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Seen05 倉元山植物園


 浮遊感がわたしを襲う。でも無重力とは違うのだろう。……だからといって、自由落下の感覚とも異なる。そこに重力のような「引かれる力」は感じられない。
 不思議な感覚だった。
 世界は暗転したままで、わたしの蝶が未来視の世界へと誘う時とはかなり感覚が異なる。その相違にわたしは戸惑いを隠せず、手足をばたつかせてどうにか体勢を整えようとした。
 視界が暗転をして生まれた暗闇が白い光に包まれたかと思えば「ゴオォゥゥゥッ」と高空を駆け抜けるかのような強風が吹き抜ける。それは莫大な量の情報を伴っていた。
 まるで早送りの映像を見ているかのようだ。大小様々の液晶パネルを鏤めて、その画像を切り替えていくかのよう。真っ白い世界が様々な情報に侵食されて、様々な光景を描写するのだ。それはわたしが瞬きをする一瞬の間に一つの景色に固定されてしまったけれど、中には見覚えのある光景もいくつか混じっていた気がする。
 不意にカタンッと小さな音が鳴る。何か柔らかな材質の上へと足を付ける感覚が生まれ、次第次第に浮遊感が薄れてゆくと、次はググッと地球の重力がわたしの身体全体にのし掛かってきた。
「……うう!」
 胸元からお腹を圧迫される感覚に襲われ、わたしは思わず呻き声を漏らした。
 その圧迫感はすぐに掻き消えたけど、後味の悪さが残る嫌な感覚だ。けれど、そんな後味の悪さを噛み締めながらも、わたしは周囲の様子の確認を怠らない。
 そこは時代に取り残されて、数年の時間が経過した廃墟のような場所だった。
 後ろを振り返ってみると、そこが六畳ぐらいの小さな部屋であることが解る。また、眼前には錆び付いた手摺りがあり、黒い薄暗がりが横たわる廊下へと吸い込まれるように続いていた。
 部屋には既に人の手入れがされていない様子をあちらこちらに窺うことができた。
 天井から釣り下がる膨大な量の樹木の蔦。
 支柱部が壊れ、壁へと微妙な角度で傾いた状態のまま、そこに捨て置かれた机。
 壁に為された塗装は剥がれ、あちらこちらに傷が走る。
「これはまた、……随分と不気味な場所に連れてきてくれたものだよね」
 わたしは率直な第一印象をぼそりと口にする。その次の瞬間、不意に背中を小突かれるような衝撃が襲う。
「うわッ、ちょっと何! ……っていうか、誰ッ?」
 わたしは前のめりになりながらから足を踏む格好になって、思わず驚きの声を上げる。
 踏み出した最初の二〜三歩はふわりふわりとした低反発素材のマットか何かを踏む感覚だった。けれど、四歩目からはそれが「土」だと解る感触に変わる。
 転ぶ一歩手前の体勢からどうにか踏ん張って、わたしの背中を押したであろう誰かの居る場所へと向き直る。しかしながら、そこには誰かが佇んでいるどころか人がいた痕跡すらない。わたしの足跡も四歩目の土の感触を感じた位置からしか存在しておらず、そこに何か「未来視の世界」との境界みたいなものがあったことを意識させられた。
 特に意識せずにその境界付近へ近づこうとして、わたしは足を襲う違和感に立ち止まる。足下へと目を落とすとその違和感の理由はすぐに理解できた。その小部屋の床には土が敷き詰められているのだ。
「……これって、土? なんで土が敷き詰められてるの?」
 わたしは「敷き詰められている」と言ったものの、そこは一定の高さに整地されているわけではない。ちょうどわたしから見て左手奥に位置する部分にはその土が天井近くまで積み上げられている形だ。そして、そこを中心になだらかな坂が形成されている。
 その積み上げられた土の山の先へと目を向けて、わたしはそこにかなり大きな穴があることを確認する。この小部屋の土は最初からここにあったわけじゃないんだろうなと思った。恐らく、全てその穴から落下し山積したものだろう。この山を掘り返していくと、落ちた天井の残骸なんかが発見できる気がした。
 よくよく目を凝らしてみれば、天井から釣り下がる蔦は天井を突き抜けて垂れている。加えて、そこに山積する土はその辺りの土地を掘り起こして運んできたような類の土質ではない。ガーデニングや家庭菜園に対して専門的に用いられるような人工的な土である。
 積み上がった土を避けるように視線を走らせると、小部屋のちょうど奥まった部分にドアを見付けた。ちょうどその右奥に当たる天井部には避難経路を示す「ドアと走る人」が描かれた表示もある。
 いや「ある」とは表現が適切じゃないのだろう。なぜならば、それはものの見事に表示部分が壊れているからだ。どうにか原形をとどめているに過ぎない。もしかしたら、それはわたしが知っているものとは全く異なる何かを表示していたかも知れない。緑と白の色遣いと、その構造や大きさからそれが何であるかを思い込んでいるに過ぎないかも知れないのだ。
 ともあれ、その緊急避難口と思しきドアからは目映いほどの日射しが差し込んでいた。この小部屋の唯一の光源だ。
 日光の明かりに引かれてわたしは自然にそのドアの側まで足を進めた。
 ドアは歪むこともなくそこに存在していた。けれど、立て付けは悪くなっているらしい。
 まずはドアノブを捻って押してみたけど、ビクともしないのだ。
「……よいせっと!」
 次にすぅと息を呑むと、わたしは体重を傾ける格好でそのドアを押す。そうやってみてようやく「ギイィィィィィ……」と床を擦る音が響いて、ドアは微かに開いた。
 ドアの開閉は苦労しそうだ。なにせ、それ以上は全くといっていいほどドアは開かない。
 既に立て付けがどうのこうのというよりも、この部屋自体が微妙に歪んでいる可能性さえ考えられた。
 なにせ、上の階から落下してきて積もったと思しき土の山があるのだ。まだまだ上の階にはかなりの量の土があるかも知れない。そこまで認識してしまうと、わたしはドアを開けるという行為に怖さを覚える。もしかしたら、ドアという支えがなくなることで、一気に崩れてくるかも知れない。
「今は無理に開けることを考えず進める道を進もう」
 そんな思考が脳裏を過ぎり、わたしはその進路を早々に諦めることを決意する。そうはいっても、好奇心を押し殺せずに直感が訴える忠告に逆らって、薄汚れたドアの硝子部分から外の様子を覗いてみたりもした。
 何せ、この建物がどんな場所に位置しているとか、今どこにいるんだろうとか。
 そう言ったわたしの疑問を解消する情報が得られる可能性があるからだ。
 しかしながら、そこからはわたしが望んだような情報を手にすることはできなかった。
 真っ先に飛び込んできた光景は「樹木が生い茂る山肌」という内容だった。その山肌には疎らに雑草が生えているだけのポイントも見付けられたけど、基本的には広範囲に樹木の生い茂る様子が確認できる形だ。薄汚れたドアの硝子越しであって、視界が決めらていたということもあって山肌に関して得られた情報はそれだけだった。
 山肌から視線を外すと、すぐに目に付くものは階段の踊り場である。階段はドアを出てすぐのところにあり、恐らく避難経路として設けられたものだろう。
 けれど、鉄筋コンクリートだったと思われる階段はそのコンクリート部分が下り部分の途中からゴッソリと完全に崩れ落ちていた。ちょうど、階段がそこにあったであろうラインをなぞるように中の骨組みだけが存在している形だ。
 階下へと移動する手段としては使用不可能な状態であることは言うまでもない。階上へと進む分には問題ないかも知れないけど、その階下の状態を確認した上で「では行ってみよう」などとは思えない。建物の中へと続く通路がどこも行き止まりだった場合の、最後の選択肢というのが精々だろうか。
 結局、そこから得られた情報は「ここが山に近い場所に立地する建物である」と、わたしに印象づけただけだった。
 天井の様子を確認しながら、わたしはこの小部屋のもう一つの出口へと足を向ける。薄暗がりの横たわる廊下へと続く出口の方である。
 ふと、その出口のすぐ脇の側壁にスイッチを見付ける。位置的にみて、それは室内・廊下の照明を制御するスイッチのようだった。微かな希望を胸にスイッチを押してはみるけれど、天井部に設置された照明が灯ることはなかった。
「電気は……、やっぱり来てないよね」
 暗闇の廊下を前にして進むことを躊躇っていると、ハタハタとわたしの周りを飛び交う蝶の様子が目に付いた。
 蝶はわたしの周りを飛び交うだけで、前回の時のようにわたしを置いて先に進もうとはしない。
「……今回は、わたしを置いて先には進まないの?」
 そんな嫌味を口にしてみても、蝶が先に進むことはなかった。てっきりどこか明確な目的地があって、そこへ案内してくれるものだと思っていたので、その蝶の挙動はわたしに取って想像外の出来事だったと言って良い。
「案内、してくれないの?」
 再度、わたしは蝶に確認する。しかし、蝶はわたしの周りを羽ばたくだけだった。
 腕組みをして指示を待ってみるけど、蝶が能動的に動くことはなかった。右とも左とも行く先を指示しない蝶の様子に、わたしは思案顔を覗かせる。その一連の挙動から察するに、今回はわたしの思うままに進んで良いということなのだろう。しかし、ここはわたしが望んで来た場所ではない。
「この廃墟めいた施設の中へと進んで足を踏み入れるつもりにはなれない」
 それがわたしの率直な感想だ。
 尤も、例えそんな事情があったとしても、好奇心が首を擡げるのタイプの人もいるだろう。好奇心をそそられる状況を前にして、子供心に火が付くタイプの人だ。きっと「探検してみよう」だとか思うのだろう。
 けれど、わたしはそういったタイプの人間ではない。それに、例えそういった子供心を持っていたとしても、恐らくそういう気持ちにはなれないだろう。
 未来を変えたい。変えなければならない。
 そうわたしに思わせる可能性を持った何か。
 そんなものが「ここには存在するんだよ」と事前に教えられている以上、そのわたしの低いテンションや受動に徹するスタンスといったものもおかしなものではないはずだ。
 いつまで経っても先導をしない蝶は、自分からデートに誘っておきながら満足にエスコートもできない男のように感じられた。わたしが強引に連れ出したならともかく、ここに誘うべく役目を担ってわたしの元へ放たれたのだ。進むべき道くらいは示して貰いたい。
「わたしを置き去りにして強引に進むゴーマイウェイもどうかと思うけど……、先導して欲しいって思う時に先導してくれないのも考えものだよねー」
 蝶を横目に捕らえながら、そんな嫌味を口にしてみても事態は何も改善しない。
 そして、このままここで時間を潰していれば解放されるという保証もなかった。
 いくつかの通過すべき条件みたいなものがあって、それをクリアしないと未来視の夢は終わらない気がする。特に跨堂の蝶に誘われて足を踏み入れた未来視の世界はその感覚が強かった。尤も、本当に終わらないかどうかを確かめるつもりにもなれないわけだけど。
「進みたくなんかないけれど、進まないわけにもいかないか。未来を変えなきゃならないって、わたしに思わせるかも知れない何かがあるって言っていることだし……」
 この未来視の夢へと誘うように要求したのは他ならぬわたしである。例え、蝶が道案内をしないという事態に直面していても「はい、止めた」というわけにもいかない。この跨堂の蝶が掻き消えるまで、わたしはここで何かを為さないとならない。それが暇潰しだろうと、意欲的な探索だろうと……である。
 全く気乗りがしないものの、わたしは重い足取りで薄暗がりが横たわる廊下へと足を向けた。数歩、薄暗い廊下へと足を進めたところでわたしは立ち止まる。そして、思い出したかのように後ろを振り返る。
「……さすがに付いてこないなんてことはないんだよね?」
 蝶はわたしの肩先ぐらいの位置を浮遊していた。蝶自らが帯びる赤い光で廊下の先を微かに照らし出してくれるけど、暗闇に目が慣れるまでは気休めにもならない。その蝶がもたらす光量ではものの大雑把な輪郭が解るぐらいで、その詳細な形状なんかを確認することはできない。
 ふと、跨堂との対談の後、わたしの部屋で目撃した赤い光のことを思い出す。わたしは改めて「あれは跨堂の蝶による光じゃないな」という思いを強くした。
 暗闇に目が慣れるまで、かなりゆっくりとした速度で足を進めていたから、移動量は大した距離ではない。しかし、その間、廊下を進む上で障害物となり得たものは何もなかった。強いて言うなら、所々、天井から蔦がぶら下がっていたことぐらいである。
 暗闇に目が慣れ進行速度を上げたところで、行く手を阻むように金網が張り巡らされた広いロビーのような部屋に出た。天井は高くないけれど、パッと見た限りで数本の支柱がその部屋に存在しているのが把握できる。横幅よりも奥行きの方が広いらしく、その部屋の奥行きがどれ程のものかを視覚では確認できない。
「……行き止まり?」
 部屋の様子を確認するため視線を走らせてはみるものの、そこに金網以外の何かを発見することはできない。その所為もあるんだろうか、部屋は見掛け以上の広さをわたしに感じさせる。張り巡らされた金網は何かを中心として、ぐるりと円を描くように配置されているように感じられた。そして、その金網は入念にも天井までの高さを持っていて、乗り越え侵入することを許さない構造になっている。
 恐らく、侵入者の行く手を阻むために設置されたものなんだろう。
 緊急避難口から建物内部へと進入可能な箇所には階下も階上も含め「似たようなものが設置されているんだろうな」と、わたしは単純に思った。
 金網に添って歩いてゆくと、不意に黄色いプレートが目の前に浮かび上がる。プレートは塗装が剥がれ掛けていたり、薄汚れたりしていたものの、掠れた文字で「立入禁止」と書かれているのを確認できる。それは金網に設けられたドア部分に括り付けられていた。
 ドアとは言っても、取っ手があって……だとか、そういう立派なものじゃない。関係者が出入りするために金網に切り欠きを設けて、そこに切り欠いた金網を用いて作ったような簡易なものをくっつけただけのものだ。
 けれど、その肝心なドア部分はチェーンによるロックが外れている状態だった。
 それは外れていると言うよりかは錆びて千切れたと言った方が正しいのかも知れない。垂れ下がるチェーンの先には天井から滴ったものと思しき、かなり大きな水溜まりがある。
 力を入れるまでもなかった。軽く押してやるだけそのドアは「キイイイィィィィィ……」と耳障りな金属音を立てて道を明け渡す。
 その先にはまた薄暗い廊下が続く。ぽっかりと口を開ける廊下は直進と右折の二つ。目を凝らしてその先の様子を窺ってみても、どちらも薄暗がりしか確認できない。
 当然、蝶が進むべき道を指し示すこともなく、わたしは選択肢を突き付けられる。
「……ここまで来ると、ホント勘以外のなにものでもないよね」
 わたしは苦笑しながら呟くと、直感に任せて右折の方を選んだ。
「うん?」
 薄暗がりが横たわる廊下へと足を踏み入れた瞬間のこと。ひんやりとした空気が肌に触れた気がするけど、それが実害を及ばさない以上、足を止める決定打にもならない。直感が危険を訴えることもない。わたしは廊下へと足を進める。
 壁に手を突きながら、五分近く歩いただろうか。わたしは丁字路へと突き当たる。
 ちょうど突き当たりに位置する箇所には二機のエレベーターが存在していた。尤も、最初はドアが一つと行き止まりの道が一本並んでいるようにしか見えなかった。蝶がもたらす明かりに照らし出されるような近距離まで近づいて始めて、それが併設されたエレベーター二基であることを理解した形だ。
 片方のエレベーターに至ってはまるで人が乗り込むのをずっと待っているかのように扉が開いたままの状態だ。こうして間近に見ているだけで、不気味さを感じずにはいられない。尤も、わたしはその不気味さの理由をすぐに理解する。
 本来停止すべき位置でエレベーターが制止していないのだ。エレベーターの床の高さと、廊下の床の高さとが合致していないわけだ。エレベーターの床は本来あるべき姿から三十センチ程度下に位置している形だ。
 エレベーターのある通路には明かりが全く差し込んでおらず、仮に蝶の明かりがなかったならエレベーターへと吸い込まれるように乗り込んでいたかも知れない。
 明かりがないのは外部の明かりを取り込む作りになっていないからだ。ただ位置的なことを考えると、この通路はちょうど建造物の中へ中へと入っていく方向になるため、それも納得できないわけじゃない。
 やっぱり、何か不気味だな。
 そう思った矢先のこと。
「さあ、行こう」
 耳元で誰かにそんな言葉を囁かれた気がした。
 わたしはふっと地を蹴ると、口を開けたエレベーターの中へと吸い込まれるかのように飛び乗った。高さの異なるエレベーターの床に着地した瞬間「キィィ……」と嫌な音が響き、わたしはハッと我に返る。わたしは着地した格好のままで固まったかのよう、エレベーターを揺らさないように細心の注意なんてものを払っていた。今更、既に「やってしまった」感が漂う後の祭りの状態だと言うにも関わらずである。
 幸運にも「ガクンッ」と大きく揺れ動くようなことはなかったけど、そのショックでエレベーターが落下し始めるなんてことも起こり得る可能性がある。
「……何してるんだろ、わたし? おかしいよ、……何か」
 全身には冷や汗が浮かび上がっていた。胸の内に生まれ始めた不安を抑え付け、ゆっくりと体勢を整える。
 これは跨堂の蝶が見せる未来視の夢の中。危険に晒されることなんかないはずだ。
 そんな意識が頭の隅にあったことは否めない。
 すぅと深呼吸をしてそんな気持ちを引き締めると、わたしはエレベーターに飛び乗ったからこそ確認できるようになった点に着目をする。「飛び乗ってしまったものは仕方がない」というポジティブシンキングだ。
 ただ、あまりにも不自然過ぎる行動には今更ながら引っ掛かる点もある。そうは言っても、未来視の世界の中で「暗示」めいたものにやられたのはこれが初めてじゃない。けれど、わたしが暗示に似た何かに唆された上で「エレベーターに飛び乗る」なんて行為を実行したならしたで問題も生まれる。
 その暗示をわたしに施したものが「一体何だったのか?」ということだ。目の奥のゴワゴワ感を含めて、わたしに違和感を覚えさせたものは何もない。もしかしたら、ここは跨堂の蝶が誘った世界の中で一番危険な場所なのかも知れない。
 ぶんぶんと首を左右に振って、そんな思考を振り払う。
 両手で頬を叩き、わたしはその手の思考に囚われてしまわれないよう気合いを入れ直す。
「今はエレベーターの様子に目を凝らすこと、それに集中するんだ」
 そう言い聞かせた。
 仮に、この未来視の結末を変えたいとわたしが願うことになるのなら、わたしは再びここを訪れることになるはずだ。だから、少しでも情報を得ておくべきだと思った。
 そのエレベーターは年代物という感じを持っていなかった。天井が酷い損傷をしているものの、側壁などの作りに関して言うと真新しささえ感じさせる。大きさ的には大の大人が十数人乗ることができるスペースが確保されている。
 今わたしの居る階層はこの建造物の三階に位置しているらしい。そしてエレベーターの数字を確認する限りでは、この建造物は四階層から成っているようだ。実際にはこのエレベーターで行けない階層などが存在する可能性も考えられるわけで、最低四階層から成っているという言い方が正しいだろうか。
 当然、電気が通っていないので、エレベーターのスイッチを押してみても反応はしない。尤も、反応されたらされたで、わたしは慌ててこのエレベーターから飛び降りただろうけれど。こんな状態で制止しているエレベーターがまともな動作をするとは思えない。
 ともあれ、エレベーターから得られた情報は少なかった。特にこの建造物を特定するようなものは何もない。
 足下の段差に気をつけながらエレベーターを降りると、わたしは階下・階上へ移動するための別の手段を探す。基本的には他の階層への移動手段として必ずエレベーター以外に階段が存在するはずだ。それは災害時などを想定した場合、駆動力を電気に頼るエレベーターでは避難経路として推奨されないからだ。
 尤も、最近のエレベーターは電気がカットされてからも、予備電源で数分間は使用可能な状態が維持されるらしい。何でも、その数分間で乗員が閉じこめられる事態を回避する仕組みが組み込まれているとのことだ。具体的には地震を感知した場合など、近隣の階層でドアを開き、その状態でロックされ自動的に使用不可能となるなどだ。
 話が逸れたけれど、大抵階段はエレベータの周辺に併設されていることが多いという経験則から、わたしはその周辺を探索することにする。
 そこに見付かるものはどれもそこに取り残された残滓と思しきものばかりだった。
 電気の灯っていない自動販売機。
 天井からワイヤーで釣り下げられた看板。
 がらんとした無駄に広い休憩所だったと思しき空間。
 洗面台などがそのまま取り残されたトイレだと解る作りの空間。
 一通りエレベーターを中心としたその周辺を入念に探索した結果、ようやくわたしは階下へ続く螺旋階段を見付ける。ただ、螺旋階段は階上へと続いておらず、階上へ進むためには別のルートを探さなければならないようだった。必然的に、わたしが進むべき先は下の階層となる。
 螺旋階段を下っていくと、すぐに螺旋階段の終わりへと辿り着く。蝶がもたらす明かりで出口と思しき重厚なドアの脇につるされた階層を示すプレートを確認した限り、そこは一階であるようだった。
 てっきり螺旋階段の途中には踊り場だとか二階層へと繋がるドアなんかがあると思ったのだけど、この螺旋階段では二階にも行くことができないらしい。一階と三階とを結ぶだけだなんて「おかしな作りだな」と思ったけわけだけど、わたしはすぐにその意図を理解することになる。
 見た目に重々しさを感じさせる重厚な作りのドアを開くと、目映い光にわたしは思わず目を細めた。それは跨堂の蝶が導いた未来視の夢の中で、わたしの目の前に何度も姿を現した件のドアを思い出させる。
「脈絡のない世界へと続くドアだったのかも知れない」
 そうも思ったけれど、振り返って確認した空間にはきちんと螺旋階段が存在していて、わたしは安堵の息を吐いた。また、おかしな世界へと足を踏み入れるのだけは勘弁して貰いたかった。
 眼前に広がる光景。それは一目見ただけではとても建造物の中だとは思えない光景だ。目映さはすぐに薄れていき、その全容を把握できるようになればなったで、その思いはより強いものになった。正確には薄れたというよりも「元々そこまで明るかったわけでもない」と言った方が適当かも知れない。
 パッと見た限りでは鬱蒼と木々の茂る森林に迷い込んだようにも感じられる。大きく腕を広げる木々が乱立していて、その濃緑の傘から漏れるように日光が差し込んでいる形だ。木陰となっている場所の至る所には苔が茂っている。最初から苔が茂っていたとは思えなくて足の先で苔を剥がしてみると、そこには高級感を感じさせる大理石が姿を見せる。
 既に原形をとどめては居ないけれど、床には基本的に大理石が張り巡らされているらしかった。樹木の根っ子が地面から飛び出ている箇所を見ると良く解る。大理石が敷き詰められていた床の残骸がそこには見受けられるのだ。
 わたしはゆっくりとした速度で足の赴くままに進みながら、周囲の様子へと目を向けていた。すると、不意に「空中遊歩道」と書かれた看板が姿を現す。それは背丈のある雑草の中で埋もれるように存在していた。
「……空中遊歩道?」
 看板に描かれた矢印の先に視線を走らせて、わたしはその意味を理解した。
 そこにはこの森林の様子を上から眺められるような仕組みが設けられている。ちょうど二階から三階にあたるぐらいの高さの位置に、両端に欄干の付いた陸橋みたいな作りの遊歩道が設けられているのだ。
「へぇ、こんな施設もあるんだね」
 空中遊歩道の途中途中には立ち止まって施設の中を確認できるような足場が設けられていた。また、二メートルぐらいの高さの黒い円柱形のものが所々に設置されているのも確認できる。わたしが推測するに、その円柱形の物体にはこの施設の説明がされた表示板なんかが埋め込まれているのだろう。
 そんな空中遊歩道の様子に目を奪われながら、特に足下を気にせず歩いていると、不意にペタンペタンと渇いた足音からベチャという滑った感覚に変わる。
「冷たッ!」
 反射的に足下を確認すると、そこはちょうど日光の当たる場所と、樹木の木陰との境にあたる箇所だった。苔が茂っているなんて状態からも解るけれど、このフロアにはどこかから水が流れ込んできているらしい。特に苔が茂る部分は湿って滑り易くなっていて、気をつけて進まないと簡単に滑って転んでしまいそうになる。
 そんな足下の状況から判断して、わたしは空中遊歩道の方を進むことにした。欄干があり足場として、空中遊歩道の方がしっかりとしているように見えたのがそちらを選んだ最大の理由だ。所々、樹木の蔦がまとわりついていて歩き難そうな箇所も見受けられたけど、少なくとも滑って転ぶという状況は回避できるはずだ。
 空中遊歩道はわたしの親指ぐらいの太さを持ったパイプ状の金属が網目状に重ね合わせられて作られていた。歩き難くもなくちょうど良いと思えるその編み目の大きさは、子供でもズボッと足を踏み外すことがないように設計されているのだろう。立てて加えて、それはさらに真下に広がる視界を確保するという役目も持っていた。
 カンカンカンと音を立てて階段を登って行くと、空中遊歩道が結構な高所に位置していることにびっくりする。下から見上げた時は「空中とは言ってもそんなに高くはないんだな」と思ったけど、実際に登ってみると下からみた高さと実際のものとでかなりの相違があることを理解する。
 ともあれ、そうやって一つ目線の位置を変えてみただけでこの建造物に対するたくさんのことが見えてきた。
 このフロアがかなりの広大なスペースを持っていて、全体的に樹木で埋め尽くされていること。そして、空中遊歩道はあちこちから枝分かれし、この広大なフロアを縦横無尽に駆けめぐっていることだ。
 差し当たって、わたしは最も近い位置に設置された黒い円柱形の物体へと足を向けた。それは数枚の樹木の写真が埋め込まれ、液晶画面とスイッチが付いた機械だった。手で触れてみた感じではプラスチックで加工されているように思える。恐らく、スイッチを押すと埋め込まれた液晶に近隣の樹木の詳細な説明を表示する仕組みになっていたんだろう。
「南米特産の広葉樹……」
 パネルの脇に書かれた説明書きも、樹木の写真も詳細に読み取ることができる。ただ、スイッチを押しても液晶画面に画像が浮かび上がることはない。電気が来ていないので当然と言えば当然だけど、こういう現状を目の当たりにすると原始的な媒体というのも捨てたものじゃないなと思わされる。
 ふと、わたしは液晶画面の脇にこの施設の名称と思しき記述を見付ける。
「く、ら、も、と、や、ま」
 まず最初に筆記体で書かれたローマ字表記の部分に目を向ける。そして、次に「botanical garden」の意味が思い出せなかったから、わたしはその上に書かれた漢字の記載に目を向ける。
「倉元山、植物園……か」
 漢字表記は他にも色々と後に続く言葉があったけど、しっかりと読み取れたのは黒地に白で書かれた「倉元山植物園」という単語だけだった。ただ、その全体像から後に続くものが大した意味を持たないものだと理解する。恐らく、位置や場所を特定する文字や数字の組み合わせ、もしくは運営会社と言った表示を後に続けたに過ぎないと思ったのだ。
「廃園になった植物園で起こる何かが、わたしに未来を変えなきゃならないって思わせるの?」
 口に出して言ってしまうと、跨堂を訝る気持ちが強くなる。まして、それはどこにあるかも知らない上に、聞いたこともない名前の植物園である。
「まぁ、考えても仕方ないことか。実際に見せられないと何も判断できないことなんだし」
 わたしは欄干にもたれ掛かると、取りあえず、この先進むべき方向を決めようと考える。
 特に意識することもなく、あちらこちらの方向へと枝分かれする空中遊歩道の道の先を目で確認する。すると、このフロアの中心と思しき場所に巨大な大樹が存在していることに気付いた。
「うわッ、なにあれ! ……凄い大きいよ」
 その大樹は最初からその位置に存在していたものなのだろうか。
 それとも、ここに植物園が設立された時に、どこかからか運ばれてきたものなのだろうか。
 ちょうど二階から三階の中間ぐらいの高さに位置する空中遊歩道のさらにその上まで伸びているのだ。その大きさから考えると、後者は難しいんじゃないかと思わされる。けれど、日本にそんな巨大な樹木が存在する場所など限られていると思えて、わたしはその大樹に興味を持った。
 足を進めるべき目的地が決まり、わたしは歩き出す。もちろん、植物園の他の場所を確認することも怠りはしない。……そう意識していたはずなのに、気付けば近づくにつれその大きさを増す大樹に目を奪われる格好になる。
 大樹まで後十数メートルという距離まで来た瞬間「ドゴンッ」という鈍い音が響き渡った。
「痛いッ!」
 わたしが声を挙げたのと、鈍い音が鳴り響いたのはほぼ同時。わたしは突然目の前に現れた何かに頭をぶつけた格好だ。頭部を襲った鈍痛はかなりのもので、思わず蹌踉めいたぐらいである。
「いったぁーいなぁ、もうッ! 何ッ、何なの?」
 そこに存在していたのは硝子の仕切りだった。よくよく確認すると、それは大樹の周りをグルリと囲うように、大理石の床から天井まで設けられいる。そして、空中遊歩道からでは中には入れないようになっているようだった。
 一際大きな大樹だけに目を奪われていたから気付かなかったけど、大樹の周辺も天井に設けられた複数の窓から目映いほどの日射しが差し込むような作りになっていた。そして、周囲の天井よりも一段高い作りになっており、一階から四階までが吹き抜けとなっている。
 さらに言うなら、その部分の天井は全てが硝子張りになっていて、積極的に採光をする作りとなっていた。そのため、この大樹の周辺だけ天井は見上げるほどに高い。遠目にこの植物園を見たなら、この部分だけ球状に飛び出した作りをしていることだろう。
 その周囲の空間はレイアウトから特別な樹木か何かが並べられていた空間だったであろうことが容易に想像できた。硝子の仕切りなんてものがあるということからも、その樹木の特別さは感じられる。高価だとかそういうことではない。恐らく、この硝子の向こう側は空調で温度管理を施していて、海外の珍しい樹木か何かを紹介していたのだろう。
 しかし、それらは日本の気候に合わなかった。そして、人の管理がなくなった世界では生きられなかった。そこだけは非常に朽ちた植物が目立つ場所だ。わたしの推測は間違っていないのだろう。
 その朽ちた植物を押し退けるようにして新緑の彩りが生い茂り、栄えるものと衰退するものとのコントラストがある。床にはスポットライトだったのだろう雑草に埋もれて何だか解らなくなってしまった機材がいくつも転がる。それらの大樹がこのホールで綺麗に飾り立てられていた痕跡が窺えると、そこには何とも言い難い哀愁が漂う。
「どうして廃園したんだろう?」
 率直にそう思った。
 考えても答えのでない詮無いことを振り払うと、わたしは硝子の仕切りを一枚間に挟んで大樹を見上げる。その胴体はわたしが四人腕を伸ばし手を繋いで作った円よりも巨大である。横にはあまり腕を広げない樹木のようで、大樹はその体格からはコンパクトとさえ思える硝子の仕切りの中に収まっていた。
 吹き抜けという構造上、そこからは四階の様子も窺うことができた。わたしはまだ足を踏み入れていないその階層の情報を得ようと目を凝らす。けれど、そこから得られた情報は微々たるものである。
 まず、一階から三階までとは違って椅子やテーブルといったものがそのまま取れ残されていることだ。尤も、わたしはまだ二階に足を踏み入れたことがないから、四階だけそうなっているとは断言できない。後は四階には軽食を出す施設があったであろうことぐらいだ。珈琲とスパゲッティが描かれていると思しき立て看板がそこには転がっている。
 わたしは一番近い空中遊歩道からの脱出路へと足を向けた。この空中遊歩道では大樹に近づくことは愚か、大樹を挟んで向こう側にあるフロアに行くことができないということに気付いたからだ。空中遊歩道を降りると、そこはこのフロアの壁際に位置する場所だった。
 フロアの壁際に位置すると言うこともあってか、そこは比較的植物による侵食を受けていなかった。大理石の床にしてもそう、割と損傷なく残っているし、壁の塗装なんかも所々剥がれてはいるものの原形を止めていると言える。
 そんな様子を目の当たりにすると、恐らくこの植物園も管理が行き届いていた当時はモダンな空間だったんだろうなと思える。しかし、あちこちに点在する人工物が植物による浸食を無惨にも許す形となっている今、中途半端に残ったそのモダンさはただただ不気味さを際立たせるものに過ぎなかった。
 昼間ならまだ良いけれど、夜の帳が下りた後の暗闇が支配する時間帯にここを訪れたなら、とても足を踏み入れるなんて気にはなれないかも知れない。
 空中遊歩道を下りた後、わたしは真っ先に順路を確認する。今歩いてきた空中遊歩道の他に、引き返すというルートを抜いて、この先には四つの進路が存在するようだった。黒と白のコントラストで作られた順路を示す看板には大きく左右の通路だけが矢印で描かれているため、他の二つは順路ではないのかも知れない。特別な植物を展示する小部屋へと通じているのかも知れないし、ベンチや自販機、トイレなどを設けた休憩所に続いているのかも知れない。
 ともあれ、わたしは壁に設けられた通路を進まないことには次のフロアへと行けないこともその看板から理解した。
 ふっと蝶の様子が気に掛かって、わたしの肩先に注意を向けてみる。相変わらず、蝶はこの「倉元山植物園」についてどこへ案内する気もない様子だった。足が向くままに行動するわたしの周りを羽ばたいているだけだ。
 まぁ、それも今更感が漂うことだけど……。
 わたしは順路に沿って、再び、このフロアを離れる通路へと足を向ける。薄暗がりの中へと進んでゆくけど、今回は向こう側に通路の終わりが見える形である。光が差し込み通路の床がうっすらと浮かび上がるぐらいの明るさもあり、歩く速度を緩める理由も、進むことを躊躇う理由もない。
 そんな薄暗がりを横断途中のこと、蝶がもたらす赤い光に照らされ、わたしの視界の右端に浮かび上がるものがある。
「ッ!?」
 わたしは飛び退かんばかりに驚いた格好だ。まして、それらが浮かび上がったのは右方向、ほぼ真横という想像だにしない場所からである。反対側の壁際まで後退り、わたしはそれらをマジマジと注視した。一気に跳ね上がった心拍数がもたらす心音が静まり返った廊下に谺するんじゃないかと思ったぐらいだ。
 視界の端に浮かび上がったもの。それは側壁に展示された無数のパネルだった。様々な大きさのパネルの中には写真や年表と言ったものから、書物の写しまである。
 ちらりと横目にその中身を確認した限りではこの植物園にある植物の起源などについての記述が並んでいるように見えた。尤も、蝶がもたらす明かりしかない状況下では詳細までは解らないから、それらが本当に起源などを記したものかどうかははっきりと解らない。
「脅かさないでよね、……心臓、止まるかと思った」
 まだバクバクと早い鼓動を刻む心拍数を落ち着かせるため、わたしはすぅと息を呑み深呼吸をする。改めて、この通路の出口へと目を向けると、蝶がもたらす明かりに照らされた範囲にドアを見付ける。
「ドア……だよね。こんなところに、ドア?」
 パネルの存在に驚いて立ち止まらなかったなら気付かなかったかも知れない。それは左手の壁にあって、方角的に植物園の中心に位置するあの大樹へと続いているように思えた。
「行ってみよう」
 そんな衝動に駆られる。しかし、同時にわたしはそのドアに対して不自然さも感じるのだった。突き詰めていくと、その不自然さ・違和感の答えには容易に辿り着くことができる。ここに至るまでの道の中で、通路と通路がドアで仕切られていたことはない。強いて言うなら、螺旋階段で三階から一階へと下りてきた、通路とフロアとを仕切っていたドアぐらいだ。恐らく、その違和感はその事実から来るものだと思えた。
「なぜ、あの大樹へと続く通路だけがドアによって仕切られているのか?」
 そんな疑問へと辿り着くわけだ。
「行ってみれば解るよ」
 そんな思考が脳裏を過ぎる。
 二度、ノブへと伸ばしかけた手を止め躊躇ったけど、我慢はそこまでだった。わたしは衝動に負けノブを捻る。ドアには施錠がされているようなこともなかった。音もなく簡単に道を明け渡されてしまって、わたしはドアの向こうへと続く通路へと足を踏み入れた。
 燦々と日光の照り付ける大樹が聳えるフロアとは対照的に、その通路は闇に支配されていると思った。けれど、そこには青白いフットライトが灯された幻想的な空間に仕立てられていた。
「……綺麗」
 その幻想的な美しさに見取れていられるのも束の間のことだ。すぐに現実が襲ってくる。
「ここって、電気が来てないはずじゃなかったの?」
 無人の廃園を散策するという状況はわたし以外の第三者という存在の可能性によって、あっという間に崩れ去った。不意に跨堂の言葉が脳裏を過ぎり、改めて「ここに何をしに来たのか?」を認識させられた気分だった。
「未来を変えなきゃならないとわたしが思う出来事……か」
 そう呟いてしまうと、今まで影を潜めていたはずの物恐ろしさなんてものが首を擡げるのだから不思議なものである。
「わたしはここにそれを確認しに来た傍観者」
 その事実を自分自身に言い聞かせ、わたしはこの幻想的な空間の終わりに確認できるドアへ向かって歩き出す。
 通路自体は端から端まででかなりの距離があった。それはわたしの感覚でいうと、この通路の途中までの長さで既に大樹まで届いてしまって居るんじゃないかと思えるぐらいだ。通路の途中にある十数段程度の下りの段差がまた大樹の下、つまり地下へと続いてるような印象を与えるからその感覚は尚更だった。
 通路を進んでゆくと、段差を境として左右の側壁に二つずつドアがあるのが確認できる。もしかしたら「関係者以外立入禁止」と記載されるような通路へと、わたしは足を踏み入れたのかも知れないと思った。だからと言って引き返すつもりにもなれず、わたしは段差を下り通路の終わりに佇むドアへと進む。
 突き当たりにあるドアを開くと、燦々と降り注ぐ日光が飛び込んできて、思わずわたしは目を細める。その通路はわたしが思った通りの場所へと繋がっていた。眼前に広がるのは空中遊歩道からその様子を眺めた聳える大樹だ。
「うっわー、大きい……」
 わたしは無意識のうちに声を漏らしていた。それは「感心した」と言わないばかり、子供がはしゃぐ声にも似たものだ。もっと大樹の根元まで近づいてみようと思い立って、わたしは大樹の根元へと視点を移す。
 すると、そこにはきちんと大理石によって仕切られた道を見付けることができた。対照的に、わたしがドアを潜って出た場所は膝下までの高さがある雑草が乱雑に茂る草藪の中だ。
 わたしは本来の順路ではない道を通り、この大樹のあるフロアへと来たことを理解する。取りあえず、大樹の根元を沿うように設けられている順路へと行くことにした。そのまま草藪を掻き分け大樹の根元まで近づいてゆくという選択肢もあるけれど、距離が近いというだけで無駄な労力を使うだけだ。デメリットの方が大きい。
 ただ、大樹の幹付近まで順路が設けられているとはいえ、順路からでは実際に大樹に触れられるぐらいの至近距離までは近づけないように見える。わたしが大樹に触れてみようなんて考え実行した日には、どちらにせよ草藪を掻き分けて進まなければならないことに変わりはないだろう。
 順路が存在する場所の大半は直射日光が降り注ぐ空間だったから「結構暑いのかも」と思えば、根元付近はちょうど大樹の木陰になる形でちょうど良い日溜まりだった。足を休めるためのベンチなんかがそこにあれば、ついついうたた寝してしまいそうな心地よさがある。深呼吸をしてみれば身体から緊張感が抜けていき、今「安らいでいるのかも……」という感覚に包まれる。
「んー、空気が美味しい気がする」
 跨堂の蝶によって未来視という「夢」を見ているに過ぎないはずのわたしが空気の美味しさなんてものを感じられること自体、正直おかしな話だ。だから、それは「ただの気のせいだ」と訴える意識もある。だけど、わたしは確かに澄んだ空気というものを感じていたのだった。
 大樹を真正面に捕らえられる位置に立ち、改めてその立派な様を見上げてようとした矢先のことだ。
「ドタンッ」
 突然、背後から大きな音が響いた。それも、それはかなりの近距離である。
 意外な方向からの物音に、わたしは心臓が飛び跳ねるほどに驚いた格好だった。
 仮に、そこにいつぞやの黒い影なんてものがいたのなら、目を回して倒れていたかも知れない。
 ゆっくりと振り返って背後を確認する。そこにはフードにフェイクファーのついたダウンジャケットを来た男が立っていた。カーゴパンツと言えば適当だろうか、ポケットが無数についたポリエステル質のズボンを履いている。全体的に濃緑色の着衣を好んでいるようで、よくよく見ると、靴の色までその濃緑色で揃えられていた。
 いつの間に、こんな近距離まで接近されたんだろう?
 わたしは全く気配というものを感じなかった。それは眼前に聳える大樹に注意の大半を向けていたからかも知れない。けれど、それにしてもこの男は足音一つ響かせなかった。
 ダウンジャケットの男が大理石の床に置いたものは見慣れない機材だった。ライブハウスなどに設置される中型のスピーカーみたいな大きさで、いくつものオンオフスイッチと摘みがついている。
 ともあれ、ダウンジャケットの男にそれを弄る様子はなかった。
 男はダウンジャケットの胸ポケットから携帯電話を取り出すと、見ていて不慣れだと解る拙い操作で電話を掛ける。
 ふと、あの地下通路で出会したダウンジャケットの男と同一人物だと思った。直感的にそう思っただけで何の根拠もないけれど、わたしはその直感を信じて疑わない。
「最後のブースターをセットした、真場(まば)が最初に指示したポイントだ」
 男は携帯電話を片手にその機材へと手を伸ばし、そしてこれまた不慣れだと解る拙い動作でそれを操作する。その様子は電話相手からその機材に対する指示を受けているようにも見える。
 静まり返る倉元山植物園には、携帯から「道神(みちがみ)」とダウンジャケットの男を呼ぶ声が響いた。会話の内容までは聞き取れないものの、確かに男は「道神」という名前で呼ばれているようだ。
 道神が床に手を向けて、すぅと空を切るように動かす。すると、床の上には赤く発光する記号のようなものが浮かび上がった。それはすぐに掻き消えてしまったけど、道神はそうやって発光させることで「真場と呼んだ男が指示したポイントかどうか」を確認したのだろう。
「……ああ、間違いない。真場が示した計算結果の中で最大の曲線を描く設置ポイントだ」
 道神の会話の内容に聞き耳を立てながらも、その不思議な現象を眼前で見せられわたしは確信していた。
 間違いなく、あの地下通路で擦れ違った相手だと。
「すまない、最初から一つ一つゆっくりと口で言って貰えるか? 基本的にこの手の操作に慣れていないんだ、……今からブースターを起動させる」
 機材に視線を落とす道神は大きく息を吸う。それは機材の操作を行うに当たって覚悟を決めたようにも見えた。
 道神は「パチンッ、パチンッ」と一つ一つオンオフスイッチを押していく。「三番目、六番目……」と呟く様子は、スイッチを押す箇所を無意識の内に確認しているようだ。恐らく、電話相手がいう言葉を鸚鵡返しに口にしているのだろう。しかし、その道神の様子は真剣そのものの表情と相まって、非常にわたしの印象に残る形だった。
 そして、目盛の付いたダイヤルを最後にグルリと回し始める。キチキチキチキチ……といかにもダイヤル式の音がした。二回から三回半は回しただろうか。次の瞬間、その機器からは「ブウゥゥゥゥン」と微かな起動音が響き渡る。
 その軌道音が鳴り響いてようやく、道神は「ふぅ」と安心したような息を吐いた。
「これで問題ないと思う、全てのポイントに波及し、全てのポイントで起動したはずだ」
 やり終えた満足感のある顔付きをする道神の様子をわたしは結構な近距離で眺めていた。その気になれば、助走なしで飛び掛かり、瞬時に邪魔ができるぐらいの距離だ。
 それは道神がわたしの姿を見ることができないという条件の上に成り立っていたのだけど、唐突に道神はわたしの方へと目を向けた。何の前触れもなくだ。
 わたしは慌てて、背後を確認するけどそこには何もない。
 では、道神はわたしの姿を見ているのだろうか?
 ……確信は持てなかった。
「あの、わたしは別に怪しいものじゃ……」
 そう弁解をしようとするわたしに対し、道神はちょうど斜に構える体勢だ。その目付きはお世辞にも友好的とは言えない。わたしは言葉を呑み込み、思わず怯むように二歩三歩と後退る。
「……」
 道神が口を開いて何かを話し出すことはなく、そこには沈黙が生まれる。後退るわたしの様子を道神はただじっと窺っているだけだった。
 だから、改めて弁解をしようとわたしが口を開き掛けたその矢先のこと。
 道神はわたしへと向け、手をすぅっと翳してみせた。また、なんの前触れもなくだった。
 瞬間、目の奥には強烈なゴワゴワ感が生まれる。それは異物感にすら似た強烈なものだ。今まで感じたものとは比較にならない。けれど、わたしはそこに何が為されるのかを確認しなくてはならないと思った。ここで目を瞑り、それから目を背けてしまえばいつまで経っても、この感覚の理由を知ることができないと思ったのだ。
 強く意識していないと自然に下がり始める目蓋をカッと見開こうとするけれど、……耐えられなかった。空に翳した道神の手が制止した時、わたしの眼前には見慣れない何かが浮かび上がっていたのを確認したけど、それを捉えられたのはほんの一瞬だった。ただ、それが先ほどの床に浮かび上がったものとは違うことだけは理解した。
 目の奥のゴワゴワ感が掻き消えた次の瞬間、背筋に悪寒が走る。
「逃げろ!」
 直感がそう主張して恐怖心を掻き立てるけど、逃げるには既に遅い。
 一筋の強風とともに、何もない空間からわたしを中心として白い炎が吹き上がる。
 わたしは確かな熱量を感じて目を閉じていた。咄嗟に身体を丸めて防御姿勢を取っては見るけど、それは怪我の度合いを軽減させられるようなものなんかじゃない。痛みに備えて身体を硬直させただけに過ぎない酷いものだ。
 まして、本当に炎に包まれたのであれば、全速力でそこから待避するのが最善策。冷静な頭で考えたならすぐに解るはずのことでも、渦中にあるわたしには気づけないことだったのだ。
「……!!!!!!!」
 声にならない断末魔を挙げたのはわたしではなかった。
 恐る恐る目を開いて見ると、そこにはハタハタと羽ばたく蝶がいた。断末魔を挙げたのは跨堂の蝶でもないらしい。
 わたしの肩先辺りの位置にそれはあった。既に白い炎に焼かれて灰と化してしまっていて、どんな原型を持っていたものなのかも確認できなかったが、もしかしたらそれはずっとわたしの後ろを付いてきたのかも知れない。
 思えば、わたしが感じた熱量も肩先あたりだった気がする。
「どうした?」
 道神までの距離が近かったこともあってか、電話越しのその真場の問い掛けははっきりと聞き取ることができた。
 わたしの居る空間から視線を外し道神は答える。
「いや、あまり好ましくないものが漂っていたのでな。何かしらの実害が生まれる前に排除したまでだ」
 わたしはすっと機材に向き直る道神の背中をマジマジと注視した。まだ心拍数は跳ね上がったままで、冷静というには程遠い。けれど、まるで当たり前のことを当たり前のようにやったような口振りをする道神が「普通」ではないことだけは理解した。
「まだ、そういう役目は果たさないとならないのかい?」
 真場の返答には驚いた様子はない。それは道神がそういうことのできる存在だと「知っている」ことを意味する。
 そして、わたしが何より気に掛かったのは真場が「まだ」という言い方をしたことだ。何を持って「もうしなくてもよい」という状態になるのかは解らなかったけど、道神の答えに迷いはなかった。
「当然だ、新たなものを担う存在になろうとするからには尚更だ」
「そっか、頼もしいな」
 カラカラと笑いながら、真場は言う。
「……さて、どうする?」
 道神は真場に対して何かを確認しているようだった。その様子を窺っている限りではこれからのことを話しているように見えるけど、正直、その推測が正しいかどうかは実際に道神の行動を確認しないと判断できない。
「……微調整は後にする? まずは腹拵えが先? ああ、もちろん、頼まれたものは揃えてきた」
 道神の手にはコンビニの袋が握られている。その中にはカップラーメンとペットボトル飲料、そして惣菜のパックが入っていた。中身を確かめるように一度コンビニ袋を覗き込んだ後、道神は壁に向かって歩き出した。
 わたしもその後を追って歩き出すけど、目の奥がゴワゴワとする感覚の前症状に足を止める。
 道神が壁に向かって手を翳し空を切って何かを描いた瞬間、その目の奥のゴワゴワ感は一気に度合いを激しくする。一瞬、何が起こったか解らないほど、わたしは混乱した。それは既に目に何かゴミが入ったようなレベルではない。相変わらず痛みを伴わないながら、激しい不快感と目の奥を襲うどうしようもない異物感だ。
「目玉が飛び出してしまうんじゃないか」
 そう思わずにはいられないほどの感覚と、ゴワゴワ感を通り越してチリチリと目の奥を焼くような熱さに、わたしは何度も何度も目を擦る。
 また白い炎が吹き上がるのかとも思ったけれど、そこには違う現象が現れる。ただ、それは見覚えがあった。
 塗装の剥がれた壁に波及する白い波。
 あの地下通路で見た光景が再現されているんだと理解した。
 水の膜を間に挟んで向こう側を覗き見るもどかしい感覚に、わたしはぐっと拳を握り締め目を見開いた。爪が痛いほど皮膚へと食い込むけれど、別の痛みで気を紛らわせでもしないと、目を見開き続けることなんてできなかった。
 そこで何が起こっているのかを理解しないとならない。……つくづく、そう思った。
 塗装の剥がれた壁には記号のようなものが描かれていた。それが始めからそこに描かれていたものなのか、それとも道神がそこに描いたものかは解らない。けれど、今回ははっきりとその記号のようなものの輪郭をわたしは捉える。
 それはいくつかの文字を組み合わせ、そして重ね合わせたかのような不思議な記号だ。記号という言い方自体、正しくないかも知れない。けれど、それは「記号」と称する以外に呼びようのないものだとも言える。
 道神がその記号に触れると、その記号を中心に白い光の輪郭が浮かび上がる。それは人一人が通れるぐらいの大きさを持っている。道神はその輪郭の中に、わたしが見ている目の前で吸い込まれるかのように消えてしまった。実際には自ら足を踏み入れるようにして進んでいった格好だから「吸い込まれる」という表現は正しくないだろう。けれど、端から見ている限りでは吸い込まれるかのように見えたのだ。
 あまりにも自然に消えてしまったから呆気にとられて固まっていたけど、一定の輪郭を保っていた白い光が上下左右に微かなぶれを生じ始めたところでわたしはハッと我に返る。
「早く追わないと!」
 無意識的にそう口に出してしまえば、わたしの身体はバネ人形か何かのように行動をする。大理石の床を蹴ると、上下左右にぶれる幅が大きくなり始めた白い光の輪郭の中へと道神の後を追って飛び込んだ格好だ。
 深いことは何も考えていなかった。ただ「早く後を追わないと、後を追えなくなっちゃう」と言う焦りから来る思いがそこにはあった。
「後を追わなければならない理由なんかなかったはずなのに!」
 そんな思いが脳裏を過ぎるけど、既にわたしは後には引けない場所へと進んでしまったらしい。その時ほど「後の祭り」という言葉を強く意識したことはなかったかも知れない。
 そこは雑踏。
 誰とも知らない人達が絶え間なく行き交うどことも知れない都市部の街角。
 肩がぶつかるかぶつからないかの距離を人の流れが擦り抜けていくさまに、わたしは気圧される。予想外の光景が眼前に広がって、呆気にとられたといった方が良いかもしれない。
 ざわざわとざわつく人の声は楽しそうにも、怒っているようにも、無関心なようにも聞こえた。それらの声はグルグルとわたしの周りをまとわるように絡み付いてきて、聴覚を麻痺させる。
 わたしは顔を顰める。何より、居心地の悪い空間だった。早くそこから脱出したいと思うほどだ。
 ゆっくりと振り返ってみて、今まさに潜ってきた白い光の輪郭を探すけど、そこには何もない。
「……深みに嵌ってる気がする」
 今の心情を素直に口に出して見ると、いつかの光景がフィードバックする。そして、わたしはあの時から全く学習できていないことを再認識した。
 目まぐるしく変化する人の流れからは「立ち止まってはいけない、歩き出さなきゃならない」といった強迫観念を強く受ける。そうして、流れに乗るように歩き始めてしまえば、今度は止まることに恐怖を感じる。立てて加えて、そこには「早くここから脱出したい」という思いもあるから焦りも生まれる。
 すぐにわたしはどこへ向かって進んでいるのか解らなくなった。まず、まっすぐと進んでいたはずなのに、わたしはまっすぐ歩いているという感覚を失った格好だ。それは平衡感覚を失ったと言うよりも、視覚情報そのものが狂ってしまったような感覚に近い。わたし自身は直進するように足を動かしているはずなのに、道の方が勝手に方向を変えているみたいな感覚だ。
 それは雑踏という状態に置かれるわたしの眼前を、法則性なく乱雑に人が横切っていくからかも知れない。目印となるものが何も存在しないから方向感覚が麻痺してしまった。そうも思えた。けど、道が勝手に向きを変えているという感覚も根強く残る。
 まして、目の奥を襲うゴワゴワ感は薄れはするけど完全にはなくならず、チリチリと目の奥を焼くような感覚にしても依然として残ったままである。はっきりとその世界を目に留め、見ることができるのにも関わらず、わたしを襲う異変が影を潜めることはない。
「早くここから脱出しないとまずいことになる」
 そんな焦りに急かされ、わたしはがむしゃらに足を進める。ただ、進めば進むほど道に迷う悪い方向へと事態は悪化の一途を辿っている感覚もある。けれど、既にわたしはわたしの意志で簡単に止まれる状態ではなくなっていた。
 不意に、グイッと肩を掴まれたような錯覚に襲われた。
「……誰?」
 ハッと我に返って後ろを振り返れば、そこにはわたしの蝶がいた。わたしが望まなかったから、すぐに掻き消えたけれど、それは間違いなくわたしの蝶だった。明確な意思表示はなかったけれど、蝶に呼び止められた気がした。
 わたしは雑踏の中、思い切って歩くことを止め一人立ち止まる。他には誰も足を止めている人なんていない。それはまるで、どことも知れない目的地に向かって、ただひたすらに邁進しているようにも見えた。
「もしかしたら、ついさっきまでのわたしのように「ここから出たい」って思って出口を探してるのかも……」
 ふと、そんな思考が脳裏を過ぎる。
 立ち止まるわたしの視界の端を跨堂の蝶が羽ばたいたかと思えば、その次の瞬間、不意に視界が暗転した。
 黒い靄のようなものがじわじわーっと、雑踏だった光景の中に広がっていった。それは瞬く間に、雑踏だった光景の全てを埋め尽くす。いつの間にか、ざわざわとざわついていた人の声も掻き消え、そこには静寂が生まれた。そして、わたしの目を襲う違和感といったものも同時に掻き消えた。
 コクンと唾を飲み、わたしは身構える。何かただならぬことが始まる。そう直感が訴えたのだ。
 そして、それは一瞬のこと。
 ある一時を境として、わたしの目が捉えることのできない範囲で全てが切り替わった。
 そこに蝶が舞っていなければ、わたしはその世界をただの夢だと言い聞かせたかも知れない。
 とにかく、何から何まで異様だった。当たり前だと納得できてしまえるものなど何一つないかも知れない。具体的に「何が」と言うのは難しい。けど、少なくとも地球上にそんな世界は存在しないようにさえ思えた。
 四方八方に広がるものは広大な薄暗がりだけ。いや、薄暗がりと言うには視界が悪く、暗闇というにはその黒色の濃度が足りない。また広大なようであり、浅狭でもある。そんな二面性を持った場所。常に相反するその感覚が交互に襲う異様な空間。言葉にして表すなら「異様」という以外に表現のしようなんてないかも知れない。
 そこを照らす明かりは何もない。けれど「照らす」明かりはないにも関わらず、わたしは真場と思しき男の全体像を確かに捉える。跨堂の蝶のように、自らが発光し光を伴っているのかと思えばそうでもない。
 真場と思しき男はそんな光の下、何もない空間に腰を掛けるような体勢で浮いていた。身体を支えるものをわたしはこの目で捉えることができないし、相対的な位置関係にも不自然な点が残る。だから、ソファーに腰を掛けるような格好で浮いているとしか言いようがない。
 ふと、もしかしたらここには床など存在しないのかも知れないと思った。そう考え始めてしまうと、確かに今わたしが足を付いている床なんてものは錯覚のような気がしてきて、真場と思しき男とともに深い闇の底へと落下している気がする。激しい物恐ろしさと、全身を駆け巡る身震いがあって、わたしはそこに踞る。
 浮遊感も落下の感覚もない。けれど、だからこそ、この足の下に広がる世界が奈落へと繋がっているかのような気がしたのだ。「ここは来ては行けない所なのかも知れない」とさえ、思った。
「……怖い」
 呼吸をする音、人が空気に触れることで失う体温の温もり、気配、とにかく何から何まで欠け落ちてる気がする。
 わたしは真場と思しき男を見ることができる。けれど、同じ空間上に存在していないんじゃないか。立体的な映像を空気中に3D投影する最新鋭の技術か何かが駆使されているんじゃないか。
 そうも思う。
 それがわたしか、それとも真場と思しき男のどちらかは解らないけど。
「道神、そろそろ準備が整うぜ」
 唐突に真場と思しき男が口を開く。それは携帯電話越しに聞いた真場の声そのものだ。それはわたしを間に挟んで、わたしの背後へと向けられていた。振り返って確認すると、そこには道神がいる。
「一体、いつの間に追い越したのだろう?」
 そんな思考に集中力を削がれながらも、わたしは真場の問い掛けに対する道神の反応をじっと窺う。そうしていると、道神は通り過ぎざまにわたしの顔を覗き込むような仕草を見せた。ちょうど目が合う格好だ。道神のピントがわたしにあっていたかどうかまでは解らない。尤も、それはわたしの背後にいた「好ましくないもの」を見ていた時のような仕草とも異なっている。
 思わずドキッとした。
 跨堂がそうだったように、わたしの存在を見ることができる相手なのかも知れない。そんな思考が脳裏を過ぎったものの、その仕草の後、道神が何か特別な反応を見せることはなかった。
 結局、その仕草が何の意味を持つのか解らずじまいのまま、わたしは一連のやり取りを覗き見る傍観者へと戻る。
「……いいな?」
 再度、唐突に切り出す真場に対して道神は何も反応をみせない。
 念を押すように、真場が言う。
「ここまで来たら、もう後には引けないぜ?」
 真場は道神の顔をじっと注視する。それは道神の同意を得られない内は先に進めないという態度にも見えた。
 そんな真場の雰囲気を察してか、ようやく道神が答える。
「後など、……引くべき道などない。最初に告げたようにただひたすら先へ先へと進むのみ」
「それでもだ、俺は無理矢理に道神を引きずり込もうなんて考えてるわけじゃない。確固たる意志を示して貰わなきゃ困る。……俺だけじゃ先に進めない」
 真場の言葉には強い決意が見え隠れする。道神が先に進む意志を示さない内は先に進むことはない。そう思わせるに足る張り詰めた緊張感がそこには滲んだ。
 道神はすぅと目を閉じる。何かを思索し、改めて決意を灯す必要がそこにはあったのだろう。真場が「後には引けない」といったように、迷いを断ち切る時間が必要だったのかも知れない。
 そして、数秒の沈黙を間に挟み、真場と同じ決意の灯る目付きをして道神が口を開いた。
「……先に進もうか。意味を得るために。このまま時代の変遷とともに掻き消えるわけにはいかない」
「ああ、意味を得るために……だな」
 真場は満足そうに頷くと、道神に背を向け作業を開始する。
 しばらくの間、道神は黙ってその様子を眺めていたが不意に口を開いてこう尋ねる。
「なぜこの媒体を選ぶ? 情報を伝達する媒体としては情報そのものを劣化させる不完全なものではないのか?」
 道神の視線の先には暗澹たる暗闇が広がるのみ。けれど、道神は確かにそこにある何かを見ている。
 わたしは道神の視線の先にあるものが何なのかを見ることができない。こういう時に決まって発現した目の奥のゴワゴワ感さえない。本当に「そこに何かがあるのか?」と訝りながら、わたしは真場の解答に注目した。
 ただ「なぜ見られないのか?」はともかくとして、わたしはそこに酷いもどかしさを覚えた。
「不特定多数へ視覚情報を伝達する媒体としてはちょうどいいからさ。最盛期の勢いをなくし情報伝達媒体としての地位を失墜させたとはいえ、ターゲットを絞った「人気を集められる商品」ではまだそれ相応の視聴率を持ってる」
 道神の問いに対する真場の説明は最初にガンッと結論が示され、その後に結論に至る理由が続いた。
 一つの間をおき、真場はその「情報伝達媒体としての地位を失墜させたもの」についての説明を始める。作業する手を止め道神へと向き直る真場の様子からはその説明という行為が「片手間」という感じはない。
「このテレビっていう媒体は一昔前の世界的な大不況の時代、構造上の脆弱性に着眼されプロパガンダをばらまく道具として乗っ取られた。……公共性やら中立性やらを発信する媒体としてはあってはならない不祥事だった。そんな苦い経験を経て二重三重のセキュリティ対策を織り込み、しばらくはがっちがちの食えないシステム時代が続いたけれど、一度失墜させたものを取り戻せなかった。運も悪かったんだ、ちょうど情報発信媒体の多元化が進んだ時代とも重なった」
 そこまで真場が言い終えるまで、道神はただ黙ってその説明を聞いていた。
 けれど、ふっと眉間に皺を寄せたかと思えば、道神は続ける言葉で真場の性格についてこう指摘した。
「……真場は、人が悪いな」
「正直なところ、ただの偶然だったんだけど俺も説明しててそう思った」
 真場はカラカラと笑いながら、道神の意見に同意する。
 その言わんとするところの意味を理解できないわたしは一人、そのやり取りを訝しげな顔で眺めることになった。
 真場は胸ポケットからパンフレットを取り出すと、それを道神に向け差し出す。作業する手を止めたのはそんなやりとりをするためではなく、そのパンフレットを道神へ渡すためだったのだろう。
「古き時代の街並みと生活様式を模した一大イベントが開催されるらしい。入場者数の減少に悩むテーマパークの集客のテコ入れ策としてかなりの金額が投入されたらしい。前評判通りなら注目度はかなりのものだ」
 道神の方もそれを受け取り、興味深げにページを捲った。「ふぅむ」と、そんな声を出してパンフレットに魅入る様子は道神が見せた以外の一面だと言えただろうか。ともかく、かなり興味を持っていることに違いはない。
「何のパンフレットか確認しよう」
 そう思い立って道神の背後へと忍び寄ろうとするけれど、わたしは後数歩と言う時になって躊躇うのだった。道神は時折、わたしの存在に気付いてるような節を見せるのだ。まだ、特別わたしの存在を厭うような仕草を見せたことはないけれど、そこまで接近してしまうとどうだか解らない。
 常識的に考えれば、夢の中の登場人物が直接わたしに対して危害を加えるようなことはできないと思うけれど、ここは五感を感じることのできる世界でもある。その可能性がないとも言えない。何度となく覗き見た記号の力を目撃しているからこそ、その思いは強い。
「確かに、懐かしさを感じさせる世界が再現されているみたいだな」
 道神の口調は淡々としたものだった。けれど、相変わらずパンフレットへと落とすその視線には強い興味の色が滲んでいる。その淡々さはパンフレットの中身に熱中していたからとも取れなくはないぐらいだ。
「特に映像再生にまで旧式の通信方式を用いて過去の映像を再現する催しは櫨馬の街角にあるパノラマビジョンなんかでも大々的に放映するらしい。映像で見る時代の移り変わりって奴を、みんなに実感して貰おうって趣旨らしい。かなりの数の人間が細工の施された映像を見ることに繋がるはずだぞ?」
 満足そうな顔をする真場は目的の達成を確信しているようだった。ただ道神から何かしらの反応がなく、真場は訝しげな表情をして問い直す。
「……道神?」
「ああ! ……うん、そうかも知れないな」
 心ここに有らずといった調子で返事をした道神に、真場は肩透かしを食らったような顔をした。よもや、道神からそんな答えが返ってくるとは思っていなかったのだろう。
 確かにそのやり取りからは真場が伝えようとした真意を道神が捉えられている風には見えない。
 真場は呆れたように一つ溜息を吐いた後、冗談めかして続ける。
「……俺達も一段落付いたら行ってみようか、道神? 古き良き時代の思い出に浸りながら、酒を煽るのも悪くはないかも知れないぜ?」
「ああ、それは悪くない考えだ」
 その道神の返答は真場に取って思い掛けない言葉だったらしい。大きく目を見開いてマジマジと道神の様子を確認した後、真場は微苦笑に近い曖昧な笑みを見せる。それは今更「冗談だった」と言えない状態に見えた。
 立て続けに垣間見たらしくない道神の様子に、真場は後頭部を掻き「調子が狂う」という態度を見せた。そして、仕切り直しと言わないばかりに真面目な顔をして言葉を続ける。
「光通信網間の位相ゴースト観測なんて技術が確立され、非連続関数式ジャックライドの暗号化技術も破られた今、その派生技術によって生み出された暗号化技術も、ただただ時間を掛けるだけで簡単に破ることができるようになった。まぁ、俺には理論的なことは全く解らないけどな。ただ、世に溢れる退屈を持て余した天才達がいくらでも持たざる者にツールを与えてくれる。だから、俺のような持たざる者なんかでもこういうことが簡単にできる」
 真場が取りだしたものはテレビの電波受信用のチューナー機能がついたポータブルゲーム機だった。ポータブルゲーム機の液晶画面にはテレビ放送が映し出されている。映像は非情に鮮明で、若干ノイジーな音声以外に気に掛かる点はない。
 真場がノートパソコンのキーボードを叩き何かを実行すると、映像の鮮明さは一転する。画面の両端に緑色の線が何本も走り、時折、映像が歪んで何を映し出しているのかが解らなくなる。そんな具合に二転三転を経ると、液晶画面は砂嵐だけを映し出すようになった。
 ノートパソコンから伸びるケーブル類の類は一切ポータブルゲーム機には接続されていない。黒い闇の奥へ奥へと伸びていて、何に接続されているのかを確認することもできない。
 それが何を意味するのか?
 わたしはそれを理解するのに暫しの時間を必要とした。
「乗っ取り完了だ。こっちが侵食している間、自由にさせていた権限も全部奪い取った」
 そして、暗い闇の中にうっすらと光るノートパソコンの液晶バックライトが淡く明滅した。
 次の瞬間、液晶画面はその全てが黒一色で塗り潰されたかのような画面へ切り替わる。
 話の流れを追うと、真場がノートパソコンで何かを起動したのだと予想できるけど、わたしはそれを確認できない。液晶画面は黒一色、時折、両端に緑色の線が走るだけで何も見えない。
 目を凝らして液晶画面を注視するわたしだったけど、液晶画面の淡い明滅を捕らえた瞬間、酷い胸騒ぎに襲われる。その明滅以降、今度は液晶画面が白一色に染まる。けれど、何かが再生されているような感覚はある。
 一体どんなものがポータブルゲーム機の液晶画面に映し出されているんだろう?
 いや、そこには何も映っていないのかも知れない。そんなはずはないと思いながらも、わたしの瞳に映る液晶画面は目映いほどに白く輝いているに過ぎないのだ。その眩しさはどんどんと輝度を上げ、あまりにも目映くて直視できないほどになる。とうとうわたしは耐え切れずに目を閉じた。
 そうやって目を閉じた瞬間、この黒い世界が一気に拡散した気がした。
 元々、距離感の掴めない空間だったけど、それは際限のない広大さを手に入れた気がした。
「これで今まで揺らぐことのなかった世界の根本的な規則の一つに、俺達は些細な傷を付けたことになる」
 そんな神妙な声色の真場の言葉に目を開く。すると、浮遊するかのように、わたしが宙を漂っていることに気付いた。
 そこに自由落下をする感覚はない。だからといって浮遊感を感じることもない。そして、上下左右の感覚がなくなって、わたしは完全に体勢を立て直すだとかそう言ったことができなくなる。
 成り行き任せに宙を漂うだけだ。
 ただ、同じように真場も道神も、この暗闇の空間の中で宙に浮かび上がっていた。
 ……いや、違う。あくまでわたしの目には宙に浮かび上がってるかのように見えただけ。
 真場や道神はわたしのようにバタバタと手や足を動かすことをしない。それは体勢を整えようとしていないからだ。わたしから見て、逆さになったり、捻れたりしているだけで、彼らはきちんと足を地に付けているのだろう。
「こちらとそちらの違いは何なんだろう?」
 そう思った矢先のこと、浮遊するわたしの視界の端を跨堂の蝶が舞う。
 ハタハタと舞うように羽ばたきながら、その輪郭は失われボロボロと崩れる最中にある。
 視界が暗転するまで十数秒と持たないと思った。
 わたしはくっと息を呑んで気合いを入れると、その際限のない暗闇の世界の中から可能な限りの視覚情報を拾い集めようとする。しかし、その暗闇の中から何かを見付けることはできない。ただ、その暗闇へと視点を移すだけで、わたしは酷い物恐ろしさに襲われる。この抑え止めようのない不安は本能が感じるもののようにも思え、その暗闇の中にはわたしが見ることのできない何かがあるのかも知れないと思った。
 暗闇の中で意味を持つもの。
 必然的にわたしの瞳は真場と道神へと向くけれど、もう二人が何を話しているのかさえも聞き取れなくなってしまっていた。輪郭がぼやけ始めてその形が朧気になり始めると、その未来視の結末はすぐにやってきた。
 世界が暗転する。




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