「紀見、紀見!」
北原のわたしを呼ぶ声に目を開くと、そこが倉元山植物園の大樹の根本であることはすぐに理解できた。
天高く聳える大樹とともに、心配そうな北原の表情が飛び込んでくる。
「……北原?」
わたしの声を聞いた北原はほっと安堵の息を吐く。
「あー、もう、良かった! 寝かせてみても苦しそうな声上げてうなされてたから心配したんだよ。……大丈夫? 具合悪いこととかない?」
そんな北原を前にして、真っ先にわたしの脳裏を過ぎるものは疑問である。
どうして北原が居るんだろう?
ゆっくりと記憶の糸を手繰り寄せていくけれど、咄嗟に思い出せることはそう多くない。そこには混乱が生まれた。
「あれ、え……と、確か真場さんと会って、引き返せって言われて……?」
「道神って名乗る奴が紀見を抱えて現れて、ここに寝かせていったの」
北原のその言葉はわたしの疑問に答えるべく口にしたものじゃなかっただろう。結果的に、要領を得ない状態にあるわたしへここに至る最終的な答えを向けた形にはなったけれど、それはただの偶然に過ぎない。
事実、わたしは大樹の根元に寝かされるという結果に至る経緯を思い出すのに結構な時間を有した。経緯を辿るその途中途中で思い起こされる心配事に、わたしは不安を隠せなかったけど、総じて上手くことは運んだんだと理解した。
「道神さん、……怪我とかしてなかった?」
「特に怪我してるようには見えなかったけど……」
跨堂と道神の対決の結果、少なくとも道神に大きな怪我がなかったことを理解すると、わたしの口からは自然と安堵の息が出た。何より道神が北原の前に姿を現したという事実は事なきを得たものと考えて問題ないだろう。
「そっか、道神さん、跨堂は何とか押し返せたんだ」
上半身を起こそうとした矢先のこと。お腹の上に何か重量物が置かれていることに気付いた。
それは道神に返却したはずの杖である。
「これ、向里山の……」
「道神さんが立ち去り際に、紀見に預けておくって言ってたけど?」
北原はそういう取り決めになっていたと思っていたようで、何でもないことのように杖が置かれた事情を説明する。
対するわたしは頭を捻る。杖は勝手に持ち出したものだ。持ち主に預けられる理由なんて思い浮かばない。
「……自分で社に返しに行けってことかな?」
そんなことが解るはずがないと思いながらも、わたしはそれを北原に尋ねた。もしかしたら、わたしに杖を預けた理由について、道神がヒントを残して行ったかも知れないなんて思いがあった。
けれど、北原からの返事を聞いた限りではその可能性はないみたいだ。
「うーん……、そういう感じじゃなかったけどね。何て言うか、こう、上手く言えないけどさ。必要になったら取りに行く、だからそれまで預けておく、みたいな感じ?」
「道神さん、他に何か言ってなかった?」
念のため、北原にその時の道神の言葉を思い返して貰おうとするけど、北原からはわたしの望む言葉は聞けなかった。
「他にはかぁ。そうだね、紀見をしっかり休ませなさいって言ってたことぐらいかな」
「そっか。まぁ、いいや。もう、戻ろうか」
そう言って立ち上がったわたしはふらりと蹌踉けることになる。
北原からはすぐにそんなわたしの体調を心配する言葉が向いた。
「ちょっと、本当に大丈夫なの!」
「大丈夫、立ち眩みじゃないよ。ただ、身体が思った以上に怠かっただけ」
身体を襲うものは倦怠感。
咄嗟に大丈夫と答えはしたものの、立ち上がったわたしを襲った倦怠感はかなりのものだった。まさか、足がもつれてふらつくことになるなんて、想像してなかった格好だ。
わたしは地面に杖をつくと、そこに体重を掛ける形で歩き始めた。先導を北原にして貰う形で、そうやって杖に体重を掛けて歩くわたしの様子に目が向かないようにした。余計な心配を掛けるわけにも行かない。
道神がわたしに杖を預けた理由を「そこまで見越して」とも考えたけど、そんなはずはないとわたしは首を左右に振った。ともあれ、今は杖の存在が有難い。
興渡山地を下り、公共交通機関に飛び乗るまでは頑張ろう。バスや電車に乗り込んでしまえば、眠ってしまっても問題はない。乗換時には北原に多少の迷惑を掛けることになるかも知れないけれど、わたしは倉元山植物園を後にした。
「やっぱり常識的に考えて、この社にこの杖は入らないよね」
もしかしたら「ここに道神がいるかも知れない」なんて淡い期待を抱いて学校帰りに足を運んでみたわけだけど、目的の道神に会うことは適わなかった。立てて加えて、杖の返却という二つめの目的も果たせないようだ。
事前に向里山の社の大きさを確認し、わたしの身長よりも長さのある杖が入るスペースがないことは確認済みだった。それを踏まえた上で、わたしは社の封を解き杖の返却を試みた格好だった。
蝶を出現させてみても、あの時わたしの目が捕らえた社の中の台座を確認することはできなかった。
「その辺に立て掛けていくなんて言うのはまずいだろうし……、どうしよう?」
わたしは思案顔を滲ませると、その場で唸り声を上げた。何か名案が浮かばないかと思考回路をフル回転させてみてもろくなアイデアは出てこない。わたしはすぅと息を呑むと声を張り上げる。
「道神さーん、居たら返事してください」
耳を澄ましてみるけれど、山間に谺するわたしの声の他に人の声は聞こえない。
石地蔵の様子も窺ってみるけれど、喋ったり動き出したりする気配は一向に窺えない。尤も、石地蔵がそんな反応を見せたら見せたで、正気で居られる自信はないけれど。
わたしは杖に目を落とし、溜息を吐いた。
「預けるなんて言われても、困るんだけどなぁ」
ともあれ、このまま社の前にいてもどうしようもないと思った。日はまだ高く、非効率的ではあるけど、ここで道神を待つというのも可能は可能だ。ただ、ここで待っていて道神が姿を現すとは限らない。まして、約束を取り付けているわけじゃないのだ。
そこにいるだけでじわっと肌が汗ばむほどの熱気はないとはいえ、この場所に長居をするというのならば何か喉の渇きを潤すものも必要だろう。残念ながら、わたしの手元に喉の渇きを潤すものは何もない。
わたしは社の脇に置いたビニール袋を拾い上げると、石地蔵の前へと進んだ。
ビニール袋の中には和菓子屋で買った醤油煎餅なんかが入っている。
「これ、お供えです。何持ってくれば良いのか解らなかったからお菓子持ってきました。金銭的な余裕がないんで、安物ばっかりですけど。ここに道神さんが来たら、いつでも杖を返却するので連絡下さいって伝えておいてください」
常識的に考えれば、無機物に伝言を預けたところでそれが道神に伝わるとは思えない。けれど、未来視の夢の中で道神は確かにこの石地蔵と意思疎通をしていた節がある。だから、伝言を預けておけば、道神に伝えてくれるかも知れない。
わたしはお供えを石地蔵の元へと置くと、ぺこりと頭を下げる。
「また来ます」
結局、杖をその場に立て掛けていくなんて選択できず、わたしは杖を持ったまま向里山を降りることになった。
社からの帰り道。石段へと差し掛かった時のことだ。
今まさに、石段を下ろうとした瞬間、グイッと背中を捕まれる感覚に襲われた。
何事かと振り向くわたしの視界の端には蝶が羽ばたく。
振り向いた視線の先にいたのは跨堂である。距離にして五メートル近く離れた場所におり、跨堂がわたしの肩を掴んだとは考えられない。では、わたしの肩を掴んだものは蝶なのだろう。
「跨堂彰史!」
「やぁ、久しぶりだね」
跨堂は悪びれた風も見せず、にこやかに笑って見せた。
倉元山植物園から進んだ外の世界で見せた「観測者としての顔」は微塵も窺えない。真場の後を追うことに対して執拗にわたしを牽制し邪魔をした跨堂の様子はないように見える。それでも、わたしの対応は強張らざるを得ない。
「……」
わたしの敵意の籠もった鋭い目付きを前にして、跨堂は「参ったな」という具合に苦笑いを返した。
「そんなに恐い顔をしなくてもいいじゃない。僕には紀見と争いごとを起こそうなんて意識はないよ」
「信じられない」
冷たく言い放つと、わたしは無意識の内に杖を構えていた。
「ああ、恐い恐い。今日は見返りを支払いに来たっていうのに、追い返されるんじゃ堪ったものじゃないよね」
跨堂は小さく両手を上げる格好で「降参」という意味をそこに漂わせた。同時に「見返りはいらないの?」と、そうわたしに問い掛ける格好だ。
「見返りって、……未来は変わったの?」
ポカンとするわたしに跨堂はさも当然という具合に切り返す。
「紀見に渡した蝶が見せた未来視通りにはならなっただろう? 未来は変わったんだよ、だから対価を払いに来た」
そして、続ける言葉で「わたしに支払う対価は何が良い?」と、具体的な対価の形を挙げて確認する。
「紀見は何が欲しい? お金、それとも入手困難なブランド物のバッグとか?」
ただ、逆にその跨堂の態度からは一つの思いが見え隠れする。それは並べ立てた具体的な対価の形で「この話を済ませてしまいたい」といった具合の思いだ。
ふっと、そういうものを対価として要求して「何もかも全て綺麗さっぱり忘れてしまうのもありかな」なんて思考が頭を過ぎる。けれど、結局、この世界の外に対する不安と、そんな不安と同時にわたしの心を捉える好奇心は押し殺せなかった。そもそも、それで跨堂との縁が一時的に切れたとしても、真場が黙っていない気がする。
そうなれば、真場の動きに併せて跨堂の影が見え隠れするようになるだろう。
もう後には引けないところまで来ているのかも知れない。わたしは改めてそれを実感する。
最初はただ「普通」を失いたくなかっただけのに。
わたしは牽制の意味を込めて身構えた杖を持ち替えると、攻撃の意志がないことをそこに示し出す。
「……質問に答えて」
跨堂は「やっぱりそう来たか」といった苦笑を見せた。そして、こう条件付けをする。
「それが答えられる範囲のものなら答えるよ」
それで構わない。
そんな意志を前面に押し出しながら、わたしは口を切って跨堂に質問をぶつける。
「観測者の目的っていうのは何なの? どうして、この世界の外に向く道なんてものを作ったの? 最初にこの世界と外の世界とを繋げたのは観測者が属する側の人達なんでしょう?」
最初にこの世界と外の世界とを繋げたのは観測者が属する側の人達。
その言葉を跨堂は否定しない。言葉の細部までを気に掛けなかったという見方もできるけど、跨堂の返答は少なくとも「観測者が属する側の人達が繋げた」という内容を肯定するものだ。
「どうして繋げたんだろうねぇ? その根本的な部分は僕も知らないことなんだけど、僕が思うにそれは来るべき日に備えて何じゃないかな。もし、この世界に限界がやって来た時、逃げる場所がどこにもないじゃ済まされないだろう?」
跨堂はあくまで自分の推測という形を取ってわたしの質問に答えた。「根本的な部分は知らない」と述べた言葉を信じるつもりにはなれなかったけど、本当に知らないかどうかを確かめる術はない。
わたしは歯痒さを感じながら質問を続ける。
「……じゃあ、観測者の目的って何?」
「言わなかったっけ? 僕は未来視の観測者。未来視の能力者達を観測してる」
「だから! 観測してどうするの? 自分達で未来を視ればいいじゃない! 蝶を使えるんだから……」
跨堂はわたしの言葉を最後まで聞かなかった。途中でそれを遮るように、半ば強引に話し出す。ただ、それは勘違いを教え諭すかのような穏やかな口調だ。
「僕らには未来を視る力なんてものはないよ。未来を変える力なんて以ての外」
蝶を使役すること、それはイコール未来視の能力に結びつかない。跨堂はそう言っていた。加えて、跨堂は自身の能力についてこう説明をする。
「僕にできることは誰かが見た未来視の夢を覗き見ることと、ある一定のルールに則って自分の影を飛ばし、情報を仕入れたり横やりを入れたりすることぐらいだよ」
そういわれて始めて、わたしはここにいる跨堂が「影」であることを理解した。跨堂の回りにはハタハタと飛び交う蝶がいる。それはここで長々と話をできる状態ではないことを意味する。時間制限が設けられていることを理解して、わたしは顔を顰めた。
まずは「そうなんだ」と理解するしかない。跨堂に尋ねたいことは山ほどある。
「未来視の能力を持つ人達はみんな、未来を変える力を持っているの?」
「結論から言うと、その答えは「解らない」となるね」
跨堂はあっけらかんと答えた。
未来視の観測者と名乗った跨堂が返す答えとしてはあまりにもお粗末だと思った。
ただ、そんなわたしの感想からくる険しい表情には、すぐに跨堂も反応した。そして、続ける言葉で「未来視について自身がどう考えているのか」を口にする。
「そもそも未来視の能力とは「何の変化も加えなければ」そのまま具現するだろう未来を、……何らかの変化を加えることによって他の無数に広がる可能性、即ち「並列世界」のものと取って替えることだと僕は思っているんだ。変更可能な範囲というものも、……もしかしたら、ある程度、決まっているのかも知れない。結局、何が言いたいのかって言うとね。僕は未来を視ることと、その未来視の内容を変える力は別の能力だって思ってるってことだ。でも、多かれ少なかれ未来視の能力を持つ者は未来を変える力を持っているんだって思うけどね」
詰まるところは「多かれ少なかれ……」という跨堂の推測に収束するわけだけど、わたしが期待した内容はもっと具体例を示した統計的なものだ。
それは望めば、答えとして返るものだろうか。
「……大災害って何?」
わたしの質問に、跨堂は呆気にとられた後、苦笑する。
そして、その内容を知りたい理由をわたしに問い返した。
「そんなことにまで首を突っ込んで、紀見は一体どうしようっていうの?」
「教えて」
わたしはただ一言、要求した。余計な言葉を口にすると、色々とぼろが出る。そんな気がしたからだ。
跨堂は満足そうに微笑むと、いつもの人当たりの良い態度を前面に押し出し、こう提案してきた。
「取引しようか」
思えば、跨堂はこの言葉を口にする機会を窺っていた節がある。最終的にそういう話に持って行きたかったのだろう。
そうして、跨堂が口にする内容には魅力的とさえ思えるほどの具体例が織り込まれる。
「僕は僕の知っている情報をこれから紀見に話していくよ。必要とあれば、観測者の中で情報を探ってみても良い。まぁ、紀見が情報以外にも金銭的なものを望むのであれば、それはそれで許容もする。もしも、紀見が記号を使いたいと思うのなら、記号の使い方を教えてあげても良い。ギブ、アンド、テイク。どうかな? 僕が紀見に対価を支払う代わりに、紀見にはこれからも僕の頼みを聞いて貰って、僕らの望まぬ未来に変化を加えて貰いたいんだ」
「それは観測者としての立場を持って、わたしに依頼をしたいってこと?」
わたしは敢えて「観測者」という言葉を使って、その頼み事の出所がどこにあるのかを確かめる。
跨堂はその質問の意図を理解したのか、それともただの偶然か。ともあれ、わたしが求めた答えをさらりと口にした。
「んーん、今のところ、これは全部、僕の独断だよ。こうやって紀見に接触していることも含めて全部ね」
「……わたしに能力を伸ばして貰いたいって思ってる?」
「もちろん、未来視の力を伸ばして貰いたいと思ってる。いや、それは未来視に限ったことじゃない。紀見が持つ全ての能力を向上させて貰いたい」
跨堂は悪びれた様子を見せることもなく答える。
真場同様、外の世界に対して「さらなる適応をすることを望む」という意味合いの内容をはっきり口にする辺りが跨堂だった。その一言はわたしが跨堂の「望まぬ未来に変化を加えて貰いたい」という頼み事を断るに足る要因だというのにも関わらずである。
ともあれ、一つはっきりとしたことがある。
今はまだ、わたしの能力を伸ばしたいと考えるものが跨堂の属する「観測者」という集団の総意ではないことだ。
「仮に、僕らの望まぬ未来に変化を加えて貰いたいっていう頼み事が僕の手を離れて、僕の属する組織からのものになったなら、きちんと紀見に報告するよ」
跨堂はにこやかに笑いながら、そう付け加える。
随分と丁寧に説明してみせるのは「わたしに頼み事を聞いて貰いたい」という意識があるからだろうか。ともあれ、そこには思慮が足りないように思える。今の言葉一つ取っても、指摘するべき項目がある。
態とそうしているのか。本当に深掘りができていないから、わたしが知りたいことに対して溝が生まれるのか。ともあれ、そういった掴み所のなさは相変わらずだった。
「それ、報告されたからってわたしに何ができるっていうの? それじゃあ、もう依頼は受けられませんって言えば、それで何事もなく済ませてくれるものなの?」
「うーん、そうかぁ、そこまで考えてなかったね。……それはどうだろう?」
わたしの指摘に対して、腕を組んで思案顔を見せる跨堂はそんな言葉を口走った。
何のことはない。
それは即ち、頼み事を持ち掛けてくる相手が変わったことを報告されたからといって、わたしにはどうすることもできないことを言ったに等しい内容だ。いや、頼み事を持ち掛けてくる相手が跨堂だったならまだはね除けようもある。それが得体の知れない「観測者」に取って代わり、わたしの拒否権が失われるだけだ。
では、最初から跨堂の頼み事を断るというスタンスでことに当たればどうか?
わたしに頼み事を持ち掛けてくる相手が最初から「観測者」という得体の知れない連中に変わるだけだろう。最初から、わたしの拒否権は失われることに繋がるに過ぎない。
わたしは跨堂に対して慎重な受け答えをしなくてはならないのかも知れない。
ともあれ、跨堂の回りを羽ばたく蝶がボロボロと形を失い始める様子をその目に捉え、わたしは跨堂に次の質問をぶつける。跨堂はまだ、依頼を断ることができるかできないかに思考を割いていたけど、その結論を待っているだけの余裕をわたしは持っていない。
「この世界の限界っていうのは、もしかして、大災害のこと?」
わたしは改めてそれを尋ねる。どうしても知りたかったのだ。
外の世界へと適応しようとする理由。大災害がその根幹に関わっているかも知れないことを真場は言っていた。だから、大災害について知ることが外の世界へと適応しようとした理由に繋がっているとわたしは思ったのだ。もしも、大災害に見舞われる多くの人を救うべく外の世界への適応をしようとしているのなら、わたしは外の世界に対する適応について考えを改めるかも知れない。
「僕も会ったことのない未来視の能力者が予言した内容の一つ、それが大災害だよ。まことしやかに囁かれているだけのただの与太話かも知れないよ? 少なくとも、僕の回りにその内容は知る人物はいない。いつ起こるのか、どこで起こるのか、どれ程の規模の災害なのか、天災か人災か。詳細は全く解らない。まぁ、それをどうにか取り除こうと躍起になっている人達がいるんだ。……今のままだと、いつか現実のものになるんだろうね」
てっきり、跨堂はまたその内容を知りたい理由をわたしに問い返してくるかと思った。
けれど、大災害の内容について跨堂はさらりと答えた。そこに跨堂が話して内容的にまずいと思える箇所はない。そして、跨堂にも話をしてしまったことに対する「しまった」というような態度は見受けられない。
では、大災害についての話はただ勿体振っただけだったのか?
単純に跨堂が情報を持っていなかっただけかも知れない。だから「観測者の中で情報を探ってみても良い」なてん匂わせる発言をした。そうも受け取れる。
ともあれ、わたしの質問に跨堂が答える対話の時間はそこまでだった。
跨堂が突然、頓狂な声を挙げることでそれは終了する。タイムリミットが来たのだ。わたしはそれを予感していたけれど、跨堂はそれを予感できていなかったらしい。まるで、未来視の夢を見るわたしのようだった。
「ああ、時間だ! 駄目だなぁ、僕は。もっと色々と紀見に話しておかなきゃならないことがあったのに!」
見るからに肩を落とす跨堂の様子を見る限り、わたしはそれが演技だとは思えなかった。そんな口調から察するに、いつでもどこでも自分の「影」を飛ばして、わたしの前に姿を表すことができるわけではないらしい。
蝶はボロボロと崩れ落ち、跨堂の姿もうっすらとその形を保てなくなってきているのが確認できる。
「……また頼み事が生じたら、紀見の前にお願いをしに現れるよ」
「……」
何も反応を返さないわたしに対して、跨堂は一方的に再会の言葉を口にする。
「それじゃあ、またね」
わたしは跨堂の提案に対して「はい」とも「いいえ」とも返事をしていない。だから、跨堂が対価を支払い、わたしが跨堂の頼み事を聞くという関係は成り立っていない。一つ一つ、頼み事を持ち掛ける時に確認するということなんだろうけど、そこに痼りを残して跨堂は掻き消えた。
跨堂が掻き消えた後には幾重にも重なる木々から成る濃緑の傘から差し込む日溜まりが存在していた。
ついさっきまで跨堂のいた日溜まりへと足を踏み入れるけど、そこには跨堂がいた痕跡の一つ見付けられない。
「出ておいで」
わたしがそう命令すると、すぐにわたしの回りには淡く発光をする蝶が羽ばたく。
「未来を変える力に、外の世界に適応する能力か。……あんたは成長したい? この世界の外に行ってみたい?」
その質問の矛先は蝶である。当然、蝶は答えない。ハタハタとわたしの回りを羽ばたくだけだ。
いや、その質問の矛先は蝶を通して向こう側にあるわたし自身へと向いていた。
だから、それは自問自答となる。
答えは導き出せそうにない。答えを導き出すに足る情報を得られていない。
そして、きっとその答えを導き出せるようになったなら、引き返せないところまで踏み込んでいることだろう。
「……どうする?」