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Seen08 オリジナル


 階下へと足を進めると、わたしはすぐに道神の姿を見付けた。
 道神は窓際に取り残された椅子に足を組んで座り、缶コーヒーを片手に文庫本に目を落としていた。
「道神、……さん!」
 わたしは名前を呼んでしまってから、呼び捨てにするわけには行かないと気付いた格好だ。なにせ実質的には初対面となる相手である。急遽「さん」付けをしたため、呼び止めた言葉は頭でっかちのおかしなイントネーションだった。
 道神はパタンと文庫本を閉じると、飲みかけの缶コーヒーを床に置く。すぅっとわたしの方へと向き直る道神の目付きに、敵を見るような鋭さはない。けれども、それは決して穏やかなものとも言えない。
「……君は誰かな?」
 言うなら、わたしを訝る感じがそこにはあった。尤も、廃墟に等しいこの倉元山植物園なんて場所で、見知らぬ相手に名前を呼ばれたのだから、その気持ちは解らないではない。
「どうしよう、……まず何から話したら良いのかな」
 ボソリと呟きだしてしまえば、一気に思考はまとまらない方向に拡散する。勢いで突っ走って道神まで辿り着いたけど、いざ道神を前にしてわたしは何から切り出すべきかに思考をフル回転することになる。
 そして「どう話をするべきか?」を考え倦ねた結果、まずは自己紹介をしようという結論に至った。少しでも、道神がわたしに対して感じる不審さを消しておこうと思ったわけだ。
「あー……、えと、始めまして、野峰紀見佳と言います」
 わたしが自分の名前を言い終わったところで、道神の携帯の着信音が鳴った。
 プリインストールされている面白みのないメロディーや固定電話のベルの音かと思いきや、道神の携帯から鳴り響いた着信音は流行のジェイポップだ。けれど、それが道神の雰囲気にそぐわないと思えるそんな着信だったからこそ、わたしは確信した。
 その着信の相手が真場だと、確信した。
 コクンと唾を飲み込んで喋り始めるタイミングを取ると、わたしは道神へ要求する。緊張からくる喉の渇きを身体が頻りに訴えるような状態に陥っていたけれど、それは掠れた酷い声にはならなかった。
「待って! 電話に出る前に、わたしの話を聞いてください」
 その突然の要求にはさすがに道神も驚いたようだった。
 一瞬、目を見開くようにしてわたしを見た後、道神は黙り込む。携帯の液晶画面に視線を落として着信相手を確認した後、わたしの要求とどちらを優先すべきかを考えているようだった。
 そして、道神は着信の鳴り響く携帯をポケットへとしまい直す。
「いいよ、まず君の話を聞こう。そこまで真剣な顔をするからには余程重要なことなんだろう」
 携帯をポケットへとしまう道神の仕草にわたしはハッとなった。そして、ポケットの中から携帯を取り出してその状態を確認するけど、電波は一本も立っていなかった。マジマジと自分の携帯を確認した後、わたしは道神へと向き直る。ジッと道神を注視してみるけれど、そんなわたしの行動の意図を道神は理解してくれないらしい。
 真場や道神が持っている携帯が特別なのか?
 それとも、何かしらの設定を行えば、この倉元山植物園で通話できるようになるのだろうか?
 尤も、その答えが解って通話が可能になったとしても既に後の祭りである。北原は大樹のあるフロアで道神が現れるのを待っているし、ここでわたしが大声を張り上げても北原には届かないだろう。
 わたしは仕切り直しと言わないばかりに小さく咳払いをして、本題を突き付ける。肩に担いだスキーボードケースから件の杖を取り出し、それを突き付けながらわたしは尋ねた。
「これ、道神さんのものですよね?」
「……野峰紀見佳さんだったかな。君は何を知っている?」
 わたしが向里山の社から持ち出した杖を突き付けた瞬間、道神の表情に険しさが灯る。返答次第ではその険しさは敵意を伴った鋭いものへと変わるだろう。
 その迫力に思わず後退りそうになるけれど、わたしはその場に踏み留まり言葉を続ける。
「ごめんなさい、その、上手く答えられないです。でも、道神さんと真場さんが何をしようとしているのかを少しは解っているつもりです」
「では、今更、俺にこんなものを突き付けてどうしようと言うのだ。朽ちた世界で、ただひたすら時代が変遷するさまを眺める日々に戻れと言うのか? 誰の記憶からも忘れ去られる時を待ち、始めから存在しなかったかのように消えて無くなる日を待てと、言うのか?」
 道神の言葉は攻撃的なものだった。まるで詰問するように、わたしにその返答を求めているように感じた。下手な答えを返そうものなら「ただでは済まさない」と、そんな印象さえ感じさせる。
 ただ、わたしはその意味を理解できないから当惑することしかできない。
「その、……ごめんなさい。良く解らないです。でも、これを壊してしまった時の道神さんの表情が忘れられなくて……、凄く大事なものなんですよね?」
 わたしの受け答えに道神は押し黙る。そして、そこには向里山の社では見せることがなかった苦々しい表情が滲んだ。
「ああ、大切なものだ。俺自身だと、言ってしまっても構わない」
「大切なものを擲ってまで、……細工の施された映像とやらをばらまくことに何の意味があるんですか?」
 細工の施された映像をばらまくことが何を意味するのか。
 わたしはそれを理解していないから、その言葉は道神に対して「知ったか振り」をかましたに過ぎない。道神にその意味を「教えてください」といったところで、簡単に話してくれるとは思えなかったからそういうやり口を取ったけど、それは意外なところへと話を飛び火させる。
「……真場がやらなくても、誰かがやるのではないのか?」
「誰かって」
 わたしの言葉が言い終わるよりも早く道神がその「誰か」を具体的に名指しする。
「例えば、観測者と名乗る連中だったり、例えば……」
「観測者って、……跨堂があれと同じことをやるって言うのッ?」
 黙って聞いていれば、まだまだその先に「例えば」が続いたんだろうけど、一番最初の具体例を出された時点でわたしは黙っていられなかった。頓狂な声を挙げて道神が具体例を示す言葉を中断させてしまえば、そこには静寂が生まれた。
「あの際限のない、……世界を、跨堂は止める側に、属しているんじゃないの?」
 咄嗟に、あの未来視の夢の中での出来事をどう表現して良いか解らなかったから、わたしの言葉は支え支えの酷いものになる。けれど、その言わんとするところは道神にしっかりと伝わったようだ。
「最初にこの世界の外へと向く道を作り始めたのは奴らだ」
 わたしはその道神の言葉を怪訝な顔をして聞いていた。けれど、未来視の夢の中で際限なく広がる闇を作り出すことと、その「道を作る」ということが同義だと解ってしまえば、跨堂に対する疑惑が沸々と沸き上がってくる。
「跨堂に詰め寄って、色々と知っていることを吐いて貰う必要があるみたいだね」
 ボソリと呟いて「やるべきこと」を一つ頭の片隅に焼き付けると、そこでわたしは重要なことを思い出す。
「……そうだった! 何を企んでいるのか知らないけれど、跨堂を止めないとまずいことが起きる気がする」
「跨堂というのは観測者の名前なのか?」
 その道神の質問は意外だった。
 てっきり、道神は跨堂のことを知っていると思ったからだ。
「跨堂は自分のことを「観測者」って言ってたけど、本当のところは、……どうなのか解らないです」
 跨堂が自分を称した観測者という言葉に、わたしは少なからず真実味を感じている。けれど、本当の意味での観測者が何を指すのかをわたしは知らない。だから、わたしはあくまでそういう言い方に徹した。
 わたしは逆に道神へと聞き返す。
「道神さんは跨堂以外の観測者を知っているんですか?」
 跨堂の存在を知らないにも関わらず、道神は観測者という言葉を使った。だから、そう名乗った誰かを知っているんだろうと思った。そして、観測者というものの本来あるべき姿を知っているんだと思った。
「何人か、観測者と名乗った奴らを知ってはいる。ただ、君がいうように本当のところがどうなのかは解らない。ただ、観測者と名乗った連中が、誰も彼も生身の人間が当たり前のように行き来することのできない道を移動できることだけは確かだ」
 道神もわたし同様、その観測者が何を指しているものなのかを知らなかった。けれど、最も重要なところを道神はしっかりと押さえている。観測者と名乗ったか名乗っていないかなど、さしたる問題じゃない。観測者と名乗った連中がどんなことをすることができて、何を目的としているのかが重要だ。
 名乗るだけなら誰でもできる。
「奴らは俺や真場が通ることのできない道も、行き来することができる」
 それが道神や真場と観測者とを切り分ける指標の一つとして話された言葉かどうかははっきりしない。
 でも、わたしはそれが道神と観測者との違いを端的に言い表したものに聞こえた。だから、確認しなくてはならない。
 跨堂を含めた観測者と、道神や真場との相違をである。わたしが未来視の夢の中で実際に見て感じた結論として、あくまでその実現を阻むべきだと考えたのは道神達が実行しようとしていることの方だ。
「その、……わたしから見れば、どちらも見分けは付かないんです。跨堂が道神さん達と同じことをしようとしているとして、一体、道神さん達の目的は何ですか? そして、道神さんの前に姿を現したその観測者の目的は何なんですか?」
 倉元山植物園を自由自在に闊歩しているのだろう跨堂を追跡しなきゃならない。けれど、この質問もわたしに取って跨堂の後を追うのと同じかそれ以上に、重要性を持った事柄だ。
「目的か」
 道神はそう呟くと、そこに思案顔を滲ませる。
 そんな道神の様子を捉えるわたしの目付きは鋭い。その後に続くだろう返答の真偽を確かめようとするから、それは当然だ。道神がぺらぺらとデタラメを並べ立てるとは思わないけれど、全て本当のことを話すとは限らない。
 道神もわたしのその態度の意味を理解しているようだ。重々しく口を開くと、非常に丁寧な受け答えをする。
「まず最初に、観測者と名乗る奴らの目的が何なのかは知らない。もしかしたら、真場が何か知っているかもしれないが、仮に知っていたとしても表面的なことで、根深いところまでは解らないと思う」
 道神が観測者の目的を知らないと述べたことで、わたしは一つのシンプルな疑問を抱く。
 世界の外へと向く道を作る。
 道神と真場、そして観測者。
 互いが同じことをやっているのなら、どうして行動を供にしないんだろう?
「次に、俺達の目的ということだけど、それは真場に直接聞いた方が良いだろうな。俺はあくまで、真場に協力を依頼されて行動を供にしているに過ぎない」
 跨堂の蝶に誘われて覗き見をした真場と道神のやり取りが思い起こされる。確かに、積極的に道神があの暗闇を拡大させようとしていた節は見受けられない。けれど、それならばそれで、わたしは道神の目的が気に掛かる。
 道神が「意味を得るために」といった言葉をわたしは忘れていない。
 世界の外へと向く道を作ることで、道神が得る意味は何なんだろう?
 ともあれ、今は道神の目的については二の次だ。そして、道神の説明に対して抱いた疑問を問うべき相手も真場なのだろう。当面の道神の目的が「俺達」という言葉に集約され、真場に左右されているのであれば、答えを問うべき相手は道神ではない。
「だったら、真場さんと話をさせて貰っても良いですか?」
「別に構わないと思う。……案内しようか?」
 わたしは一度、答えを躊躇った後、引き返せないことを覚悟しながらはっきりと答えた。
「お願いします」
 次の瞬間、道神の右手が空を切る。それが記号を生み出すための挙動だと解ったのは、目の奥に確かなゴワゴワ感を感じてからだった。その度合いは非常に薄れたものの、それは確かに幾度となく味わってきた例の感覚だ。
「待って!」
 張り上げたわたしの言葉に道神が制止する。それは目映いほどの光量を持って発光する記号を床へと表示させた状態で、簡単に「解った」と、後戻りができる状態だとは思えない。
 それでも、わたしは要求する。北原を大樹の根元に残したまま先に進むつもりにはなれない。まして、真場がいたあの暗闇の世界がこの倉元山植物園の園内だとは思えない。
「一度、倉元山植物園の中央にある大樹まで戻って、わたしの友達を……」
「そんな時間はないかも知れない」
 わたしの要求を途中で遮って、そう切り返した道神は眉間に皺を寄せていた。そこには焦りの色も滲む。
「どうして?」
「この声は君が跨堂と呼ぶ男のものじゃないのか?」
 わたしは道神がいう「男の声」を聞き取ることができない。だから、怪訝な表情で道神を見返すけれど、道神が操る記号の上に光の輪郭が浮かび上がって確かな形を取るようになると、微かに人の声が聞こえた気がした。
 耳を澄ましていくと、それは確かに跨堂の声だった。何を言っているのかまでは解らないけれど、わたしはその声を聞いた瞬間、顔を強張らせる。真場がそうして見せたように、険しさなんてものを滲ませたかも知れない。
「真場と接触しているみたいだ」
 わたしは当惑するのを隠せなかった。
「俺は真場の元へと進む、君に後をついてくるつもりがあるのならば付いてくればいい。ただ、ここにいない誰かを途中で拾っていく余裕はない」
 そう断言されて、わたしは押し黙る。簡単に引き下がるつもりはなかったはずだけど、道神の言葉の節々から滲む緊急性を確かにわたしも感じている。まして、跨堂を知らない道神から見れば、得体の知れない「観測者」と真場とが接触しているのだ。真場を北原や三倉に置き換え、わたしが道神の立場だったなら同じ科白を口にしたはずだ。
「俺は先に行かせて貰う」
 道神が宣言する。わたしが決断できないでいるのを、これ以上待っていられないと思ったのだろう。
 道神は記号の上に浮かび上がった光の輪郭を潜ると、この場から掻き消えた。
 それは道なのだろう。それは道神がいったような「世界の外へと向く道」の、その一種に分類されるのかも知れない。そして、それは道神という記号を操る主がいなくなったことで、途端に大きくその輪郭を歪め始めた。
 これ以上、迷っている時間は残されていないらしい。
「北原、もし約束の一時間で帰ってこれなかったら、カフェ・ハーティーブでケーキバイキングでも何でも奢るよ!」
 わたしはここにいない北原に向けそう弁明の言葉を口にすると、歪み始めた光の輪郭の中へと飛び込んだ。
 光の輪郭の中は跨堂の蝶に誘われた未来視の夢の中で訪れた地下道に、非常に良く似た空間だった。終わりの見えない通路が前後に続いている構造がまずあの時の地下道そのままであるし、横幅や高さというものも大体これぐらいだった気がする。仕切りを間に挟んで隣接する地下道があるのも同様で、一定間隔で蛍光灯が設置される構造も全く一緒である。
 では何が異っているか?
 端的に言うと、それはこちらの方が「人の行き来をする道」という感じがすることだ。人が行き来することによって生じる床の汚れや、コンクリート剥き出しの壁に描かれた落書きなどがそうだ。特に踵が擦れることによって生じる汚れはリアルで、この地下道を無数の人が行き来していることを予感させた。
「!」
 そんな通路の前方に道神の姿を見付けて、わたしは走る。
 未来視の夢の中での一件が脳裏を過ぎり、わたしはここに取り残されることに対する強い不安を感じた。声を張り上げて道神の名前を呼び、わたしは自分の存在をアピールする。
「道神さん!」
 声の逃げ場のない通路という特性上、うるさいくらいに反響したわたしの声に道神はあっさりと振り返った。けれど、その足を止めてわたしが追いつくのを待ってくれるつもりはないらしい。
 結果、わたしはスピードを緩めることなく道神の後を追うことになる。
 そうやって道神の後を追う道の途中、不意に跨堂と真場のやり取りが耳に飛び込んできた。「どこから聞こえてくるのだろう?」と耳を澄ませてみても、それがどこから聞こえるのかは定かではない。ただ、それはこの地下道全体に響き渡る形で、特に意識をせずともはっきりとその内容を聞き取ることができた。
「流出したいくつかの記号を、安定性の何たるかをも考慮せず書き連ね発動。立てて加えて、危険を全く顧りみない不完全なツールの使用。……どこかから必死になって掻き集め、必死になって解読したんだろうけど、酷いものだね」
 いつもの「まるでそれが当たり前」とでも言わないばかりの口調を見せる跨堂の言葉だった。
 しかし、今回に限って言えば、それは相手に明確な侮蔑の意思表示をしたようにも聞こえた。
「それでも、これぐらいのことはできる。良い証明になるだろ?」
 真場も真場で、跨堂に対して挑発的な言葉で反論をしていた。
 そのやり取りを聞いてわたしが思ったことは「跨堂と真場は初対面ではないのかも知れない」ということだ。
「安定しているのが不思議な状態だよ? いつ決壊してもおかしくない」
 跨堂がそう指摘すると、すぐさま真場が反論をする。
「ある程度の経験則を踏まえてやっている、……簡単には壊れないさ。それに、もし壊れたとしても、対処できるだけの知識も得た。数多くの犠牲者の下に蓄積された知識だけどな」
 節々に棘を含めた攻撃的な真場の口調は、その犠牲者の存在が跨堂ら「観測者」に起因することを想像させる。実際にはどうだか解らないけれど、跨堂がその言葉に反論しないから、わたしはその思いを強くする。
 道神の言った「最初にこの世界の外へ向く道を作り始めたのは観測者」という言葉が脳裏を過ぎった。
 ともあれ、そこには互いが互いの様子を窺うかのような静寂の間が生まれる。
「……なぜ、改良版の配布を止めた? 何の説明もない」
 その静寂を切り裂いたのは真場である。そうやって口を切ってしまえば、堰を切ったように真場は言葉を続けた。
「バージョンアップできなくなったのか? それとも改良を続けながらその配布を行わず、俺達を切り捨てたのか? いや、改良できなくなったわけがない。俺達が手にいれることのできた、いくつかの流出したと思しきものは明らかに修正の手が加えられたものだった」
 跨堂に問いをぶつける形式を取ってはいたが、真場が跨堂に口を挟むだけの時間を与えることはなかった。
 また、跨堂の方も強引に口を開いてどうこうというつもりはないらしい。黙って、その話を聞いているようだった。
「なぜだ? なぜ、改良版の配布を止めた? 究極的にはお前達も全て移行させるつもりなんだろう? だから、ばらまいた。被験者の総数を、絶対的なn数を増やすために。……違うか?」
 問いをぶつける真場の連続的な言葉が途切れる時を見計らっていたかのよう。跨堂が口を開いて、真場の主張に対する回答をする。
「僕はただの観測者。なぜ、それをばらまいたかなんて知る由もないし、仮に君の言うことが全て本当だったとして、どうして改良版の配布を停止したのかも知らない」
 それは跨堂が答えを知っていることを前提として一方的に話をした真場に対して、その答えを知る由がないと一蹴した形だ。
 そこに真場は鋭い指摘を加える。
「けれど、お前は改良版を享受する側にいる」
「……」
 跨堂はその指摘に対して反論を口にしなかった。それは真場の指摘を肯定したに等しいように思える。それは即ち改良版の配布を止めたことに対し、跨堂が何らかの事情を知っていることを想像させる。改良版の配布が行われていないのに、その改良版を跨堂が享受しているのなら、何かを知っていなければおかしな話だ。
 そして、真場は続ける言葉でこう言った。
「お前達はオリジナルじゃない」
 それが何を意味したものかは解らないけど、跨堂は口を噤みそこには僅かな沈黙が生まれる。
「俺達と同じように、オリジナルじゃない」
 真場はそんな言葉で跨堂を畳み掛けていた。
 相変わらず、跨堂は黙ったままで反論を口にしない。それは即ち跨堂がオリジナルではないことを肯定しているかのように映った。痛いところを突かれて押し黙る、そんな風に思えるのだ。
「……これはあくまで僕の推測だけど、まだ下準備を整えている段階なんじゃないかな。これだけの大掛かりな仕組みを実行しようとしているんだよ。それも、これは根本から世界の常識を覆す大変革になる。長期的な検証を必要とするのは当然じゃないかな?」
 それは真場が投げ掛けた質問に対する答えとなり得る跨堂の推測だ。
 跨堂はどんな顔をして、その推測を口にしたのだろうか。真場に詰め寄られたからと言って、答えるべき必然性などなかったように思える。まして、わたしに対して見せた態度で、自分勝手に話を進めてしまうことだってできたはずだ。
 それなのにも関わらず、そうやって跨堂が「僕の推測」なんて形を取って答えたことで、それが真場の質問に対する答えだという印象は非常に強かった。一連の経緯を追っていけば、跨堂が知っているべき「何らかの事情」と受け取るのは簡単だ。事実、その推測を、投げ掛けた質問に対する「答え」だと、真場は受け取ったようだった。
「だからって、狭い世界の範囲の中に俺達を置いてけぼりにするのか? お前達だけが、……選ばれた一部の連中だけが果てのない茫漠な世界に飛び出していけるのか? そして、お前達だけが来るべき大災害を乗り越えるのか?」
 そんな真場の詰問を境に、真摯な受け答えを見せていた態度を一転させ、跨堂はその声色に諭すような調子を載せる。
「君らの言い分も解らない訳じゃないけど、これらは先駆者でもない君らがやっていいことじゃないよ」
「何の手出しもできない観測者風情がでかい口聞くんじゃねぇよ!」
 そうやって、諭されるように批判されたことが余程気に食わなかったのだろう。真場は感情的に切り返す。
「そこで、手を拱いて見てればいいさ」
 そう言い放つ真場に、跨堂はあっけらかんと言う。
「ああ、そうさせて貰うよ。君に引導を渡すのは僕じゃない」
 二人の対応は非常に対照的だった。
 そして、端から見ていれば、その立ち位置は双方が逆にあるように見えて仕方がなかった。「未来を変えたい」はずの跨堂の方が焦っていて然るべきなのに、窮地に立たされているように見えるのは紛れもなく真場の方なのだ。
 既にわたしはどちらが正しいとは言えなくなっている。道神の言うように、確かに跨堂も「この世界の外へと向く道を作る側」なんだろう。跨堂と真場のやりとりを聞いた上で、わたしはそう結論づける。
 ふっと気付けば、道神はわたしの眼前で立ち止まっていた。
「わわッ!」
 立ち止まっていた道神へと追突しそうになって、わたしは頓狂な声を挙げて後退る。
 わたしの傍観者としての立場はそこまでだった。
「このドアの先に真場と観測者が居る」
 通路の壁にはドアなどない。何が描かれているのか理解できない落書きがあるだけだ。
 落書きの描かれた通路の側壁と道神とを交互に見返した後、わたしは訝しげな顔をする。
 そんなわたしの目の前で、道神は腕を振り上げ記号を操作した。
 ざらっと後頭部を何かが撫でていくような感覚の後、僅かな目の奥のゴワゴワ感がわたしを襲う。ただ、それは一番最初に味わったものと比べ、本当に微少なものだ。……逆にそれが恐ろしくもある。
 落書きの描かれた側壁にうっすらとドアが浮かんできて、わたしは苦笑いを滲ませた。これは未来視の夢の中じゃなく、全て現実なのである。
 ともあれ、今はそんな思考に囚われて行動するのを躊躇うわけにはいかない。
「道神さん。これ、返します。わたしが持っていても使い道がないものですし、これで何ができるのかも解りません。道神さんが有効に使ってください」
 向里山の社から持ち出した杖を差し出すけど、道神は受け取ることを躊躇う挙動を見せる。結局は渋々という形でそれを受け取ったけど、それっきり道神は黙り込んでしまった。何か、思うところがあるのだろう。
 そんな道神を前にして、先に進むことに不安を覚えるけれど、ここに立ち止まっていても事態は改善されない。
 ドアを蹴りつけ、わたしは叫ぶ。
「跨堂彰史!」
 扉は元々壊れていたのか、それともわたしの渾身の一撃で壊れたのか。ともかく「ギイイィィ……」と酷い軋みを響かせたかと思えば、ズドンッと一つ大きな音を立てて床に倒れた。
 尤も、その扉だったものはわたしの身長よりも大きい。それが床に勢いよく突っ伏した時に発した音にしては「大きい」ものだと言えないだろう。
 その理由はすぐに解った。床にはまるで絨毯でも敷かれているかのように、緑色の苔が敷き詰められていたのだ。それがクッションの役割を果たしたのだろう。
「本当にここまで来るとはね。……紀見には驚かされてばかりだよ」
 真っ先に声を挙げたのはわたしに名前を呼ばれた跨堂で、真場は突然の闖入者に様子を窺うスタンスに徹するようだ。
 わたし、跨堂、真場、道神と全ての面子がそこに揃っていたけど、真っ先にわたしの目に飛び込んできたものはこの場所についての情報だった。
 そこは窓のない長方形の部屋だった。倉元山植物園ほどではないにしろ天井は高く、横幅も広いことから部屋というよりかは多目的ホールなどといった方が適当なのかも知れない。ただ壁や床や天井には塗装が為されておらず、コンクリートが剥き出しになっている。床にはところどころ苔が茂っていて、どこかから水が湧き出していることを想像させる。
 一見すると、ここはあの地下通路から繋がっている多目的ホールのように見える。
 わたしが言った「あの地下通路」とはついさっき歩いた方の、側壁に落書きが為された方の地下通路を指す。けれど、それも恐らく「ただの錯覚なんだろうな」と思った。
 順を追って考えていくと、地下通路とこの多目的ホールとの相対的な位置関係がおかしいことにもすぐ気付かされる。
 仮に、この多目的ホールと地下通路とが繋がっていたとする。そうすると地下通路はこの多目的ホールを避ける形を取っていなければならない。地下通路のどこまでも直線的に続くという構造は成り立たない。
 振り返って確認するとそれを証明するかのように、そこにはドアの残骸こそあれ、地下通路へと続く肝心の穴がない。ドアがあった場所に存在していて然るべき穴がないのだ。ただただ、そこにはコンクリートの壁がある。
「……道神さんの案内がなければ、ここにはこれなかったと思うけどね」
 それは謙遜でも何でもない。道神の案内がなければ、ここに辿り着くのは難しかったと思う。
 仮に何らかの方法で地下通路まで行けたとしても、この多目的ホールまでは辿り着けなかったと思った。恐らく、わたしの蝶に道先案内を頼んでも、辿り着けなかっただろう。多分、わたしの蝶は記号の操作によって始めて進むことのできる道を案内することができない。未来視の夢の中と、現実と、それぞれ倉元山植物園を歩いてみた上での推測だ。
「それは問題じゃないさ、どんな手段を用いたにしろ紀見はここまでやってきた。そして、紀見が行動を起こしたからこそ、僕はここに来ることができたんだ。ここに来ることでそれ相応に有意義な時間を持つこともできた、ありがとう」
 その言い回しは「既に未来が変わった」とでも言わないばかりだ。
 形として跨堂に感謝の言葉を口にされたけど、わたしは喜ぶ気になれない。上手く唆されたという印象は否めないし、道神との接触によって生まれた跨堂に対する不信感もある。
 そんな跨堂の回りを浮遊する蝶はハタハタと羽ばたきながらその形を失い始めている段階だった。
 ボロボロと崩れ落ち、まるで空に溶けるかのように消滅する様子をその目の端に捕らえながら、わたしは言葉を失い呆然と立ち竦む。真っ先に瞳の中へと飛び込んできたのがそうやって形を失い始めた跨堂の蝶の一匹に過ぎなかったから、当初は気がつかなかったのだ。
 跨堂の回りにはそれこそ数十という数の蝶が羽ばたいていた。跨堂にピントを合わせようとすればする程、その総数の膨大さに気付く格好になって、わたしは顔を顰めた。
 不意に真場が声を張り上げる。
「道神、出番だぜ!」
 それはわたしの背後にいる道神へと呼び掛けたものだ。
 跨堂にわたし、供に慌てて道神の方へと向き直るけれど、道神は真場の呼び掛けに答える風にも見えなかった。
「……」
 及び腰といった態度を見せる反応の悪い道神に、真場は再度声を張り上げて要求する。
「道神!」
 道神はその手に握り締めた杖を眺めていた。向里山の社から持ち出した杖に落とす目に灯る色は躊躇いであり、その真場の呼び掛けに答えるべきかを迷う葛藤が見え隠れする。そうして真場に向き直ることなく、道神は答えた。
「まだ下準備が整っていない。今の状態では制御できない」
 それはどうにか喉の奥から引っ張り出してきた建前の言葉に聞こえた。いや、真場の要求に物理的に応えられない状況を説明した言葉といえばいいだろう。
 そして、そこに付け加えて続けた言葉こそが道神の心情的に真場の要求に答えられない理由だっただろう。
「それに、まだそうするべき時期ではないのかも知れない。どんなに言葉を取り繕ってみても、不完全は所詮不完全に過ぎない。今いる迷い人を助けるために、新たな迷い人を増やすというやり口は極端な話だ。他に方法がないのであれば、それもやむを得ないことと思ったけれど、不完全ではないやり方が見付かる可能性が生まれた」
 道神はその目にわたしを捉えた後、真場へとそんな言葉を向ける。
「そう、まだ時期尚早なんじゃないかな。きっとみんな必死になって調整している段階なんだよ」
 続けて、跨堂が軽い口調でそう真場に言葉を向ける。
 真場の表情は苦虫を噛み潰したような酷いものになる。それは怒りに震えるというよりかは無念さや苦悶の色合いが強いように見える。
 押し黙る真場を尻目に、跨堂は道神へと言葉を向ける。
「また、あなた達か。……道神さんと呼べばいいかな? どうしてこいつらに荷担するの?」
 それは跨堂という個人ではなく観測者としての立場で話をした言葉なのだろう。
 道神の言葉を信じれば、跨堂と道神は今回が初対面であるはずだ。だから、跨堂が個人の立場で話をしているのなら「また」という言い回しはおかしい。
「お前達のやり方に問題があるとは思わないのか?」
 対する道神も跨堂を指して「お前達」という言葉を使い、お互いが自分の属する集団として話をしているんだろうと思った。そういう事情もあって、わたしはそこに何かしらの言葉を挟めないでいる。
「一方を取り持ち担ぎ上げ、他を排撃するそのやり方で、大半がくたびれた我々の種族としての命運が決まるのであれば、お前達によって与えられる栄光に縋り付こうとも考える。例え、それが力尽くで引きづり出したものであってもな」
「彼らは不正なものを作り出そうとしているに過ぎない。そんなものに荷担しても排除されるだけだと解りませんか。くたびれたとは言え、仮初めにも古い時代からずっと、ありとあらゆる道を司ってきた存在でしょう?」
 それはまるで「恥を知れ」とでも罵るかのような口調だった。声を荒げるようなやり方ではないけど、節々には棘が鏤められていて、聞いていて気持ちの良いものじゃない。
 対する道神にしても一歩も引く様子はなかった。
「それが正規か不正か、それは大した問題ではない。一度、確立してしまえば、形振り構わず宣伝して回っても構わないんだ。お前達に見捨てられた迷い人は喜んで歓迎するだろう。そうなれば、一度、周知となったものの存在をお前達が簡単に取り除くとは思えない。そこに妥協も生まれる。お前達がいう不正によって生まれたものとて、それがデファクトスタンダードになり得るのであれば、正規のものとして受け入れざるを得なくなるかも知れない」
 けれど、そんな道神の推測に、跨堂は苦笑いを零した。言い合っていた言葉がすとんと途切れる。
「風の噂に聞く限り、彼らはそんなに簡単な連中じゃないみたいだけどね」
 それは真場とは違う側の「道を作る勢力」に対し何かしらの情報を跨堂が持っていることを明言したに等しいものだ。そして、真場と道神の推測を都合の良い楽観視だと切り捨てた言葉とも受け取れた。
 跨堂の言葉に出現した「彼ら」に対して、その詳細を要求する道神の鋭い目付きが向く。わたしもその詳細が跨堂の口から説明されることをじっと注視して期待する。
 けれど、跨堂はさらりと「彼らについては詳しく知らない」という趣旨の言葉を続けた。
「僕は道神さん達がいう「外の世界に向く道を確立しようと行動している組織」に属すものじゃないよ。……ただの観測者、未来視の能力を持つ人達を眺めながら、同時にどこそこに「違法な道が生まれたみたいですよ」って、片手間で報告をしているだけのね」
 一概に空惚けていると断言できない掴み所のなさが厄介だった。「嘘を吐くな!」と攻めるに攻めれず、まして「知らないのなら仕方ない」と諦めるに諦めきれない。
 誰もが口を閉ざしてしまって生まれたそんな一時的な沈黙の中にあって、不意に道神がその目の色を変えた。
 何事かとその視線を追うと、真場が記号を操作し壁際に光の輪郭を作り出す光景が飛び込んでくる。
「真場!」
 わたしが口を開いて真場の名前を呼ぶよりも早く、その名前を呼んだのは道神だ。
 真場はゆっくりと道神へと向き直ると、そこに微苦笑を滲ませる。
「そんな顔をすんなよ、道神。なに、ここで今生の別れというわけじゃない。……今は俺に協力する気になれないって言うだけだろう? 状況が変わったんだ、仕切り直しもやむを得ないさ」
 まるで大したことでもないかのように真場は話した。けど、一方の道神の表情にはその苦衷が見え隠れする。今になって立場を翻したことで、真場に対して色々と思うところがあるのだろう。
「……」
 俯き押し黙る道神に真場が言葉を続ける。
「また、顔を見せに行くさ」
 道神は心底申し訳なさそうに答える。
「すまない」
 それはどうにか喉の奥から絞り出したてきたかのような言葉だった。
 そんな道神の様子を前にして、真場は満足そうに頷くと困ったように一度笑った。そこに立場を翻した道神に対する怒りだとか、不満だとか言った感情は微塵も感じられない。真場はくるりと踵を返すと、光の輪郭へと足を向ける。
 道神の様子を前にして、そこに口を挟むことをわたしは躊躇っていた。けれど、今、口を挟まないと真場をこの場に留めることは出来ない。すぅっと息を呑むと、わたしは制止の言葉を口にする。
「待って!」
 実際にその声が響き渡ったのは真場が光の輪郭の中に消えるか消えないかの瞬間だ。状況としては少し真場を制止するのが遅かった形で、真場はわたしの方を振り返ることなく光の輪郭の中に姿を消した。
 光の輪郭は真場という制御者を失って、すぐにその形状を歪ませる。
 わたしは慌てて、その後を追おうと体勢を取る。そんなわたしの前に立ちはだかったのが跨堂だった。
「真場を追ってどうするの? まさか、紀見も不正な道を作る側に回ろうって言うの?」
 影の差す表情に、わたしを射抜く鋭い目。今までわたしに見せたことのない不穏な表情を見せる跨堂に、わたしは気圧される。けれど、そこに立ち止まるつもりはなかった。
「そこをどけて」
 わたしは跨堂に負けず劣らずの鋭い目付きと強い口調を持って要求するけど、跨堂はそれに臆する様子の一つも見せない。いつの間にか跨堂の不穏な表情は掻き消えたけど、いつもの態度に人当たりの良いいつもの笑顔がそこにはある。
 そして、跨堂はまるでわたしを諭すような口調で、一つの提案を示し出そうとする。
 ただ、わたしには黙ってその提案の終わりを待つつもりなど無かった。
 光の輪郭は大きくその原型を歪めていて、いつ掻き消えてしまってしまってもおかしくなかったからだ。
「もしも、紀見がこの世界の外に興味を持ったなら……」
「そこをどけて!」
 勢い余ってわたしは跨堂を突き飛ばそうと手を突き出す。
 その瞬間、跨堂の形が歪んだ。
「!!」
 わたしとしてはそうやって手を突き出すか突き出さないかの瞬間に「突き飛ばすことなんてできないんだった」とハッとなった格好だ。だから、跨堂の形がぐにゃりと歪んだことに驚きは隠せなかった。
 そして、ぐにゃりと歪んだ跨堂はまるで派手なアクション映画のやられ役のように、宙を舞って飛んでいく。ドゴンッと鈍い音が響いたかと思えば、跨堂は背中から壁に打ち付けられていた。コンクリート剥き出しの壁へと叩き付けられた跨堂は何事もなかったかのようにきちんとした姿形に戻っていた。
 跨堂は顔を顰め、自分の身に何が起こったのかを理解できていないように見える。ただ、突き飛ばされた痛みだとかそういったものは確かに感じているようで、その顰めっ面は一気に険しさを帯びた。
 ただ、そんな跨堂の見慣れない表情も一瞬で影を潜める。
 惚けたような表情を間に一つ挟み、跨堂はさも楽しくて仕方がないという風に、高らかに笑い声を響かせた。
「……はは、はははは! そうか、記号なんかに頼らなくても影響を及ぼすか」
 そんな場違い感たっぷりの笑い声と、跨堂を突き飛ばしたという事実にわたしは当惑する。尋常ならざる力で跨堂を遠く離れた壁際まで吹き飛ばしたことだとか、色々なことがごちゃ混ぜになってやってくる。それは思考に絡み付いて、回転速度を低下させる重みになる。わたしは首をぶんぶんと左右に振ることでそれらをどうにか振り解いた。
 今は立ち止まっていられないのだ。
「やっぱり、紀見は凄い。これがオリジナルか!」
 まるで「よくやった」とでも褒めるかのような口調で跨堂は話していた。尤も、それはわたしに向けたものなのか、わたしを通してその向こう側にある「オリジナル」と跨堂が称したものに向けたものかは解らない。
 唐突に、跨堂が眼前に手を翳す。それは記号の発動を予感させる挙動だ。
「彼らに何を吹き込まれたのかは知らないけど、僕は観測者として紀見に間違った道を進むかも知れない選択肢を与えるわけにはいかない」
 跨堂は何が何でも、わたしに真場と直接対話をする機会を与えさせないつもりに見える。逆にそういう態度がわたしに「後ろめたい何かがあるのかも知れない」という疑惑を植え付けている。
 尤も、興奮覚めやらぬといった状態の今の跨堂にそこまでのことを考える余裕があるようには見えない。
「それはわたしが決めること、少なくともあんたに指図されることじゃない! ……忠告としてなら聞くぐらいはしてあげるけど!」
 躾に厳しい家庭の厳格な父親が「あれは駄目だこれは駄目だ」と指示をするかのような態度に、わたしは反発する。しかも、それも結果としてわたしから「何が正しいか」を判断する材料を奪い取ろうとしているに等しい。例え、結果として跨堂が正しいのだとしても、わたしは一方的に結論を突き付けられるのは嫌だと思った。「跨堂が正しかった」という結論を、わたしはわたし自身の手で導き出したい。
「そうか、……でも、観測者としては手を拱いて黙って見ているわけにはいかない。ちょっと怪我をすることになるかも知れないけど、記号で作った不完全な隙間が掻き消えるまで、全力で邪魔をさせて貰うよ」
 わたしはその跨堂の言葉に不穏な空気を感じ取る。いつもの人当たりの良い笑顔を湛えていたけど、逆にそれがわたしに物恐ろしさを覚えさせた。自身の立ち位置を「観測者として」と、わざわざ口にしたこともその物恐ろしさの程度を引き上げた。相変わらず、観測者というものがどんな目的を持っているのかは定かでない。けれど、その物言いは個人的な感情を排した上で、ある基準に沿って冷徹に物事を処理すると宣言した風にも受け取れる。
 すぐさま、その不穏さを感じ取り、わたしは真場が記号によって作り出した道へ向かって走り出す。
 瞬間、地面に罅が走った。バンッと何かが破裂するような音を一つ間に挟んで、わたしの行く手には隆起と陥没が生まれる。足場は一気に不安定になり、走るに走れない状況に追い込まれる形だ。それどころか、わたしの眼前には天井付近まで隆起した地面が立ち塞がる。
「うっ、わっと!」
 跨堂が翳した掌の前には複数個の記号が並んでいた。
 わたしの目の奥を襲うゴワゴワ感。恐らく、それらは今までわたしが一度も見たことのない記号群なのだろう。
 わたしは進行方向に立ちはだかった障害に立ち止まる。咄嗟にどうするべきかの判断に迷い当惑するわたしの横には、いつの間にか道神が立っていた。
「道神さん!」
 わたしに名前を呼ばれ、道神はちらりとわたしを横目に捉える。けれど、すぐにその目は聳えるほどに隆起した地面へと向いた。
 その手には返却した杖がしっかりと握られている。道神はその杖を天井付近まで隆起したその障害へと突き付ける。瞬間、パンッと鳴る短い破裂音の後、それは粉々に砕け散った。
 破裂音に思わず、目を背け身構えたけれど、こちら側に土塊が飛び散ってくることもなかった。
「俺が観測者を押し止める」
 そんな道神の言葉に目を開くと、隆起した床が粉々に砕け散った向こう側の光景が飛び込んできた。地面の陥没や隆起が発生してはいるものの、それは進めない程酷いというわけじゃない。
「でも、真場さんが作った道が……」
 光の輪郭はわたしの握り拳程度の大きさまで縮小してしまっていた。とてもじゃないけれど、わたしがそれを潜って真場の後を追うのは不可能に見える。
 その縮小した光の輪郭に向け、再び道神が杖を翳した。すると、光の輪郭は一気に真場が記号によって作り出した直後の形状を取り戻す。
「真場と話をするんだろう? 全て応急処置に過ぎない。急げ、そう長くは持たない」
 道神にそう急かされるけど、わたしはじっと道神の横顔を見ていた。
「どうして協力してくれるんだろう?」
 根底にあるのはそんな疑問である。
 道神はすぐにそんなわたしの視線に気付いた。そして、わたしの方へと向き直ると、その疑問に対してこう答える。
「……案内すると言っただろう?」
「ありがとう、ございます。道神さん」
 想像だにしていなかった道神の言葉に戸惑いながら、そんな辿々しい感謝の言葉をどうにか喉の奥から引っ張り出す。その場でぺこりと頭を下げると、わたしは光の輪郭へ向かって走り出した。
 そこに響き渡るのが跨堂の声だ。
「道を司るものとして衰退したあなた方に、僕を押し止めるだけの力があるの? 痛い目を見るだけだよ、無駄なことはしない方がいいんじゃない?」
 邪魔をするなら力尽くでも排除する。
 そう言わないばかりの跨堂の台詞も、道神を怯ませるには内容が伴っていないらしかった。
「お前の本来の能力がどれ程のものかは知らない。けれど、今のお前ではここにそう大きな影響を与えることはできない。この場にあるのはお前の影に過ぎず、ある程度、力が加わる方向性を予測可能な記号に頼っている以上はな」
 跨堂の表情には険しさが灯った。それは道神の言葉が的を射る内容だったからだろう。
 ここに来て道神に向ける敵意を丸出しにして、跨堂は続けた。
「それは道神さんも同じ話なんじゃないのかな?」
「力の拠り所の一つをわざわざ届けてくれたものがいてな。衰退したとは言っても、お前達「観測者」を押し返すぐらいの力はある」
 改めて杖を構える道神に、跨堂はそれまでに見せたことがない程の渋面を見せた。
 横目に捉えられた跨堂と道神のやり取りはそこまで。
 最後に道神の無事を祈りながら、わたしは光の輪郭へと飛び込み真場の後を追った。


 光の輪郭の向こう側に広がっていた空間はそれまでのものと比べて一風変わった空間だった。
 一言でその空間を表現すると、半透明の硝子を幾重にも乱雑に重ね、壁や天井・床を作っているような場所と言えば適当だろうか。ただ、その硝子の厚みや大きさ・形状は様々で、簡単に割れてしまいそうな厚みのものから、人の手では破壊することが難しいと思えるような直方体のものまである。
 尤も、わたしはその空間を構成する物質を「硝子」と述べたけど、それが本物の硝子かどうかをわたしは判断できない。わたしが簡単に割れそうと感じただけで、実際には簡単に破壊できない材質のもので作られているのかも知れない。ただ、それらは偏に硝子のような光沢と手触りを持っていたことだけは確かだ。
 ゆっくりと空間を見渡してその全容を把握しようとするけど、そこはパッと見で空間的な広さを推し量れるような場所ではなかった。それは場所によって天井までの高さや、横幅が異なっているからだ。
 横幅だけで言うのなら、ついさっきの多目的ホール以上の広さはないだろう。けれど、その横幅にしてもある一定の均等な距離が保たれ続けているという保証はない。
 そして、ここは歩くという観点から見て、非常に厄介な場所だった。
 硝子一枚一枚を取ってみれば基本的に平坦であるけれど、それが積み重なることによって凹凸や突起が生じているのだ。立てて加えて、硝子同士は必ずしもぴったりと合致しているわけでなく、至る所に隙間が存在していて、注意して進まないとすぐに足を取られてしまう。
 壁から突き出た突起の下には硝子が存在していない場所もある。
 硝子と硝子の隙間でいえば、わたしが落下するに足る幅と奥行きを持った隙間も無数にあった。それは即ち「落とし穴」といってもいいだろう。しかも、それは縦方向の隙間に限定されず、壁に存在する隙間にしても同様だ。壁に存在する隙間の方はどこか別の場所に繋がっているような気がして仕方がなかった。
 試しに近くの落とし穴を覗き込んでみる。
 落とし穴の奥には硝子の床の存在を確認できて、取りあえず「果てしなく落ち続けるなんてことがあるかも知れない」と言ったわたしの心配は払拭された。
 もしかしすると「ここは空間的に閉じていない場所かも知れない」と思った。それは足場を確認しながら進むのに困らないだけの光量があるにも関わらず、この空間にこれといった光源を見付けられないことに起因する。空間を照らす光が硝子の隙間から差し込んできているような気がするのだ。
 ともあれ、わたしはそんな一種異様な空間の、遥か前方に真場の後ろ姿を見付ける。
「真場、……さん!」
 ずっと年上だろう相手を呼び捨てにするのはさすがに躊躇われて、わたしは真場を「さん」付けで呼び止めた。道神の時同様にそれは頭でっかちのおかしなイントネーションとなる。
 真場はわたしの声に振り返ると、今まさに段差を踏み越えようとしたその足を止める。
「後を追ってくるとは驚いたな」
 驚いたと口にしながら、真場の表情にその驚いた様子を窺うことはできない。それは真場の中に「わたしが後を追ってくるかも知れない」という考えがあったことを予感させる。
 真場は逃げるでもなく、わたしに敵意を向けることもなかった。まるで後を追ってきた理由を問い質すように黙ってわたしの一挙手一投足を注視する。
 わたしはすぅと息を呑むと、真場へと向き直った。
「どうして、あんな世界と繋がることを望むんですか?」
「どうして、狭い世界で満足するんだ? 行き交う範囲を定められた、限界のある世界でどうして満足する?」
 わたしが広大だと感じた世界に対し、真場はこの世界の狭隘さをすぐさま切り返す。
 わたしはその問いに答えられない。「答えを導き出せない」と言った方が適当だろうか。
「……あんな世界に出て行くことができるようになったら、みんな途方に暮れちゃうよ」
 わたしはこの世界の外へと向く道が確立されることに対する不安をそんな言葉で表現した。
 みんなという大層な言葉を使ったけれど、わたしが思い浮かべた顔も所詮は身近な面々ばかりだ。
 きっと、真場の企みがわたしの大事な誰かに影響を及ぼす危険性がなかったのなら、わたしはそれを黙って看過したかも知れない。なにせ、わたしは正義の味方じゃない。
 ただ、それでも真場一人の損得勘定で「大多数の無関係な人間を巻き込んじゃいけない」なんて主張を口にすることぐらいはできる。未来視の夢の中で、真場がその矛先を向けた相手は不特定多数の無関係な人達だと、わたしは認識している。まずはその理由が知りたかった。正当な理由がそこにあったからといって、わたしがそれを看過するとは思えないけど。
「それを完全に制御できるようになったなら、どうだ? 進んではならない範囲と、進んでも問題のない範囲を区別し、完全な仕切りを作るものが存在してくれたのなら、どうだ? 道標があって誰もが迷わず行き来できたなら、どうだ?」
「例え、完全に制御できたとしてもだよ、真場さん。外の世界とやらに向く道は行きたい人が行けばいい。大多数の人達はきっと、そんなもの必要ないって思うよ」
 真場はわたしの言葉をただ黙って聞いていた。必要ないといったわたしの主張に対して、反論することもない。
 腕を組む格好で不敵な笑みを湛えて、じっとわたしを見据える真場が一体何を考えているのかはわたしには解らない。ただ、わたしから何かアクションが発せられるのを待っているように見える。
 そう言う経緯もあって、わたしは続けざまに真場へと質問をぶつけた。
「……そもそも、そんなことができるの?」
「完全に制御できるかどうかは解らない。いや、正直に言えば疑わしい」
 真場はわたしの質問に対し「いいえ」と明瞭に答えるけれど、その後に補足を付ける。尤も、そうでなければ、真場自身が言った「完全な制御ができたら」という前提条件が崩れるのだから、その補足が続くことは必然だろう。
「ただ、それをやろうとした奴がいて、世界は繋がってしまった。……そうだ、もう繋がっているんだ」
 そう言い直した真場の言葉に、わたしは顔を顰める。
 真場がやろうとしていることの一つの確かな側面を、わたしは真場が言い直した言葉から理解した気がした。即ちそれは「繋がってしまった」という事実を「それがスタンダードであること」へと推し進めようとする行為だ。
 その真場の試みが何度目なのかはわたしには解らない。けれど、真場はマイノリティーであるという状況から、それがメジャーであるという状況へと切り替えようとしているんだと思った。
 そうして、あわよくばそれを完全に制御する。
「では、その理由は?」
 結局はそこに辿り着くのだけど、わたしの思考は「外の世界へと向く道」を最初に創ろうとした連中へと向いた。「奴ら」という口汚い言葉で道神が括った連中だ。
「……それを実際にやっちゃったのが、観測者?」
 それは推測。けれど、わたしの中では限りなく確信に近い推測だった。
 だから、その問いに対する真場の返答に、わたしは驚きを隠さなかった。
「観測者はただの観測者。世界を繋げてしまった連中に関わっているとはいえ、世界を繋げた当事者達じゃない」
 また、わたしの中で観測者というものの定義が曖昧になる。ただ、観測者の目的を真場に問い直すよりも早く、真場は「繋がってしまった」という状況について話を続ける。わたしは観測者に対する疑問を呑み込み、真場の話に耳を傾けた。
「ここで重要なことは「誰かが特別になればよい」というわけじゃないことだ。つまり、行きたい奴だけが行けばいいということには繋がらない。全員が挙ってシフトする、そうなることに意味がある。いや、そうならなければならない」
 真場の「ならない」という強い口調に、わたしの表情は険しさを帯びた。真場がどんな主張を展開するのかはともかく、その内容が正当性を持っているのであれば、この世界の外へと出ていくことは必然と言っているのだ。
 真場を見据えることでその理由の説明を要求するわたしに、真場は明確に答えた。
「なぜなら、いずれ既存の世界の範囲が崩れるからだ」
 自発的に「崩れる」という言い方をした後で、真場は思案顔を滲ませる。
 そして、その言い方が適当でないとして能動的な形に修正する。
「違うな、この言い方も正しくはない。……崩さなきゃならないからだ」
「大災害」
 崩さなきゃならないその理由について、わたしはその心当たりをボソリと口にした。
 直接、その言葉を真場に向けたわけではないけれど、真場は顔色一つ変えずに言葉を続ける。聞こえなかったということはないはずだ。そんな真場の対応が「大災害」という言葉の蓋然性を指し示した気がする。
「そこにあるのは早いか遅いかの違いだけだ。俺はその背中を一つ押してやろうとしている。既に結構な数の迷い人が生まれている上に、今のままでは完全な制御・完全な適応が為される見込みは限りなく低い。だから、俺は今がそうするべきだと思った。現状を打破するためには奴らに大々的な行動を起こさせるしかない。ツールの修正版を配布させざるを得ない状況を作り出すことも含めて、この世界の外へと繋がってしまっていること、それ自体が当たり前である状態にする」
 今いる迷い人を助けるために、新たな迷い人を増やすというやり口。
 道神が真場に向けた言葉が脳裏を過ぎる。
 ともあれ、そこに真場の目的が垣間見えて、わたしは安心した。それを許容できるかできないかはともかく、それは「誰かを救うため」という至極まっとうな内容だ。少なくとも、破滅願望だとか終末思想だとかいった狂ったものではない。
「迷い人って何ですか?」
「この世界の道と、この世界の外へと向く道との境を失ってしまった連中の総称さ」
「……」
 押し黙るわたしに、真場はどこかこのやり取りを楽しんでいるような顔付きを覗かせた。
 そして、こう切り出す。
「逆に一つ聞きたいね。既存の世界の範囲を崩さなきゃならない日、俺や観測者が危惧しているその時が本当に現実として起こるのかどうかをお前は確かめることができるんだろう? これからこの世界の未来がどんな方向へと進むのか、……教えてくれないか?」
 そんな真場の要求は、跨堂相手に話した「わたしの未来視についての見解」をフラッシュバックさせる。そして、わたしは跨堂相手に答えた内容を、半ば反射的に口にしていた。
「わたしが見れる未来なんて限られてる。凄く狭く、凄く限定的なことしか見られない!」
 俯き気味に真場から視線を外したのは内心そう思っていない部分があったからだろうか?
 ……解らない。
「それは見ようとしないからじゃないのか?」
 真場のその言葉を聞いた瞬間「また言われた」と思った。
 跨堂相手に話をした場面が再現されたかのようだった。
「積極的にその蝶を使い、その能力を伸ばそうとしないからじゃないのか?」
 真場は首を傾げるようにして、わたしの動揺する顔を覗き込むかのような体勢だ。
 そもそも、真場がいった「その蝶」という言葉にわたしは違和感を覚える。蝶はわたしの命令に従い、ここに姿を現してはいない。少なくとも、わたしの視界の中に蝶はないし、わたしの周りに蝶の気配もない。それにも関わらず、真場は「その蝶」という、まるでわたしの周りを蝶が羽ばたいているかのような口振りをした。
「……どうして、そう思うんですか?」
 わたしの問いに真場は答えない。
 じっと顔を注視されて、わたしは我慢できずに問い直した。
「どうして真場さんはそう思うの?」
 強い調子を混ぜて答えを求めるけど、真場はやはり答えない。
 わたしはくっと下唇を噛む。既に歯痒いなんていうレベルではなかった。苛々を伴うもどかしさだ。
 そんなわたしを前にして、満足そうな微苦笑を見せる真場がまたその苛々を加速させる。次に口を開いたら、酷い罵詈雑言が意図せず漏れ出そうだ。けれど、わたしはそんなことはお構いなしにすぅっと息を呑むと、感情の赴くままに口を切ろうとする。
「自分だけ全部解っちゃったみたいな顔してニヤニヤされても、正直、気持ち悪いんですけど!」
 今まさに蓄積したそんな言葉の固まりが喉の奥から放たれようとした矢先のこと。真場が口を開いた。
「跨堂はお前のことを素晴らしい逸材だと思っている。あんなにまで気分を高揚させた跨堂は始めて見た。……間違いない。今まで観測してきた中で「最高の能力階層に位置する」と思っているだろう。それがお前の未来視の能力についてのものか。「この世界の外」に対する適応能力についてのものか。それとも、その両方なのかは解らない」
 真場は「両方」という言葉にプロミネンスを置いた。
 それは真場がわたしを逸材だと思っている部分について強調したに等しい。
 当然、わたしは反発する。未来視の能力については肯定も否定もしないけれど、少なくとも「この世界の外」に適応する能力に秀でているなんて冗談じゃない。
「……跨堂は自分の力を蝶を通してわたしが学習したって言ってましたけど?」
 訝るわたしに、真場は苦笑しながら告げる。
「きっかけはどうであれ、俺や跨堂とは全く異なる方法でお前はこの異質な世界に適応している。……自分では解らないかも知れない。ただ、ツールに頼らず適応をした数少ないオリジナルの一人がお前だ」
「真場さんや跨堂は、そのツールというもので、この外の世界に適応したんですか?」
 その問いに真場は明確に答えた。
「そうだ。俺達はツールの過渡期の中で暗中模索をしながら、どうにか不完全な適応を手に入れたに過ぎない」
 その答えの中で真場が跨堂を含めて「俺達」と括ったことにわたしは違和感を覚えた。それは真場と跨堂との間に何らかの関連があることを予感させるには十分すぎる内容だ。ただ、そのことにわたしが触れることはなかった。
 なぜなら、わたしがその疑問を突き付けるよりも早く、不意に真場が口を開いたからだ。
「……羨ましいよ、お前が」
 羨ましい。
 そんな言葉が真場の口から漏れ出たことに、わたしは当惑する。
 真場はすぐにそれが口にしても仕方のない「ないものねだり」だと気付いたようで、自嘲気味に笑った。
「お前には「この世界の外」に対する適応能力がある。ツールに頼る俺達では新たな適応の可能性は極めて低い」
 その言葉を口にすることによって、真場が何を言いたいのかをわたしはすぐに察する。
 不完全な適応状態にある真場が、完全な適応を為すかも知れないわたしへと求めるもの。ツールに頼っていては新たな適応の可能性が極めて低いことを真場は述べている。
 わたしはそれに気付かない振りをした。そして、半ば強引に、話題を逸らした。
「そもそも、論点がずれてますよ。わたしの未来視の範囲が限りなく狭いことについて「見ようとしないから」って、そう思った理由は何なんですか?」
 ただ、話題を逸らしたとは言っても、それはそもそもの本題へと立ち返ったに過ぎない。
 ここに来て、真場はその言葉を口にした理由をあっさりと口にした。
「未来視の能力と「この世界の外」に適応する能力とにどんな相関性があるかは知らない。けれど「この世界の外」に対する適応能力同様に、未来視の力とやらも使用によって伸びるものなんじゃないのか?」
 それはただの希望的観測に過ぎない内容だ。
 だから、わたしはそれを冷たく切り捨てる。
「……そんなこと、わたしは知りませんし、できるとも思いません」
 けれど、そんなわたしの対応に、真場は不敵に笑った。
 そして、その希望的観測にもある程度の根拠があることを示して見せる。
「未来視の観測者の言葉が本当ならば、度合いの幅はともかく、……伸びていくものらしいぞ?」
 藪を突いて蛇が出た。
 そんな事実を突き付けられて、わたしは言葉に窮する。
 俯き押し黙るわたしの様子を前に真場は心得顔で頷いた。
 この話題はここまでにしよう。その挙動で真場がそう言った気がした。
「お前のやり方は本来のあるべき姿の一つだろう。……確かに、時期尚早なのかも知れないな。まだ、既存の世界の範囲を壊す時期じゃないってことか。オリジナルがこの外の世界に対して完全な適応を生み出せるのなら、不完全な手段に頼る理由はない。不完全な手段によって、この世界に中途半端な適応をした迷い人を増やす理由もない」
 真場はしみじみと、その現実を噛み締めるかのように口にした。けれど、それはあくまで「時期尚早である」という認識に過ぎない。結局、時が来たら再び、真場は外の世界へと向く道を確立するべく行動するだろう。
 そして、真場や道神、跨堂がわたしを通して描くオリジナルとやらが完全な適応をもたらさない場合、全ての人間を迷い人とするべく行動するだろう。それが櫨馬市に限定されることなのか、櫨馬を含んだ近隣都市にまで及ぶのか、それとも、この国に生活する全ての人間に及ぶのかは定かじゃない。
「……あんな世界に出て行くことができるようになったら、みんな途方に暮れちゃうよ? 完全な適応っていうのが行われたなら、あの世界でも迷うことがないの?」
 改めて、わたしはそれを真場に突き付ける。それが真場を止めるに足る言葉じゃないのは解っている。
 わたしが跨堂や真場のいうオリジナルだったとして、その「完全な適応」とやらによって何が変わるのかを確認しておきたかったに過ぎない。
「適応は見ることができる、できない。感じることができる、できないの範囲を左右する要因に過ぎない。迷わないとは言えないどころか、より多くを見て感じることができるようになるんだ。……迷うだろうな」
「だったら!」
 さもそれは仕方がないことというような口振りで話すから、わたしは声を荒げて噛み付いた。未来視の夢の中だったとはいえ、あの世界を体験したわたしはそれを仕方ないとは切り捨てられない。
 あの途方のない世界を迷い続けることになるのだ、簡単に食い下がる気にはなれない。案内役がいなかったなら、未来視の夢のように時間制限がなかったなら、思うことは一杯ある。考えれば考えるほど恐ろしい。
 ただ、一連の真場の言動を解釈するに、例え途方に暮れることになってでも出て行かなければならない理由があるわけだ。だから、大災害とやらについて触れて見せて、ことの重大さを引き合いに出され一蹴されると思った。
 けれど、真場はそれについてこう対策を練っているという言い方をする。
「だから、確かな道と、道を司るものを設けようとしている」
 道を司るもの。
「古い時代からずっと、ありとあらゆる道を司ってきた存在」
 跨堂が道神について述べた言葉が脳裏を過ぎる。
 では道神のような人達が何らかの方法で管理をすれば、安全は保証されるのだろうか。次にわたしが覚えた不安はそんな内容だった。とてもじゃないけど、今までわたしが歩いてきた道を管理するなんてことができるとは思えない。
 そんな不安は真場に見透かされたようだ。
 真場は「この世界の外」について、こう付け加える。
「それに、俺達が侵食しようとしている空間は何も摩訶不思議な世界ってわけじゃない。ある一定のルールの下に成り立っている。そして、必ずしも今まで行けなかった世界というわけでもない」
 わたしは真場の言葉を黙って聞いていた。
 真場はこの世界の外について説明を続ける。
「向こう側にいる連中だってそうだ、古い時代の人間が蓄積してきた付き合い方の知識もある。付き合い方を間違わなければ、遭遇した場合の対処法を間違わなければ、何も恐ろしいものじゃない。最近はどうだか知らないが、元々はこちらの世界へ頻繁にやってきては「意味」をもたらしていた存在だ」
「……あれらは何なの?」
 そこで口を挟んだわたしに、真場は明瞭に答える。
「妖怪だとか、異形だとか、神だとか呼ばれるものさ」
 そんな答えが返ってくる気はしていた。けれど、改めてはっきりとそれを言葉にされて、わたしは戸惑った格好だ。
「八百万の神々といった方が正しいのかね。良いものもあれば、悪いものもある。当然、俺達に利益をもたらしてくれるものもあれば、害を為すものもある。……跨堂は教えてくれなかったのか?」
 跨堂は教えてくれなかった。
 そんな答えを返すつもりにもなれず、わたしはその意味を噛み締める。
 途方に暮れることになってでも「この世界の外」へと避難をしなければならないほどの事態。捉えようによっては、それは「この世界の外」以外に避難すべき場所がないと言っているように聞こえる。即ち、その大災害とやらが影響を及ぼす範囲はかなりの広範囲と言うことになる。
「尤も、観測者の目指す「この世界の外」と、俺達の目指す「この世界の外」とが合致するものだとは限らないけどな」
 ここにはない何かへと目を向け、ボソリと呟くようにして口にしたそんな真場の言葉は酷くわたしの印象的に残った。
 それは観測者の真意を真場が理解していないことを述べたようにも聞こえたし、真場と跨堂が「この世界の外」へと向く道に対して協力関係を締結しない決定的な理由を口にしたものにも聞こえた。
 けれど、またしてもわたしがそれを真場に問い詰めることはできなかった。
 ちょうど、わたしがそれを追求しようと口を開き掛けた矢先のこと「パキンッ」と鳴る耳を劈くほどの渇いた音が響き渡ったのだ。まるで罅の入った石膏が剥がれて落ちるように、この世界の至る所に罅が走った形だ。それは幾重に重なり合った硝子の一枚一枚に生まれたものというよりも、この世界そのものに生まれた亀裂のように見えた。
 事実、それらがボロボロと崩れ始めると、崩れた後には漆黒の闇が広がっていた。一番手前にある硝子が崩れて剥がれて落ちたのならば、幾重にも積み重なった次の硝子の層が姿を現して然るべきである。
 何の外圧もない状態でボロボロと欠け落ち始めるようになってしまえば、一気にその崩壊は速度を上げた。
「不完全な適応に、不完全な記号の操作。確かに今の俺達じゃあ、これが関の山か」
 真場はその様子を取り立てて驚いた風もなく眺めていた。その結末は予測できたことなのだろう。
「もう、引き返した方がいい」
 真場の言葉に後方を確認するけど、そこには暗闇が横たわっているだけで引き返す道などない。
「引き返すって、一体どこへ!?」
 そう尋ね直すわたしに、真場は驚いた表情を隠さなかった。
 そこにたっぷり一つの間を挟んで、真場はポロリと零した。
「そうか、お前もまだまだ不完全なのか、オリジナル?」
 そうして、真場は腕を組む格好で思案顔を覗かせた後、困ったように苦笑した。
「それじゃあ、プレゼントだ」
 唐突に、真場はわたしに向けて腕を翳す。そして、すぅっと空を切るように動かしてみせれば、わたしを中心とした円形の空間に数種の記号を浮かび上がらせた。
「なに!?」
 記号にピントを合わせられないでいると、目の奥を襲うゴワゴワ感が再発する。いや、わたしはそれらの記号に触れたことがないのだろう。だから、慣れていないし、ピントを合わせることもままならないのだ。
 尤も、そんな真場の行為の真意を理解することができなかったから、わたしは身構える。身構えたところで何ができるわけじゃないけれど、様々な現象を発動させてきた記号を前に泰然自若でいることはできなかった。
「また会おう、オリジナル。次に会う時はもっともっと「この世界の外」へ適応し、もっともっと広い範囲の未来を見ることができるようになっていてくれよ」
 既にわたしに真場の挙動を確認する余裕はなかった。罅割れは足下の床にまで及んでいて、いつ崩壊が始まってもおかしくはないし、眼前に浮かび上がった記号も朧気ではあるもののその色を変え、今にも発動しそうな状態にある。
 それでもこれだけは言っておかなければならない。
「冗談じゃない!!」
 次の瞬間「パンッ」と鳴る音が響き渡って、足下の床が崩れた。自由落下の感覚はなく、わたしを襲ったものは水の中を漂うような浮遊感だった。眼前の記号からその焦点を真場へと移そうとしたところで、急激な意識の混濁が始まる。視界が闇に染まってしまえば、意識を失うまでそう多くの時間は掛からなかった。
 わたしは浮遊感に包まれながら目を閉じる。




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