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Seen03 未来視を違えた結果と新種の蝶が誘う世界


 けたたましいまでのブレーキ音の後に響く衝撃音が脳裏を過ぎって、わたしは思わず耳を塞いで目を閉じる。再びあの音を聞いてしまったら、自分がどうなってしまうか解らないとさえ思った。
 けれど、わたしが危惧する衝撃音はいつまで経っても訪れなかった。
 縮こまるように目を閉じ耳を塞いでフルフルと震えるわたしの肩がポンポンと叩かれる。
「紀見が何とかしたかったものは何とかなったみたいだよ」
 わたしが何を怖がっているのかを理解しないと口にできないことを、北原は優しい口調で告げてくれた。
 ゆっくりと目を見開いていくと、踏切のかなり手前の位置で電車が制止している光景が目に飛び込んでくる。
 意図せず、安堵の溜息が出た。
 尤も、過積載小型トラックが踏切で事故を起こすことは避けられなかった。
 踏切の中で立ち往生する軽自動車は鉄骨の下敷きになっていて、フレームが大きく歪んでいた。運転席のドア・パワーウインドウともに全く空かないらしい。そこには助手席側のウインドウから身を乗り出すようにして脱出を試みる運転手の姿があった。
 事故現場に居合わせた人達のざわつきに耳を傾けてみると「鉄骨の下敷きになった人がいる」という話が聞こえる。けれど、鉄骨自体はすぐに数人掛かりで持ち上げられて、無事救助されたという話が続いた。
 無傷というわけにはいかなかったみたいだけど、命に別状はないようだった。そこには電車が突っ込む以外全て、未来視の中で見た世界が広がる。
 最悪の事態が回避されたというだけで、今はそれだけで十分だった気がした。
 ホッと一息吐くわたしに北原が尋ねる。
「……偶然じゃないんだよね?」
 その言葉は疑問系の形を取っていたけれど、わたしを見る北原の目には確信が滲んだ。
 わたしはどう答えるべきかを迷って、結果として返事に困って俯く形になる。
 そんなわたしの雰囲気を察したらしい。
「まぁそんなのどうだっていいや」
 北原はあっけらかんとそう言い切ると、ずいっと身を乗り出すようにして、わたしの鼻先に人差し指を突き付けた。
「でもこれだけは聞かせてよ。必死扱いてやったけど、目的は達成できたの?」
 何を聞かれるんだろうと身構え堅くなるわたしに、北原が突き付けた内容はあまりにも予想外の内容だった。
 ……だからかも知れない。
 全く自然に、わたしは小さく頷いていた。
「……うん」
 言ってしまってから思わず、小さく「……あ」と声が漏れた。「しまった」と言わないばかりにだ。それは如実にわたしの表情にも現れる。わたしは咄嗟にその困惑を隠せない。
 しかし、それらは次の北原の勢いある言葉に完全に掻き消されてしまう。
「なら万々歳だね! お祝いに石傘通りの喫茶店で、とろけるモンブランでも食べて行っちゃおうか。……って、事故としては怪我人まで出ちゃったわけだから、ちょっと不謹慎な発言だった?」
 わたしは曖昧に微笑んで、ただただ北原の心遣いに感謝した。その曖昧な笑みさえも、北原の「不謹慎な発言」に対するものと誤魔化してしまえる風になって、わたしの気持ちは軽くなる。
「……お金ないや、全部、発煙筒代に消えちゃった」
「えーと、三倉さんだっけ? まだ彼女がいるじゃない」
 北原は悪巧みをする悪代官みたいな顔をして「これは名案」と言わないばかりだった。鞄の中から携帯を取り出すと、北原は三倉に連絡を取ろうとしているようだった。こういう時の行動力はさすがと思わせられる部分がある。
「あ、三倉さん? 北原だけど、ちょっと相談が……」
 三倉にしてみれば「お祝い」なんて言われたところで、何が何だか解らないと思うのだけど、北原はそんな事情はおかまいなしの様子だ。そんな北原と三倉のやりとりを気に掛けながら、わたしは鈴平の存在を確認するため事故現場の流れる人の群れの中へと視線を走らせた。
 その瞬間、わたしの身体を違和感が襲う。胸元がざわつくと言えば適当だろうか。それは不安や胸騒ぎといった類の「負に向く」感覚ではなかった。けれど、だからこそ逆に、わたしは著しい困惑を覚えた。
 視界の端にはわたしの意志に反して、その羽根に黒と黄色をあしらった「わたしの蝶」が羽ばたいていた。
 事故は直前で回避された。
 けれど、わたしのその感覚は次に続く何かを予感させる。
 心音の高鳴りは不安を煽り、直接的な目眩という身体の不調に繋がる。
 そんなわたしの異変に気付いたらしい。
 北原がわたしへと言葉を向ける。
「……? 紀見、大丈夫?」
 けれど、その言葉にわたしは薄い壁を挟んで会話しているような錯覚を覚える。
「ああ、うん。全力疾走なんて慣れないこと、するものじゃないよねー」
 北原を安心させるため、空元気を引っ張り出してきてわたしは笑う。
 わたしがすぐに反応したこともあってか、北原に余計な心配をさせることだけは回避できたみたいだった。
「いいよ、後はあたしが全部上手いこと話付けておくから、紀見はどっかその辺りに座って休んでおいで」
 ウインクをする北原に、わたしは苦笑いを隠せない。こうなると非常に手強い北原を相手にしなきゃならない三倉のことがちょっとだけ心配だったけど、わたしは「うん。そうさせて貰うね」とだけ告げるとその場を離れた。
 事故現場は時間の経過に伴って野次馬の数が増加していて、既に全体を遠目に把握できそうな場所などなかった。比較的、移動量の少ない野次馬の人混みに混じって立ち止まると、わたしは違和感の原因を探るため視線を走らせた。
 そして、流れる人の群れにあって直立不動のまま微動だにしない少年を見付けた。
 いや、少年という言い方は適切ではないのだろう。わたしはそこに佇む人物の性別について判断できなかった。だから「少年」という表現はわたしの第一印象を述べた「取りあえずの措置」としてと、そこに落ち着かせものに過ぎない。少なくとも、その人物の性別が女だと告げられてもわたしは驚かない自信がある。
 それ程までに、その人物は見た目に判別が難しいほど中性的な容姿をしていた。
 その中性さを際立たせるのはまず髪型だ。わたしから見て右側の耳に掛かるぐらいまでの髪を束ねて編み込む髪型で、髪質はサラサラと風に靡く黒髪である。
 次に白く透き通る肌が続き、最後に場にそぐわない一風変わった服装が続く。
 その服の種類を柄や素材といったものから総合的に判断するとパジャマのようなものだと言えるだろうか。すくなくともアウター用の服には見えず、室内着と言い切るにしてもラフ過ぎた。そして何より靴を履いていないことがより一層その少年の服装に対する「パジャマ」という印象を強くした。
 そんな具合に周囲の人の目を惹くに足る格好にも関わらず、誰も少年に目を留めないことにわたしは胸騒ぎを覚える。
 胸の奥から突き上げるような気持ち悪さを伴う違和感の原因はこの少年にある。
 そんな直感のようなものがあった。
 背丈はわたしと同じぐらいだから、身長としては大きい方ではない。顔の輪郭や肩幅といった特徴は男性のそれにかなり近いから、やはりわたしの直感はそういった第一印象からその人物を少年だと判断したのだろう。
 無意識のうちに、わたしは目を細め少年をまじまじと凝視する形になる。わたしはその気持ち悪さを発生させる違和感の正体を探りたかったのだ。わたしの胸の中で首を擡げる好奇心にも似た焦燥は「違和感」が引き起こしているのだろうか。もちろん違和感の正体なんて簡単に「これだ」と解るはずもない。だから、わたしはよりその少年だけにピントを合わせようとする。
 ふっと、わたしは少年との間の距離が掴めていないことを理解する。
 途轍もなく遠いようで、手を伸ばせばすぐに届きそうな遠近感が狂った感覚。視覚として捉える距離は近いけれど、実際にそこに辿り着くのは無理だと直感が訴える。晴天の日に遠くの山々が異様に近くにあるように感じるそれに近いか?
 いや、それは距離感だけじゃない。
 確かにわたしの目は少年にピントを合わせているはずなのに、頻繁にぼやけその輪郭が朧気になる。
 自慢じゃないけれど、わたしの視力はかなり良い。最近、視力検査なんてものをした記憶がないから、多少、悪くはなっているかも知れないけれど、それでも少年の周囲にある人集りからはどんな視覚情報も拾っていける。
 そんな風に、ぼやけて輪郭を失うのはその少年だけだ。
 距離感の掴めない相手に「ピントを合わせる」というのは非常に言い表し難い感覚だった。
 わたしの瞳が彼にピントを合わせてしまうとその感覚は息を潜めたけれど、いつそれが再発するかと気を揉むほど、それは再び味わいたくない感覚だった。気持ち悪さを伴う違和感の一つはそれかも知れない。尤も、それが違和感の根幹にくる原因だとは断定できない。もっと掘り下げていくとその「おかしさ」に繋がる何かがそこにあるかも知れない。
 マジマジとその様子を上から下まで注視したその後で気付いたけれど、少年はうっすらと輪郭そのものが透けていた。そうして同時に、わたしは一匹の蝶が少年の周りをまとわるように舞っていることにも気付く。それはくすんだ鼠色の下地に自己主張の強い橙色の模様を羽にあしらった蝶だ。
 わたしの周りをまとわる蝶同様に、その橙色の模様を持つ蝶が未来視を司る類のものかどうかは解らない。けれど、わたしは彼が「もしかしたら実際にはそこに存在していないのかも知れない」と思った。
 彼は、恐らく、未来視をしている時の「わたし」だと思った。正確には違うのかも知れないけれど、限りなくそれに近いものだと感じた。「どうして」とはっきり言うことはできない。
 けれど、それこそ未来視の具現を訴えた時の感覚同様だ。それを訴える確かな第六感がある。
 このまま彼を凝視し続けたら、恐らく彼の回りを羽ばたく蝶もその輪郭をボロボロと崩し始める気がする。そして恐らく、きっと彼自身も空気に解けるように消えてなくなるはずだ。
 ふっと、全く唐突に、少年がわたしの方へと視線を走らせる。
 わたしの視線に気付いたのだろうか?
 それとも、たまたまこちらの方に顔を向けただけだったのだろうか。
 ともかく、わたしとその少年の目が交差する。次の瞬間、わたしはまずいと思った。
 ……どうしてだろう?
 そして「相手が気付かなければいい」と考え、慌てて目を伏せる。
「やっと見付けた」
 唐突に北原の声が向けられて、わたしはビクッとなる。
「……もう、休むって言うから座れそうな場所にいると思ったら、紀見は何でこんな人混みの中に突っ立ってるかな?」
 反射的に北原の方へ向き直るわたしだったが、北原そっちのけで横目で少年の様子を窺っていた。
 既にそこには少年の姿はなかった。
「幻だったのかも知れない」
 そこにいた痕跡が完全に消えていたなら、そうも考えたかも知れない。
 けれど、そこには掻き消える間際の蝶が羽ばたいていて、否応にもその存在がわたしに取っての現実であったことを理解させられる。同時に、その少年が未来視をしている時の「わたし」だったのだと理解させられる。
 少年の蝶が完全に掻き消えた後、わたしは改めて鈴平を探すために視線を走らせた。人混みの中に見覚えのある顔を見付けてしまえば、鈴平の居場所はすぐに発見できた。そこには渡り廊下で見掛けたバレー部の男子と女子がそれぞれ一人ずつ居た。携帯を片手に誰かと連絡を取っているようだったけど、そこに慌てふためいているような挙動はない。
 鈴平は踏切脇にある草むらに座っていた。遠目に見る限りでは意識を失っているだとか、酷く混乱しているだとかそういう風には見受けられない。至って落ち着いているように見える。
「……なに見てんの?」
 不思議そうな顔をしてわたしの視線の先を目で追う北原に「何でもない」と返そうとした矢先。携帯片手に話をする男子生徒が突然こちらの方へと向き直る。
 慌てて視線を外して俯いてはみたものの、わたしは間違いなく見付かったと思った。何より、北原が視線を外したその仕草の意図を汲み取ってくれない。まじまじと鈴平の居る辺りを注視していたままなのだから、仮に見付かっていなかったとしても、このままでは気付かれるのも時間の問題だ。
 わたしは視線を外した状態のまま、クイッと北原の上着の袖を引く。北原から反応があったら、一言二言軽く適当な理由を付けて、強引にでもこの場を離れようと考えたのだ。
「んー、どうかした、紀見?」
 袖を引いた北原からは反応があったものの、時既に遅し。
 男子生徒はわたしの存在に気付いた様子で、携帯で話をしながらこちらに向かって軽く手を振る。どうやら、わたしが渡り廊下で忠告をした女子と、同一人物だという確信が持てなかったらしい。近くの女子生徒と一言二言話を交わしたかと思えば、それを境に手を振るアピールは一気に激しいものとなる。
 しかしながら、そんな激しいアピールのお陰で「あの男子生徒の様子なら鈴平は大丈夫だろう」と確信が持てたのも事実だ。わたしはホッと安堵の息を吐く。そうすると不思議なもので、今までの疲れがドッと襲ってくる。「緊張の糸が切れた」という奴なんだろう。
 わたしはクルリとその足の向きを変える。
 今、男子生徒に何らかのアクションを返して、鈴平の様子を確認しに行ったなら根掘り葉掘り色んなことを聞かれるのは火を見るよりも明らかだ。
 緊張の糸が切れてしまった今、わたしには再び自分に渇を入れ直して経緯を説明する元気なんかなかった。
「オーケー、北原、そろそろ行こうか。へへ、……わたしのやるべきことはもう終わったしね」
「紀見ー、なんかこっちに向かって恥ずかしいぐらいに思いっきり手を振ってる奴がいるんだけど……」
 男子生徒はわたしがそちらに気付いていないと思っているらしい。北原が言うように両手をブンブンと振って、自分の存在をアピールする。そして、その様子は度を超していると言えなくもない。全く無関係の人達までが何事かと訝る顔をしてこちらに視線を走らせ、わたしは心底ここに長居したくないと思った。
 もう事情の説明をするのが億劫だとかそういうことだけじゃなくなってしまっていた。
 衆人環視の目を集める中で、掻い摘んで未来視の説明なんかしたくはない。まして、男子生徒は興奮気味で何を口走るか解ったものじゃない。まかり間違って「忠告を聞かなくてごめんな」とか口走られた日にはわたしはどう対応して良いか解らない。
「うちの学校の制服着てるみたいだけど、知り合い? ……紀見?」
「良いよ、放っておけば」
 そう言ってしまってから、その言い回しでは手を振る相手がわたしの知り合いであることを肯定したようなものであることに気付いた。
 北原は「ふーん」と興味なさげな様子だった。
 しかし、次の瞬間、北原はこともあろうにその男子生徒に向かって手を振り返す。その突拍子もない行動にはさすがに「一体何を考えているの?」と思わされたが、今は一分一秒でも早くここから離れたかったこともあって北原を追求することはしない。わたしは北原の手首をがしっと掴むと、その場を一目散に離脱する。
「野峰さーん!」
 わたしの名前を呼ぶ声が聞こえた気がしたけど、足を止める気にはなれなかった。


「ただいまー」
 間延びしたわたしの声が玄関に響くと、リビングからはすぐにママの声が返ってくる。
「おかえり、紀見佳」
 姿を現さないところを見ると、リビングでテレビでも見てくつろいでいるのだろう。
 結局、石傘通りの喫茶店には寄らず仕舞いでわたしは自宅に戻った。尤も、それは主に気分的な問題からではなく金銭的な問題からである。結局、北原が当てにした三倉も三人分のお金の持ち合わせがなかったのだ。
 北原曰く、それでもお祝いと聞いた三倉は色々とずれたことを提案したらしい。
 北原による三倉の印象は今日一日のその一連のやりとりだけで「面白い子」となってしまった。
 例えば、こうだ。
「紀見のお祝い? だったら日にちを代えてでもやらないと行けないよね。今日は持ち合わせないけど、一度家に帰れば、それぐらいの蓄えはあるから大丈夫」
 ……一体、何が大丈夫だというんだろう?
 それを言ったらわたしも北原もそうである。今持ち合わせがないだけで、一度自宅に戻ればそれぐらいの蓄えはある。そういう余計な手間を省いて、本日中にパーッと騒ぐ場を設けたかったから三倉を当てにしたのである。
 本当のことを言うとパーッと騒ぎたかったという欲求もあった。
 鈴平の無事を確認できたことでホッとはしたけど、どうにも心の底から喜ぶ気にはなれなかったからだ。鈴平を助ける行動を起こし、結果的に鈴平を助けたことで、いくつかの心配事が首を擡げてきたと言うのがある。わたしの中で常に燻ぶり続けている不安だと言い換えてしまっても良い。
「わたしが未来視の能力を持っていると解ったら、みんなはわたしをどういう目で見るだろう?」
 全ての不安はそこに収束する。
 そんな能力あるわけがないと訝り否定してくれれば最良だと思っている。
 わたしの「未来視」を実際に体感した人達がそれを「本物」だと主張し、仮に「本物」だとみんなに知れ渡ってしまったなら、わたしはどういう目で見られることになるだろう?
 それをわたしは危惧してきた。
 たかだか未来視の能力を持つだけで「特別なもの」を見る目でみられたくなんかない。なぜなら、これは大した能力ではないのだ。見ることのできる範囲なんてたかが知れているし、わたし自身の利益に繋がることなんてほとんどない。
 けれど、わたしの能力について正しく理解してくれる人達は限りなく少ないだろう。そして、恐らく大多数の人達がわたしと距離を置くだろう。それが「良い」か「悪い」かなんてことは次元の違う話なのだ。
 何か悪いことが起ころうとしている未来だけを掻い摘んで取り除こうとしてくれるのなら、きっと誰からも感謝もされるだろう。困難も不運も全て味わって経験にするもの。そんな拘りを持っている一部の人達以外は喜んでくれると思う。
 けど、誰も彼も自分が辿り着くことになる詳細な未来など知らされたくはないし、人によっては知られたくない。
 誰かの未来を視るとなれば、少なからずその人の領域に足を踏み込むことになる。そうやって、わたしが踏み込んだ領域には人には知られたく秘密が転がっているかも知れない。
 実際にはそんな領域にわたしが足を踏み込めないのだとしても、その可能性があるだけで駄目な人は駄目だろう。
 逆の立場だったなら、きっとわたしだってそうだ。
 わたしがどんなに説明してみせても、当人にしか解ることのない「未来視の範囲」に対して相手が完全な理解を示してくれるとは思えない。そして、理解が完全でない限り、わたしに対する相手の懸念は残り続ける。未来を含めた自分の全てを晒さなければならないかも知れないという懸念だ。
 そんな不安を臆病なわたしの「気にし過ぎからくる問題だ」と笑う人達がいるかも知れない。
 でも、そう言うことを引っくるめて、わたしは取り敢えず今日一日だけでも余計なことは考えたくないと思ったのだ。
 それを問題の先送りと言うこともできるけど、……わたしは知っている。いくら悩んでみても、それは実際に直面しなければどうなるか解らないことだ。臨機応変と言えばと聞こえは良いけど、実際には「なるようになればいい」と開き直ったに過ぎない。
 リビングのママに軽く挨拶をしてわたしは自室へ戻る。
 制服からパジャマに着替えてしまうと、わたしはベッドの上に横になった。
 コンコンッとドアがノックされて、わたしはビクッとなる。
「紀見佳、そろそろ晩御飯にするよ」
「……んあ?」
 わたしの口から漏れた言葉にわたし自身が驚いた格好だった。
 いつの間にか、うとうとしていたらしい。
 机の上の時計で時間を確認すると、わたしがベットに横になってから一時間近くが経過している。そして確かに、窓から差し込んでいた夕陽の灯りがなくなり、自室には夜の薄暗さが横たわっていた。
「もう、なんて声出してるの?」
 呆れたママの声も当然だ。
 眠るには早過ぎる時間であるし、わたしは晩御飯を食べてなければ、お風呂にも入っていない。
 去っていくママの足音に、わたしはベットから起き上がる。自室のドアを開けて廊下へと出ると、そこまで光量の強くない蛍光灯の明かりに目を細めながらリビングへと足を向ける。
 リビングのドアを開けるなり、生姜の良い匂いが鼻を突いた。テーブルに並べられた晩御飯の料理は生姜焼きだ。現金なもので、その匂いを嗅ぐとわたしのお腹は一気に空腹感を訴えてくる。
 リビングに設置されたテレビからは琴浦〜回関線で起きた事故が流れていた。どのチャンネルでもニュース番組しか放送していない時間帯である。テレビの電源が付いている限り、このニュースを遮断するのは無理だろう。
「あら、すぐ近所じゃないの。紀見佳の学校でも足止めされた子達とかいるんじゃないの?」
 ママはキッチンから味噌汁のお椀を運びながら、琴浦〜回関線での事故についてそんな寸感を口にする。
 尤も、その報道は怪我人がどうのこうのと言うよりかは「通勤通学の足がストップ」という方に強調されている。怪我人については「命に別状はなく……」とキャスターが述べていて、事故として大惨事ではなかったことが読み取れた。
「……そういう話は聞いてないけど、多分、明日学校に行ったらそういう声を聞くことになるんじゃないかな」
 ニュースキャスターが口にする報道内容に耳を傾けていたけれど、取りあえず電車を止めた云々の話が登ることはなかった。ニュースの枠としても、多くの時間が割かれなかったこともある。ニュースはすぐに別の話題へと移った。
「それでは続いて、相変わらず混迷を極めている流通ストライキ問題について、現場からのリポートです」
 リビングで晩御飯を食べ終える。
 ママとは事故のニュースのことを含めて、当たり障りのない簡単な話をした。ママはわたしの未来視の能力について何も知らないからそれは当然だ。食器をキッチンの流し台へと置くと、バスルームの管理システムのタッチパネルの表示が保温になっていることに気付いた。
 バスルームへ足を向けてみると、湯船には既にお湯が張られてある。わたしが自室のベットでゴロゴロしている間に、ママがやってくれたのだろう。温度を確認するために湯船に手を入れてみると心地よい暖かさが伝わってきた。「このままお風呂に入って疲れを取ってしまおう」と、そんな誘惑が首を擡げた。
「ママー、先にお風呂入っちゃうけど、いい?」
「いいわよ、先に入っちゃってー」
 リビングからはそんな声が帰ってきたことで、結局わたしは部屋へと戻らず、その誘惑に全面降伏した。
 脱衣籠に脱いだパジャマを放り、下着を洗濯機に入れる。
 全面曇り硝子張りのバスルームの扉を開くと、肌に触れる湯気の暖かさが既に心地よい。
 シャワーの蛇口を捻って、体温よりも僅かに暖かい程度の湯を出すと、わたしの身長よりも高い位置にある留め具にシャワーのヘッドを固定する。給湯器の温度は42℃の設定だ。
 42℃の温度設定なんて「熱め」だと思うかも知れないけど、実際にこの温度のお湯が出ることはない。給湯器が年代物で、この温度設定でようやく30℃後半のお湯が出てくるのである。思えば、わたしが小学生の頃からこんな感じだった気がするけど、長年使い慣れてきたということもあって、この辺りの設定は手慣れたものだ。
 上から優しく叩き付けるお湯の温かさの中で、わたしは思考を巡らせた。正直な話、今日一日だけでも余計なことなんて何も考えたくないのにだ。下唇をくっと噛み付けてしまうと、お湯に打たれる心地よさとは相反した感情が生まれた。
 お風呂から上がると、リビングのテーブルの上にはビールとおつまみが置いてあった。
 ママはリビングで野球中継を見ていたようだった。ちょうどコマーシャルが終わると「本日の今までのハイライト」といった具合に、リプレイ画像が放送され始める。
「なんであそこであの球種をセンター前に運べないかなー」
 テレビを眺めながら、解説者と供に試合を振り返るママの様子ももう見慣れた光景だ。
 近所の付き合いだか何だかでプロ野球チームの私設応援団に入って、何度かドーム観戦しに行った後、こうして自宅でも野球中継を見るようになったのだ。熱狂的なファンというわけじゃないけど、部屋のあちらこちらにちらほらと野球のマスコットキャラクターが描かれた小物なんかが増えた気がする。
 わたしはプロ野球のことは何も解らないけど、ママの影響で名前を覚えた選手が何人かいる。
 バスタオルを頭に巻いたまま、冷蔵庫の中身をチェックするとそこには箱買いされたのであろう500mL缶のビールの山が発見できた。黙って一本拝借してしまうこともできたけど、我が家の方針としては「飲みたい」と言って、頭ごなしに駄目だと言われる家ではない。そもそも中学校の入学祝いの場で結構な量の日本酒を飲まされた記憶がある。親戚一同、誰も止めに入らなかったはずだから、そういう部分には寛容なのだろう。
「缶ビール一本貰うよー、ママ」
「あんたね、今から晩酌なんかしてこれ以上お馬鹿さんになったらどうするの?」
 ここで成績の話を引き合いに持ってこられるなんて、痛いところを突かれた。
 そう痛感しながらも、わたしは平静を装いながら切り返す。
「そんな尤もらしーこと言っちゃって、ママは純粋にママの分のビールが減ることが気懸かりなんでしょ?」
「あら、ちょっとはあんたの成績のことも考えてるわよ? ただでさえ、あんたはどうにか中の下レベルに引っ掛かっている状態なんだから、脳のこぼれちゃ行けない部分にお酒がこぼれちゃったら大変なことになっちゃうもの」
 この前の期末テストの結果がわたしの脳裏を過ぎる。それでも、数学以外が散々だったと実感した割には中の下という位置にわたしは入る。
「今日はちょっとやり慣れてないこととかやったから、自分にご褒美。ははは、……ホントはご褒美だとかそんなことはどうでも良いんだけどサ、アルコール入るとそーいう余計なこと考えなくて済むから」
 何か言い訳が必要だと考えて口を開いたら、ポロリと本音が口を吐いて出た。信じられないぐらいにあっさり口を吐いて出てしまって、わたし自身吃驚したぐらいだ。
「そう? じゃあ一本だけよ」
 ハイライトが終わり野球中継が始まったこともあって、ママは特に気に掛けた風もなくそう言った。
 わたしは「ふぅ」と小さく息を吐くと、野球中継に釘付けになるそんなママの背中をじっと眺める。
 何もかも本当にいつも通りなんだな。そう思った。
 もしかしたら「やり慣れないことなんて珍しい、何かあったの?」だとか、わたし自身、ママに話を聞いて貰いたかったのかも知れないとさえ思った。そうなったらそうなったで、わたしはきっと曖昧に笑って見せて、結局話を濁して終わらせたと思うのにだ。
「それじゃあ、お休みね、ママ」
「お休み紀見佳」
 冷蔵庫から缶ビールを一本抜き取ると、わたしは自室へと足を向ける。
 ヒラヒラと手を振って、グイッと缶ビールを煽るママの様子にわたしは曖昧に笑う。
 自室に戻りブックシェルフからファッション雑誌を抜き取ると、わたしは缶ビールの口を開く。プシュッと音が鳴るとビール独特の香りが部屋に漂う。パラパラと雑誌を適当に捲って、ビールを口に含むとわたしはベットに仰向けに倒れた。
 ほろ苦さを口内に漂わせるビールの味はわたしに不思議な感覚を味あわせた。
 不安定な心の動きに、七パーセント未満のアルコールが強く影響したのかも知れない。
 もしかすると、その感覚は達成感に限りなく近いものだと言えるかも知れなかった。けれど、それは偏に心地よさだけをわたしに与えるではなくて、同時に言いようのない不安を内包していた。
 確かにグダグダと余計なことを考えずには済んだけれど、わたしは一人、惚けた顔して天井の蛍光灯をただただボーッと眺める羽目になる。もしも、今、誰かずっと受け手に回って、ただひたすら話を聞いてくれたならば、わたしは延々と達成感を味わった興奮を自慢しただろうか。それとも、正当性とその理解を訴えただろうか。今回、わたしが未来視に対して起こした行為に対する理解だ。
 恐らく、その双方をわたしは口にするのだろう。情緒不安定とさえ思わせる緩急の激しいテンションで、喜んだり、悲しんだりするのだろう。わたしが今まで積もり積もらせてきた憤懣や鬱憤を全て吐露するかも知れない。そして、今後、わたしに降り掛かるかも知れない様々な弊害に、憐恕を求めるかも知れない。
 例え、わたしがどんなに泥酔しようとも、この思考を飲み込み口をつぐんでしまえば、何の解決にもならないことを見誤ることはない。わたしは理解を求めねばならない相手を知っているし、憐恕を請うべき相手を理解している。
 それは北原であり、鈴平であり、三倉であり、わたしの周りにいてあの事故に関係した人達である。
 わたしは理解を欲している。わたしにはまだしなきゃならないことがある。それはわたし自身をさらけ出すことでもあるけど、わたしをさらけ出してしまわないと一歩踏み込んだ場所には進めない。
「今日は逃げちゃったけど、……明日はわたしの話をしなきゃならないかな」
 長々と仮定の話をしたけれど、総括して、わたしは悪くない心地だった。
「また色々な当たり前のものを失うのかも知れない」
 そんな言いようのない不安もあったけれど、それら全てを引っくるめても、悪くはない心地だったのだ。
 クイっと缶に残ったビールを全て飲み干してしまうと、わたしは目を閉じた。


「……何で北原がここにいるの?」
 踏切の事故の次の日、鈴平の入院する市立病院で北原相手にわたしが放った第一声がそれだった。
「鈴平は事故に巻き込まれてな、数日入院しなきゃならなくなった。誰か、鈴平の分のノートも取ってやってくれ」
 朝のホームルームで担任からそう報告があって、わたしは「これは好都合」だと思った。期せずして、一対一で話ができる環境が整えられたからだ。入院する鈴平には悪いけど、これを好都合と言わずしてなんと言えばいい?
 そして、放課後を迎え、鈴平のお見舞いのため病院へと足を向けたわたしの前に現れたのが北原だ。
「あたしだけじゃないよ? 三倉ちゃんもいる」
 ヒョコッと北原の背後から顔を覗かせる三倉に、わたしはばつの悪い表情を隠さなかった。
「昨日言ったじゃん。日にちを代えてお祝いしようって」
「そうそう! ……何のお祝いかは知らないけど」
 病院のロビーで大きな声を出すわけにも行かない。わたしはいくつか口から出掛かった言葉をグッと飲み込むと、あっけらかんと言って退けた北原の言い分に耳を傾ける。
「後はあれだ、あたしもクラスメートとして鈴平のお見舞いに来たってやつ? 鈴平に誰のまとめでノートを書いて貰いたいとか、そういうアンケートを取ってきてって頼まれてるしね」
 その北原の言い分は嘘ではない。北原は確かにそんな話題で昼休みに盛り上がっていたのをわたしは記憶している。
 でも、それでは三倉がここにいる理由の説明にはならない。それに「日にちを代えて」と言った辺りはわたしがここにいることを解っていなければおかしな言葉だ。
 鈴平のお見舞いと件のノートの用事を片付けた後、わたしとその「お祝い」をするため事前に三倉を誘っていたという可能性が考えられない訳じゃない。けれど、それならばそれで、わたしに対して一言あって然るべきだ。
 偶然と捉えるにはあまりにもタイミングが良すぎるし、あまりにも話ができ過ぎていた。
「……二人して、まさかずっとわたしの後を付けてきたとかないよね?」
 訝るわたしに、北原は悪びれた様子もなく答える。
「いやぁ、学校を出た辺りから同じ方角に向かうなーとは思ってたんだけどね。もしも目的が違ってたら困るかなーと思ってさ。声を掛けちゃったが故に、無理にお見舞いに付き合わせることになっちゃったりしたらさ、あれじゃん?」
 北原は明らかに確信犯だった。
 三倉は三倉で胸の前に小さく両手を合わせて「ごめんね」という意思表示を示して見せる。ペロリと小さく舌を出してみせる辺りからも、正直、本当に反省しているかどうかは疑わしいけれど……。尤も、三倉に取ってはちょっとした「ドッキリ」のつもりだったかも知れない。もしそうであるなら、悪気がないからさらに質が悪い。
「はああぁぁぁぁ……」
 口から漏れた深い溜息が今のわたしの全てを代弁しただろうか。
 今更どうのこうの言ってもどうにもならない。
 それを頭では理解しているけど、素直に受け入れて開き直るだけの余裕はまだなかった。
 エレベーターに乗り込んで、北原の病室がある三階のボタンを押すと、わたしは側面に備え付けられた手摺りに寄りかかる。
「まずは鈴平との一対一での話し合いを」
 そう考えていた私に取って、この二人の追加は一気にハードルが高くなったと言っても過言ではない。
「どうしよう?」
 そんな自問自答が頭をグルグル回って、わたしはこの後の対応について熟考する。
 いずれはこの二人に対しても話をすると腹は決まっていたのだから、この状況はチャンスなのかも知れない。そんなプラス思考もあるにはあるけど、エレベーターに設けられた鏡に映るわたしは眉間に皺を寄せる苦悩の顔付きをしていた。
 不安を隠し切れない顔。そう言い換えた方が適当かも知れない。
 ちらりと鏡越しに二人の表情を窺ってみる。
 北原は機嫌良く鼻歌交じりで、三倉も三倉でいつも通りのテンションだ。特に変わったところは見られない。
 それだけにわたしのテンションの低さが際立つ形だった。
 三階でエレベーターを降りると、まずは目的の病室が右にあるのか左にあるのかを確認するため案内板へと目を向ける。市立病院とは言っても、周辺地域の緊急災害時の傷病者受け入れ先に指定されているというだけあってかなり大きな総合病院である。一階一階にある病室数もかなりの数だ。尤も、全体的な雰囲気として古い建物が持つ印象は拭えない。いくら改築や修繕が行われているとはいえ、病院自体はかなり昔に建設された建物だ。
 市立病院の受け付けで貰ったメモ書きの病室のナンバーと照らし合わせ、わたしは向かって左方向へと足を進めた。
 鈴平が入院している病室はすぐに見付かり、わたしは北原と三倉の顔を見る。
「ここ?」
 間髪入れずに、北原が尋ねてくる。
 気が重い。そんな顔をしているだろうわたしの都合などお構いなしと言った感じだ。
「……うん、ここだね」
 わたしがそう答えた次の瞬間、北原は病室のドアをノックする。
 そうは言ってもそこは鈴平一人の個室ではなく相部屋の病室だ。だからそれは「今から入室させていただきます」といった便宜上の意思表示に過ぎない。壁に掛けられた入院患者名が書き記されたプレートを見る限り、四つのベットからなる相部屋には三人しか居ないようだ。
「どうぞー」
 そんな間延びした声があって、北原はガラっとドアを開く。
「よッ、元気にしてる?」
 まず北原が入室する。
 続いて、わたしが病室へと足を進めると、わたしを見付けて目を丸くした鈴平が飛び込んできた。
「野峰さん!」
 そして、鈴平はわたしを見るなり一つ大きな声を挙げる。
 同時にわたしの心拍数も一気に飛び跳ねた。自分がふらつかずにその場に立っていられるのかさえ、怪しく感じられたぐらいだ。上手く今のわたしの状態を説明できないけど、それは「緊張」と言い表すのが最も適当なんだろう。
「お見舞いに来たよ」
 そんな一言も咄嗟に口にできないほどにわたしはガチガチだった。
「野峰さんの忠告を聞かなかったから、……見ての通りだよー」
 鈴平は間延びした声で笑った。
 その瞬間、ふっとわたしの身体が軽くなった気がした。
 もっと、幅広く色んな言葉を想像していたわたしに取って、それは救いの言葉に等しい。最悪、罵られるかも知れないと思っていたのだからだ。最悪、何か恐ろしいものでも見るような目で見られるかも知れない。そうも思っていた。
 もう緊張はどこかに行ってしまったというのに、わたしはまた困った顔でもしていたのだろうか。正直、自分がどんな顔をしているのか全く想像できなかった。無表情だったのかも知れないし、笑えていたかも知れない。
「……で、状態はどんなもんなの? いつ頃、退院できそうなの?」
 北原は鈴平のベットに腰を掛けると、ギプスの巻かれた左足をポンポンと撫でるように叩きながら尋ねる。
 反応のないわたしの様子を察してくれたわけではないだろう。けど、そこで北原が口を開いてくれてお陰で、違和感なく会話は続いた。
「入院したばかりの相手に、いきなり退院の話? 怪我の具合は骨折。完全にポキッて行っちゃってるみたいだから、完治までは一ヶ月以上掛かりそうな感じ」
 北原と鈴平の話を聞いている限り、鉄骨の下敷きになったというにしては酷い怪我ではないらしい。
「バレー部で絶妙の運動神経を遺憾なく発揮してる鈴平らしくないよね。鈍くさいというか……」
「いやいや、運動神経どうのこうのの話じゃないって。人間、咄嗟に反応できることなんてたかが知れてる。北原さんも同じ立場に立たされたら痛感すると思うよ」
 そう熱く主張した後、不意に鈴平は怪訝な顔をする。その視線が捉えるのはわたしや北原ではない。
「どしたの?」
 鈴平の顔付きが変わったことにすぐに気付いて、思ったことを率直に尋ねるのは北原だった。
「いや、あの娘は野峰さんと北原さんの連れなんじゃないのかなーって」
 言い難そうに話す鈴平の目線を追うと、そこには三倉がいた。
 三倉は病室には入ってこず、病室とは反対側の壁にもたれ掛かるような体勢で手持ち無沙汰の様子だ。
 鈴平と面識なく居心地が悪いと思ったのかも知れない。
 ともあれ、だったら自販機や雑誌なんかがある休憩室辺りまで離れてしまって、メールで「どこそこにいる」とでも連絡するか、または携帯でも弄っていてくれれば「何か用事でも入ったのかな?」とでも思わせられるだろうに、三倉はぼーと天井にある蛍光灯なんてものを眺めていた。
 そして、自分に注目が集まっていることに気付くと、三倉はばつの悪そうな顔をしてひらひらと手を振ってみせる。
「……何してるの、三倉ちゃん?」
 北原の口調は「どうしてそんなところに居るのか?」を問い詰めるものだ。北原、そして鈴平からの呆れたような顔付きに、三倉はさらに困った顔をした。そして、しどろもどろの説明をする。
「いや、だってさ、あたしは鈴平さんとはクラスメートでも何でもないわけだし、お邪魔かなーって。そもそも何の面識もないのにさ、それなのにお見舞いとかないわけだし。だったら紀見と北原さんに任せた方がいいかなって思ってね……」
「別にそんなこと気にしなくても良いよ。寧ろ入ってきてよ。逆にそんなところに佇まれるてる方が気になるって」
 鈴平は笑いながら、三倉にそう促した。「笑いながら」とは言ったけど、それは苦笑いに近かったかも知れない。少なくとも、北原同様に三倉は鈴平にも少なからず「変な娘だな」という印象を与えたことは間違いないだろう。
「そこまで言われるのなら、その、失礼します」
 三倉はどこかおかしな口調で返すと、端から見てもそわそわしているのが解る挙動で鈴平の病室へと足を踏み入れた。初対面の相手を前に若干緊張しているのだろうか。
 それから二十分程度の雑談を交えた後、唐突に会話が途切れる。
 鈴平がわたしを見る目に真剣さを灯して見せて、わたしは「ああ、ここからが本題だな」と息を一つ飲み込んだ。北原も三倉もいる。けれど、それはもうどうしようもない。なるようになれと開き直った。
「昨日は野峰さんと一緒に北原さんも居たんだよね?」
 鈴平の第一声はそんな内容だった。それは渡り廊下の忠告に北原も直接絡んでいるのかを確認しようと思ったものだろう。けれど、北原はそこにある意図なんてものを読み取れるわけもない。
「そうだよ」
 そう率直に頷き返した。
 それを確認し終えると、鈴平は忠告の件を省いた話をした。踏切事故による二次災害を未然に防止しようとした人がいたという遠回しな言い方だ。
「……色々と話を聞いた限りでは電車を止めてくれた人がいたらしいんだ。まるで、あの踏切に備え付けられてる発煙筒とかそういうものが直前の事故で使用されてたっていうのが解ってたみたいにさ」
 鈴平はわたしに対して気を遣ってくれたのだろう。
 忠告の件を含めて、わたしが未来を予測したことに対してどういう話を展開するのか解らないから、可能な限り余計な情報を省いてくれた。そんな気がした。わたしの「気が重い」という雰囲気を敏感に感じ取ったのかも知れない。
「ふーん。まぁ、あたしは紀見を手伝ってただけだよ。……どういう経緯で紀見が発煙筒なんてものを買い込んで、電車を止めようなんて考えに至ったのかは知らない」
 その発端となったのが自分ではないことを北原は明示する。そうなると、わたしに注目が集まるのは必然だ。
「それじゃあ、当人に話を聞かせて貰おうか?」
 北原にそう話を振られて、わたしはゆっくりと口を開いた。
 既に腹が決まっていたからだろうか。驚くほどすんなりと、わたしは言葉を切り出していった。
 蝶だとかそう言った部分を軒並み削ぎ落として、わたしはたまに「そういう未来を見ることができる」という話をした。それは眠りの中で「夢」という形で見ることができて、わたし自身ではその未来視という部分をコントロールできないことを主張した。わたしの弱さに起因するいくつかの嘘も混じったけれど、大部分は本当のことを簡潔に話したつもりだ。
 最後に、わたしは未来視の話が広がらないようにして欲しいと率直な要望を口にして締め括る。
「それは全然問題ないよ。野峰さんがそう望むなら、あたしは今回のことについて誰にも話さないよ。命の恩人のたってのお願いでもあるしね」
 そんな鈴平の解答を皮切りに、三倉・北原とも同様に了解を取り付けることができた。
「こんなこと確認するのはおかしいかも知れないけど、……助けようとしてくれたんだよね?」
「当然! どんだけ必死になったと思ってんの」
 わたしが口を開くよりも早く北原が胸を張って答える。けれど、そうやって北原が切り返してくれたからこそ、わたしは冷静に立ち返って「そのつもりだったのかどうか?」を振り返る時間を得た。咄嗟に切り返そうとした言葉は結果的に本当だったかも知れないけど、恐らく軽く中身のないものになっただろう。
 胸を張る。自己弁護のためだけじゃない。わたしは鈴平を助けようとした。
「うん、……それはまぁ、その、そうしなきゃならないと思ったから」
「うん、ありがとうね」
 鈴平の感謝の言葉が聞けて、わたしは笑った。けれど、同時に涙が頬を伝ってしまって、すぐに笑ったままの表情ではいられなくなった。溢れ出始めたら止まらなくなって、わたしは俯く。
「あれ? え? あたし、何かおかしなこと言ったかな」
 当惑する鈴平に、慌ててティッシュを用意する北原と、混乱するだけでどうして良いか解らない三倉が居た。
 そんな面子にわたしは胸を張って答えた。
「ううん、こちらこそありがとう」


 未来視に抗って、未来を変えたあの日から何事もなく二日が過ぎた。その間に、わたしが危惧する「変化」なんてものは何一つ発生せず、わたしは全て片が付いたのかも知れないなんて思っていた。
 結局、あの少年もその存在を「誰にも気付かれるはずはない」と考えていて、わたしに「見られている」なんて思わなかったのだろう。今までの未来視を実行している時の「わたし」がそうであるようにだ。
 鉄道会社も大惨事を未然に防止するに至った功労者捜しをしないわけではなかった。けれど、全ての事情を知っている人間が喋らない限りは確信を持った状態でわたしへと辿り着く可能性は限りなくゼロに近かった。仮に、候補の一人に挙がろうとも「違います」と言ってしまえば、何とかなるだろう。
 鈴平・北原・三倉を含め、大筋で口止めも済ませた。
 このまま何事もなく、またいつもの日常が戻ってくるのだと信じ始めた日の夜のこと。
 時刻は恐らく丑三つ時。正確な時刻は解らない。
 全く唐突に、部屋の中へと現れた気配にわたしは目を覚ました。
 寝苦しさを感じたわけではない。悪夢にうなされたわけでもない。
 ただ、どこからともなく現れた異質な気配に目を覚まさざるを得なかったのだ。神経を張り巡らせるなんてことはできないし、眠りが浅いわけでもなかったから、わたしはその気配に起こされたのだと思った。
 人間のそれではない感覚に当初は恐怖心が首を擡げもした。けど、その目に飛び込んできた気配の主に、わたしの心は冷静さを取り戻した格好だ。
 それは蝶である。
 見たこともない羽の色をした蝶が二匹、そこには羽ばたいていた。
 当初、わたしが感じた気配は一つだった。
 最初は蝶が二匹いることに戸惑いを感じたものの、すぐに意識を向けるべき箇所はそこではないと思い至って、わたしは周囲の様子を探る。蝶の主がすぐ近くにいると思ったのだ。
 わたしの経験上、蝶はあまりその主から離れた場所へ移動しないからだ。尤も、その経験はわたしの蝶と、事故現場で見た少年の蝶の二パターンのみではあるけれど……。
 部屋の中を注意深く確認していっても、蝶の主と思しき人影は発見できなかった。もとより、ここはわたしの部屋なのだから、人が隠れられそうな場所など全て知り尽くしている。
「わたしが新たに生み出したのかも知れない」
 蝶の主を見付けられなかったから、そんな考えがふっと脳裏を過ぎった。けれど、じっくりとその二匹の蝶を注視することでそれらがわたしの「蝶」でないことはすぐに理解できた。
 少なくとも、その二匹はわたしと異なる波長を持っていて、相容れないものだと感じた。感覚的なことになってしまうので表現し辛いけれど、どんなに反発し合ってみてもわたしとわたしの「蝶」は共通項を持っている。
 わたしは二匹の蝶を注視する。
 一匹は金属を連想させる灰色に、宝石のルビーを思わせるような赤色をあしらった蝶だ。
 そして、わたしの胸元から数センチ上の位置で羽ばたき、これでもかと自分の気配を主張する蝶である。
 もう一匹は深海を思わせる濃い青色に、どぎついオレンジ色のラインを持った蝶。
 わたしの部屋の出入り口の辺りを漂い、まるでわたしを部屋の外に誘っているかのようにも見える。
 どちらもわたしの蝶がそうであるように淡く発光し、この現実世界に、実際に存在するものだとは思えない。そして、言うまでもないことだけど、どちらの蝶もわたしは今まで見たことがない。
 僅かな警戒心を抱きながら、わたしはベットの上から床へと降り立つ。
 蝶はそのまま黙って寝かせてくれそうにはない。何より、わざわざわたしの部屋まで二匹の蝶がやってきたという事実がある。それはこの蝶の主からの「逃げ場」がないことを意味する。
 灰色に赤の模様をあしらった蝶はまるで、わたしがベットから起き上がるのを待っていたかのようだった。わたしの眼前で何度か円を描いて見せたかと思えば、ハタハタと羽ばたき部屋の出入り口へと進んでゆく。
「後を付いてこい」
 そう言われているような気がして、その進路を訝りながらもわたしの足は自然と蝶の後を追う。
 蝶の後を追って、廊下に出ようとドアノブを捻った瞬間、強烈な違和感に襲われた。
 どこか全く異質な世界に迷い込んだかのような感覚と言えば適当なのだろうか。それは違和感というよりも心地悪さという方が適当か。全身を駆け抜けていった鳥肌がその心地悪さの度合いを言い表す良い指標だろう。
 その心地悪さに、思わず振り返って自分の部屋の様子を探って見たぐらいだ。
 今、わたしが立っている空間が本当に自分の部屋の形を保っているのか、確かめずにいられなかったのだ。
 蝶がそうであるように、あちこちから綻びが生まれ、ボロボロと崩れ落ちている。そんな不安が胸を過ぎったのだ。
 しかし、そこには今の今までわたしが眠っていたベットがある。
 テーブルの上には読み掛けの漫画が置かれている。寝転がりながらいつでも手に取ることができるように配置したベッド脇の小型ブックシェルフには通販雑誌が立て掛けられている。お気に入りの帽子やバッグが見付かったページにはそのお気に入り度に応じて色分けして貼り付けたポストイットも確認できる。
「これは夢? ……それとも現実?」
 どことなく現実味がないながら、確かにそこにはわたしの部屋の温もりとかいった類の雰囲気がある。
 ともかく、このドアを開け放ってしまえば、否応なくそれもはっきりすると思った。このドアの向こう側が見慣れた廊下であれば現実で、ドアノブを捻った瞬間に感じた違和感のままの異質な世界に繋がっていれば夢だ。
 すぅっと息を呑むと、わたしは頭をチクチクと刺激する嫌な直感に逆らって、勢いよくその扉を開いた。ドアは音もなく開き、すぅっと一陣の風が吹き抜けた気がする。そのドアは古びた住宅街の裏道のような場所へと続いていた。
「寒ッ!」
 わたしは肌寒さを感じて思わず立ち止まったが、蝶はわたしを待ってくれない。
 様子を窺いながら、わたしはおっかなびっくり足を踏み入れる。
 恐らく、その場所は地元の人だけが生活路として使うだろう裏道だった。向こう側にある建物の様子を窺うことのできない高い塀に囲まれ、人と人とがようやく行き交える程度の狭い道だ。敷き詰められた石畳の隙間からは雑草が茂る。一定間隔で立てられた電柱に設置される街灯が道を照らしはするものの、薄暗さを完全に払拭できてはいない。
 そこは不気味さが滲む場所だった。
 特に部外者を受け入れず、排斥しようとする閉鎖的な雰囲気がそこにはあるように感じる。
 このまま蝶の後を追って先へと進むか。
 それとも再びドアを潜って、自室のベットで毛布を被って眠ってしまうか。
「進まずに後悔するよりかは、先に進んで壁にぶちあたって後悔する方がマシ……か」
 散々迷った挙げ句、わたしを置いて先へと進む蝶が狭い十字路を右に曲がって姿を消した瞬間、走り出していた。裸足のわたしにはペタッと張り付く石畳のひんやりした感覚が襲ってきて、そうして走り出してしまえば「違和感」というものは徐々に薄れていってしまった。蝶が曲がった十字路付近に差し掛かる頃には完全に掻き消えてしまったと言っても過言ではない。
 十字路を曲がった先には長い一直線の道が続いていた。途中、かなり急な下り坂があるようで、その全容が見渡せるわけではないけど、特におかしな道だとは思えない。
 また、その道の途中にはハタハタと先を行く蝶も発見できた。
 かなりの距離を開けられてしまった蝶に「ここでなら近づくことができる」と意気込んでわたしは走り出す。所々、でこぼことしていたり、道の脇から雑草が生い茂ったりしていたものの走りにくい道ではない。下り坂があると思しきポイントまで一気に走り抜けると、その先に広がっていたのは長い下りの石段だった。
 様子を確認するため一度立ち止まっては見たものの、一段一段が大きな一つの石から成っていて、ここでも特に不安に感じる点はない。強いてそれを挙げるのであれば、相変わらず向こう側の様子を窺い知れない高い塀が途切れることなく続くことぐらいだ。
 ずらっと続く石段はざっと見積もってみただけでも百段近くあるだろうか。下り坂としての勾配は急ではあるけど、石段の一段一段を見ていくと、そこまで段差を持たせた作りでもない。慎重に一段一段下っていく必要がある道というよりかは数段飛ばしで駆け抜けていく方が手っ取り早くて良いだろう。ただ、手摺りの類がないのでまかり間違って足を踏み外すなんてことがあればそのまま一直線に転がり落ちていく感じだ。
 ともあれ、ここに立ち尽くしていてもどうしようもないと、わたしは勢い任せに石段を下り始める。最初は一段一段下って行ったものの、十数段を下り終えた辺りから途中途中の段差を数段飛ばしで走り抜けるように進んだ。
 そうして、長い直線の終わりへ差し掛かる頃には手を伸ばせば蝶を捕まえられそうな距離まで迫っていた。
 長い直線は再び狭い裏路地のような道へと続いた。そして、蝶の後を追って二度丁字路を曲がったところで、それなりに開けた大きな通りへと出る。尤も、大きな通りとは言ったけれど、それはあくまで今まで蝶と追い駆けっこをしてきた道と比較しての話である。そこはどうにか車一台が通れそうな程度の道幅しかない。
 ただ、その通りに差し掛かってようやく、向こうの様子を窺い知れない高い塀は途切れた。代わりに手入れの行き届いた植木が並んだものの、その向こう側にあるものを窺い知れないなんてことはない。
 高い塀、植木の向こう側にあったものは平屋の巨大な木造建築だった。巨大とは言ったものの、わたしの立っている場所からではその全容は窺い知れない。ただ、その立ち位置から見えるだけで単純に「巨大だ」と思えるのだから、それは建築物として相当な広大さを持っているのだろう。
 そんな建築物がそこには無数に存在していた。知見はないけれど、それは歴史の教科書などで見る重要文化財に似た構造をしている気がする。
 蝶を見失わないよう注意しながら、その通りを進んでいくと立派な門構えの玄関を見付けることができた。当然、それはこれら木造建築の出入口である。しかし、中から人のいる気配が全く感じられず、逆にそういった人が出入りするための「仕組み」があることで、わたしはその通りに不気味さを覚えた。
 電柱があり、道を照らす街灯がそこに設置されているから、一応ここは人間の生活する空間だとわたしは思えた。でも「ここは人の来る世界じゃないんだよ」と、誰かに教えられたら「そうかも知れない」と思えるだけの雰囲気があるのも確かだった。
 周囲の様子を窺いながら蝶の後をついていくと、わたしは見慣れたものを見付ける。それはバス停だ。「見慣れた」とはいったものの、それは全体的な形状として見慣れているだけであって、そこにはいつも利用している停留所の名前が書かれているというわけではない。
 ……少なくとも、こんな道幅の場所をバスが通行できるとは思えないけど、そこにはバスの停留所がポツンと存在していた。「本当にこんな場所をバスが通行できるのだろうか?」と、そう疑わずにはいられない狭い道だ。
 停留所にしても、お世辞にも立派とは言えない作りである。
 ドアはなく開けっ広げで、中には天井から吊り下げられた簡素な照明が一つあるだけだ。バスを待つためのベンチの一つもない。天井を含めその停留所は工事現場などでよく見掛ける薄い金板で構成されている。それは一見すると四隅に設置した柱に巨大な金板を溶接し、上からペンキを塗っただけに見えた。そして、適当な大きさの天井を後から持ってきて上に載せただけ、まさにそんな感じだ。天井と側壁との間に隙間があることからも、その一時凌ぎ感は否めない。
 そんな雨と風をどうにか凌げるかといった具合の簡素な停留所へと、蝶は入っていった。
 わたしも慌ててその後を追う。
 ちょうどその時だ。
 狭い路地にバス特有「キイイィィ」と高音を響かせるブレーキ音が響き渡った。遅れて、エンジン音が耳に飛び込んでくると、バスはすぐにわたしが確認できる位置に姿を現した。この通りの先にある揺るやかなカーブの下り坂から、バスはこちらに向かって進んでくるようだった。
 それはあちらこちら焦げ茶色に変色した錆の目立つバスだった。わたしはこの手の乗り物に詳しくはないけれど、それはかなりの年代物のように思える。少なくとも、櫨馬の市街を走るような最近のものじゃないことだけは確かである。サイズ的に見ても櫨馬を走行するものよりも一回りも二回りも小さい。今で言うマイクロバスに近いかも知れない。
 通行の邪魔にならない場所に待避しなきゃならないと思いながら、わたしは安全に行き違える場所を探す。
 近場でそれを探すのであれば、それは停留所である。しかし、わたしが停留所の中にいることでバスに停車されても困ると思った。乗車するしないの問題ではない。バスから誰かが降りてきて、面と向き合うことは避けたかったのだ。
 なにせわたしはパジャマなんて出で立ちだし、靴も履いていないのだからだ。
 それに何か嫌な予感が頭をチクチクと刺すことも気に掛かった。
 停留所の前でわたしは頭を巡らせる。
 停留所の中でやり過ごすか。それとも、停留所の陰に移動して、乗車する意思がないことを明確に示して見せるかだ。
 そうこうしている内にバスは停留所まで近づいてくる。
「……どうしよう?」
 それを考えていた矢先のことだ。ふっとわたしは蝶の方を見る。
 今まさに蝶は停留所の側壁に存在するドアの向こう側へと消えるところだった。そこにドアなどないと言わないばかり、蝶はドアに接触する瞬間から透けていって消えてしまった。
「ちょっと待って! そんなのあり?」
 慌てて、わたしはその後を追う。つまりは停留所の中へと足を踏み入れる形になる。
 一方、バスはこの停留所に停車しようとしているようだった。
 減速をするバスの様子をちらりと横目に見て、わたしは思わず息を呑み固まる。そうは言っても、蝶を追う足は止まらなかったから、一瞬、足をもたつかせただけだったのだろうけど……。
 バスに乗っていた人達。いや、そもそもそれは「人」と呼んで良いものかどうかさえ解らない。
 それらは一様に異様なお面を被り、立体的な人間の輪郭を持つ黒い影だった。全体的にうっすらと透けていて、その向こう側の様子を窺うことができるのだから、何か黒いものを人間が被っているということは考えられない。
 また、正確にはそれらが付けているものを「お面」とは呼ばないだろう。
 人間で言うところの頭部に当たる部分をすっぽりと覆うものから、その形状は様々だ。ただ偏に、そこには「顔」が描かれてはいない。代わりに描かれているものは模様のようであり、また記号のようである。わたしには理解できない抽象的な何かが描かれていた。
 けれど、その模様のような記号のようなものは酷くわたしの目を惹いた。
「直視しなければならない」
 そんな暗示に掛かったようになる自分の意識があることを理解する。わたし自身、段々と思考が鈍っていくのが解っていたけど、わたしはそれを直視することを止められなかった。
 しかし、その暗示に落ちていくような感覚は一気に収束を迎える。
 突然一体の影のお面の脇から赤い縦長の目のようなものが見開いて、わたしは思わず悲鳴を上げそうになったのだ。両手で口を塞いで悲鳴を押し止めたものの、心臓が高鳴ったことを自分自身はっきり理解できるほど驚いた形だ。
 見た目には猫科の動物の目に近い構造をしているようにも見える。頭部のサイズと比較するとあまりにも巨大でサイズがあっていないように見えるものの、ギョロリギョロリと何かを探すように動くその様子は「目」そのものだ。
 突然、その赤い目のピントが「わたし」を捕らえた気がした。
 まずいと思った。関わっちゃ行けないと思った。
 次の瞬間、その人間の輪郭を持った影の赤い縦長の目が二つ、三つと見開く。それだけではない。人間で言うところの首に当たる部分から腕のようなものを伸ばしてバスの窓を押し上げ開いたかと思えば、それは信じられない速度でこちらへと飛び出してきた。
「うわあッ!!」
 一度は耐え切ったものの、再び想像を逸する現象を目の当たりにして、わたしは叫び声を上げていた。
 わたしのその叫び声が引き金となった。
 バスに乗っていた他の影達も赤い縦長の目を見開く。
 何が何だか解らないけれど、逃げなければまずいことになると思った。わたしは停留所の中へと飛び込む。そして、蝶が姿を消した側壁に設けられたドアのノブへと手を掛ける。けれど、ドアはノブを捻って引いても開かない。
「開かない! どうして!?」
 再度、けたたましいまでのバスのブレーキ音が響き渡る。どうやら停留所の前にバスが停車したようだった。
 自動ドアの開閉音が鳴り響くと、わたしの焦りはピークに達する。力任せに引いてみるけど、ドアはビクともしない。
「馬鹿じゃないの! どうして開かないの!」
 後ろの様子を窺ってみると、停留所の出入り口部分を影の首から伸びた腕がしっかりと掴んでいるのが解った。影の本体が停留所の中にやってこようとしているのだろうことが容易に窺い知れる。尤も、影の本体とはいったものの「腕」にも赤い縦長の目が存在するようになっていて、既にどれが本体などとは言えない状態だ。
「開け! 開けっての、この!」
 引いても引いても微動だにしないドアに、とうとうわたしは我慢できずに渾身の蹴りを放つ。ドガッと派手な音がしたかと思えば、ドアはあっけなくその進路を開いた。押して開くタイプのドアだったらしい。ただ、引いて押してと繰り返した時には押しても反応しなかった気もするけれど。
 ドアが開くと同時に、わたしはそのドアの向こう側へと倒れ込むように足を踏み入れる。その瞬間、踏鞴を踏む形になって、始めてわたしはそこに段差があることに気付いた。
 しかし、そんなことを気に掛ける余裕などない。わたしは慌ててそのドアを閉め、そして、ドアに全体重を掛けるようにして、向こう側から開けられることがないように対策する。
 数十秒間、わたしは全体重をドアに掛ける形で、心臓がバクバクと音を立てる様子を荒い息とともに感じていた。その間、向こう側からは一向にドアを開けようとする気配はなかった。わたしはドアを背にする格好で座り込むと、一つ大きな溜息を吐き出す。安堵から胸を撫で下ろして、ようやく冷静さを取り戻した気がする。
「……あれ? わたし、ドアを、引いて閉めた?」
 慌てていたのでそれは曖昧な記憶ではあった。けれど、確かにわたしは押して開いたはずのドアを潜ってすぐに、そのドアを引いて閉めた気がした。そうやって、色んなことを思い出そうと頭を巡らせる内に次々と現実感が迫ってくる。
 足の裏をコンクリートのひんやりとした感覚が襲う。
 そこは地下道のような雰囲気を持った空間だった。そこは右にも左にも続き、ちょうど中腹みたいな場所みたいだ。
 地下道とは言ったものの天井は高く、わたしがおもいっきりジャンプしても届かないぐらいの高さがある。真っ白い光を放つ蛍光灯が数メートル間隔で配置されているため、薄暗さは感じない。
 目の前には柵があり、その向こうには縦横ともに一回り大きくなった空間があった。尤も、天井の高さは一緒なので一回り大きくなったと言っても、向こう側の床はこちらよりもかなり低い位置にある。向こう側の空間はこちら側の地下道にずっと添うように作られているようであり、向こうとこちらとを隔てる柵もずっと続いているのだろうと思った。
 空間はコンクリートが剥き出しとなっており、特別な舗装はされていない。通常、人が通過することを想定されて作られたものではないように思える。
 自室のドアを潜って狭い路地裏に出た時のように、当初は現実感がなかったが金属質の柵に触れるとその冷たさにはっとなった。そこから急速に全てが現実味を帯びた気がする。
「……また変な場所に出たものだよね」
 わたしは率直な感想を口にする。
 柵越しに向こう側を覗き込んで見る。
 仮に向こう側へ落下した場合、そこには登ってこれないだけの高さがあることが解る。
 柵を掴んで揺すってみるけど、当然それは簡単に外れるような作りではない。そんなことを確かめている内に、わたしは完全に道案内役の蝶を見失ったことに気付いた。これでは右に行けばよいのか、左に行けば良いのか解らない。
「全く薄情な蝶だよね、わたしが危険な目に遭ってるっていうのにわたしを置いて先に行っちゃうんだからさ!」
 あのままあの場所にいることが危険だったかどうかは解らない。けれど、わたしは「逃げるべきだ」と警告したわたしの直感を信じたい。何より、あの人間の輪郭を持った影の正体がわたしに危害を加えるものではないとはっきりするまでは関わり合いたくないというのが紛れもないわたしの本音だ。
「さて、どっちに行ったものかな」




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