない」要求を突き付けるばかりで、綾雛はその子供じみた調子に「ニィ」と口元を歪めて見せた。
 刹那、右足で踏み込むと綾雛の身体が急速な加速度を得る。常人を逸脱するとまで言ってしまっても過言ではないだろう。少なくとも一流スプリンターでさえ、こんな急加速をすることは不可能である。
 黒タイルの床に「ドゴンッ」と響き渡ったけたたましい音は、……強度にもよるだろうが下手をするとその黒タイルに罅を走らせる様な負荷が掛かったことを示した一つの証拠でもあった。
「せぇいッッ!」
 右足で踏み込んだ綾雛は右足で着地をすると、掛け声一つ、宙を飛んでいる間に振り翳した長刀から加速度を伴った重い斬撃を放った。五メートル以上は確実にあっただろう距離を一足の間に置いた綾雛の挙動に、男はただただ呆気にとられた様で酷く鈍い反応を見せるに留まる。
 綾雛が繰り出す一撃へ、男が対処の挙動を見せたのはその刃が既に眼前に迫ってからだった。
 綾雛の斬撃は鉄パイプを絡め取る様にして下から上へと流れた。けたたましい金属音を響かせることなく、その斬撃はいとも容易く男が手に持ち身構えた鉄パイプを叩き切ってしまっていた。形としては男の脇腹付近から頭部へと流れたと言えば適当だろう。
 それは男の頭部を狙ったと言うよりも鉄パイプを無力化するための一撃だった。もしも、綾雛が斬撃を逸さなければ、その一撃は確実に男を真っ二つにしていたはずだ。後には「コーンッ、コンコンコン……」と金属質の落下音と、それが床を滑ってゆく音だけが水を打った様な静けさが漂う廊下にこだました。
 綾雛は返す刃でその長刀の切っ先を、中程から上が飛んでいった鉄パイプを唖然と眺める男の喉元に突きつける。
「あ……、う……」
 声にならない声を上げながら、男は一歩二歩と後退って完全に戦意を喪失した様だった。ぺたんと尻餅を付く格好で座ってしまうと敵意を込めた目で綾雛を見返す気力もないらしい。
 そんな男の様子に「ニィ」と得意顔を見せる綾雛の、その後頭部目掛けてもう一人の男が金槌を振りかぶった瞬間のこと。……それは俄に廊下の傍観者がざわついたのとほぼ同時のことでもある。「トタタタタタタ……」と独特の、高音成分が多く含まれるサブマシンガンの銃声が響き渡った。
 半身に体勢を取る綾雛は金槌を振りかぶる男へ顔だけを向ける格好で、上着のジャケットの下に銃を隠し構えている状態だった。ジャケットの脇腹部分には複数個の穴が空いていて、綾雛はジャケット越しにそれを撃ち放ったわけだ。
「良い音鳴るでしょう? この消音器(サイレンサー)」
 綾雛はついさっきと全く同じ得意顔を見せて言った。
 一つ遅れて廊下には「ゴトッ」と鈍い音が響き渡る。男の手から金槌が落ちたのだ。
 綾雛が撃ち放った弾丸は的確に、金槌を持った男の利き手側の下膊を撃ち抜いていた。「的確に」とは言ったものの、男の後方の壁には男の下膊に命中しなかった数発の弾痕が残っている形ではある。尤も、綾雛が使う銃「CZE-Vz83」の特性を考えれば、その「的確さ」を突き詰めていっても落ち着く命中率はそこが精々だろう。
「と、取り押さえろ!」
 一部始終を傍観していた警備員が戦意を喪失した二人の侵入者を取り押さえると言う形で事態は収拾を得る。
 それを察して階段を降りてきた湯澤に対し、綾雛は右手を掲げる様に挙げて向き直った。廊下にはパンッと掌の合わさる音が鳴り響き、綾雛の表情は和らいだ。
「もう、動き方は完全に「癖」付けたのか?」
 湯澤の表情には綾雛を心配する様な色は見受けられなかったわけだが、それも「綾雛が苦痛に顔を歪めている様な状態にないから」だと言えた。まさか、この程度の相手に手こずるなどとは湯澤も端から思っていないわけだが、綾雛には綾雛自身が含有する問題がある。
「ミスをすると即「大怪我」に繋がり兼ねないわけだから、嫌でも反応するって奴だね」
 サラリと言い流す綾雛の様子に、湯澤が「取り敢えず」それ以上を言及することはなかった。




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