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Seen06 野形扇町社探索


 そのまま覚醒するかと思って身構えていたけれど、わたしが現実へと引き戻されることはなかった。いつまで待っても視界は暗転したままで一向に変化する兆しはない。
 跨堂の蝶が完全に霧散した後、そこには微かな赤い光が灯る。
 ちょうどわたしの背後に位置するその光源へと目を向けて、わたしは思わず眉を顰めた。そこに羽ばたいていたのはわたしの蝶である。一瞬、わたしの目にそれは新種の蝶のようにも映ったけれど、……間違いない、わたしの蝶だった。
「あんた、そんなに大きかったっけ? それに……」
 戸惑いは隠しようがなかった。なにせ、それはずっとわたしが見てきたサイズよりも一回り大きい。そして、黒色の下地に鏤められる模様の色は確かに黄色だったけど、うっすらと発光するその色は強い赤味を帯びている。
 わたしの戸惑いを余所に蝶はハタハタと羽ばたく。それはわたしにある種の予感を与えた。幾度となく味わってきた感覚で、それは間違いようがない。
 眉間に皺を寄せる不機嫌な顔付きを隠そうともしないで、わたしは蝶にきつい口調で詰め寄る。
「わたしに無理矢理、未来視の夢を見させるつもり?」
 蝶は答えない。ただ、その代わりと言わないばかりに、わたしの身体を何か目に見えない強い力でグイッと引っ張った。視界が歪み、わたしが瞬きをしたその一瞬で、再び未来視の夢の世界が眼前に広がる。
 無意の発現によって、わたしが蝶に連れてこられた場所は片面が山肌に面した起伏のある住宅街だった。
 住宅街には平屋の木造建築から、洗練されたモダンなデザインのコンクリート造りの住宅までが入り混じっている。そこはわたしの生活する東櫨馬の新興住宅地とは明らかに異なる雰囲気が漂っている。
 偏に高級住宅街と括ってしまって良いだろう。そして、跨堂の蝶に誘われて訪れた裏路地のような狭さを持つ場所とは根本的に異なり、ここには人が生活をする音や匂いで溢れ返っていた。
 時刻はそろそろ夕日が見られる時間帯に差し掛かろうかという頃だ。事前に設定が為された時刻で一斉に灯るのだろう街灯の明かりが道を照らし出してはいるものの、空にはまだ街灯の明かりがなくとも苦にならない程度の明るさがある。
「……この夢はあの植物園に関係するもの?」
 蝶を注視するわたしの口から漏れた言葉にわたしは首を傾げた。
 この住宅街とあの倉元山植物園とに、目に見えて関連性を感じられる何かがあったわけではない。だから、何の脈絡もなく、わたしは蝶に問い掛けた形だ。胸の奥から喉元まで上がってきたはずの不平を何も考えずに口にしようとしたら、ぽろりと漏れ出たような感覚に近い。それはわたし自身が意図していなかった言葉だった。
 一瞬、呆気にとられて固まったけど、何を口走ったのかを理解するとどうしようもない苛々が沸き上がってきた。
 蝶から目を背けるとわたしはぐっと下唇を噛む。
 心の何処かで蝶に要求をし、わたしをこの場へと誘わせたものがわたし自身であったことを理解してしまえば、その苛々はより程度の酷いものになる。そのまま苛々を鬱積させても状況が改善しないことを頭では理解していたから、わたしは半ば強引な挙動で大きく首を左右に振ってその思考を振り払おうとする。
 それは想像以上に上手く作用して、わたしは「跨堂に上手くしてやられてしまった」と、肩の力を抜くことに成功した。思いがけず、心の中に蟠りとして鬱積したやるせなさというものが掻き消えてしまって、わたしは苦笑する。
 強く意識したことはなかったけど「跨堂の思うままになってしまった」というのも、わたしの素直な感想の一つとして正しいものだったのだろう。
「あれ?」
 そんな一瞬の気分転換の間に、わたしは周囲を羽ばたいていたはずの蝶を見失う。
 いつかの路地裏の時のようにわたしを置き去りにして先を急がれたりすると「また厄介なことになる」と慌てたけれど、蝶の姿はすぐに視界の片隅に見付けられた。
「……脅かさないでよ」
 蝶はわたしの居る場所から十数メートル先へと進んだ丁字路の辺りをハタハタと旋回していた。
 わたしの蝶はやはり跨堂の蝶とは性格が異なるようだ。
 わたしを置き去りにしないまでも、先を急ぐような仕草を時折見せて「わたしを急かす」挙動を取って見せるのだ。まるで「付いてこい」と、そう言わないばかりの行動だ。
 道先案内するように、一定距離わたしの先へと進み、そこでわたしが後を追うのをずっと待っている。そして、わたしが後を追って歩き始めると、また先へと進むといった具合だ。
「はいはい、解った。……後を付いていけば良いのね?」
 わたしは呆れたように呟いた。
 そして、実際に歩き出そうとしたところで、身体の節々が肉体的な疲労を訴えるたことにハッとなった。
 いくら現実感を伴っているとはいえ、ここはあくまで未来視の夢の中に過ぎない。にも関わらず、そういった「気怠さ」というものを感じることにわたしは驚いた。ただ、そう言った点を突き詰めてゆくと、ここでは痛みや暑さといったものも感じることができるわけで、ここは一概に「夢」と括ってしまえるものではないのかも知れない。
「おっと、いけない」
 蝶がわたしを置き去りにすることがないとはいえ、蝶はわたしを急かすのだ。
 意思の疎通はできないけれど、急かすからには急かす理由があるように思える。
 わたしはいつもよりも早足で蝶の後を追った。そして、同時に近隣の建造物だとか景色だとかに目を向ける。何かこの場所の目印となりそうなものを見付けようという考えがそこにはあるわけだけど、簡単にこの場所を特定できるような情報があるわけもない。
「木村さん、片岡さん、帯金さん……」
 住宅街の中の立派な家々の表札を眺めても特別な名字は見付からない。もちろん、そこに唯一無二となるような特殊な名字を見付けるなんて確率の低い事態を期待したわけじゃない。表札には名字と一緒に住所なんかが併記されていることもよくあるわけで、ここの住所が解れば万々歳だと考えたわけだ。
「櫨馬ゴーマルサン、ま、ヨンイチ、イチマル……」
 路上駐車された車のナンバーを見る限りでは、どれも櫨馬ナンバーを掲げていた。一応、その事実はここが櫨馬の近隣地域である証拠の一つにはなる。だけど、ここが櫨馬の近隣地域と特定する証拠とするには不十分である。
 そうやって、周囲の景色の中からのみ取り眼で特別な情報を拾い取ろうしていると、白く巨大な塀に張られた標識を発見する。濃紺に白色で描かれた標識には「野形扇町(やがたおうぎちょう)」と町名が書かれていた。詳細な番地などが書かれてはいなかったものの、取りあえず「この場所がどこなのか?」を追跡できる材料としては十分だ。
 記憶の片隅にその文字を留め、わたしは蝶の後を追う速度を速める。
 蝶はちょうどアスファルトで舗装された道から山の奥へと続く脇道へと進路を変えるところだった。尤も、脇道とは言ったけれど、そこは電柱と街灯も併設される道だ。
 アスファルトによる舗装はぷつりと途切れ、地面が剥き出しになってはいるけれど、特別歩き難そうというわけでもない。まして凹凸があるわけでもなく、雑草が生い茂る獣道というわけでもないのだ。ただ一つ、脇道を覆い隠すように木々が生い茂っているため、住宅地を進む道より薄暗い感じは否めない。
「こんなところに入っていくの?」
 正直、躊躇いは隠せなかった。
 道の先では淡く発光をする蝶が、わたしが後を追うのを今か今かとずっと待っている。
 わたしは一つコクンと息を呑むと腹を括った。
 そして、蝶を追って歩き出してみると、意外にもそこがちゃんとした道であることを理解した。きちんと明かりを灯す街灯と電柱がその道に沿うよう交互に設けられていると言うだけで、僅かだけど不安が薄まるのだから不思議なものだ。
 途中、枝分かれした道を蝶に導かれるまま進んだところ、あちらこちら踏み場の崩れた石の階段がある通りへと出た。どこまで続いてるのかと見上げてみると、大した段数はないみたいだ。垂直距離にして五〜六メートルというところだろうか。ただ、階段のある坂はかなりの勾配を持っていて、登り切るには結構な労力が必要に見える。
 蝶はハタハタとはためきながら、その石段のある坂に沿って進んでゆく。
「……ちょっと本気? こんな勾配のある石段を登るの?」
 わざわざ、こんな坂を登ることを強いる蝶に若干の不満を抱きながら、それでもわたしは蝶の後を追う。ここまで蝶の後を追って進んできたのだ。毒を食らわば皿まで行くしかない。
 石段を越え、相変わらず電柱と街灯が交互に続く山道を走ると、ふっと右手の視界が開けた。視界が開けたとは言ったけれど、小さな社を真ん中に置いて、その周囲数メートルに渡って山肌を切り取ったような場所だ。社の裏手はすぐに雑多な樹木が茂る森林が広がっている。
 そこには道神がいた。
 倉元山植物園で見た格好そのままに、小さな社の前に何をするでもなく佇んでいる。
 その横顔が目に飛び込んできた瞬間のこと。
 わたしは「道神が思い詰めた顔をしている」と思った。苦渋に満ちた顔、そう言ってしまってもいいかも知れない。
「道神を苦しめるものがそこにあるんだろうか?」
 そう不思議に思って、わたしは社の前面が確認できる位置へと移動しようとする。ちょうど、わたしが道神の左後方を通過しようかという時のこと。道神は社に対して手を向けて、すぅと空を切るように動かす。
 それは倉元山植物園で見せた挙動そのものだ。
 てっきり、どこか別の場所に移動するものだと思った。この社に入り口みたいなものがあって、そこを潜るものだと思ったのだ。だから、わたしは慌てて道神の側へと駆け寄った。
「パキンッ」
 小枝をへし折る渇いた音が響いた。それはわたしの足下から響いた音である。
「……しまった」
 立てて加えて、思わず口に出してそう言ってしまい、わたしは口に手を当てて押し黙る。額にはびっしりと冷や汗が滲んだ。別に覗き見がばれたらばれたで開き直るに過ぎないはずなんだけど、社を前にした道神の表情を垣間見た後で「ただで済ませて貰える」とは思えなかったのだ。
 けれど、道神はすぅっと空を切った格好のまま微動だにしない。わたしの居る方向へ目を向けることもなければ、社へ向かって進むこともない。
 社には淡く発光する記号が浮き上がっている。ちょうど中が透けて見えているような感覚だ。そこには銀色の飾りがついた杖と古い靴、そして鮮やかな装飾が施された短刀が納められていた。
「時代は移り変わったのだ、我々も今の時代に望まれるものへと形を変えなければならないだろう?」
 唐突に道神が口を開いて、わたしは疑問符が頭についた顔で問い返す。
「えっと、何を言っているんですか?」
 道神が何を話したのかを咄嗟には理解できなかった。
「すまない」
 そこまで言われて始めて、わたしはそれがわたしに向けられた言葉ではないことを理解した。けれど、ここに道神がその言葉を向けるべき相手などいないように見える。改めて周囲を見渡してみても、そこにはわたし以外に声を向けるべき相手など見付からない。
 倉元山植物園の時のように、わたしには見えない何かがそこにはいるのかも知れない。……そうも思った。
 そして、次に頭を過ぎった思考は「ここを離れるべきかも知れない」という内容のものだった。道神の口調は穏やかなものではなく、一触即発のような張り詰めた感覚さえある。
「……」
 今まさに、その場を離れようとした矢先のこと。わたしは目眩を感じた。そして、それはすぐに熱に浮かされ、世界がグルグルと回る感覚へと度合いを増した。一瞬にして平衡感覚が失われ、わたしはその場に片膝を付いた。
「なに、これ?」
 あっという間に異変を来した身体の様子に戸惑っていると、その異変が何に起因したものなのかが解った気がした。
「無駄だ」
 冷たく言い放った道神の視線を目で追って、わたしは確信する。それら、道神の言葉は社の脇へと並んだ数体の石地蔵に向けられていて、この身体を襲う異変も恐らくその石地蔵に起因する。それが確信へと変わってしまえば、表情や気配を持つはずのない石地蔵から何かオーラのようなものが立ちこめている気がした。
「道神もわたしと同じ感覚に襲われているんだろうか?」
 ふっとそんなことを考えながら、石地蔵と道神の間という立ち位置から離脱しようと試みるけど、既に身体はいうことを利かなくなっていた。よろよろと蹌踉めくと吐き気にも似た気持ち悪さに襲われて、わたしは立っていることさえ適わなくなる。その場に両膝をつく格好で踞ってしまえば、もう立ち上がってその場から離脱する気力もなかった。
「あぐ、あぁぁ……」
 言葉にならない呻き声を上げ「もう止めて!」と必死で願った。このままこの状態に置かれたら、命の危険に関わると本能が訴えてくる。未来視という夢の中で、自分自身の「死」なんてものを意識したことはない。まして、夢の中で「死んでしまうなんてことがあるわけがない」とこの時までは思っていた。
 それが甘ったれた認識だったことを身を持って教えられた瞬間だった。
「ここを見放す手続きは半分以上が終了している。もう、お前達では俺をここに縛り付けることはできない」
 道神の言葉が終わるか終わらないかの瞬間。社の脇に並んだ石地蔵がぐにゃっと歪んだ気がした。
 ……いや、それは気のせいじゃない!
 そして、朦朧とするわたしの意識が見せた幻覚でもない。
「ならば、お別れだ。ここで我らが進む道は違える」
 道神の周囲に数種類の記号が生まれる。
「パキィンッ!」
 硝子が割れるような耳障りな音が響き渡るけど、耳を塞ぐことも適わずわたしは踞ってその一部始終を聞いていた。巨大な質量を持った何かが動く時に発する風切り音と、力任せに全てを薙ぎ払い、薙ぎ倒す轟音。
 轟音が響き渡って静寂が辺りを包み込むと、わたしを襲っていた異変も全て掻き消える。わたしは荒い息で空気を吸い込むと、頭を低く保った体勢で立ち上がってその場所から離脱した。
 横目に捉えた石地蔵にはどれも罅が走っていて、道神が何かをした痕跡だけがそこには残っていた格好だ。
 社の裏手にある樹木の根元まで全力疾走すると、わたしはそこで倒れ込むようにして身を隠した。
「ここもいずれ朽ち果てる。それはそう遠くはない未来の話だ。今はまだいくらかの力を保っていられようとも、いずれ最初から何も存在しなかったかのように消えてなくなる」
 道神の言葉は相変わらず、わたしには向けられていないようだ。あくまで、その矛先は石地蔵のようだった。ただ、同時にそれらの言葉は自分自身へと言い聞かせたもののようにも聞こえた。道神が会話をしていると思しき石地蔵の言葉をわたしが聞くことは適わない。だから、会話の相手や内容はあくまでわたしの推測でしかないけれど、道神の様子や言葉から察するに石地蔵は道神をここに留めようとしたのだろう
「確かに、彼らの言う通りなのかも知れない。早いか遅いかの違いだけ、……なのかも知れない」
 道神の背中に漂うものは哀愁。いや、そんな生易しいものではないかも知れない。
 再び、道神が社に対して手を向け、すぅと空を切るように動かした。
 社には淡く発光する記号が浮き上がる。先ほどのものとは違う記号だ。
 ……嫌な予感が頭を刺した。
 決意が見え隠れする道神の目と、表情には現れない周囲の全てに敵意を向けるかのような雰囲気はわたしに身震いを覚えさせるに足るものだ。
 道神の眉が歪んだ瞬間、社を中心に火の手が上がった。燐が発火するかのような青白い炎だ。それは信じられないスピードで社全体に広がり、そしてあっという間にそれらを灰へと変えていった。
 燃え上がる社を前に無表情ではなく、決意の灯った顔をしていたことが道神の苦悩を表していた気がした。
 不意に世界が暗転する。
 わたしが気がつかなかっただけか、それとも本当に前兆がなかったのか。それは定かじゃないけれど、蝶がボロボロと崩れる様子をわたしが一度も目にしなかったことだけは確かだった。


 昼休みを告げるチャイムの音が鳴る。
 週明けの月曜日。
 いつもなら週明け特有の気怠さを感じて机に突っ伏してもおかしくないけれど、わたしはそれを味わうつもりもなかった。日曜の夜遅くまで携帯で情報検索をしていたため遅刻ギリギリの時間の登校となって、朝にはできなかった人探しがようやく実施できるという思いがそこには滲む。
 土日を掛けて下調べをした結果、倉元山植物園・野形扇町についての情報はある程度のレベルまで揃った形だ。倉元山植物園で言えば、場所や廃園となった経緯などで、野形扇町で言えば、その立地場所などだ。
 授業中、一度確認した情報だというにも関わらず、わたしはそれを改めて読み返していた。そして、その近隣地域を含めた上で、新たな情報がないかをずっと調べていた格好だ。
 ちょうど教科書を壁にする形で、携帯電話を操作していたわけだ。
 授業中、堂々とメールを打つクラスメートもいるにはいるけれど、そこまで豪快に「やる気がありません」と宣言する気にはなれない。まして、ただでさえテストの点数が悪いのに、ここで「授業態度まで最悪」となれば内申点が惨憺たることになる。大学へ進学しないから問題ないと割り切ってしまっているならともかく、一応は進学するつもりもある。
 そうやって、携帯を駆使してざっくりと調べてみた結果、倉元山植物園が既に廃園となってから五年以上が経過した施設だということが解った。簡単にいうと、廃園の原因は親会社の別事業による負債の煽りを受けたこと。
 そして、あの場所が代栂町と面する櫨馬の外れという、割と近場の場所だったことも解った。尤も「櫨馬の外れ」と言っても、もう一方の野形扇町とはかなりニュアンスが違う。
 野形扇町は東櫨馬の南南東に位置する櫨馬の都市部としての外れだった。ちょうど興渡(きょうと)山地と呼ばれる櫨馬で唯一となる山に面した地域だ。わたしには聞き慣れない地名だったけど、位置関係でいうと芝富高等学校に通学する生徒がいてもおかしくはない距離だ。ただ通学するというにはちょっと距離があり過ぎる感じは否めないけど。ただ、それでもわたしはそう多くはない野形扇町からの通学者を探すつもりだった。
 話が逸れたけれど、倉元山植物園は向里山(こうりやま)を有する興渡山地の、代栂町(よつがちょう)と面する「櫨馬という土地」としての外れである。興渡山地は東櫨馬のすぐ南に位置するため、実際、直線距離でみれば野形扇町と倉元山植物園はそう遠くはない。
 チャイムとともにガヤガヤとざわつき始める教室内には既にクラスメートの半数がいない形だ。昼食を取るために購買に向かった組がごっそりと抜けたからだけど、北原などのわたしが声を掛けやすい面子は教室に残った形だ。
 基本的に北原はその日によって購買利用だったり昼食持参だったりするので運が良かったという言い方もできるのだろうか。その北原は通学時にコンビニで買ったと思しきパンを口に咥えながら仲の良いクラスメートと喋っている。
「だから、午後の英語の宿題写させて! 今日、当たるかも知れないんだって!」
 わたしも普段なら三倉と一緒に日向なんかで昼食を取るのだけど、今日はそうも言っていられない。気は進まないけど、野形扇町についてまずはクラス内からリサーチを掛けるつもりだ。
 わたしは席を立つと、まずはあまり親しくはないクラスメートのグループへと話し掛ける。話しにくいというわけではないけど、そういう微妙な関係のグループからまずは潰していこうという魂胆だ。
「丹野さん達、ちょっとゴメン、……良いかな?」
 仲良しグループで机を固め、今まさに丹野達は小さなお弁当の蓋を開けようかというところだった。
 内巻きのパーマの掛かった髪を人差し指でクルクルと巻き付ける仕草で弄りながら、丹野は不思議そうな顔付きをする。細部に至るあちらこちらがカスタマイズされた制服を着る丹野が属するグループは服飾系やオシャレの話でいつも盛り上がっているグループだ。
 正直な話、そこにわたしが口を挟むこと自体「嫌がられるかも……」といった予測もあったけど、丹野はそんな素振りの一つ見せず聞き返してくる。
「んー……野峰さん、どうかしたー?」
「丹野さん達の間で、野形扇町が地元の娘っていないかな? 同級生じゃなくても、後輩とか別の高校の娘でも全然問題ないんだけど……」
 カラーコンタクトの入った濃緑色の瞳で、わたしを横目に捉えるクラスメートの高本(たかもと)が口を開いた。
「あれじゃない、うちのクラスでいうと確か畠野(はたの)とかがあっちの方に実家があるんじゃなかったっけ?」
 両耳の派手なピアスを弄りながら疑問系の形で丹野へと確かめた格好だけど、当の丹野は腕を組んだ格好のまま口を開かない。そして、丹野はたっぷりと思案顔を滲ませた後、わたしに「野形扇町」の位置を問い返した。
「野形扇町かぁ……、そもそも野形扇町ってどのへんだっけ?」
「えーとね、興渡山地に面する東櫨馬の……」
 説明をするわたしの言葉が言下の内に、そこに口を挟んでくる奴が居た。北原である。
「ヤガタオウギチョウだぁー? その単語の発音に間違いがないなら、ほぉもいっひりうちの地元じゃはい」
 丹野のグループの隣に陣取った仲良しグループに混ざっていた北原がわざわざグループ内での雑談を中断してまで、こっちの話題に首を突っ込んできた形だ。ただ、その節度のなさは北原らしいと言えば北原らしかった。
「……北原?」
 突然の闖入者に、丹野は北原がいるグループの方へと向き直る。
 けど、その次の瞬間には口を押さえて俯いていた。
「あははは、あんた何て格好してんのよ?」
 北原は口にパンを咥える形で椅子にもたれ掛かり、仰向けになってこちらを見ている格好だった。行儀が悪いにもほどがある上に、後半はハグハグとパンを食しながら喋っていたのだろう。
「へー、真由の地元って野形扇町っていうんだ、あの辺境」
 突然、北原の属するグループ内からそう声が上がる。
 北原は辺境という言葉に反応しガタンッと椅子を鳴らす。
「辺境いうな! ……そりゃあ櫨馬で山に面してるっていうぐらいの辺境だけどさー」
 人差し指を突き付けるようにして辺境という表現に反論するけど、北原はすぐに机に力なく突っ伏す体勢を取って野形扇町が辺境であることを認めた。
 ……何かトラウマでもあるのだろうか?
 その一連のやり取りからは誰が「辺境」という表現を口にしたのかは確認できなかった。けれど、野形扇町の情報が問題なく得られる目処が立って、わたしは一つ安堵の息を吐き出いた。
 その挙動を北原は見逃さなかった。そして、その瞳に灯るものは好奇心だ。
「安心したような顔しちゃって、それで紀見はその辺境に何か用なの?」
 その「辺境」が地元のクラスメートを探す動機を鋭く尋ねてくる北原に、わたしは予め用意して置いた言葉を返す。
「野形扇町で見たいものがあるんだよね」


 放課後、そのわたしの一言から「それならついでに……」ということで、北原宅訪問の運びとなった。赤点追試仲間として意気投合してから随分と長い時間が経ったけれど、こうして北原宅を訪れるのは初めてのことだ。
 大概、北原と遊び歩くという場合は櫨馬中央だとか東櫨馬のショッピングモールだとかの都市部に繰り出すことが多い。そういう意味では目印を探しに行くという目的があるにも関わらず、わたしはここに来て「新鮮さ」なんてものを味わっていた。
 北原宅訪問に当たり、事前に北原が前置きする。
「場所的には辺境ってほどじゃないと思うんだけど、交通の便の悪さには驚くと思うよ」
 その前置き通り、移動は距離や移動時間そのものよりも、乗換によるタイムロスに驚かされた。具体的には乗換の度に、十五分近くの待ち時間が発生し、それは電車から電車へ、電車からバスへの二回の乗換で計三十分になる。
 経路としては東櫨馬の交通の中心地である片石傘まで電車に揺られ、そこからさらに野形扇町へと向かう電車へと乗り換える。最寄り駅には快速が停車しないらしく、各駅停車の電車に乗車し揺られること十数分。野形扇町の最寄り駅で電車を降りると、今度はそこからバスに乗り換え、ようやく野形扇町到着となる。
「朝の通学通勤時間帯だけは快速の臨時便が停車するんだけど帰りは各駅しかなくてねー、これが毎日、嫌にもなるよ」
 最寄りのバス停からは北原とそんな雑談を交わしながら北原宅まで歩いた。尤も、わたしの意識の大半は北原との雑談よりも周囲の景色へ向けられていたと言っても過言じゃなかった。もしかしたら「北原宅までの道の途中で、あっさりと目印が見付かるかも知れない」なんて淡い期待を抱いたからだ。
 けれど、そもそも北原宅は山に面した場所に位置していなかった。
 住宅街のど真ん中という言い方が正しいだろうか。
 周囲の景色の中から目印を見つけ出そうとしていたから、わたしはそこが高級住宅街だということを強く意識していなかった。けれど、よくよく近隣に立ち並ぶ家々を注視してみれば、どれも立派な佇まいをしていることに気付かされる。
「到着。ここ、うち」
 そういって北原が指さした一軒家は周囲に立ち並ぶ家々と比較しても、何ら遜色ない立派な佇まいをしていた。
 随所にデザイン性を窺える横幅の拾い二階建てのモダンな作りで、周囲に同形状の作りの家は見受けられない。それはつまり、モデルルームなどに並べられる家々とは一線を画すことを意味している。
 庭を囲う石垣の隙間からは綺麗に飾り立てられた花々の並ぶ様子を見ることができる。
 今、流行のガーデニングという奴だ。
 わたしは思わず呆気にとられて固まってしまった。肩から下げたショルダーバックを吊り落としそうになったことにも気付かなかったぐらいだ。
「……手ぶらで来るっていうのはまずかったかな? 今からでも何かお菓子とか買ってきた方がいいかな?」
「なに畏まってんの。紀見って意外と小心者? 見てくれが大きいだけで、ぼろっちい家だよ」
 北原は笑いながらそう言い捨てたけど、パッと見「ぼろっちさ」を感じる部分など皆無である。
「まー、何かつまめるお菓子は買ってきた方が良かったかもねー。お母さんのことだから、きっとお茶請けには羊羹とかしか出してこないだろうし」
 玄関前には屋根付きの駐車場とその駐車場に隣接した物置がある。今は駐車車両がないけれど、駐車場は自動車が二台駐車可能なスペースがある。また、駐車場の脇にはスクーターも止まっていた。
「んー、何か珍しいものでもあった?」
 そう北原に訪ねられて始めて、わたしは自分が立ち止まって物珍しげな目付きをしていたことに気付いた。
「いや、立派な佇まいだなーと思って……」
「そうかー? さっきも言ったけど、中はぼろっちいよ」
「でも、北原はこんなところから通ってるんだね」
「こんなところって……」
 その発言に北原は苦笑いを隠さなかった。はっきりと口にはしなかったけれど、そこには「辺境だね」というニュアンスが滲んだことは否めないから、それも仕方ないと言えば仕方ないだろうか。
「野形扇町も一応は芝富高のギリギリ学区内だよ。まぁ、あたしは「今行ける一番高いレベルの高校に行きなさい」って頭ごなしに言われて芝富高に通うことになったわけだから、毎日毎日バスと電車に揺られて通学するあたしの身になってみろって本音では言いたかったけどね」
 北原は手慣れた様子で、タッチパネルに親指を押しつける。「ピピッ」と微かな電子音が鳴り「カチャンッ」と扉の施錠が解除される音がした。指紋認証をクリアしないと鍵のロックが外れないタイプの鍵のようだ。
 旧式のマンションであるわたしの自宅では考えられない装備だ。
「ただいまー」
 そんな間延びした声を響かせて靴を脱ぐ北原の後ろで、玄関の立派さにわたしは唖然とした。何を指して北原がぼろいといったのか理解に苦しむぐらいに、北原宅は小綺麗である。
「おかえり、真由……、あら、お客さん?」
 奥のドアから姿を現した北原の母親は、パッと見、北原とは印象の異なるタイプだった。わたしに気付いて小さく会釈をする様子もそうだけど、良い意味で北原と血が繋がっている風には見えない。
 おっとりとした雰囲気が見え隠れするその印象を裏切らない物腰で、少なくとも北原をそのまま一回り二回りと大人にしたような感じはしない。もしかしたら、北原は父親似なのかも知れない。
「初めまして、野峰紀見佳と言います。その、お邪魔します」
「いらっしゃい、ゆっくりしていってね」
 その北原の母親の物腰にわたしは思わずホッとした。もしもこれで、北原の母親がいかにもな感じだったなら、わたしは次回から北原宅を訪れる際にお菓子を買って持ってくることを決断しただろう。
「でも、珍しいわね。真由子が家に友達をつれて来るなんて」
 高校での北原の幅広い交友関係を知っているから、その北原の母親の科白は意外だった。
「もう真由子ったら前もって言っておいてくれたら、何か買っておいたのに。何かあったかしら……」
 そう呟きながら北原の母親が部屋の奥へと姿を消したところで、わたしは思わず尋ねてしまった。
「……そうなの?」
 そう尋ねてしまった後で、わたしはまずいことを聞いたかも知れないと思った。
 自室に友達を招くことを嫌うタイプというのもいるのだ。
 仮に北原がその手のタイプだった場合、上手く答えを曖昧な形に濁してくれたとしても気まずい雰囲気が流れ兼ねないわけである。今回、なにせわたしは半ば強引に話を進めた結果として北原宅訪問という状態に置かれているのだ。
「ほら、うちの高校からここまでだとかなり遠いじゃん? そもそも電車とバスを乗り継がなきゃならないし、交通の便の悪さも実際に体感したでしょ? 迂闊に「遊びに来てよ」とも言えないわけよ」
 北原は僅かに考える仕草を見せた後でさらりとそう言って退けた。けれど、わたしの意識は全く別のところに向けられていた。北原が靴を揃えるなんて仕草をあまりにも自然な動作で見せてくれるのだ。その意外な仕草にわたしは思わず固まってしまった格好だ。
「ああー、うん、そうだよね。往復することを考えると、気軽に遊びに行くよって感じにはならない、かも」
 そんな心ここに有らずの切り返しをしながら、わたしも北原を見習って靴を揃えようとする。靴を脱いでそのまま廊下へと向かおうとする体勢から、半ば強引に靴を揃えようとする体勢へ持っていった格好だ。
 もちろん、そのまま廊下へと足を向けていたとしても「靴を脱ぎ捨てる」という酷いレベルまでは行かないかったはずだ。他人の家にお邪魔するという意識もあるから、その辺の節度は守れたはずだ。
 ただ、これが自宅に北原を迎えるというシチュエーションだったなら、どうだか解らなかったけど。少なくとも、北原のように靴を揃えるなんてことを自然にやれたかと問われれば、その答えは「ノー!」となる。
「そうだろー?」
 北原はカラカラ笑いながら階段の前までわたしを案内する。そして「先に上に行ってて」というニュアンスのジェスチャーを見せた。北原はその後で階段の脇まで進むと、ドアを開いて母親に向けてこう切り出した。
「お母さん、ずっと前にゴミ拾いボランティア活動で町内会が配布してた周辺地域の地図ってまだ持ってる?」
「探せばあると思うけど、……真由子が町内会の活動のことに興味を示すなんて、悪いものでも食べたのかしら」
「お母さん!」
 北原は声を張り上げると、ニコニコと笑いながら自分をからかう母親へ苦言を呈したようだった。
 そんなやり取りをわたしは二階に上ってすぐの場所で聞いていた。特にやることがないからついつい聞いてしまったわけで、聞き耳を立てていたわけではないけれど、何か疚しいことをしている気分になるから不思議なものだ。
 そんな気分を誤魔化すことも兼ねて、わたしは北原宅の二階の様子に目を走らせる。
 北原宅はかなり大きい。外観からも大きいと感じさせられたけど、中に入ると改めてその広さに驚かされる。そして、広さがあるにも関わらず、あちらこちらの掃除がきちんと行き届いているのが凄い。ポイントポイントには観葉植物なんかが配置されていて、その観葉植物にしてもきちんと手入れが為されている。
 目に見えるところだけは取りあえず綺麗に……といううちの掃除思想とは大違いだ。
 二階には部屋が四つあり、階段を上ってすぐ差し掛かる中央に位置したリビングルームで繋がっている。リビングルームは共用スペースのようで、ソファーやテーブルなどもあり、最初はここがそのまま「北原の部屋なのかな」と思ったぐらいだ。
 一通りリビングルームを眺め終わっても北原はまだ姿を現さない。リビングルームに突っ立ったまま北原を待っているとのもどうかと思い、ソファーに越か掛けようかどうかを迷っていると、背後から声が向いた。
「はきに入っへへもほはったのに」
 紅茶の入ったティーカップを乗せるお盆を手に持つ北原は口に地図を咥える格好で話していた。一応は北原の言わんとすることを理解したわけだけど、いくら「真由の部屋」と書かれたプレートが掛かっているからといって断りもなしに部屋に入るつもりにはなれない。
 両手の塞がった北原の代わりに部屋のドアを開ける。
 北原は入ってすぐの場所にあるガラステーブルへと盆を置くと、口に咥えた地図を手に取り絨毯の上へと放った。
「汚い部屋だけど、まぁ、入ってよ」
 促されるままに北原の部屋に足を踏み入れると、その小綺麗さにビックリした。全体的にシックな感じのインテリアで整えられた部屋は良く整理整頓がされている。少なくとも「汚い」という言葉が嫌味に聞こえるぐらいには綺麗だ。
 わたしの部屋とは大違いだといっても過言じゃない。飲みかけのインスタントコーヒーが入ったマグカップが二日三日と机の上に放置されていたりしないし、雑誌や部屋着が室内に散らかっていることもない。
 見掛けや普段の言動とは裏腹に、割と繊細で綺麗好きなのかも知れないと思った。
 仮に立場が逆だった場合、わたしはこうもすんなり北原を自室に通せただろうか?
 そんな自問自答が頭を過ぎると、わたしは即座に「ノー」という結論を再び導き出さざるを得ない。いきなり「訪問する」となった場合なら、恐らくわたしは北原を待たせてざっくりと部屋の片付けをしたはずだ。この北原の部屋を見せられた後であるなら尚更だ。
 不意に、わたしに向けてクッションが放られる。「座布団代わりに使って」ということなんだろうけど、ばふっと音を立ててそれを受け取ったわたしはクッションを持った状態のまま、北原の部屋の様子を窺っていた。
「んー、恐い顔してどったの、紀見?」
 どうやら眉間に皺の寄ったわたしの表情を見られたらしい。
 わたしは不思議そうな顔を見せる北原をマジマジと注視した後、こう切り返す。
「いや、北原の意外な一面を見せられたというか。赤点仲間という繋がりこそあれ、実は同じ土俵には立っていない相手なんじゃないかと思ったり思わなかったり……」
 その言葉は要領を得ない上に、完全な尻すぼみになった格好だ。当然、北原もその言わんとするところを理解しなかっただろうし、わたしも上手く伝えようなんて意識は皆無だった。
「はぁ?」
 だから、その北原の「何を言ってるの?」と言わんばかりの呆れた顔も当然と言えば当然だった。
「あはは、……何でもない」
 苦笑いで曖昧にお茶を濁してしまうと、北原の持ってきたティーカップに目がいく。そこからは一際良い匂いが漂うのだから、それも当然だ。
「まぁいいや、冷める前に飲んでみてよ。今、紅茶に凝っててさー、これ、落としたばっかり。しかもおろしたての奴でさ、良い薫りが楽しめる葉っぱなんだ」
 そんなわたしの「これは何だろう?」といった好奇心の灯った視線を前に、北原は輝いた表情をして薦めてきた。
 しばらくの間、紅茶やファッション誌が絡む雑談を楽しんで、話は本題へと移る。既に、野形扇町でのわたしの探し物は北原宅到着までに揺られた公共交通機関の中でざっくりと話をしている。
 尤も、それは「興渡山地にある神社・仏閣・社と言った類のもので見たいものがある」というような濁した言い方になった。野形扇町での住所も建造物の名前も解らなかったから、それ以上、上手い言い方も見付けられなかったのだ。
「それでねー、紀見は簡単にこの辺りの神社とかお寺とか言ったけど、興渡山地には観光客が来るぐらいの有名なお寺から大小様々な歴史的価値のある文化施設が点在してるわけよ。うちの町内会が「美化運動」とかいって盛んに、定期的なゴミ拾いとかしてるのは向里山にあるのがメイン。だから、せめて名前ぐらい解らないと探し出すのは難しいと思うよ」
 北原が広げた地図にはあちらこちらにその手の建造物が点在している様子が細かく描かれていた。その数、間違いなく百はあるだろうか。
「……こんなにあるの?」
 思わず声を漏らすわたしの様子に、北原はあっけらかんと言い放つ。
「まぁ、興渡山地はこれで有名な場所だからね、知らなかった?」
 そこには「やっぱり野形扇町の土地柄を理解していなかったか」と言った具合のニュアンスも含まれていた。
 地図を前にして、わたしは腕を組み思考をフル回転させる。
 未来視の記憶の中から有用そうな情報を拾い上げようとしたのだけど、手繰り寄せられるものはどれも決定打とならないものばかりだ。舗装された道から脇道に入っていくと、すぐに石段があって……だとか、状況説明をしようと考えるも、そんな細かなことを北原が把握しているとも思えない。
「一応、目印はあるんだけど、……ただ、野形扇町のどの辺りかも解らなくて。左手側が興渡山地に面していて、アスファルトで舗装された通りって言う条件は間違いないんだけど、これだけじゃ厳しいよね?」
「一概に野形扇町といっても、ここも無駄に横にだだっ広い町でさ」
 北原は地図の上をなぞるように指を動かすと、どこからどこまでの範囲が野形扇町なのかを指し示してくれる。
 芝富高等学校から片石傘までの直線距離を目安として、野形扇町の広さを確認するとその横の長さがかなりのものであることが理解できた。
「でね、山側に位置する野形扇町の通りで興渡山地に面してない場所はないから、対象となるのはこの辺りに存在する道の大半になるね」
 再び、北原が地図を指でなぞる。その動きの横幅は野形扇町の範囲を示した時と同様だったけど、今回は楕円を描いてより広範囲を指定する。
「んー……」
 思わず、わたしは唸り声を漏らした。
 とてもではないけど、これから探すとなると厳しい距離がある。まして、あまり遅くならない時間に帰宅することも考慮すると、後一〜二時間もしない内にリミットが来るという状態だ。
 わたしの唸り声はより酷いものになる。
 どうすべきか。その決断を迫られても、わたしは答えを導き出せない。
 せっかく野形扇町まで足を運んだのだから、できることなら探し物を探したい。けれど、時間的な制限が脳裏を過ぎり、その欲求を抑え付ける形だ。そんな葛藤に苛まれるから、わたしの唸り声は途切れることなく、北原の部屋に響き渡る。
 そんなわたしの様子を見兼ねたように、北原が提案する。
「それでも探すって言うのなら、散歩がてら練り歩いてみる?」
 わたしはその提案に二つ返事で賛成した。
 もしかすると、ただ誰かに背中を押して貰いたかっただけかも知れない。


「それじゃあ、ちょっと出掛けてくるから」
 リビングの母親にそう声を掛けると北原は玄関のドアを開けた。
 後を追って外に出ると、空が夕闇の時間帯へと切り替わる際の独特の雰囲気を持っていることを理解する。意図していなかったそんな一時の美しさに目を奪われながら、わたしは改めて時間的な余裕がないことを再認識した。僅かに冷えたと感じられる空気を吸い込むと心なしか気合いが籠もった感覚もある。
 ただ、そうやって意気込んでは見たものの、基本的には運任せということが理解できていないわけでもない。
「すんなりと見付かってくれれば言うことなしだけど……」
 呟く言葉に期待を込めて、わたしはこの近隣地域の案内役となる北原の姿を探した。
 その姿は北原宅の駐車場の隅に見付けることができる。
「何をしているんだろう?」
 そんな疑問を抱きながらも黙ってその様子を眺めていると、その視線に気付いた北原からちょいちょいと手招きをされる。そんな北原の仕草に誘われ近づいてみると、いきなりヘルメットを放り投げられた。
 あまりにも突然の出来事に放り投げられたものを回避しそうになったわけだけど、それがヘルメットだと理解するとわたしは慌ててそれを受け取る体制を整えた形だ。パンッと小気味良い音を響かせてヘルメットを手に取るも、それを放り投げられた意味を理解できなかったからわたしは訝しげな表情だ。
 北原の佇む方向は自転車などを置く側の駐車場の隅になる。そこにスクーターが停車されていることを改めて再認識して、わたしは北原が何をしようとしているのかを把握した。
「……北原、免許持ってるの?」
 北原はズボンのポケットから財布を取り出し、定期入れ部分に収納された免許をわたしに見せる。そうして、あれよあれよという間にゴーグルをはめグリップを握ると、セルを回してエンジンを始動させた。
「学科だけだもん、簡単だよ。でもまー、通学で使うなとお達しされてて全然乗る機会がないんだけどね」
 北原はポンポンとシートを叩いて見せると、わたしに「後ろに乗れ」と要求する。
 原付の後ろに乗るなんて行為自体が初めての体験だ。当然、わたしは躊躇うものの、半ば強引に手を引かれてしまえば後は北原に言われるがままだった。
「移動時間も考えると、あんまりここで使える時間なんてないんでしょ?」
 時間的な余裕がないことは北原にお見通しだったようで、わたしはその言葉に頷くしかなかった。
「スカートは上手く押さえてないと風に靡くぜー、紀見」
「うあ!」
 北原に言われて制服のスカートが風に靡く状態だったことに始めて気付いた。わたしがシートに座り直す様子を北原はにやにやと笑いながら眺めていたけど、用意が調ったことを知るとスクーターのエンジンを唸らせる。
「じゃあ、出発するよ!」
 そんな掛け声を一つ響かせると、北原は興渡山地のお膝元へと向けてスクーターを走らせる。
「ちょっと寄り道。自販機でペットボトル買っていきたい」
 そう言って、北原がスクーターを向かわせたのは北原宅へと向かう途中に通り過ぎた自動販売機だった。
 野形扇町の住宅街を走り始めた時には気にならなかったのだけど、自動販売機までの道の途中で、割と大きめな通りを走った。その際、擦れ違いざまに通り過ぎた人達の多くが振り返ってわたし達に視線を向けたのが気になった。それも、それはあまり好意的な視線ではなく、どちらかというと不快感を表す感じに近い。
 最初はスクーターのエンジン音に不快感を示しているとも考えたけど、北原が運転をするスクーターは言うほど喧しい騒音を撒き散らしているわけではない。寧ろ、一般のガソリン車と比較すると非常に静かな方だ。
「どうして視線を集めるんだろう?」
 そう思考を巡らせた結果、とある一つの推測が頭を過ぎった。
「北原、今更なこと聞くんだけど、二人乗りってオーケーなんだっけ?」
「んー、国道とかの大きい道ならともかく、野形扇町の住宅街を警察が走り回ってるわけないじゃない?」
 北原の切り返しの言葉にわたしは首を捻る。
 二人乗りは問題ない、もしくは問題があるという回答ならばともかく、そこで警察という単語が出てくる意味を咄嗟に理解できなかったのだ。しかしながら、すぐにそこで警察が登場する意味を理解して、わたしは頭を抱えた。
 北原は北原で悪びれた様子一つ見せることもない。
 わたしは咄嗟に北原へと返す言葉を見付けられなかった。
「……」
 今更「降りる」だの言い出すのも完全に期を逸してしまった形だ。野形扇町を徒歩で探索するには時間が足りないという事態を踏まえ、わざわざ北原がスクーターを出してくれたという背景もある。
「まぁ、いいか」
 それを北原の心遣いと都合良く解釈し、わたしは周囲の景色を確認することだけに意識を集中した。
 まずは北原宅から南へと坂を上り興渡山地に面する道路まで出る。そこから興渡山地を左手に望む道を延々と進み続けた。時間にして二十分から三十分近く走っただろうか。後少しで野形扇町の外れに差し掛かるという辺りまで来て、北原がスクーターの速度を緩める。
「どう、何か見付かった?」
 北原の問い掛けにわたしは首を横に振った。
 北原宅から東に位置する部分を除いた「野形扇町が興渡山地を左手に置く」シチェエーションの道路を走り回ってみたわけだけど、わたしが蝶に誘われて進んだ道は発見できなかった。「白く巨大な塀」という目印も見付けられず、わたしは途方に暮れる形だ。
 ふっと気付いてみれば、夕闇の薄暗さと街灯の明かりとのコントラストがはっきりと解る時間帯に差し掛かっていた。わたしの体感上での時間よりも、夕闇の薄暗さが辺りを包み込むのが早い気がする。携帯を開いて時刻を確認しようとするわたしに向け、北原がいう。
「野形扇町の西の外れの方はちょうど興渡山地の窪みの部分に位置してるわけよ。だから、代栂や櫨馬の平地部と違って、ちょうど夕陽が山の陰になるから日が落ちるの早いんだよね」
 野形扇町の西の方へと差し掛かった辺りから、今までの「閑静な高級住宅街」という雰囲気とは異なる空気が流れ始める。より神社やお寺と言った類の建造物が似合う荘厳な雰囲気がそこには漂っていた。空気が澄んでいるという言い方も正しいだろうか。「山の方に来た」という印象を与えるのだ。
「そろそろ野形扇町の外れになるけど、一応、山側が右手に来るシチュエーションでも走ってみる?」
「うん、悪いけどお願い」
 わたしは神妙な顔をして切り返す。
 ただ、そんなわたしの様子とは対照的に、北原はこの場にそぐわない楽しそうな声で勝手気ままに話し出した。
「じゃあ、なーに奢って貰おうかなー。やっぱりカフェ・ハーティーブでコーヒー、プラス、ケーキバイキングとか?」
 カフェ・ハーティーブでケーキバイキング一人分というだけで既に樋口一葉が二人いなくなる計算だ。単品一つ五百円オーバーのケーキを時間内であればいくつでも食べられるので、リーズナブルと言えばリーズナブルではある。けれど、この手の奢る奢られというわたし達の流れの中では最高ランクに位置するお店の一つだ。
「……あはは、足下みやがって」
 そんな会話を交わしながらわたしも笑顔を見せてはいたものの、意識の中では次回の探索も視野に入れていた。
 何度も何度も北原の手を借りるというわけにはいかない。そうなると、せめて今回の探索で当たりだけでも付けておきたいという思いがわたしの頭には来る。
 そろそろ片石傘までの移動時間など諸々を含めると、引き返して帰宅すべき時間に差し掛かる。けれどわたしは「今日はもう引き返そう」と、そんな言葉が言えない。
「もう少しだけ走り回ってみて、それでも見付からなければ今日は諦めよう」
 そう自分を言い聞かせて北原にしっかりと掴まった矢先のこと、見覚えのある白く巨大な塀が視界の端に映った。それは一瞬にして通り過ぎてしまったけれど、確かに記憶の中の光景と合致する。
「今の白い塀、間違いない! 見付けた!」
「……ここって、向里山の近辺になるのかな?」
 北原がスクーターを停止させると同時、わたしはスクーターを下り今し方通り過ぎた白い塀へと駆け寄る。白い塀には見覚えのある標識があり、そこには確かに「野形扇町」と書かれていた。
「ビンゴ! ここまで来れば……」
「ちょっと紀見! 場所が向里山だって解ったんだから後はもう明日にしようよ、日も沈むしさ」
 北原の言葉に呼び止められた瞬間、視界の端を蝶が舞う。その進路を目で追うと、蝶が目的地までの進むべき道を先導しているんだと理解した。そして、同時に「今、先に進まなければならない」と急かされている気がした。蝶はすぐに掻き消えてしまったけど、蝶がもたらしたメッセージは強くわたしの心に残った形だ。
 わたしは足を止めると、一旦、北原へと向き直る。
 そして、一つ「すぅ」と息を呑んだ後、いつも通りを心掛け平常心を装った。口から紡ぎ出すのはこんな言葉だ。
「北原はここで待っててくれれば良いよ。それか、先に帰って貰ってても良いかな。その、今日はありがと、ここまで来れば後はわたし一人でも行ける」
 感謝の言葉は紛れもない本物だ。北原が居なければ、ここまで辿り着くことはできなかったと思う。だけど、そこには同時にやんわりと「これ以上は足を踏み入れない方がいい」という忠告も色濃く滲ませた。
 危険な事態に発展するかも知れない。そんなことに北原を巻き込みたくない。それはそんな思いから来た言葉だ。
「……」
 対する北原は道のど真ん中にスクーターを停止させる状態で、眉間に皺を寄せた思案顔を滲ませていた。それはわたしの後を追うべきか、それとも引き返すべきかを葛藤しているように見える。
 北原が悩んでいるその間に、わたしはその場に北原を取り残して先に進んでしまおうと考えた。向里山へと続く道に足を向けると、わたしは走り出す。しかし、向里山へと続く雑草の茂った道へとわたしが足を踏み入れるよりも早く、北原はその葛藤に決断を下してしまう。
 スクーターのエンジンを切ると手慣れた動作で盗難防止のロックを掛けて、わたしの後を追ってくる。北原の決断はわたしの後を追いかけるという選択肢だ。そして、わたしの後を追った理由についてはこう告げた。
「こんな面白そうな場所まで一緒に来て「じゃあ、また明日ね」であたしが済ませるわけないじゃない? ……どうせ、あれなんでしょ、鈴平の時と同じ奴なんでしょう?」
 理由として北原が口にした言葉の前半部分は明らかに本心ではなかった。笑って見せてはいるけれど、北原の表情が僅かに強張っていたことに気付かないほどわたしは鈍くない。だから、北原が何を考えてそう言ったのかは解らない。けど、北原がそう強気な態度を見せたことで、わたしの心の何処かにホッとする感覚もあった。
 一度、未来視の夢の中で通った道だとはいえ、ここで一人にされて平気な顔して進んでいけるわけもない。
 もしかしたら、北原はそんなわたしの不安を感じ取ったのかも知れない。すぐにそんな思考を否定する意識が続いた。
「そんな馬鹿なこと……」
 それは北原相手のやり取りの中で、そういったセンシティブな部分を勘付かれた記憶がないからだ。
 けど、今回ばかりは「北原に勘付かれちゃったんだな」と理解した。尤も、それを言ったらわたしが平常心を装うなんて演技めいたことをした所為かも知れなかった。わたしはわたしが思っている以上に大根役者なのかも知れない。
「……止めておいた方が良いよ?」
 僅かな沈黙の後、わたしは確かに「ありがとう」と言おうとした。だけど、実際に口を吐いて出た言葉はそんな内容だった。脳裏を過ぎったものは道神と石地蔵のやり取りの後、わたしに命の危険を感じさせたあの現象だ。
 北原は大きく息を吐き出すと、呆れた顔をして笑った。
「紀見がそこまで言うんだったら尚更、一人で行かせられるわけないじゃない」
 どこか真剣味が見え隠れしたその口調に、わたしは返すべき言葉を失って押し黙る。北原にそこまで言わしめる程の危なげな雰囲気を「わたしが持っていたのだろうか?」と自問するも、その答えは導き出せない。
 後を追わないことを勧めるわたしと、強引にでも後を追おうとする北原の視線とが交差する。
 それは時間にして数秒に過ぎない短い時間だった。
 なぜなら、わたしがその目を逸らしてしまったからだ。当惑するわたしとは対照的に北原の目には強い意志が灯り、その目をわたしが注視し続けることなんてできなかったのだ。けれど、それは同時にわたしの根負けを意味する。
 北原がわたしと一緒に向里山の目的地を目指すことを、わたしはもう止めることができない。
 どちらからともなく向里山へと続く坂道を上り始めてしまえば、その空気はより一層顕著なものになる。
 そんな何とも言えない沈黙に飲み込まれてしまった言葉がある。それは「ありがとう」とか、そう言った類の感謝を示すための言葉だ。「いつか必ず今日のこの気持ちを口にするよ」と、そう心に誓いながらわたしは半ば強引に北原の前に立って先導する。
「……こんなところに石段なんてあったっけ?」
 不意に北原が不安げな顔付きでぼそりと呟くけれど、わたしに取っては未来視の夢の中で一度通った道だ。先に続く光景が、未来視のそれと異なるということでもない限りは取り立てて不安というものを感じない。
 まして、山奥へと掻き分けて入っていく道だとは言っても、脇にはきちんとした街灯もあるのだ。これが月明かりだけを頼りに進まなければならないような獣道だとか言うなら話は別だけど、特別、不安や恐怖を感じるような場所ではない。振り返れば、まだ遠目に民家の明かりを確認することもできる。
 ところどころ踏み場の崩れた石の階段を登り、脇から茂る背丈の高い雑草を掻き分ける。電柱と街灯が一定間隔を置いて交互に隣接する道に出ると、見覚えのある弛んだ送電線が見えた。
「ねぇ、紀見、ここで何が起こるの?」
 先を急ぐわたしに向けて、唐突に北原が尋ねる。
 北原がまとう雰囲気は重々しいとまでは行かないけけど、ここで言葉を濁してどうにかなるという感じはしない。
 だから、わたしも腹を割って現状をありのまま口にする。
「ごめん、わたしにも解らない。でも、ここで直接何かが起こるということじゃないと思うんだよね」
 恐らく、直接何かが起こるのは跨堂の蝶によって訪れた倉元山植物園の方だ。いや「起こったのは」という言い方の方が適当かも知れない。わたしの蝶が導いたこの向里山はそれを未然に防止するための、何かをもたらすための場所。
 そう思う。
「……どういうこと?」
 怪訝な表情を見せる北原に、わたしはどうにか上手い説明を展開しようと首を捻る。こんな事態を解りやすく説明するに足る適当な例え話は思わぬところからやってきた。
「ここにあるものはきっかけの一つだって思うんだ。ほら、この前、現国の時間に話を脱線したおじいちゃんが言ってたじゃない? 一つの問題が起きる時っていうのは何か複数の要因が重なり合って起きるんだっていう話。今、わたしは一つの未来視の実現を阻むため、一つ一つ要因を積み重ねてるの」
「……紀見が阻もうとしてるその未来視の内容はどんなのなの?」
 神妙な顔付きをしてわたしにそんな質問をぶつける北原を前に、わたしの脳裏を過ぎったものは跨堂の顔だった。「観測者と名乗る奴に上手く嵌められた」なんて抽象的な言い回しをして、その経緯を説明してしまおうかとも思ったけど、わたしは曖昧に笑ってその質問の答えを濁してしまうことにする。
「えへへへ、……その、これが、何て表現したらいいのか解らないんだよね」
「はぁ?」
 本日二度目、わたしは北原の「何を言ってるの?」と言わんばかりの呆れた顔を拝むこととなった。
 でも、そこにはわたしの気遣いがある。
 真場と道神がいたあの場所に、北原は連れていってはいけない。そこは譲れない。倉元山植物園には巻き込めない。
 タイミングは絶妙。ここでこの話は途切れる。なぜならば、目的へと到着するからだ。
「……ん。到着、かな。」
 北原と話をしていた所為だろうか。未来視の夢の中と違って社まではあっという間のことだった。
 そこには道神の姿がない。
 ある意味、それも当然と言えば当然。
 未来視の夢の中で訪れた日付が今日だったのかが疑わしい上に、時間帯も合致していない。道神がこの社の前にずっと佇んでいるという確証がない以上、ここでわたしと道神が出会すためには確率の低い「偶然」に頼らなければならない。
 そこは「既に」という言い方が正しいか、それとも「まだ」という言い方が正しいのか。それはパッと見では判断できないけれど、薄闇に目が慣れてくるとそれが「まだ」であることが解る。社はその原型を留めているし、社の周囲に存在する石地蔵にも罅が走っているようなことがない。
 じぃっと石地蔵を眺めていると、未来視の夢の中での出来事がフィードバックしてきて、それが恐ろしいもののように思えてくるから不思議だ。わたしは石地蔵に小さく会釈をすると、何だか直視することも躊躇われ、ふいっと目を背けた。
 これからここでやるべき行為に恥じる部分を感じないわけじゃないのだ。
 わたしは社へと近付くと、その封へと手を伸ばした。
 当然、事情を何も知らない北原はギョッとした顔付きをして、わたしに制止の言葉を向ける。
「ちょっと、紀見! ……何するつもり!」
 正常な判断力を失っているわけでもないし、混乱した上での行動ではないことを北原に理解して貰うため、わたしは淡々とした冷静さを装いこう告げる。
「この社に納められているものが必要なの」
 まるで当たり前のことをするかのように、わたしは落ち着き払った態度で一つ一つ丁寧に封を解いていった。
 わたしがそんなだから、北原もそれ以上は何も言えない。わたしの一挙手一投足をじっと注視しながら、その社の中に納められたものが取り出されるのをじっと待った。
 覗き込んだ社の中は非常に薄暗い。ちょうど樹木の茂る部分の影になるせいもあって、中の様子は全く解らなかった。この薄暗さに目が慣れれば、少しは中の様子を確認できるようになるかも知れないけど望みは薄い。
 わたしは闇雲に手を突っ込むと、記憶を頼りに中にあるはずのものを掴み取ろうとする。
「あれ、おかしいな。確かこの辺りに……」
 そんな暗中模索の状況を打開したのは蝶である。わたしの蝶が舞い、社の中をうっすらと照らし出したのだ。
 無意識のうちにわたしがそれを望んだのか、それとも勝手に出現したのか。それは定かじゃなかった。けれど、今回ばかりは「出てくるな!」とは言えない。光源の出現は非常に有難かった。
 蝶がもたらす明かりによって、わたしは目的のものを社の中に見付ける。それは社の中の、さらに奥まった場所に位置する段差の上に設けられた台座の上に置かれていた。
「見付けた!」
 未来視の夢の中で道神が記号で社を照らし出した時と同様に、中には杖と靴、そして短刀が納められていた。
 わたしは満足そうに微笑むと、それらに手を伸ばす。三つ全てを持ち出す必要性は感じられない。社を覗き込む体勢で、最も手に取り易いものを選ぶ。
「借りていきます」
 そう小さく宣言し、わたしは杖を握り取る。杖は結構な長さを持っているからそれ相応の重量を予測していた。けれど、それを実際に手に取ったわたしはまるでその杖が何の重さも持っていないような感覚に襲われる。社からそれを引っ張り出す際に、ググッと腕に掛かる確かな重みがあって、わたしはそれを錯覚だと理解した。
 まるでそこまでが自分の役目だったと言わないばかりに、蝶もそこを境に姿を消した。
「……ねぇ、紀見、あんたそんなものどこから取り出して来たの?」
 北原は何か恐ろしいものでも見たかのような顔をしてわたしにそう尋ねる。もしも、そこに北原がいなかったなら、わたしはさっきまでのその感覚を「錯覚だった」で終わらせたのだろう。
 その言わんとするところが理解できなかったから、わたしはあっけらかんと答えた。
「どこって、その社の中から……」
「……そのちっちゃい社の中にそんな長いものが収まるわけないじゃない」
 訴え掛ける北原の言葉にわたしは混乱する。北原の真剣な顔付きを見返して「でも確かにここに納められてたんだよ」と説明しようとする。何よりも、それがわたしの手に収まっていることが揺るがぬ証拠になるはずだ。
 けれど、わたしは開き掛けた口をくっと結んでしまって、その説明を口にしなかった。その説明を口にして、この手にあるものを証拠として突き付けたら、事態がまずい方向へと進む気がしたからだ。
 違和感はわたしの中にも確かにあったのだろう。
「紀見!」
 わたしの名前を呼ぶ強い口調に、わたしは客観的に今の自分が置かれる状況を再認識した。
 言われなければ気がつかなかった。……気がつかない振りをしたのかも知れない。
 ともあれ、確かに北原のいう通りだった。
 冷静になって考えてみれば、そもそもの縮尺がおかしい。これはわたしの身長ほどもある。そんなものが奥行きもない、まして高さもわたしのお腹ぐらいまでしかない社の中に収まるわけがない。
 でも、わたしは確かにこれをこの社の中から取り出した。急に気味が悪くなって、わたしは顔色を変える。
 暗順応が進んだ目で、改めて社の中の様子を窺ってみるけれど、そこに納められていたはずのものは確認できない。まだ、そこには靴と短刀があったはずだ。
 一体、何を見ていたのだろう?
 再び、社を覗き込む気にはなれず、わたしはギュッと手に取った杖を握り締めた。
 このところ立て続けにおかしな世界のことばかり見てきたから、違和感を感じなくなった「わたし」がそこにはいたんだろうか。本来、見ることのできないはずのものを見ることができるようになったわたしがそこにはいたのだろうか。
 ともあれ、知らず知らずのうちに「慣れていく」わたしがいるという事実に恐ろしさを覚えた。
「紀見、戻った方が良い」
 口調にその雰囲気はなかったけど、北原の強張った表情からは見るからに不安が見て取れた。
「そうだね。……こんなところに長居してもしょうがない」
 わたしの返事が言い終わるか終わらないかのタイミングで、既に北原は一足早く社を離れようとしていた。
 そんな北原の様子を横目に捉えながら、わたしは後を追うその足を止める。そして、社の方へと向き直ると、ぺこりと頭を下げた。そして、石地蔵に向かって小さな声でこう告げる。
「道神さんを止めてきます」
 石地蔵は何も言葉を返さなかったけど、黙ってわたしの行動を看過した。未来視の夢の中でわたしが味わった感覚が現れる兆候はなく、わたしと北原は何事もなくその場を後にする。帰り道の途中、北原は社の中から取りだした杖そのものを気味悪がった。特に杖を携えたまま向里山を下ることにいい顔をしなかったけど、わたしがそれを「必要だ」と言ったことに最後は根負けしたようだった。
 来た道を戻り向里山を下り終えるまでは北原は緊張した面持ちだったけど、野形扇町の住宅街へと続くアスファルトで舗装された道まで出てきてしまうと、色々と吹っ切れたようだった。
 わたしもほっと安堵の息を吐くけれど、それも束の間。すぐに倉元山植物園のことが脳裏を過ぎる。
 わたしは跨堂の蝶に誘われて倉元山植物園を訪れたあの日あの時までに道神と接触したいと考える。けれど、道神についての情報は皆無に等しい。
 何度かこの向里山の社へと足を運ぶことも考えるけれど、まずは一度、倉元山植物園を訪れてみようと思った。そこまで決断してしまえば、倉元山植物園までのルートに思考が及ぶまでにそう多くの時間は掛からなかった。
「今日はもう休もう」
 そう考えたのも既に過去のこと。わたしの思考は今から倉元山植物園までの移動へと向く。
 実際にそこへ行こうとするとグルリと興渡山地を迂回するルートか、もしくは東櫨馬と代栂町とを繋ぐ興渡山地を突っ切る山岳ルートを進むしかない。どちらにしてもかなりの時間が掛かるルートになる。
 特に、興渡山地を迂回するルートは、一端、櫨馬中央まで出る必要があり、そこから南櫨馬を通って代栂町へと入るのでかなりの移動距離になる。既に夕陽は完全に沈んでしまっていて、周囲には夜の闇が張り出してきている。
 正確な時間は解らないけど、公共交通機関を用いて倉元山植物園へ向かったら、恐らく最終電車で帰宅できる時間内に到着することはできないだろう。そもそも今日中に辿り着けるかどうかさえも疑わしい。
「焦る気持ちはあるけど、……今日は仕切り直し、かぁ」
 そう口に出して行ってしまうと、途端に気が抜けた。「本当に今日はもう手詰まりなんだ」と理解して始めて、ようやく気が抜けるのだから難儀な性格だとも思った。いつからこんな性格になったんだろうとさえ思う。
 今から帰宅するとまずい時間になるという現実も相まって、わたしはそこに深い溜息を続ける。
 これといった門限を設けられていないとはいえ、そこには常識からくる門限がある。そして、その常識から想定される時間内に自宅へ辿り着けないのは明白だ。家に帰っても夕食にありつけないかも知れないし、そもそも雷が落ちる可能性が非常に高い。
 携帯電話で時刻を確認し、わたしが想像した数字と大きな相違がないことを理解すると、わたしは渇いた笑い声を響かせる。気が抜けるに留まらず、どっと疲れが襲ってきた格好だった。
 思い返してみれば、そこには寝不足も重なる。
「あはは、……開き直るしかないか。コンビニかファーストフードで晩御飯を食べて帰ることにしよう……」
「うちで夕御飯を食べていくってのはどう? まー、時間も時間だし、うちの親父が車を出して送っていくっていうパターンに発展すると思うけど、その方が紀見も都合が良いんじゃない?」
 北原はニヤニヤしながら、わたしの肩にポンッと手を乗せた。
 携帯のメールを確認すると、ママからはお怒りの絵文字がたっぷりとついたメールがある。
「友達の家で晩御飯食べていくことになって、ついつい話し込んだら遅くなっちゃったなんて、凄く都合の良い親を安心させる言い訳になると思うけど?」
 それは非常に魅力的な有難い申し出だったけど、わたしはそれを素直に受け入れることを躊躇する。
 それは主に北原の表情だとか雰囲気だとかに不安なものを感じ取ったからだ。
「……北原、何か企んでない?」
「企むなんてそんな大層なものじゃないよ」
 ヒラヒラと手を振って見せて、北原は「裏の思惑なんてないよ」という意味合いをそこに込めてみせる。
 わたしはそんな北原を訝りながらも、その魅力的な救いの手に縋ることにした。他に雷を落とすことなく、今日一日を何事もなく無事に終わらせられる案は浮かばない。
「ごめん、じゃあご馳走になっても良いかな?」
「オーケーオーケー、お母さんにはもう話付けてあるから、じゃあ、後はあたしの口から紀見の母君にそういう流れになりましたっていう話をすれば良いね?」
 いつの間にそんな話が交わされたのかは知らないけれど、わたしはただただ北原の手際の良さに驚くばかりだった。後はわたしの方の調整だけという状況になって、わたしは携帯電話を手に取る。リダイヤルの履歴の中から自宅を選んで通話ボタンを押すと、そのタイミングを見計らっていたのだろう北原によって携帯電話がヒョイッと取り上げた。
「北原、ちょっと何す……」
 北原はそこまで言いかけたわたしの肩にグイッと腕を回すと、わたしの耳元でこう話した。
「今回のことを含めて紀見には色々と聞きたいことがある、今日は色々と話して貰うからね」
 わたしが何かしらを言い返すよりも早く、携帯からのコールにママが出る。だから、わたしは北原に反論をできないまま、その電話の対応に追われることになる。
 恐らく、その一連の流れは完全に北原の思惑通りだったのだろう。
「あー、ママ? わたし、紀見佳だけど……」
 わたしが事情を話し始めるよりも早く、ママからは小言が向いた。
「紀見佳、晩御飯を外食で済ませるときは連絡ぐらい入れなさいって前にも言って……」
 しかしながら、そんなママの小言が言下のうちに北原がその会話に割って入って、事態は一気に収束へと向かう。
「すいません。始めまして、わたし北原真由子と言います。ちょっと紀見佳さんを無理に引き留めてしまってですね、それでもし問題ないようでしたら、うちで晩御飯を食べていって貰おうかっていう話になって……」
 猫を二匹ぐらい被った外向けの声色でママと交渉をする北原を横目で眺めていたけど、わたしの視線は自然と向里山に向いていた。この手に握り持った杖の感触は確かなもので、ついさっきの出来事が夢幻ではないことを証明する。




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