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Seen04 未来視の観測者


 案内役が居なくなってしまったことで、わたしは一人見知らぬ世界に置き去りにされた格好だった。けれど、そこに不思議と恐怖のようなものは感じなかった。
「ここから出られないんじゃないか?」
 そんな感覚はない。危機感が欠如していると言われれば、そうかも知れない。でも、わたしがドアを開いて訪れているこれらの世界はまだ人間が生活していると思える世界だ。
 何もかもが明らかにおかしい世界じゃない。尤も、そう感じられることだけが救いだとも言えた。
 右を見ても左を見ても、そこに差異はない。
 無限とも思えるほど長く長く延々とこの地下通路の様な空間が続いているのみだ。……いや、一概にそうとも言えないようだ。目を凝らして様子を窺うと、それは容易に発見できた。
 わたしから見て右手に当たる方、ここから百メートルないぐらいの場所の光の見え方が異なっていた。尤も、この場所も非常に距離感を掴みにくいため、その「百メートルないぐらい」とはあくまで当てにならない目安でしかない。
 ともあれ、わたしはその光の見え方が異なる場所を目指して歩くことにする。
 目的のポイントへと近づくにつれ、この地下通路のものとは違う光源がそこには存在しているらしいことが理解できた。具体的には、地下通路に設けられた蛍光灯以外の光源がどこかからか差し込んでいるのだろう。
 さらに足を進めるにつれ、地下通路の脇に別の道が存在している様子が窺えるようになる。そのポイントへと向かうわたしの足が速度を増すことはなかったけど「出口かも知れない」という淡い期待は強くなる。
 そう、そこには蝶が待っていて、この探索に対して何かしらの答えを突き付けられる。そんな期待だ。ともかく、目的地がどこかも解らないこの短い探索から解放されたかった。
 そんな思考に背中を押されて足を速めようとした矢先のこと。
 不意に後方から「ガチャッ」とドアを開く音がして、わたしは固まる。
 その音は地下通路に響き渡って反響した形になったため、発生場所を正確に特定することはできなかった。少なくとも、わたしが黒い影に追われてやってきたドアの位置付近ではないと思った。けれど、わたしは振り返ることを躊躇う。
 もしも、わたしがこちらにやって来たドアを潜って「あの黒い影がやってきたら……」と、そう思うと確認するにできなかったのだ。勿論、早急に確認して、逃げるなら逃げるで手を打たないとならないことも頭では理解している。
 すぅっと息を呑んで後方の様子を窺うと、そこにはダウンジャケットを羽織った男の後ろ姿が見付けられた。
 そいつはわたしが見ている前で、地下通路の柵とは反対側の壁に向かって手を伸ばす。
 そして、次の瞬間、男は壁の中へと姿を消した。わたしの記憶が正しいのなら、そこには壁以外に何もないはずだ。
「待って!」
 そう口を切る間もなかった。
 その様子をマジマジと見ていたのだけど、目の奥がゴワゴワする感覚に襲われ、わたしは自然と目を細める格好になる。その壁を中心に何か白い波のようなものがうねった様子を捉えると、そのゴワゴワ感はいっきに顕著になった。
 わたしは堪らず目を擦る。それと同時に、非常に耳障りな音が響き渡った気がした。
 どんな音とは表現できないけれど、思わず眉間に皺を寄せるような、そんな不快な音だった気がする。実際にその音を聞いておきながら「気がする」とはおかしな言い回しだ。でも、わたしはその耳で確かに音を捉えたはずなのに、その音を全く思い出すことができなかった。だから、そんな表現しかできなかったのだ。
 両耳を塞いで踞るように体勢を取ると、徐々にその不快な感覚は薄れていって、ある一点を境に霧散する。
「何、……今の?」
 呟いた瞬間、不意に全ての距離感が狂う。
「うわぁ!」
 天井が迫ってくる感覚がまずあって思わず叫び声を上げたけど、視界には何の変化もない。それらはあくまでもわたしの感覚上のことだった。
 距離感が狂うこと自体は幾度となく味わって来た感覚の一つだけど、今回は一緒に平衡感覚も持って行かれる。
 わたしはそれらの変化に耐えられず、足をもたつかせて蹌踉ける。
 そんなわたしがその目に再び捉えるもの。それはアスファルトの壁の周辺に生まれた白い波のような振動だった。それは空中にうねりを発生され、まるで水の膜がそこにあるかのような錯覚をわたしに覚えさせた。そして、その膜を通して見たコンクリートの壁には何か「記号」のようなものが描かれていた。
 ……わたしの目は一体何を捉えているのだろう。
 壁に浮かび上がった記号のようなものは一定の形状を保っていない。そして、それはわたしが瞬きする間に掻き消えてしまった。後には確かに見たはずの記号のようなものはなく、ただコンクリートの壁があるのみだった。
 何事もなかったのように距離感が掴めるようになる。
 そして、すぐにわたしは平衡感覚を取り戻した。
 ただ、感覚が元に戻ってもガクガクと足が震えたせいか、わたしはバランスを崩して蹌踉ける。咄嗟に体勢を立て直そうとコンクリートの壁へと手を伸ばすけど、わたしは物怖じして手を引っ込めてしまっていた。
 先ほどの光景を目の当たりにした後で、安易に壁に手を付けられる程、わたしは度胸を備えていない。ズザァァ……と音がなって、ズキズキと来る痛みがわたしを襲って始めて、わたしは自分が床に倒れたことを理解した。二〜三歩ふらふらと進んだ後、床へと突っ伏した格好だ。
「痛ぁー……」
 すぐに立ち上がろうと体勢を取るけれど足にはまだ力が入らず、わたしは再度蹌踉ける形になる。ちょうど柵とは反対側にふらつく格好となり、コンクリートの壁際へと寄り掛かる形だ。ぺたんとお尻を付いて座ってしまえば、期せずしてわたしはコンクリートの壁の、記号が描かれていた高さの位置へと簡単に触れられる位置取りを取った。
 ダウンジャケットの男が消えた場所とは異なるけれど、あの仕掛けがこのコンクリートの壁の全てに設けられているような錯覚に襲われる。
 わたしは恐る恐る壁へと手を翳した。ペタッと触れた瞬間、まずひんやりとした冷たさが襲う。ざらざらとした表面の下にある硬質の感触と、何を取ってもそこには冷たいコンクリートの感触が存在していた。それはコンクリート以外の何物でもない感触だ。
 けれど、わたしはそれを本物と認識することに怖さを覚える。もしも、これらが本物だったなら「今わたしが目で見た光景は一体何だったのか?」という疑問に、わたしは苛まれることになる。
 ダウンジャケットの男が触れた場所だけに何か特別な仕込みが組み込まれていたのかも知れない。そうも考えるけど、改めてその地下通路を注視した限りではとてもそうは思えない。
 何の塗装も為されていない剥き出しのコンクリートで上下左右を囲われた飾り気のない地下通路。
 等間隔で設置された蛍光灯と、天井まで続く柵で仕切られたこの地下通路と並走をするもう一つの地下通路。
 全神経を集中させて違和感を探るけど、そこには特筆できる「おかしさ」はない。それは視覚的なことだけじゃない。わたしには霊感なんてものはないけど、それは第六感的な危機の察知を含めての話だ。
 わたしは当初の光の見え方が異なるポイントと、ダウンジャケットの男が消えたポイントとを交互に確認する。
 仮にダウンジャケットの男が消えたポイントに行き来できる道があるのであれば、そちらへ行き先を変えるべきかも知れない。そんな思考が脳裏を過ぎる。ここがどこなのか解らないのだから考えても答えは出ないと知りながら、思考はグルグルと最良の選択肢を求めて回転するのだ。
 わたしは眉間に皺を寄せて一頻り悩んだ後、まずは確認しようと思った。
 どちらのポイントから先に確認すべきかを迷ったけど、まずは確実性の少ない方を選んだ。ダウンジャケットの男が消えたポイントの方だ。来た道を戻り、この地下通路へやってきた時に潜ったドアを過ぎて、数メートル歩いた辺りでわたしは足を止める。
 ゴクリと鍔を飲み込んで、わたしは壁をマジマジと注視した。ダウンジャケットの男が消えたポイントを前にして、詳細を確認するけど、部分的に色が異なっているだとか、何かが動いた後があるだとか、そういった視覚的な相違はない。
「確か、……この辺りだったはず」
 先ほどの記憶を頼りに、わたしはコンクリートの壁へと手を突いた。
 掌にはペタッと触れた後の、押し戻す硬質の確かな感覚がある。同様にその周辺を隈無く手探りで触れてゆくけど、コンクリートの向こう側へと進むことのできるポイントは発見できない。
「……」
 視覚や触覚で駄目ならと、柵のある位置まで下がってわたしは目を閉じる。眼前の壁を前にして、再度、直感的なものに頼ってみようというわけだ。けれど、そこから特別な何かを拾い上げることは適わなかった。
 では「あの光景が錯覚だったのか?」と、そう自問自答してみる。自信を持って、そこに「はい」の返事はできないわたしがいた。
 後味の悪いつかえた感覚をそこに残しながら、わたしはもう一つのポイントへと意識を切り替える。考えても仕方のないことならば、今はスパッと切り捨ててしまうのが得策だ。ここで立ち止まって、今は進むことのできない道の先について思考を巡らせてもどうしようもない。
 くるりと踵を返して、わたしはその場を後にした。
「これで光の見え方が異なるポイントの方もすぐに行き止まりだったらどうしよう?」
 ふっとそんな考えが脳裏を過ぎった。
 行き止まりに突き当たって開き直るわたしの様子がマジマジと連想され、わたしは他人事のように笑った。
 でも、その可能性がない訳じゃない。……もしも、そうなったら。
 ふっと「戻る」という選択肢が脳裏を過ぎる。
 どうせだったら「今進んできた道順を逆に進んで自室に戻るのもありだな」と、そう思ったのだ。
 案内役がわたしを置いて行ってしまったのだから、無理に進んで迷うべくして迷う理由はない。尤も、進んできた道を「順を追って逆に引き返せるか?」という問題があるにはあるが、このまま訳も解らず突き進むよりは確かさがある。
 改めて、考え直してみるとそう思う。
「……」
 ちょうど、光の見え方が異なるポイントまでの中間点にあるドアを注視しながら、わたしは思案顔を滲ませた。
 開けてみて、もしも停留所に黒い影が居座っているようなら、すぐに閉じてしまえば良いじゃないか。自分自身をそう言い聞かせてしまうと「戻る」という選択肢は俄に存在感を増した。そして、ドアを開く決意もすぐに固まる。
 この地下通路へやってきた時には感じなかったことだけど、路地裏へと続くドアはかなり大きい。
 わたしが両腕を広げたくらいの横幅があるし、高さにしてもわたしの身長の二倍近くある。
「わたしは本当にこのドアを潜って、路地裏からやってきたんだっけか?」
 そう不安になるくらいだ。路地裏からドアを蹴破って地下通路へとやってきた時の、ドアのサイズに対する確かな記憶がないのも不安を煽る要素の一つだろう。
 ドアノブへと手を伸ばす。
 そこからが長かった。ついさっきの決意はあっさり揺らいでしまった格好で、今になってわざわざ危険を冒す必要性を疑問視する思考が首を擡げる。
 黒い影が地下通路へとやってきてしまった場合、逃げ場所を確実に確保できてないじゃないか?
 そう訴えかける臆病な思考が付きまとっているのだ。光の見え方が異なるポイントが本当に出口だとは限らない。
 わたしは首を左右に振る。ゴチャゴチャとついて回る思考を振り払った格好だ。そうして、すぅっと息を呑み、意を決してドアを引いた。
 蹴破ってこちらへとやってきたのだから、引かなければ開かないと無意識のうちに思ったのだろう。
 ガチャッとドアノブの回る音がしたけど、何かがおかしかった。「ギイィィィ……」と嫌な摩擦音が響き渡ったかと思えば、ドアはこちら側に傾き始めていた形だ。それは開くというよりかは倒れて来たという方が正しいだろう。
 慌ててそこから飛び退こうとするけど間に合わず、わたしは取りあえず後退る。思い掛けない結果に戸惑いながら、対処のために思考を巡らせてはみたけれど、焦りが邪魔をしてろくな結果が返ってこない。
「あれ、……えーと? どういうこと?」
 次の瞬間「ガシャンッ」と音が鳴って、わたしは後ろに下がれなくなる。そこにはわたしの居る地下通路と、もう一つの大きな地下通路とを隔てる柵がある形だ。逃げられないという現実に直面すると、わたしの当惑は一気にそのボルテージを増した。
 ペタンと尻餅をつく格好になりながら、わたしは両手を前に突き出す。反射的にドアを受け止めようと思ったのだろう。「後ろに柵があって、これ以上は後退できない」と頭では解っていたのだけど、わたしの足は無意識のうちに後退ろう後退ろうと動いている。倒れてくるドアを前にわたしは目を瞑り、ぐっと全身を強張らせる。「ガアアアァァンッ!!」とけたたましい音が一つ鳴った。
 ドアに押し潰された痛みはない。全くない。……というよりも突き出した手にドアが触れてもいなかった。
 恐る恐る目を開いて状況を確認すると、ドアが反対側の柵に当たって制止している光景が目に飛び込んで来る。ちょうど、そこにはわたしの生存スペースが確保される形だ。
 びっしりと額に冷や汗を掻いたわたしはホッと深い安堵の息を吐き出した。仮に押し潰される形になっても、ペチャンコになるようなことはなかっただろうけど、怪我を負った可能性は高い。
 ドアは見るからにかなりの重量を持っている。試しに持ち上げようと手を突き踏ん張ってみるものの、ドアは僅かに持ち上がるだけだった。とてもじゃないけど、押し退けられる代物ではない。
 運良く生まれた生存スペースから抜け出して、わたしは路地裏へと続く道を確認しようとする。しかし、そこでわたしは固まった。ドアが存在していた場所にはコンクリートの壁があるだけなのだ。そこには道があった痕跡すらない。
「……一方通行ってやつ? なにこれ、あまりにも酷くない?」
 ペタペタとコンクリートの壁に触れてみる。けれど、そこに不審な点は発見できない。感触・視覚どちらも、ダウンジャケットの男が消えたポイント同様だ。何の変哲もない壁である。そこには向こう側へと続く道などない。
「はあああぁぁぁ……」
 溜息を吐き出すと精神的な疲労が肩の辺りからググッとのし掛かってきて、わたしはその場にしゃがみ込んだ。
「戻るって選択肢、名案だと思ったのに」
 不意に、真っ白い蛍光灯の明かりが点灯するのを視界の端に捉える。ちょうどドアが地下通路を塞ぐ形で倒れたポイントを間に挟んで、ダウンジャケットの男が消えたポイントの、さらにずっと向こう側だ。
 これだけの数の蛍光灯が設置されているのだから、そうやって点灯することを不自然だとは思わない。けれど、その点灯が近づいて来るとなったら、そこに「違和感を感じるな」というのは無理な話である。
 ジー……と耳に付く、機械音の後、バチンッと一際けたたましい音を立てて、蛍光灯は点灯していた。それが遥か遠くのものから順に発生し、こちらへと近づいてくる。
 近づいてくるとは言っても、その現象の発生箇所からわたしまでの距離はまだかなりある。
「ただの偶然かも知れない」
 まだ、そんな思考も頭の片隅には残っていた。
 黙って、その様子を窺ってみるけど、こちらに近づいてくる蛍光灯の点灯現象は一向に影を潜めない。そうやって警戒を強めるわたしを目の奥のゴワゴワ感が襲う。
 それがトリガーになった。「ここを離れるべきだ」と、直感が訴えて、わたしはクルリと踵を返して歩き始める。
「……これで当初の光の見え方の異なるポイントが行き止まりだったなら、本当にどうしようかな?」
 さっきよりも余裕のない状態に陥って、脳裏を過ぎる自問自答は本日二度目の内容となる。
 きっと「慌てふためくだろうな」と、そんな客観的な思考にニヤリと微笑んで、後方の現象に意識が向くのを必死に制止した。幸いなことに、わたしの後方の現象から気配のようなものを感じることはない。いつでも全力疾走できる準備を整えて、わたしは歩く速度を速める。
 点灯の時に発するバチンッという音の感覚が早まることもない。そして、急激に近づいてくることもない。
 ともあれ、わたしの歩く速度よりは音が距離を縮める速度の方が早いのは否めない事実だった。
 目的のポイントまで後数歩と言う時になって、言いようのない焦燥感に襲われる。そして、それとほぼ同時、後方からバチンッという音の後、メキメキッという木材の軋むような音がした。ちょうど蛍光灯の点灯が地下通路を塞ぐ形に倒れたドアの付近まできた頃だ。
 自然とわたしの聴覚は研ぎ澄まされ、微かな音も聞き逃さないという風に全神経を集中させた。
 異変は一瞬だった。「バキ、バキバキッ」と無理矢理にドアを破壊する音が地下通路には響き渡る。
 思わず振り返ってしまっていた。そして、一気に存在感を増す目の奥のゴワゴワ感にわたしは顔を顰める。そして、複数個の水の膜のようなものが見えた気がして、慌てて視線を外した。このまま、直視していてもろくなことにはならない予感があったし、そもそもそんな場合じゃなかった。
 一刻も早くこの地下通路から外に出るべきだと思った。
 先ほどよりもさらに足早になるわたしは目的のポイントへと容易に到達する。
 光の見え方が異なっていた理由は地下通路の脇に、どこか別の場所へと続く階段があるからだった。そこにも地下通路同様、真っ白い光を放つ蛍光灯が点在している。けど、階段の終わりを確認すると、そこには闇夜と思しき暗闇が広がっていた。
 無骨なコンクリートの階段を数段飛ばしで登って行くと、ふっと視界が開ける。
 バチッとなる蛍光灯の点灯現象はいつの間にか、わたしが思っていた以上にすぐ後ろまで迫ってきていたらしかった。わたしが地下通路を抜けると同タイミングぐらいで、あの地下通路をこちら側に曲がることなく直進して行ってしまったようだ。
「ああああ……、良かった。何が何だか解らないけど、とにかく良かった」
 主に安堵の度合いが大きい疲労混じりの溜息を吐き出す。もうそれが本日何度目になるかさえ解らなかった。
 胸に手を置いて、呼吸を落ち着かせるとわたしは周囲の様子を確認するため視線を走らせた。。
 そこは高速道路と高速道路とを結ぶ中間ゲートのように見えた。
 ちょうど、道路の路側帯辺りに出てきた感じだ。すぐ右手にはわたしが「中間ゲートのよう」といった建物が四つ存在している。人の気配は感じられないけど、ゲート内部には明かりが灯っている。また、ゲートそのものも自分の存在をアピールするかのように、野球場などに設置されるような照明塔によって煌々と照らし出されている。
 道をなぞるようにオレンジ色の誘導灯が設置され、この道路が右も左も遥か先まで延々と続く様子を窺うことができた。片側三車線に加えて中央分離帯によって完全に左右が仕切られていることもあってか道幅はかなり大きい。
 そういう部分とゲートの存在が第一印象を「高速道路」と感じさせたのだろう。
 ただ、ゲート付近には中央分離帯が設けられておらず、ユーターンが可能な作りとなっている。他にも多々、高速道路ではありえない作りになっている箇所が見受けられ、その手の有料道路ではないことが解った。
 中央分離帯は簡素な衝撃吸収剤で作られた高さ1メートル程度のもので、その気になれば簡単に乗り越えることができる。また、そこには一定間隔で街灯が立てられていて、かなりの明るさが保たれた空間になっていた。
 両脇は公園だろうか。
 五感を研ぎ澄ませることで、そこからは水の流れる微かな音や木々が風に揺れる音を聞き取ることができる。公園と思しき敷地内には点在する街灯の明かりが窺え、わたしの予想が大きくは外れていないことを強く印象づけた。
 公園と思しき施設と、この道路は完全に仕切られてしまっている。まずは二メートル強のコンクリートの塀があって、その上に五〜六メートルはあるだろう緑色のフェンスが設けられている形だ。尤も、乗り越えようと思えば、乗り越えられないことはないだろう。特別な仕掛けがあるフェンスには見えない。どこにでもあるような、格子状のものだ。
 時折、そよ風が駆け抜けていく以外は何もかもが静まり返った空間だといって良かった。
 特に人が活動することで発せられる類の音は皆無である。自動車が通る様子もなく、まして人の気配もない。
 時計がないので時刻は解らないけど、人や車が行き来する時間じゃないのかも知れない。
 わたしは途方に暮れる。地下通路のような二択の選択肢ではない。
 静寂に包まれた道路には捨て置かれたアルミ缶が一つ転がっていた。どこの自販機でも買えるような名前の知れた炭酸飲料水の空き缶だ。もしかすると、すぐ近くに自動販売機なんてものが設置されているのかも知れない。
 そんな何気ない一コマの光景は酷くわたしを戸惑わせる。
 拉げた空き缶を拾い上げると金属質の冷たさが感じられる。握り潰そうと力を込めるとペキペキと音を立て、簡単に変形してしまった。疑いようがない。それはわたしの知っているアルミ缶という物体そのものだ。
 現実と非現実の境の曖昧さには嫌気すら覚える。「どうにかなるんじゃないか」と、思わされるのだ。
 何もかもが全て明らかにおかしい世界だったら「どうせ」と開き直った突飛な行動も起こせるかも知れないのに。漂う現実味が目的地を目指して「上手くやらなきゃ、何も解決しない」という思いをわたしに押しつける。
 それでも、今回ばかりは苛々が口を吐いて出た。
「目的地も現在位置も解らないのに、どこに行けって言うのさ!」
 力任せにアルミ缶を放り投げると「カーン」と一つ大きな衝突音。その後にはアスファルトを転がる「カランカラン……」といった軽い音が響き渡る。
 そんな衝突音が途切れて静寂が舞い戻ってきてしまうと、一時、沸点に達し口を吐いて出た憤懣は影を潜めた。
 特に何を意識するわけでもなく、わたしはゲートの先へと続く光景と、その反対側へと続く光景を交互に眺める。しかし、そうすると「行き先を決めなければならない」なんて現実が一気に押し寄せてくるもので、再び、わたしを置いて消えた案内役に対する憤懣が首を擡げてくる格好だった。
 ともあれ、このままここにいるわけにもいかない。
 ……このままここにいて事態が改善する保証でもあるのなら、それはまた別の話だけど。
 取りあえず、一休みをしたかった。背中を預けられる壁か、腰を掛けられる段差のような場所を探してみると、ちょうど中央分離帯が目に付く。中央分離帯へと道路を横断する途中、ふっと、気配を感じてわたしは立ち止まった。片道三車線の、ちょうどど真ん中辺りで足を止める形だ。
 気配を探ってみると、どうやらその気配はゲートの向こう側にあるようだった。そして、その気配の位置へと視線を走らせ、わたしはそこに蝶を見付ける。
 蝶は不自然極まりない位置に立つドアの周りをクルクルと旋回しながら羽ばたき、まるでわたしに「遅いよ」とでも語り掛けているかのようだ。そのドアは角度を変えてしまうと、ちょうどゲートの死角に入る形で、今の私の立ち位置からしか発見できない。
「まだドアを開けなきゃならないの? 目的地はまだ遠い? わたしをどこに連れて行くつもり?」
 ゲートを間に挟み、わたしは蝶に棘のある口調で問い掛ける。けれど、蝶がそれらの問いに答えることはない。
 後ろを振り返ってみても、延々と続くこの片道三車線の道路が続くだけだ。
 パジャマ姿なんて出で立ちのわたしは財布もなければ携帯も持ってきていない。客観的に自分の置かれる立場を振り返ってみれば、蝶の道案内に背いてどこか別の場所へ歩き出す気にもなれず、わたしは渋々ドアの方へと歩み寄る。
 通り過ぎざまにゲートの様子を覗き込んでみた。
「すいませーん、誰かいらっしゃいませんかー?」
 そうやって、声を響かせてみるけれど返事はない。
 ゲートの中には辛うじて人が待機できるだけのスペースがあった。人が待機するための椅子も備え付けられている。しかし、四つあるゲートのどれからも人の気配は感じられなかった。
 このゲートが何の役割を果たすものかは解らないけど、それらの施設が行う作業は基本的に無人化されてしまっているようだった。恐らく、人が待機できるスペースはメンテナンスや不測の事態が発生した時などのためのものだろう。
 コンソールには無数のランプが並んでいた。それぞれ緑と赤と白の色が点灯するものに分けられており、交互に忙しく点灯している。パッと見た限りではその点灯に法則性があるようには見えない。何らかの制御がそこで為されているのは間違いないだろうけど、こうしてゲートに近づいてみてもそれが何を意味するものなのかを知る手がかりは何もない。
 なにせ、ゲートには車の通行を阻害するバーもない。何のゲートなのかを表す標識も看板もない。
「何のための関所なんだろう?」
 そうも思った。
 ゲートの奥行きは結構長い。五〜六メートルはあるだろうか。
 ちょうどわたしがゲートの中間に差し掛かった時、ゲートの側壁に存在する一際大きなランプ青く点灯した。だからどうだということもなく、わたしはゲートをそのまま素通りする。そして、ゲートを通過するかしないかという頃になって、ふっと背後に違和感を覚えた。
 ゆっくりと振り返ってみて、わたしは愕然とする。
 ちょうど青く点灯したランプがあった位置から壁ができていて、向こう側へと戻れなくなっているのだ。何の音もしなかったし、何かが動いたような気配もなかった。
 タンッと地を蹴って、ゲートの外に出て確かめみるけど、いつの間にか全てのゲートは壁によって封鎖されていた。そればかりか、その壁はゲートを突き破って生まれたかのよう。横は公園と思しき敷地の中を含めて、上はゲートの天井を越え、空高く続いている。
「……深みに嵌ってる気がする」
 ぼそりと呟いた後、わたしはドアへと向き直る。引き返せないのであれば、今更、狼狽えても仕方がない。
 先に進むしかないのだ。
 片道三車線の道路の先へと一度目を向ける。時折、右左とカーブしながら延々とその先まで続く光景を眺めて、実質、ドアを無視してこの道を歩き続ける選択肢がないことを確認し、わたしはドアノブへと手を伸ばした。
 ガチャッと小さな音が鳴って、ドアは呆気なく開いた。
 ドアを開けるや否や、まるでわたしが来るのが解っていたかのように声が向く。
「やあ、こんばんは、待ってたよ」
 そいつはまるで親しい友人でも迎え入れるかのような態度だった。
 ドアを潜ったその向こう側は会議室のような部屋だった。
 十数人規模の人間が座れるように配置された机とパイプ椅子があり、窓のない結構な面積を持つ空間だ。床はワックスで磨かれた後のリノタイルのような質感だったけど、あちこちに傷や汚れも見受けられ良くも悪くも年期を感じさせる。病室などに見る真っ白い壁紙が側壁には貼られていて、かなりの輝度を持った蛍光灯が天井に数個配置されていた。何のことはない。一般人が頭の中にイメージとして持つ「会議室」のその一つの形をしていた。
 わたしとこの「少年」だけが対談するというにはいささか広すぎる感が否めない。
「君を持てなせるようなものは何もないけど、まぁ、こちらへどうぞ」
 そう話すと少年は手招きをして「どこにでも好きなように腰を掛けてよ」と、そんなジェスチャーを見せる。
 いつか見た中世的な風貌から来る機械的な印象はわたしの中で完全に飛んでしまったといっても過言じゃない。
 人当たりの良い笑顔と、全身を使ったジェスチャーで歓迎の意思を示すその行動から、第一印象として感じたものは全て払拭されてしまった格好だ。しかしながら、見た目のユニセックスさだけは変わらない。
 尤も、だからと言って、そこに警戒感を抱かないと言えば「いいえ」である。
 微かな「キイィィィィ」と鳴る音がしたかと思うと、今し方わたしが潜ったドアが閉まる。「パタン」と小さな音がしたけれど、その次の瞬間、ドアは始めからそこに存在しなかったかのように宙に溶けて消えてしまう。
 尤も、ここに至る道の途中途中で引き返す道が消えていった経緯もあって、わたしは特に驚きを感じなかった。少し棘を含めた口調で、差し障りのないところから話し始めることにする。もちろん、わたしを置いて先を進んだ案内役の不手際について、文句の一つでも言ってやろうという思いは常に念頭にある。
「この子達はあなたの蝶?」
「蝶?」
 鸚鵡返しに問い返されて、わたしは肩透かしを食わせられた形になる。
 そいつは思案顔を滲ませると「今思い出した」と言わないばかりに続けた。
「ああ、そうか。蝶……か」
 その一連のやり取りはただただ気持ちが悪かった。
 全てわたしの理解の外のことだ。これみよがしにわたしの言葉に疑問を抱いてみせながら、その疑問をわたしに質すでもなく解消する。そうやって勝手に自己完結されてしまっても、わたしは困惑するしかない。
 まして、そいつにはその詳細を説明するつもりなどさらさらない様子だ。自信たっぷりに答える。
「そう、僕のだ」
 そう言い切られてしまった以上、わたしも改めて「思案顔」の理由を問い質すつもりにはなれない。
 わたしが一層警戒感を強めたのを知ってか知らずか、そいつは唐突に自己紹介を始めた。
「紹介が遅れたね、僕は跨堂彰史(こどうあきふみ)、初めまして」
 わたしが「少年」と表現した人物は跨堂と名乗った。
 こうやって跨堂を眼前にしてみると、そもそも少年という形容が間違っていた気がする。確かに子供っぽい印象を随所に残すものの、少年という年齢には見えないし、もしかすると年上かもとさえ思えた。
 にこやかに会釈をする跨堂を軽く無視して、わたしは話を進める。
「……わたしに何か用なの?」
 警戒から来る無愛想さを全面に押し出して核心的なところを尋ねてみるけど、跨堂は臆する様子の一つも見せない。まるで当たり前の言葉を口にするかのように言い放つ。人当たりの良い笑みを絶やさずにである。
「君にやって貰いたいことがあるんだ。変えて貰いたい未来がある」
 跨堂の口から紡ぎ出された言葉に、わたしは呆気にとられる格好となる。
 冗談を言っている風はない。少なくとも、にこやかな表情の中に灯るその瞳には真剣味がある。
 たっぷり跨堂を直視した後、わたしは内心の当惑を押し殺した声で問い返す。
「うん、解ったよ、……とでも言うと思ってるの?」
「さすがにそんな楽観的には考えてないよ」
 跨堂はカラカラと笑って見せながら、そうあっさりと「了解を得られるとは思っていない」と自身の考えを示した。しかし、その次に続いた言葉はわたしの想像を逸する甚だしいものだった。
「もちろん、君に対価として支払う見返りがある」
 絶句するわたしに、跨堂は「素晴らしい提案だろう?」と言わないばかりに続ける。
「交換条件だ」
「待った、待った!」
 根本的なことを正さなければならないことを理解させられて、わたしは一つ大きな声で制止の言葉を響かせた。
 跨堂は対価を支払えれば、わたしが簡単に未来を変えるとでも思っているらしい。それがどんな対価なのかは知らないけれど、冗談じゃなかった。
「……何それ? そもそもあなたが何を言っているかのか、わたしは理解できない」
 そう惚けて見せたのは「未来を変える」ことについてである。蝶が見せた未来視の結末を確かにわたしは引っ繰り返してみたけれど、それは誰かが知っているはずのないことだ。まして「未来を変えられる」なんて大層なイメージを肯定する気にはなれない。
「そうなの? 結論を急ぐから、てっきり全て理解した上で言っているものだと思ったよ」
「大体、……何? 変えて貰いたい未来があるなんて、それはわたしが未来を変える力を持っているみたいじゃない!」
 強い口調で否定してみても、対する跨堂に怯む様子は全くない。
「度合いの大小はともかく、君は持っているんじゃないの?」
 くっとわたしを捕らえる跨堂の瞳には確信が滲む。
 それに全てを見透かされた気がして、わたしは思わず怯んだように後退った。
「未来を変える力」
 わたしが未来視でみる世界は全て、何らかの変化を加えることのできる未来なのかも知れない。
 跨堂に言われて、そんな思いが脳裏を過ぎる。
 わたしはぶんぶんと首を横に振って、そんな傲慢な思考を振り払おうと躍起になった。
「君は……」
 半ば強引に、跨堂は口を開いて話を進めようとする。グルグルと空転する思考をどうにか取り纏めようとするわたしの様子などお構いなしだ。ただ、それは焦っているというよりかはタイミングを掴めていないようにも見える。
 尤も、わたしの方も跨堂の都合なんかに構ってはいられない。再度、制止の声を張り上げた。
「だから、ちょっと待ってってば!」
 正直、先へ先へと矢継ぎ早に言葉を紡ぎ出す跨堂の調子には苛々を感じていた。まして、それが的を得ている部分もあるから尚更だ。
 まずは全部、ひっくり返してしまいたかった。跨堂に主導権を握られたこの場を仕切り直したかった。そう考え出したら、言葉は止まらずわたしの口を吐いて出る。まずはわたしが正しておきたいと思う根本的な部分から、それは始まった。
「大体さっきから「キミ、キミ」ってそれは解ってて言ってるわけなの?」
 不思議そうな顔をする跨堂に、わたしは目を逸らす格好で一つ前置きをしてから苦言を呈す。
「……微妙にアクセントがおかしいから違うと思うけど」
「話が見えないな、何のこと?」
 間髪入れずに切り返してくる跨堂の様子はわたしの言いたいことなんて全く解っていない風だ。
「わたしの名前」
「野峰紀見佳さんだよね?」
 跨堂にわたしのフルネームを返されて、思わず肩透かしを食ったけど、ここで言わないわけにはいかない。
「さっきから人の名前を聞こうともしないから、……その「キミ」って言うの、馴れ馴れしく徒名の「紀見」って、解ってて言ってるものだと勘違いしちゃうわけ」
「そっか、ごめんよ。でも、僕は紀見佳さんと仲良くしたいと思ってる。だから、改めてその徒名の「紀見」って呼ば方で呼ばせて貰うことにするよ」
 跨堂は思ったことを思ったままに口にしているように感じた。それはこうして跨堂と会話を重ねる初期の段階から実感したことだったけど、ここにきてその思いはより一層強くなる。
 熟慮が足りないのではない。そういうやり方を知らない。そんな無邪気さがそこにはある気がした。
「……好きにすればいいよ」
 わたしは「はぁ……」と重々しい息を一つ吐き出すと、恐らく何を言っても「無駄だ」と悟って諦めるように言った。それを口にしてしまうとドッと疲れが襲ってきたけど、わたしの望んだ「仕切り直し」がそこには生まれた。
 跨堂の勢いを堰き止め、そこに静寂を作り出したのだ。
 再び跨堂に主導権が渡る前に、わたしは口を開かなければならない。だから、わたしの口を切って出た質問はそもそもの部分から始まる根本的なものになる。
「あなたは何者なの?」
「僕は観測者。ここで未来視の力を持つ人達の、その未来視を定点観測してる」
 また当たり前のことを口にするかのような態度で、跨堂は普通ではない言葉を続ける。
「観測? そんなことをして、一体、何が目的なの?」
 跨堂は答えない。
 いや、答えないと言うよりも「どう答えるべきか」を迷っている風だった。
 だから、わたしはもう一歩踏み込んで、跨堂の目的を引き出そうとする。
「良くSF漫画とかに出てくる様な、未来が大きく変わることを防ごうとする「時空警察」みたいなもの?」
 わたしに「未来を変えて貰いたい」なんて依頼をする跨堂がそんな大層なものだと思えない。それを踏まえた上で、わたしは跨堂にその問いを突き付けたのだけど、ここでも跨堂はわたしの想像を逸する対応を見せる。
「……だったら、紀見はどうする?」
 悪戯っ子のような意地の悪い笑みを口元に湛えて、跨堂はわたしに問い直す。
「余計なことを言うんじゃなかった」
 そんな後悔を覚えながら、わたしはそこから跨堂の真意を汲み取ろうとする。
 本当に「時空警察」なんてものが存在するとは思っていない。まして、パジャマの様な出で立ちで現れる相手をそんな大層な任務を持った人間だとは思えない。けれど、わたしの脳裏を過ぎるのは「観測者」という跨堂の言葉だ。その観測結果を持って、何かを管理しているものが居るのかも知れない。
 そう思った。
「なーんてね」
 跨堂は戯けた風な口調と態度で、そこに生まれた緊張感を解してしまおうと思ったらしい。「上手く騙せちゃった」と言わないばかり、跨堂は得意げな顔付きでペロリと舌を出す。
「大丈夫だよ、僕はそんな大層なものじゃない。少なくとも、僕は様々な未来視のパターンを収集しているに過ぎないよ。誰かが未来を変えているからどうのこうのという話はないし、大体、こうあるべきなんて未来の形もないよ」
 その話が本当なら、観測という行為そのものに意味がないように感じられる。どうしても、わたしはその跨堂の言葉を信用する気にはなれなかった。この話題はここで打ち切ってしまおう。そんな思考が脳裏を過ぎったけど、跨堂の言葉の中にはその思考を振り払うだけの、わたしの興味を引く内容があった。
「未来視のパターンって……」
 間髪入れずに、跨堂は切り返してくる。
「紀見が思っている通りだと思うよ」
 わたしは沈黙と鋭い目付きを持って、その言わんとするところを口に出して説明するように要求する。
 さすがに跨堂もそのあからさまな要求には気付いたようで、コホンッと一つ咳払いをした後、簡潔に続ける。
「僕は紀見のように未来を視ることのできる人達を数多く見てきた。その人その人によって未来視の能力が異なると言えばいいのかな。ある程度のパターン分けはできるけど、そのパターンの中でも個人差みたいなものがある。未来視を持続させられる時間だとか、視点だとか、影響力・強制力だとか……ね」
 ニコニコと微笑む跨堂はそれ以上のことを話すつもりはないらしい。そして、その微笑みは見るからに「まだ続きを聞きたい?」とでも尋ねられているかのようだった。
 もしかすると、わたしの知りたい情報を餌にして、わたしに依頼を受諾させるつもりなのかも知れない。そんな思惑がそこにある気がして、わたしはスパッと質問の内容を別のものに切り替える。
「ここは一体どこなの? ここに来るまでに人間じゃないものに……」
「へぇ、この広大な世界で彼らと擦れ違ったんだ。……凄いねぇ、紀見は運が強いんだね」
 跨堂は心底感心したという口調で、わたしが言下のうちに口を開いた。
 わたしは跨堂が「彼ら」という呼び方で全て括ったことが気に掛かった。わたしは「人間じゃないもの」という部分しか話をしていない。仮に跨堂が路地裏や地下通路でわたしが体験したこと全てを把握していたとする。けれど、その言い方だけではわたしが何を指して話をしているのかまでは特定できないはずだ。
 つまり、路地裏の黒い影と、地下通路のダウンジャケットの男などはそうやって括ってしまえる存在だということだ。そして出会したことに対して「運が強い」と表現したからにはその「彼ら」は滅多に擦れ違えない存在らしい。
 ふっと跨堂の周りを一匹の蝶が舞う。
 それはわたしを迎えに来た蝶のうちの一匹だ。金属を連想させる灰色にルビーのような赤色をあしらった蝶だ。
 それは何かの合図だったのだろうか。跨堂はがらりと話の内容を切り替え、一方的に話し始める。
「正直な話をするとね、僕は本当に紀見が大きく未来を変える力を持っているのかどうかなんてことは判断できないんだ。でも、紀見は確かに僕が見た未来視の結末に影響を与えた。それも一つ二つじゃない。……だから、変えられる可能性を持っているって思ってる」
 そこまで言い終えた直後、まるで今思い出したかのように跨堂はこう付け加える。
「……ああ、今のは直接、踏切の事故のことを言っているわけじゃないよ。未来視の内容と、現実との間に相違を与えるという現象を紀見が起こしたことで波紋が生まれたんだ。その波紋によって影響力や強制力の弱い未来視の内容がいくつも翻った。そして、僕はその波紋の発生源を辿って紀見を見付けたというわけ」
 それらの話にはわたしが気に掛け「知りたい」もしくは「確かめたい」と思っていたことが三つ含まれていた。
 一つは未来視の内容が現実となることを抑止した事実について、跨堂がそれを知っていたこと。
 そして、二つ目は跨堂があの事故現場にいた理由。
 最後は未来視の内容が現実となることを抑止したことで、他に影響を与えたことだ。
 尤も、ご多分に漏れずその意味するところを尋ねたい内容がその話の中には含まれていた形ではある。けれど、それらの意味について質問するよりも早く、否定しておきたいことがあった。
「買い被りすぎ。仮に未来視の内容を変えることができたとして、……わたしが見ることのできる未来の範囲なんて本当に狭い範囲のこと」
「それは紀見が見ようとしないから、きっかけを作ろうとしないからじゃないのかな?」
 にこやかに笑う跨堂の調子はそこに至って一層度合いを増した。わたしの当惑する顔付きをじっと見据えて、半ば確信を持っているかのような口調だ。まるで「わたしがその気になれば何でもできる」とでも言いたげだ。
 未来に加える微々たる変化がどれだけの波紋を生むかなんてことは想像も付かない。そもそも、それが微々たるものかどうかも解らない。この観測者がどこまでのことを知っているのかはともかく、いずれわたしは「それらを確かめなければならないのだろう」と確信した。
「そんなに大袈裟なことじゃないんだよ、きっと。みんな、誰も彼も多かれ少なかれ未来を変える力を持っていて、紀見はちょっと特殊な変化の加え方ができると言うことだと思うね。そして、多少、普通の人よりも強い力を持っている。紀見の力はそんな狭いところに収束する力だとは思えない、……試して貰いたいんだ」
 わたしの顔を覗き込むようにする跨堂の仕草はわたしに返答を求めていたのだろうか?
 ともあれ、わたしは苦渋に満ちた顔をして押し黙っていた。「はい」とも「いいえ」とも返す気になれない。
 そんなわたしの胸中を跨堂は敏感に感じ取ったのだろうか。コホンと一つ、咳払いをしてこう続ける。尤も、跨堂がそんな繊細な心を持っているとは思えないけれど。
「さすがに僕の頼みを受けるか受けないかを今すぐ返事して欲しいなんて言わない」
 跨堂は先ほど姿を現した蝶に向け、何か一言二言、わたしには届かない程度の声量で呟くと、ゆっくりと手を翳す。
 蝶はうっすらと発光するその光量を増した気がした。
 そして、ここに来てお決まりと成りつつある目の奥のゴワゴワ感が、その光景をじっと眺めていたわたしを襲った。それでも、わたしは目を背けず、その光景を凝視する。けれど、わたしの視界にはテレビ画面を走る砂嵐の映像に似たフィルターが掛かったようになる。そこでどんなことが行われたのかを把握できなかった。だから、自然とわたしが跨堂を見る目付きは険しいものになる。
「……どうかした?」
 跨堂に不思議そうな顔付きでそう尋ねられたけど、わたしは何も答えない。
 そして、険しく跨堂を捉える目付きも変わらない。
 跨堂が本当にわたしのその表情の原因を解っていないのかどうかも疑わしい。
「解っていて惚けている」
 そんな風にも、わたしの目には映ったのだ。
 けれど、跨堂はそんなことを気に掛ける相手ではなかった。平然と切って捨ててこう続けるのだ。
「まぁいいや、僕の変えて貰いたい未来はそいつが持っている。紀見がそれを見て何を感じるか、まずはそれが大事だと思ってる。少しでも考えるところがあるのなら、それに触れてまずは僕が何を変えようとしているのかを見て貰いたい」
 跨堂の蝶が一匹、ハタハタとわたしの下へと飛んでくる。先ほどまでのノイズはもうない。それはまるで、まとわるようにわたしの周りを羽ばたくようになり、その対処にわたしは当惑した。
 しかし、跨堂は跨堂で、ここでもわたしの都合など知ったことではないらしかった。指折り何かを数えながら、その灰色の蝶を用いて未来視を実行することに対し、こう注意点を口にする。
「有効期限は一週間持たないくらいだね」
「……有効期限?」
 訝るわたしに、跨堂は観測者の顔をして教え諭すように続けた。
「これはあくまで僕の経験則になるけれど、未来って言うのは常に変動しているんだ。その未来は恐らく僕が紀見に合わなかった場合にしか成り立たないと思う。まぁ、これは僕の勝手な推測の域を出ないけどね。それでも紀見がその未来視を確認しなかったり、その未来に対して何も行動を起こさなければ、大きな変化は起こらず限りなくその未来視に近い未来が待っているだろうけどね」
 そこまで解っていながら、変えたいと考える未来を跨堂自身がどうして変えようとしないのかがわたしは不思議で仕方がなかった。だから、わたしの口からは出て当然となる言葉が続く。
「……あなたがやればいいじゃない?」
「僕は自分だけでは未来を変えられない」
 間髪入れずに跨堂が切り返す。
 今までの対話の中で、一度も見せたことがない人間くさい苦笑いが酷く印象的だった。
「……だからこそ、観測者なんてものに甘んじているんだけどね」
 自虐的とさえ思えるその苦笑いに気圧されながらも、その内容に納得できないからわたしも簡単には食い下がらない。
「わたしだって、わたし一人であの事故を防いだわけじゃない!」
 その言い分は尤もだと、跨堂も思ったのだろうか。
 ともあれ跨堂はただただわたしのその主張に頷いて見せるだけだ。わたしが納得できる理由をそこに示し出さない。
 卑怯だと思った。わたしは我慢できずに「できない理由」を聞き出そうとする。
 そのわたしの意図を汲み取ったのだろうか。跨堂はちょうどわたしが口を開こうとするタイミングで話し出した。
「紀見は恐らく新たな選択肢を生み出す力を持っているんだ」
 そこまで言ってしまってから、その例えが的確ではないと思ったのか。跨堂は僅かに思案顔を滲ませると、その内容について噛み砕いた説明を始める。
「本来、その未来に関わらないはずの人間を、その未来に関係させることで大きな歪みが生まれることもある。恐らく、紀見はその歪みさえもコントロールする力を持っている。そういう未来視の力を持っていると、僕は思う」
 それは暗に跨堂にはその「歪み」とやらをコントロールする力がないと言っているに等しかった。「歪み」の何たるかをわたしは理解できないから、その説明で跨堂を訝るわたしの態度が消えることはない。
「パッと見では同じように見える未来視の力でも、様々な種類があるんだ。偏に、これらは全て「未来視」だと、一つに括ってしまえるものじゃない」
 それは様々な未来視の力を持つ人間を見てきた観測者だからこそ解ることなのだろう。
 跨堂は腕を組んで小さく唸る。何か良い例を引っ張り出してこれないか、それを思索しているのだろう。
「例えば、未来視の内容を何らかの方法で第三者に伝えた瞬間、その未来視が実現しなくなる。誰かに話すだけで、未来視の内容が変化するんだ。そういう未来視の力も存在するし、それだけで変化する未来もある」
 そこまで話し終えると、跨堂は唐突に何かを確認するように目線を外す。大きく目を見開くなんてらしくない表情を見せるから、思わず振り返って後方を確認したぐらいだ。
 その目線の先はちょうどわたしの背後の位置付近で、そこには灰色に赤色の模様をあしらった蝶が羽ばたいていた。今し方、わたしの方へとハタハタと飛んできたのとは違う一匹だ。
 元々はわたしの案内役だった奴だと思った。
「そろそろ、この話し合いの場を保ち続けるのは限界みたいだね」
 跨堂にそう言われて始めて、わたしはこれが現実ではないことを理解する。
 確かに蝶はボロボロとその形を失い始めていて、既にその輪郭を保ってはいない。
 視界が暗転するまで十数秒と持たないとさえ思えた。
「さてと、僕も観測者の立場に戻るかな」
 わたしに発言する間も与えず、跨堂は対話を打ち切る宣言をする。そして、跨堂の両手を広げる動作に併せて、無数の蝶が何もない空間から急激に輪郭を取って羽ばたき始めた。そう、何もない空中に、全く唐突に、それらは輪郭を取って姿を表した。一流マジシャンの手品でも見せられているかのようだった。
 そこを舞う蝶の数は膨大で、それらは例外なく全てくすんだ鼠色に橙色の模様を持った蝶だった。膨大な数の蝶が仄かに橙色の発光をする様は身震いするほどに幻想的だった。「言いようのない物恐ろしさを覚える」と言い換えても過言ではないかも知れない。
 蝶は思い思いの方向に羽ばたいて行って、ある種の法則性を持って、各々、特定の場所に留まっているように見える。
 しかし、そこにはわたしを迎えにきた二匹の蝶はいない。では、輪郭を失いながらわたしの周りを羽ばたくこいつを含めた二匹の蝶は、跨堂にとっても何か特別な蝶だったのか。
 問うべきこと。聞かねばならないこと。それはまだ無数にあった。
「それじゃあ、またね」
 けれど、そう告げる跨堂を呼び止めることも忘れて、わたしは視界が暗転するまで跨堂の蝶の様子を窺っていた。自らを「観測者」と述べた跨堂の言葉がわたしの中で急速に真実味を持ち始めた瞬間でもある。
 ここにいる蝶の全てが未来視を伴うものだったなら、跨堂は一体「何を見ているんだろう?」と、ふとそんな思考が脳裏を過ぎった。
 視界が暗転する。
 グイッと身体を引き起こされる感覚があって、わたしは目を見開く。瞬間、目の奥にゴワゴワ感を覚える。
 顔を顰めていたかも知れない。
 なぜならば、そこはその感覚に侵食されてはならない空間だったからだ。
 そこはわたしの部屋である。ここが本物のわたしの部屋ならば、ここでその感覚に襲われて良いわけがない。目の奥を襲う感覚は何度となく非現実の世界の側で味わった感覚だ。非現実の世界でしか味わっていないはずの感覚だ。
 だから、すぐにここが本物だと受け入れられなかった。
 眼前には黒い下地に赤をあしらったわたしの蝶が不安定な軌道で羽ばたいていた。
 その挙動がまるでわたしの様子を心配するかのように見えて、わたしは苦笑した。
「あんたはまともな部類だったんだね、……比較対象は別のもう一匹しかいないけど」
 徐々に和らぐそのゴワゴワ感が消えた後、真っ先に感じたものは全身を襲う生暖かさだった。それはぐっしょりと全身が汗で濡れていたからだったけど、熱でもあるんじゃないかと思えるほどだ。寝汗と言うには度合いが酷い。
「あー、気持ち悪い、……それに喉が渇いた」
 ベッドから降り立つと、僅かにふらつく感覚に襲われた。わたしはペタッと右の掌を額にあて熱の有無を確認するけど、熱っぽいというだけで特に異常があるようには思えなかった。少なくとも、風邪に見る喉の痛みや鼻水のような症状はない。激しい喉の渇きはあるけど、それは身体が火照っているせいだと思えた。それにこれだけの寝汗を掻けば、この喉の渇きも当然だと思える。
 寝汗で濡れたシーツとタオルケットをベットから剥ぎ取りクルリと丸める。水分を吸収して重みを増したシーツとタオルケットはそのまま洗濯機に放り込むつもりだ。ついでにパジャマと下着も取り替えようと思い立って、わたしはタンスへと足を向ける。……そこまでするなら、もう一度、お風呂に入り直してサッパリしたいという欲求がそこで首を擡げる。
 結局、あれやこれやと用事が生まれてしまうと、わたしは一度にそんなには持ち運べないという結論に達した。
 頭の回転速度も悪くはなかった。寝起きという感じが全くしない辺りが利いているのかも知れない。
 わたしはシーツとタオルケットを持った状態で廊下へと足を向ける。取りあえず、それらを洗濯機に放り込んで、キッチンで水を飲もうという腹だ。しかし、わたしはいつも通りに自室のドアを開けることを一瞬躊躇った。
 どこかの路地裏の映像が脳裏にフィードバックされた格好だ。
「……まさかね」
 そう呟いた後、わたしは苦笑を一つ間に挟んで勢いよく扉を開いた。
 そこには見覚えのある廊下が広がっている。見覚えのない路地裏にも繋がっていないし、地下通路にも繋がっていない。それはある意味、当然のことだったけど、思わず安堵の息が吐いて出た。
 けど、それも束の間。
 すぐにわたしの瞳は異変を捉えた。ふっと、わたしの部屋の中から赤い光が漏れている気がしたのだ。視界の端に飛び込んできたという言い方が正しいかも知れない。それはわたしの蝶がうっすらと発するものよりもずっと強い。
「!?」
 視界の端に捉えたその違和感を確認するため、わたしは慌てて自室を羽ばたくわたしの蝶へと向き直った。
 そこには金属を連想させる灰色に、宝石のルビーを思わせる赤色をあしらった跨堂の蝶がいる。未来視と称して良いか定かではない対談の中で、跨堂がわたしに預けた蝶だ。敢えていうなら、今回、わたしを置き去りにして先へ先へと進んでいった蝶である。
 けれど、わたしがこの目に捉えたその赤色は跨堂の蝶が発するものよりもずっと強かった気がする。マジマジと室内を注意深く確認して、そいつ以外におかしな点がないことを確認した。
「……見間違いみたいだね」
 その二匹以外に、自室に光を放つものはない。
 それに考え難いことではあるけど、蝶が発した光ではない可能性もある。尤も、こんな深夜にそんな強い赤色を放つ何かが街中を彷徨いているというのは常識的に考えられないことだけど。
 わたしは「気のせいだった」と、自分自身を納得させ喉の渇きを潤すためキッチンへと足を向けた。


 次の日からは何のことはない平穏な日常が戻ってきた。けれど、同時に繰り返しの日常生活は一瞬で過ぎ去った。
 登校して、授業を受けて、北原や三倉と馬鹿話をして、何も手を付けていない宿題を直前にやる。
 放課後、遊びに行って、買い食いをして、あーだこーだと意見をぶつける。
 本当に何事もなく何もかもが一瞬だった。心のどこかに引っ掛かっていたはずの「跨堂からの頼み事」も、言い渡された期限の直前まで完全に忘却の彼方にあったぐらいだ。
 跨堂から蝶を受け取り五日が経過した。
「跨堂から解答を促す催促の一つぐらいあるかも知れない」
 そうも考えていたけど、跨堂からは何のアクションもなかった。その事実にも特に驚きはしなかったけど、同時にそれは「蝶を託した」その意味をわたしに考えさせる結果となった。
 恐らく、跨堂はわたしがこのまま蝶を確認しなかったとしてもそれを「良し」とするのだろう。つまりは確認した結果として、わたしが未来を変えようとしなかったとしても同様だ。未来を変えたいとは思っているが、跨堂としては変わらなければ変わらなくても問題ないのかも知れない。
 尤も、わたしに託した蝶を用いてわたしが未来視を実行したかどうかを跨堂は確認できるのかも知れない。
 進捗状況を確認する必要性がないから、跨堂がアクションを取らないだけかも知れなかった。
 何にせよ跨堂は返事を聞くと言ったのだ。わたしと跨堂はもう一度、顔を合わせる必要がある。
 顔を合わせる場所が現実世界か、夢の世界のどちらかはともかくだ。そして、例えわたしがこの蝶がもたらす未来視を確認しなかったとしてもである。でも、再び顔を合わせる場所が現実世界である予感は皆無だった。
「確認してない。依頼を受けるつもりもない」
 そう言い放って、全て忘れてしまっても良いとさえ思ったけれど……。
 高校から帰宅したわたしはベットに向かって鞄を放り投げる。そして、跨堂の蝶へと手を伸ばした。
 そいつはハタハタとこちらにやってきて、わたしの指先に絡み付くかのような軌道で浮遊する。
 ついさっきまで、北原や三倉と馬鹿話をして笑っていた余韻はもうない。そこにはただただ緊張がある。
 もう少しで夕陽へと色を変える太陽光が差し込む自室で、わたしはじっとその灰色の蝶を注視する。
 そろそろ跨堂が切った期限が近づいてきたというのに、それはハタハタと飛び交う勢いを全く失っていない。尤も、その辺りを飛び交っている蝶とは訳が違うのだから、衰退しないのも当然かも知れない。
「このままでは選択肢さえ選べないな」
 ふと、そんな思考が脳裏を過ぎった。
 何も情報がない状態では何の判断材料も持たないのと同じだ。
 変えようとする、しないを選ぶこともない。そのまま、何もかもを忘れてしまう。そんな答えも有りだと本気で考える。けど、わたしの蝶は変わらずそこにいて、これからもわたしに未来視を突き付けるだろう。
 跨堂が望む形へと未来の結末を変えた場合、跨堂は対価を支払うつもりがあると言っていた。
 そして、わたしが対価として求めるものは決まっている。
 跨堂に聞きたいことは無数にあり、未来視について知りたいことはたくさんある。そして、跨堂は他にもたくさん未来視の能力を持つ者を見てきたと言う。全てには答えられずとも、いくつかには確かな答えを示してくれるのだろう。
 ……問題はこの蝶が持つ未来視の内容となる。
 大した物ではないかも知れないし、わたしの想像を遙かに逸脱する危険な内容かも知れない。
 ともかく、今のままでは何の判断もできなかった。だから、まずは「見るだけ」と、そうわたし自身を言い聞かせる。
 わたしを人間以外が行き来する世界へ案内した挙げ句、置き去りにして先に進んだ蝶が相手だ。気が進まないというのは当然ある。それでも、わたしは跨堂の蝶を受け入れる。そして命令をする。
「行くだけは行ってやろうじゃないの! ……案内しなさいよ、跨堂が変えて貰いたいって願う未来視の中へ!」
 威勢良く張り上げてみせた声は、そうしないと顔を覗かせてしまう臆病さを牽制したものでもある。
 やはり怖さはある。
 人間じゃないものと擦れ違うこともそう。けれど、それ以上にわたしが「怖い」と思うことは跨堂の指摘が真実だったならと言う思いだ。この未来視を確認する大きな理由の一つには「未来を大きく変える力などない」と、それを確かめる意味合いもある。
 そんな弱さが顔を覗かせ始めたわたしへと、蝶は信じられない俊敏な速度で突進してきた。思わず目を見開いて、その頭部への突進を避けようと反射的に動いてしまったぐらいだ。
 しかし、まるでわたしの動きを予想していたと言わないばかり、蝶はわたしの回避方向へと進路を変える。
「ぶつかる!」
 そう判断して目を閉じるけど、いつまで経っても衝撃はない。
 恐る恐る目を開くわたしを、衝撃の代わりに襲うものは生半可ではない眠気だ。耐え難いと表現しても良いだろう。
 ……何を言っても基本的には言うことを聞かないのが蝶である。
 しかし、時折「人の言葉を理解しているのかも知れない」と、そう思わされる場面に出会すことがある。今回もその例に当てはまる場面だった。
 言葉を理解しているのではなく、感情的な部分を敏感に感じ取っているのかも知れないけど……。
 回転速度の著しい減速が始まった頭でそんなこと思いながら、わたしは眠気に抗うことを早々に諦める。そうしてしまえば、わたしの視界が暗転するまで数秒と掛からなかった。




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