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Seen07 学習と侵食


 火曜日の早朝。
 いつもより一時間以上早い時間に家を出て、高校へと向かうわたしの肩にはスキーボードケースが担がれていた。
 昨夜、そのまま杖を持ち歩くのもどうかということになって、杖を収納するのにちょうど良い大きさを持ったスキーボードケースを借りたのだ。
 櫨馬は冬のシーズンを通して積雪する土地だとはいえ、その手のスノースポーツを本格的に楽しめるほどの降雪がある地域ではない。まして、高校の授業にスノースポーツが盛り込まれているなんてことはないし、趣味として楽しむためには片道数十kmと離れた山岳地帯に位置するスキー場まで足を運ぶ必要がある。だから、スキーボードケースなんてものが普通に倉庫の中から出てきたのには正直驚いた。
 そうやって何だかんだと北原と話をして、晩御飯をご馳走になった結果、自宅へと到着した時刻は午後十一時を回っていた。結局、北原の父親の車で送り届けて貰った格好だ。ことは全て北原が描いた筋書通りに進んだ。
「遅くなりそうだったらもっと早く電話を入れなさい」
 一つそんな小言をママに言われたけれど、事前の根回しが効果的に働いて雷が落ちることなく済んだ。
 北原には感謝しなくてはならない。けれど、それと北原を倉元山植物園に案内するのとは別の話だ。
 昨日、今後のことについて北原に詰め寄られた。
 わたしは曖昧に「まだどうするかを決めていない」というスタンスで逃げ切ったけど、このまま北原の攻勢に晒されて落城せずに済ませられる自信はない。だからこそ、スキーボードケースなんてものを担いでわたしは登校しているわけだ。
 わたしは今日の放課後、倉元山植物園まで足を運ぼうと思っている。
 このスキーボードケースを教室の壁際に立て掛けて置くわけにはいかないし、大きさ的にロッカーにも収納できない。クラスメートにこんな大きなものを担いでいたなんて目撃されるわけにもいかない。
 とにかく、北原に勘付かれるような情報が出回ることは避けなければならないし、スキーボードケースが北原に目撃されるなんて事態も避けないとならない。
 まずは鞄を置こうと思って教室へ足を向けたわたしの目に飛び込んできたのは北原の姿だった。
 北原は文庫本に目を落としていて、運良くわたしが登校してきたことに気付いていなかった。だから、肩に担いだスキーボードケースを先に美術用具室へ隠しに行こうと踵を返したけれど、邪魔は思わぬ方向から入った。
「おはよう、紀見ちゃん」
 今まさにその場を後にしようとするわたしの姿を見付けて、そう声を掛けてくれたのはクラスの美化委員を務める端管(はすが)だった。あまり親しくない相手にも気さくに声を掛ける性格の良い子で、勉強に委員会にと頑張る帰宅部所属の奇特な優等生だ。
「あ、おはよう、紀見」
 端管がわたしの名前を呼んだことで、北原は慌てて文庫本から顔を上げる。そして、わたしがスキーボードケースを肩に担いでいるのを確認すると、してやったりと言わんばかりの満面の笑顔を見せる。
 わたしは眉間に手を当て事態があまりにもわたしの思い通りに進まないことに対する苦悩を噛み締めた後、二人に朝の挨拶を返す。日頃の行いは良い方だと思ったけれど、北原が関わってくると何かと思い通りにことが運ばない気がするのは気のせいだろうか。
「おはよう、北原。おはよう、端管さん」
 端管にはたっぷりと恨めしそうな表情をして見せるけど、事情を知らない端管は不思議そうな顔をするだけだ。
「珍しいよね、いつもだったらほとんど遅刻組に混ざって登校してくる二人がこんな朝早く学校にいるなんて、季節外れの雪とか槍とか降らなきゃ良いけど。……もしかして、何かイベントでもあるの?」
 端管はわたしと北原の両方にそのその質問を投げ掛けたんだろうけど、まっさきに口を切って答えたのは北原だった。
「んー、紀見が肩にでっかいバッグを担いでいるし、あるんじゃないかな、イベント」
 最後の「イベント」という言葉にはたっぷり嫌味が塗り固められていた気がするけど、わたしは何も反論できない。
「……どうして、こんな時間に北原がいるの?」
「んー、何かそんな予感がして早起きしちゃったわけよ。甘く見られたものだよね、あたしも」
「……」
 押し黙るわたしに北原が言った。
「大根役者」


 放課後、東櫨馬から櫨馬中央へと電車に揺られ、そこから南櫨馬を通って代栂町へと出る快速電車へと乗り換える。途中、櫨馬学院大学前で快速を降りて、興渡山地方面へと向かう各駅停車へと乗り換える。代栂町羽山丘(よつがちょうはやまおか)駅でバスに乗り換え、近場の停留所までバスに揺られる。そして、近場の停留所からとぼとぼと山道を十五分近く登ったところに倉元山植物園跡はあった。
 立派な入り口の前に張り巡らせれたフェンスを乗り越え、わたしは倉元山植物園跡の敷地内へと侵入する。
 フェンスはあくまで、乗り越えようと思えば乗り越えられる程度の高さしかない。恐らく、本格的に侵入を阻止しようという意味合いで設けられたものではないのだろう。それは「ないよりはあった方が抑止力になる」程度の意図で設けられたものだと思われた。
「昨日の向里山といい、また奇妙な場所に連れてきてくれるよね?」
 わたしに続いてフェンスをよじ上る北原がそんな感想を述べた。
 奇妙とは確かに言い得て妙だった。
 日が沈むにはまだかなりの時間がある。それなのにも関わらず、静まり返った倉元山植物園跡は未来視の夢の中で訪れた時よりも一層不気味な感じがする。それは外観というよりかは漂う雰囲気からそう感じさせているように思える。
「わたしだって来なくていいなら来たくはないよ」
 口を開けばつい本音が漏れ出るけれど、そこを隠しても仕方がないとも思う。
 正義の味方であるつもりなんてないし、ましてなりたいとも思わない。そもそも、跨堂と真場のどちらが正しいかなんて見当も付かない。彼らが何をやろうとしているのかについて、わたしは十分な情報を持っていないのだ。
 フェンスを乗り越え着地した場所で、まず目に飛び込んできたものが入場券を売っていたのだろう券売機だった。撤去されることは疎か何の手を加えるられることもなく、券売機はそのままそこに取り残されたらしい。
 けれど、既に塗装などは原形を止めておらず、当時の入場料金がいくらだったのかを読み取ることはできなかった。券売機のすぐ隣に設置された園内案内も完全に日焼けしてしまっていて、大雑把な位置関係程度の情報しか読み取れない。
 しかし、それだけでも何も目安がないよりかはずっとマシだった。少なくとも大凡の位置関係は把握できる。
「多分、……あの入り口が中央ゲートだよね」
 中央にあるあちこち錆び付いた入り口から倉元山植物園跡へと入場すると、まず目に付くものは生い茂る木々である。それはある意味、予想通りだったけれど、心なしか未来視の夢の中で歩いた倉元山植物園よりも植物の浸食が激しい気がした。もちろん、場所によってその度合いはまちまち何だろうけど。
 そして、進行方向に見覚えのある空中遊歩道を目に止めてしまえば、建造物の中央に位置する大樹を発見するまでに多くの時間は掛からなかった。最大の目印となるその二つを見付けてしまえば、後はそこから相対的な位置関係を割り出すだけだった。
 ちょうど、未来視の夢の中から大樹を眺めた方向とは逆向きの位置にいるらしい。
「はあぁぁ、これはちょっと凄いね」
 唐突に北原から驚嘆の声が漏れる。
 それは未来視の夢の中で倉元山植物園跡を始めて訪れたわたしの様子と重なった。
「こんな施設が櫨馬にあっただなんて驚きだよね?」
「これは知らなかったね」
 わたしも北原も櫨馬の生まれで、ずっと櫨馬で育ってきた地元民である。もちろん、だからといって櫨馬にあるもの全てに精通しているわけでもないし、知らないものもたくさんある。けれど、この手の娯楽施設で名前を耳にしたことのないものがあるという事実には北原も驚いているようだった。
「この倉元山植物園だっけ? ここが廃園したのって何年前?」
「完全に廃園したのは五年前ぐらいらしいけど、その頃でも特にシーエムとか見ることなかったよね?」
 それはインターネットの表面的な層から拾い上げてきた情報だ。もっと根深く調べ漁っていけば、廃園日の正確な日付なんてものを知ることもできるだろう。尤も、そんなことを確認するために時間を費やすぐらいなら、もっと明らかにすべきことに時間を割くけれど。
 北原は腕を組む体勢で思案顔を滲ませると、当時の記憶を掘り起こしているらしい。そして、十数秒に渡る沈黙を間に挟み、こう結論づける。
「うん、……記憶にない」
 これだけ大々的な施設ならば、過去にローカルシーエムの一つや二つやっていてもよさそうなものである。けれど、少なくとも「倉元山植物園」という単語を聞いた記憶はなかった。たまたま目に付かなかっただけかも知れないし、人の記憶に残らないようなインパクトに欠ける雑多なシーエムの中に埋没していたのかも知れない。
 深く考えても仕方のないことと言い聞かせると、わたしはその足を園内の建造物へと向ける。
 外観からは何階建てなのかも敷地面積も判別できないけれど、別に園内全てを歩き回ろうとは思っていない。
 当面の目的地は決まっている。
「北原、まずは中央の大樹まで先導するからついてきてね」
「オーケー!」
 倉元山植物園跡へと足を踏み入れることに対して、北原は思いの外、乗り気だった。てっきり、もっと気が進まないといった態度を想像していたから、わたしは呆気に取られる格好だ。それは園内へと足を踏み入れた後、より顕著になる。
 空中遊歩道や生い茂る木々の様子を鼻歌混じりに眺める北原とは対照的に、わたしは周囲に気を配りながらの進行となった。こちら側から中央の大樹へと続く道順は一度も歩いたことのない道となる。
 特別、罠だとかいったものが仕掛けられているとは思えないけど、ここに真場や道神がいないとは限らない。真場や道神がここに居たからといって「何を用心するんだ?」という話もあるけど、わたしは自分の存在を彼らに悟られたくはなかった。わたしは真場や道神のやろうとしていることに横やりを入れるべくここに居るのだ。
 当事者であるわたしと、その当事者ではない北原との差がそこにはそのまま現れているのかも知れない。未来視の結果を違えるという行為について、今回は敵となるかも知れない相手がいることを北原は知らない。
 現在、わたしと北原は大樹を中心にして未来視の夢の中で歩いたフロアとは真逆の位置にいるわけだけど、こちら側の方が植物による侵食が激しいように思えた。雑草が生い茂って完全にどこが道なのかが解らなくなってしまった箇所も多々見受けられる。そんな具合に荒れ放題となったフロアを掻き分けて進んでゆくと、ポカンと口を開いた廊下に差し掛かる。
 廊下には薄暗さが横たわっていたけれど、反対側の出口が見えることもあって進むことを躊躇う理由もない。
「いやぁ、日向とか採光窓がある広場とかはまだ良いけど、やっぱり薄暗い廊下とかは廃墟って感じがするね?」
「わたしは廃墟っていうと、もっとボロボロに壊れた建物をイメージしちゃうんだよね。ここって廃墟というにはあまりにも綺麗に外観が残ってるし、内装にしてもまだモダンなイメージが残っている部分があるから、……上手い表現が出てこないけど、時代に取り残された場所って感じ」
 北原は倉元山植物園に廃墟という雰囲気を見いだしているようだったけど、わたしはあまりそういったイメージを抱いていなかった。特に今回は本来の入場ルートからの進入だったということもあるんだろうけど、少なくともまだ「植物園」という痕跡をあちらこちらに感じることができる。植物に侵食された空間だとはいえ、こういう演出だと言われたら「そうなんだ」と思えるぐらいの小綺麗さがまだ残っている所為だろう。
 尤も、それは跨堂の蝶に誘われて訪れた倉元山植物園の最初のポイントと比較してしまうからかも知れない。
 薄暗い廊下の途中で丁字に分岐した道を勘に頼って曲がり、わたしは特に後ろを気にすることなく進んだ。北原が何も口を開かないから、てっきりおっかなびっくりわたしの後ろを付いてきているものだと思ったのだ。
 だから、次のフロアへと差し掛かって後ろを確認した時、北原が忽然と姿を消していたことにわたしは不安を隠せなかった。何より、何も言わずにいつの間にか姿を消していたというのが、わたしの恐怖心を煽った格好だ。
 北原と連絡を取ろうと思い立って携帯電話を手に取るけれど、携帯の電波は一本も立っていない。
 ここで道神が携帯を用いて電話をしていたのだから、携帯の電波そのものが来ていないはずはない。けど、場所によっては通話できない区画があるのかも知れない。特にここは鬱蒼と木々が生い茂る場所である。パッと見ただけで、既に電波状態が良いとは思えない。
「北原を探しに引き返そうか?」
 そうも考えるけど、まずは大樹まで行こうと思った。
 ただはぐれただけかも知れない。「中央の大樹まで先導する」と言ったから、そこで待っていれば順路を辿ってやってくるだろう。そう自分自身に言い聞かせると、わたしはその足を大樹へと向けることにする。ただ、ここまでわたしが進んできた道には、はぐれるような分岐点なんかなかったように思える。それだけが心に引っ掛かる「支え」だった。
「……どこではぐれたんだろう?」
 ボソリと改めて言葉にして見ると、そこには異様さしか残らない。振り返って今来た道を確認してみるけれど、わたしが未来視の夢の中で幾度となく遭遇したようなドアはない。恐らく、そのまま何も考えずに引き返せば、券売機があった広場に戻れるはずだ。
 わたしは首を左右に振って引き返すという選択肢を振り払う。ふらふらと倉元山植物園の中を行ったり来たりするのは得策じゃない。まずは中央に位置する大樹まで行き「そこで北原が来るのを待ってみよう」と、そう考えた。
 廊下を抜けてしまえば、そこには角度こそ違えど、おおよそ未来視の夢の中で見た光景と合致する空間が広がっている。恐らく、左手の壁に位置する廊下があの大樹へと続くフットライトの道があった廊下だと思った。覗き込んで見れば、そこには側壁に設置されたパネルも確認できる。
「見付けた、ここだ」
 未来視の夢の中で訪れた時よりも心なしか明るい気がする廊下を、わたしは右手側の壁を確認しながら進む。ちょうど逆側から廊下を進む形だから、フットライトの道へと続くドアがあるのは右手側のはずである。
 しかしながら、わたしはあのドアを見付けられないまま、廊下の終わりまで来てしまう。
「見落とした? そんな馬鹿なこと……」
 わたしは右手側の壁を入念に確認しながら、この薄暗い廊下を歩いてきた。見落とすはずがないと思った。
 改めて、廊下へと向き直り、わたしは未来視の夢の中で進んだのと同じ向きで廊下を歩く。フィードバックされる記憶を元にわたしは立ち止まり、左手側の壁に手を突いた。
「……嘘、ここに道があったはず」
 わたしは壁に両手をつくと、まじまじとその様子を探った。のみ取り眼でそびえる壁に目を凝らしてはみるものの、そこにあるべきはずの道を見付けられない。
「今の紀見ではその道を進むことはできないよ」
 聞き覚えのある声に、わたしは振り返る。
 そこに居たのは跨堂だ。
 パジャマ姿とそう変わらない質素な薄着に、くすんだ緑色のベストを羽織る風貌。そして、そこに灯る人当たりの良い笑顔。服装以外は何も変わってはいなかった。踏切の事故現場、そして未来視の夢の中で対談した時と何も変わらない。
「……進むことができないって、どういうこと?」
 そう言葉にして口にしてしまってから、わたしは何となくその言わんとするところを理解する。
 あの倉元山植物園を歩いた未来視の夢の世界は明らかな違和感を感じるおかしな世界ではなかった。けれど、その違和感がない中にあって、本来通るべきではないドアや道を通過していたことをである。
「やっぱり、気付いていなかったんだね。……驚いたよ」
 さも驚いた風のない口調で跨堂が話し始める。
 その口振りからは問いに対する答えが続くとは思えなかったけど、わたしは黙ってその後に続く言葉を待った。そこに口を挟んで跨堂を問い詰めてみたところで、その答えを聞き出せるとも思えない。
 良くも悪くも跨堂は跨堂が話したいこと・話すべきことしかわたしに伝えてくれない気がする。
 僅かな間を挟んだ後、跨堂はさも「わたしが凄いことをしていた」という調子の拍手を交えて話し出した。
「紀見は未来視の夢の中で歩いた道順の中で「本来であれば通ることのできない道」を通過して来たんだよ」
 ……もしかしたら。
 そう思った内容を跨堂に肯定され、わたしの目付きには鋭さが灯った。
「そして、まぁ、今日ここに至る道順の中でさえもね」
「……どういうこと?」
 敵意にも似る「鋭さ」を向けられていることを跨堂は解っているのか、いないのか。ただ、解っていてその泰然自若さを崩さないというのなら大したものである。
「恐らく、蝶という媒体を通して僕の力を学習したんだろうね」
 跨堂は満足そうに微笑んだ。その口調からはわたしがそうやって学習すること自体が目論見通りだった節さえ漂う。
 その「学習」という言葉に思い当たる節がないわけじゃない。わたしの推測が正しいのなら、目の奥のゴワゴワ感がその学習の一端を担っている気がする。あの「ゴワゴワ感」を通して、わたしは「見る」ということに対して、何らかの変化を受けた感覚があるからだ。
 半ば無意識的に、わたしはゴワゴワ感を感じた場面場面を記憶の底から手繰り寄せようとする。結果、跨堂へと向く意識は散漫になり、そこには静寂が生まれた。
「……これが人造とオリジナルの違いなのかな、とさえも思わされるよ」
 恐らくそれは意図せず口を吐いて出た言葉だったのだろう。
「ジンゾウ?」
 ハッと我に返ったわたしが鸚鵡返しに口にすると、跨堂は一瞬「口が滑った」というニュアンスのばつの悪い表情を滲ませる。けれど、わたしがその言葉の意味を追求することはできなかった。
 わたしを呼ぶ声が廊下に響き渡る。
「紀見! やっと見付けた!」
 声は跨堂の背後から聞こえた。
「……北原?」
 声のした方に目を向けると、跨堂の背後の通路にわたしは北原の姿を確認する。自然と北原を呼ぶ声が漏れ出た。
「北原!」
 ほっと安堵から胸を撫で下ろす。
 跨堂という警戒すべき相手を前にする格好だったけれど、咄嗟に漏れ出た安堵感を押さえ込むことはできなかった。
 そんなわたしの様子を跨堂は穏やかな顔付きでじっと眺めていた。強引に口を挟むことも、間に割って入って再会の邪魔をすることもしない。
 衝動的に「何も言わずにはぐれたから心配したんだよ!」と、そんなきつい言葉を向けそうになる。けれど、わたしがそんな言葉を口走るよりも早く、今まさにわたしが口走ろうとしたきつい口調が北原から向けられた。
「いきなり消えるからどこに行ったのかと思ったじゃない! あー、中央の大樹目指して突き進んできて良かった」
「いきなり消えた? ……わたしが?」
 そこに生まれた認識の違いはわたしを驚愕させるに十分足るものだ。ドアを潜った覚えはない。けれど、そこには「まさか!」と、そう直感させるものが確かにある。
 ついさっきの跨堂の言葉が急激にその重大さを増幅させて、わたしは震えを抑えられなくなった。
 ……胸の奥の方から来るこの感覚は何なんだろう?
「今日「ここ」に至る道順の中でさえも、紀見は本来であれば通ることのできない道を通過したんだよ」
 改めて、そう諭すかのような口調で教えられて、わたしはその震えが何に起因するものなのかを理解する。わたし自身が意識しない部分で、知らぬ間に変化をしていることに対する恐怖だ。
 わたしは北原から跨堂へと向き直る。
 にこやかに微笑む跨堂の表情が酷く目に焼き付いた。
 そして、すぅと北原が跨堂を通り抜けてみせて始めて、わたしはここにある跨堂が生身の存在ではないことに気付いた。跨堂の肩先に羽ばたく一匹の蝶を確認すると、わたしは顔を歪める。
 それはくすんだ鼠色に橙色の模様をあしらっていた。鈴平の事故の時に、踏切で見た蝶だ。
 思わず掴まえようと手を伸ばし掛けて、わたしは慌ててそれを引っ込める。今の跨堂を物理的にどうこうすることはできない。それはわたし自身が一番よく知っている。くっと唇を噛むと、そこには歯痒さが滲んだ。
 もしできることがあるとすれば、直接的な拘束力を持たない言葉を用いて足止めを試みることぐらいだ。
 言葉を向けるべく跨堂へと向き直るわたしの眼前で、跨堂は小さく手を振ってみせた。そうして、一言「また後で」と、唇の動きだけでそう言い残すと、アスファルト剥き出しの壁へと向き直る。けど、その跨堂の瞳はアスファルトの壁などには向けられていなかった。
 そこにある、今のわたしでは見ることのできないものへと向いていた。
 次の瞬間、跨堂は未来視の夢の中で確かにそこに道が存在していた空間へ溶けるように消えてしまった。
「待ちなさいよ!」
 咄嗟に口走っていた。
 悔しさに似た感情が胸の奥の方からじわじわーっと滲んで、わたしは困惑する。それが跨堂を捕まえて疑義を質せなかったことに対して向いた感情なのか。それとも、跨堂の消えた道をわたしが進めないことに対して向いた感覚なのかが咄嗟に判断できなかったからだ。
 あのフットライトの道に辿り着けないことが普通であるならば、跨堂の後を追えないことに「悔しい」なんて感情を抱いちゃいけない。頭では解ってる。けど、納得できないもう一人のわたしも確かにそこにいた。
「……誰かいたの?」
 わたしの視線の先をその目でなぞった後、北原が怪訝な表情で尋ねてくる。
 それも当然だろう。跨堂の姿が見えないのなら、わたしが声を向けた相手がここに居ないように映るのだからだ。
「ごめん、北原。多分、わたしは北原には見ることのできないものを見てる」
「それって、幽霊とか、そういうの?」
 北原の真剣な目付きに捕らえられて、わたしも真摯な態度でその疑問に答える。
 ただ左右に首を振って見せただけだったけど、そこには明確な「いいえ」の意思表示がある。
 北原は押し黙る。「当惑している」と言った方が正しいのだろうか。ともあれ、わたしに向ける的確な言葉を見付けられずにいるように、わたしの目には映った。
 跨堂の出現によって、わたしの感覚は一気に研ぎ澄まされた。
「今日、ここで何かが起こるのかも知れない」
 そんな直感めいたものがわたしの脳裏を過ぎってしまえば、その感覚はより一層強まる。そして、そこに焦燥感が生まれた。……汚いやり口だと思った。煽るだけ煽って突き放し、言うにことを欠いて「また後で」ときたものだ。ここで何かが起ころうと、起こるまいと、わたしはここで「跨堂の後を追う」という行動を起こさざるを得なくなってしまった。
 跨堂の目的が真場か道神かなのかは解らない。いや、そもそもの根本的な部分が異なる別の目的なんてものがあるかも知れない。
 恐らく、跨堂が進んだ道は未来視の夢の中でわたしが進んだフットライトの道である。
 辿り着く先は解っている。
「……ここから大樹の根元へ出られなくとも、どこかに中に続く道があるはず」
「外に順路の看板がある。多分、そっちの道に行けば、あの大樹の根元に出られると思う」
 北原が言ったように、廊下を抜けて今来た道を戻ったところに順路と書かれた看板があった。未来視の夢の中で通った道にばかり気を取られて、わたしはそれを見落としていたんだろう。その順路を足早に進んでゆくと、大樹の根元へと続くと思しき道は簡単に見付けられた。いや、こちらが本来の道なんだろう。
 ここに北原が居なかったなら、気付けないままも園内を彷徨ったかも知れない。それは大樹の根元へと辿り着く時刻を大幅に遅らせたことだろう。
「ねぇ、北原。……その、わたしが突然消えたってさっき言ったけど、わたしはどんな風に消えたの?」
 その時の様子を明確化することに躊躇いも感じたけど、わたしを意を決してそれを北原に尋ねた。
 北原は「言葉を選ぶまでもない」という具合に真剣な顔付きで答える。
「まるで手品でも見せられたみたいだった。いつの間に壁抜けなんて技を身に付けたんだろうって思ったぐらい」
 それはまるで、本当に手品だとかいったものの類じゃないことを確かめているようにも思えた。
「あはは、……わたしは道無き道を進んだわけ、か」
 渇いた笑いを零して、わたしは突き付けられた事実を受け入れる。
 それは蝶に誘われたわけでもなく、まして未来視の夢の中で幾度となく潜ったおかしなドアを用いることもなく行われた。跨堂がいうようにわたしは「学習」し、そして変化したのかも知れない。
 考えたくもないことだけれど、理解しないわけにはいかない。それが未来視の夢の中の出来事だけでなく、わたしの日常生活にまで影響を及ぼし始める可能性が生まれたのだからだ。
 未来視の夢の中で道神と出会した場所へと辿り着く。一通り、大樹の根元から雑草の生い茂るフットライトの道の出口だった部分までを眺めてみるけど、そこに跨堂の姿はなかった。
 記号を用いて道を開いた痕跡もない。尤も、痕跡という言葉を使いはしたけど、光の輪郭が発生した後に何か形としてそれが残るという確証はない。
 そして、そこには道神の姿も見付けられなかった。
 道神と出会したあの時の時刻をわたしは知らない。まして、道神と真場が倉元山植物園で、あの広大な暗闇を生み出した日が今日であるという確証はない。いや、今日ではないだろう。それでも、ここに来れば「会えるかも知れない」なんて淡い期待があったことは否めない。
 道神が記号によって道を作り出した場所まで移動する。そして、わたしは記号によって道が生まれた壁の付近を入念に確認した。僅かな仕掛けも変化も見逃さない。そんなのみ取り眼で壁の塗装の色合いの違いまでをも確認するけど、そこに何かを見付けることはできない。
「この辺り。確か、この辺りだったはずのに……」
 そこに道はない。「そこに」というよりも「その周辺に」という言い方の方が正しいだろうか。
 しかし、ここに道を発見できなければ、わたしは真場の居たあの空間へ辿り着く手段を持っていないことになる。
 道神が記号を生み出した動作を見様見真似でやってみるけれど、そこには何も生まれない。尤も、わたしはあの記号を操作したことがないのだから、それが藁に縋ったに過ぎないことは解っていた。
「どうしたら先に進めるの!」
 力任せに壁を叩いた。
 一際「ドンッ」と大きく鳴り響いた音に、北原はビックリしたようだった。
「紀見、……大丈夫?」
「ここに、ここに先に進む道があったはずなのに、ないの。……今のわたしだけじゃ進めない道なのかも知れない」
 八方塞がりの状態に追いやられたことを理解すると、今の今まで影を潜めていた跨堂の出現が恨めしく思えた。
 跨堂はわたしに「変えて貰いたい未来がある」と言った。それなのに、今になってひょっこりと出てきた挙げ句、わたしを導くこともしない。
「何かが起こるかも知れない」
 そんな物恐ろしさは跨堂の出現を境として、一気にその蓋然性を増した気がした。
「……先に進めないなら、どうしたらいい?」
 自問自答に明瞭な答えは返らない。
 グルグルと回る思考が焦りを誘い、わたしは自分に向けた問いを再度口に出して考えた。
「どうしたら、あそこに行ける?」
 焦燥感に囚われて冷静さを欠くわたしは北原の目にどう映ったのだろう?
 ともあれ、そんなわたしの様子を前に北原が取った行動は、わたしの肩へと手を優しく置くことだった。
「今、紀見がどんな状態に置かれているのかは解らないけど、冷静にならないと深みに嵌るだけだよ」
 北原の手が置かれた瞬間、その手の温かさにわたしはビクッと身体を震わせる。
 わたしは確かにピリピリとしていたのかも知れない。その手の温かさに、わたしは自分が落ち着きを取り戻すさまをはっきりと感じていた。
「……そう、だね」
 すぅっと息を呑んで深呼吸をすると、わたしを駆り立てる焦燥感なんてものも一気に下火になった。それは完全に掻き消えないまでも、わたしを混乱させるレベルからは大きく遠ざかった形だ。
 そして、園内を漂う空気の新鮮さにハッとなった。
「あはは、確かにそうだったな。ここは空気が美味しいんだった」
 未来視の夢の中で感じたままに空気の美味しさなんてものを再認識させられて、わたしは思わず苦笑した。
 あのまま、焦燥感に囚われていたなら、きっと気付かないままだっただろうか。
 僅かながら冷静さを取り戻した頭で、状況を把握しようと思考をフル回転させる。そうすることでようやく、わたしは様々なことを再確認した。
 この場所から先に進めないのであれば、倉元山植物園でわたしが探すべきものは何か。
「……道神しかいないよね。あの場所で真場に会うことが適わないなら、今、あの未来視の結果を実現させないためにできることは、……やっぱり、もう一人のキーパーソンしかいない」
 今日という日が未来視の夢の中で訪れた「あの日」だとは思えない。けれど、跨堂の出現という事実がここに全ての役者が揃っていることを予感させた。それを根拠というにはあまりにも弱いけれど、向里山の社から持ち出した杖のこともある。跨堂の蝶が誘った未来視を受けて、わたしの蝶が反応したのかも知れない。そう考えると、全ては揃うべくして揃ったのかも知れないとさえ思える。
 肩に担いだスキーボードケースに収納した杖の存在を確かめると、わたしはここに道神がいると確信した。
「ゴメンッ! 北原はここで待機してて貰える?」
 北原はその言葉にあからさまな不平不満を示した。
 そんな北原が口を開いて待機の理由を問い質すよりも早く、わたしはそのわけを続けた。
「それでね、道神、……えーと、フェイクファーのついたダウンジャケットを着た男がもしここに来たら携帯でわたしを呼び出して貰いたいんだ」
 そこまで話してしまってから「いつもいつもダウンジャケットを着てるわけじゃないだろうなぁ」と思った。それはそうだ。見た感じファッションにあまり気を遣わないタイプの男に見えたけど、それしか着ないなんてことは考えられない。
 わたしは続ける言葉で道神の特徴を説明する。
「ダウンジャケット姿じゃなくても、全体をダークグリーンで統一した感じの色合いを好むみたいだから、とにかくグリーンの服装の奴が現れたら「コイツかも?」って疑って掛かって。身長は180センチぐらいあって、結構、見た目、神経質っぽい感じ。なんていうの、こう何でもかんでも自分で抱え込んじゃうような雰囲気を持ったタイプ? 会ったことない北原でも一目で解ると思う、とにかくそれっぽい奴が現れたら連絡して欲しいんだ」
 最終的には「それっぽい奴」なんて曖昧な言い方をして、わたしは先を急ごうとする。けれど、携帯を確認する北原の言葉にわたしは唖然となる。
「携帯で呼び出すって、ここ携帯の電波立ってないよ?」
「そんな馬鹿なこと……」
 そう言いながら自分の携帯を確認するけど、確かに携帯の電波は立っていなかった。通信モードを会話のクオリティ優先モードから、クオリティを度外視したとにかく通信回線を確保するモードへと切り替えてみるけど、それでも電波は一本も立たない。
「何で? 機種の違い? メーカーの違い? 型式の違い?」
 記憶の中の道神がどこのメーカーの、どの機種の、どの型式を使っていたかを思い出そうとする。けれど、さすがにそんな詳細までは思い出せない。最初からそこに着眼していたならまだしも、さらりと流し見た記憶の中からそれを拾い上げるのは非常に困難だった。
「型落ちだけど、この子だってそんなに安かったわけじゃないのに……」
 購入してからこっち、使用したことのない機能まで引っ張り出してきて状況の改善を試みるけど、液晶画面の電波受信を表すゲージはピクリとさえも反応しない。
 北原は北原で携帯を高く掲げ、電波状況の良さそうな場所を探して周辺を彷徨いていた。
「あたしの携帯さぁ、一応、今年機種変したばかりの最新の奴なんだけど、それでも電波の一本すら立たないよ? そもそも、ここって電波来てないんじゃないの?」
 その事実にわたしは唸る。
 未来視の夢の中で道神が携帯を用いて通話をしていたから尚更、その事実が信じられない。「倉元山植物園跡は携帯での電話が可能な場所」という前提条件が崩れ、わたしは当惑する形となった。
 北原に大樹の根元で待機して貰うにしろ、色々と段取りを決めておかないと後々再開するのが厄介になる。
 わたしがその打開策を導き出すよりも早く、北原がこう提案した。
「じゃあ、こうしよう。一時間経過して何もなければ、紀見はこの大樹の根本に必ず戻ってくること。もしも、ここにその道神が現れた場合、あたしは紀見の名前を大声で呼ぶよ。ここってかなり静かな場所だから、空中遊歩道に飛び乗って叫べば、かなりの距離に通ると思う」
 あちらこちらと移動をするわたしが北原に対してどうこうするよりかは、確かに決まった場所で待機をする北原にアクションを起こして貰った方が間違いはない。どれだけの広範囲に北原の声が響き渡るかは定かじゃないけれど、北原から位置を特定できないわたしがアクションを起こすよりかは現実的である。
「もしも、わたしがどこか別の場所で道神に会った場合は?」
「その場合は当然、ここに戻ってくること。そうすれば、ここに道神が現れた場合で、仮にあたしの紀見を呼ぶ声が聞こえなかったとしても一時間後には必ずここで会えるでしょう?」
 北原の言うことは尤もだ。この事態に際して考え得る最善策だといえるかも知れない。
 けれど、わたしはすぐにその提案に賛同できなかった。ここに北原を残していくことに若干の不安も残るし、何より残って貰うと言うことに申し訳なさが滲む。
「……一時間って結構長いよ?」
「大丈夫だって、携帯でゲームでもしながら道神って奴が現れるまでここでボーッとしてるって」
 北原の表情からここに残ることに対する不安は微塵も窺えない。わたしは葛藤した。
 例えタイムロスになっても、ここで北原とはぐれない方がいいんじゃないか。
 頭をついて回るのはそんな思考だ。ただ、ふっと跨堂のことが頭を過ぎってしまうと、時間的な余裕がないという「現実」が浮き彫りになって、わたしは苦渋の選択を迫られる格好だった。
 わたしがそこに思案顔を滲ませた時間は僅かだったけれど、断腸の思いの決断だ。
 北原の提案を呑む。
 この倉元山植物園の園内で道神を探すという条件から判断するに、それは最善策だ。
「……うん。それじゃあ、ここはお願い」
「任せときなさい」
 力強い北原の言葉だけが心の救いだった。
「気をつけてね」
 そう言い残すとわたしは後ろ髪を引かれる思いを感じながら、大樹の根元を後にする。
 北原からして見れば「何を気をつけろと言うんだろう?」と思ったことだろう。それでも、わたしはそれを言い残さないわけにはいかない。なぜならば、わたしはこの倉元山植物園をただの廃墟だなんて思っていないからだ。
 勢いよく走り出しては見たものの、これといった行く当てがあるわけじゃない。本当に倉元植物園の園内にいるかどうかも解らない道神を探そうというのだから、ここだという目星があるはずもない。
 わたしは園内の順路を運に任せて進んだ。
 けど、木々が生い茂る園内はお世辞にも周囲を見渡すための視界が良いとは言えない。ほとんど遠くを見通すことのできないポイントに差し掛かってしまえば、わたしはすぐにその対策を求められた。視界不良の森の中を疾走するそんなわたしの目に飛び込んできたものが空中遊歩道だった。
「これしかない」
 そう思った。
 わたしは近場の合流口から空中遊歩道へと飛び乗ると、眼下に広がる景色の中から道神を探すことにする。俯瞰の方が道神を探しやすいだろう。そう考えたのだ。
 けれど、その考えが間違いだったことを、わたしはすぐに理解させられる。
 結局、空中遊歩道も眼下に広がる濃緑の傘が視界を邪魔する形だったのだ。確かに広範囲を見渡せるものの、今度は地上の様子をはっきりと確認することができないわけだ。濃緑の傘が幾重にも重なるような場所は特に酷い。空中遊歩道も人を探すというには条件が悪すぎた。
 それでも空中遊歩道へと飛び乗ってしまった手前、すぐに降りるという決断もできない。今回ばかりは心安らぐはずの濃緑の景色も、心底、邪魔なものとか感じられなかった。
 遊歩道の上を歩きながら頻りにクルリクルリと向きを変える様子は、端から見たるとまるで踊っているみたいだろうな。そんな些末なことを考えながら、わたしは眼下の景色の中から人影を拾い上げようと躍起になる。
 そうやって焦りを覚えるわたしの視界の端を、唐突に蝶が羽ばたいた。
 跨堂の蝶ではない。それはわたしの蝶だ。
「今は未来視なんかしている場合じゃないの!」
 そう声を荒げてしまった後で、わたしは気付く。何も最近の蝶の出現は未来視へと結びつくことばかりじゃない。向里山や跨堂の蝶が誘った未来視の夢の中ではわたしに何かメッセージを伝えるようなこともして見せた。
 そう考えると、それが蝶に呼び止められたように感じられて、わたしは蝶の方へと向き直った。蝶はわたしの頭上を羽ばたく格好だ。空中遊歩道に佇むわたしは頭上の空間がちょうど一階から四階までが吹き抜けとなった場所にいた。眼下の景色を俯瞰することにだけ意識が向いていたから自分がそんな場所にいるとは気付かなかった。
 そして、わたしの視線はちょうど最上階である四階を捉える形となる。
 そこに見付ける見覚えのあるもの。はっきりとその詳細までを確認することはできなかったけれど、それは道神が大理石の上へと置いた機材に非常に良く似ていた。
 蝶に呼び止められて上を向かなければ、ずっと気付けなかったかも知れない。わたし自身「良く気付いたな」と、そう思うほどの偶然。……いや、それは偶然なんかじゃないのだろう。そこに蝶が関係しているから尚更、わたしはその思いを強くする。
「あの場所まで案内して! 普通の道でも、普通じゃない道でも良い。あの場所まで行ければ良い」
 そんなわたしの要求に応えるように、蝶は羽ばたいた。それはまるで道先案内でもするかのようだ。ただ、ハタハタと木々の上を羽ばたいてゆく蝶の進路には空中遊歩道の足場が存在しない。
 それは即ち、わたしに「空を飛んでついてこい」と言っているようなもの。
 わたしは思わず苦言を呈す。
「普通じゃない道って言ったって、わたしはあんたと違って空は飛べないよ!」
 もしかたしら、見えない道があるのかも知れないなんて馬鹿なことを考えたりもしたけど、さすがに空中遊歩道からダイブするつもりにはなれない。
 わたしは蝶の位置を目で追いながら、空中遊歩道を走ってその進行方向へと続くルートを進んだ。わたしを置き去りにして先に進まないことだけが救いだった。蝶は身近に空中遊歩道が通っていない場所を平然と進んだりしてくれて、わたしだけは非常に遠回りを強いられる場面も多々あった。
 わたしに空中遊歩道を延々と走らせた挙げ句、蝶は壁際に面する展望台へと進ませた。けれど、空中遊歩道の中でも周りより一段高い場所に設けられた展望台にはその先に進む道などない。
 けれど、展望台に登ったわたしは気付く。道のない展望台のその先にドアがあることにだ。
 ドアは側壁の、展望台よりも少し低い場所に存在していた。側壁にあるといっても、展望台と側壁の間には一メートル近くの隙間があり、当然そこには足場など存在しない。
 当然、展望台には落下防止のための欄干がある。
 わたしは苦笑いを隠せない。
「もしかして、わたしにあのドアの場所まで飛べって言うの? ……落ちたらただじゃ済まない高さなんだけど?」
 眼下に視線を向けると、そこには死なないまでも怪我をするには十分すぎる高さがある。いや、打ち所が悪ければ命を落とす可能性だって十分に考えられる高さだ。
 ゴクリと唾を飲み込むと緊張感なんてものが襲ってきて、わたしは眼下の光景と壁に位置するドアを交互に眺めた。
 ドアはあまりにも不自然な位置にある。また、あまりにも不自然過ぎる立派な装飾を伴っていて、それが普通の人間が通過することの適わぬ道へと続いてるだろうことをすぐに理解させられる。
 ただ「普通じゃない道でも良い」と言った手前、わたしも簡単に後には引けない。
 蝶はまるで何でもないことのようにドアの辺りを旋回していて、わたしは顔を顰めた。
 それでも、眉間に皺を寄せて唸りに唸った後、わたしは覚悟を決める。
「やってやろうじゃない!」
 欄干を飛び越えると、わたしは壁に存在するドアへ向かって勢いよくジャンプした。それはちょうどドアに向かってドロップキックを仕掛ける形だ。当然、ドアを開くなんていう生易しいものではない、蹴破るという格好になる。
 わたしのドロップキックが決まるか決まらないかの瞬間、ドアは音もなく開いた。
 わたしはドアの向こうに存在していた床に思い切り足を打ち付ける格好になる。ドゴッと鈍い音が響いたと思った瞬間、わたしは激痛に襲われた格好だ。
「!!!! いったぁいッ……」
 ゴロゴロともんどり打ってしばらく床を転がっていたけど、どうやら大事には至らなかったらしい。身体の節々の感覚を確かめていくけれど、徐々に薄れてゆく痛み以外に異変は感じられない。思いの外、わたしは丈夫にできているらしい。
 改めてドアを潜った先である周囲に視線を走らせ、ここがどこなのかを確認するけれど、ここは倉元山植物園内であるようだった。床が硝子張りになっていて、眼下に見覚えのある濃緑の世界が広がっている形だ。
「……凄いな、綺麗」
 ふと気付けば、そんな寸感が口から漏れていた。
 しばらく濃緑に目を奪われ、わたしはその眼下の光景を黙って見下ろしていた。けれど、その場所からすぐ下の階層の窓際の様子を窺うことができて、さらにその窓際の光景の中に未来視の夢の中で道神が持っていた機材を見付けると、ここが蝶に道案内を要求したすぐ上の階層であることを理解した。
 改めて、今わたしが居る空間へと目を走らせると、この空間がそう広くはないことが解る。小規模のファミリーレストランぐらいの広さと言えば適当だろうか。テーブルや椅子といったものがそっくりそのまま取り残されていて、その特徴的な並びからここがファーストフード店か喫茶店の類が入居していた場所だということも理解できた。
 そして、そう遠くはない場所に、わたしは階下へと続く階段を見付ける。
 蝶はわたしの要求に応え、道先案内をしたらしい。そして、蝶はその階下へと続く階段の付近で羽ばたいていた。その階段を下り、一つ下の階層へと足を向ければ、わたしが要求した階層へと辿り着くのだろう。




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