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Seen02 bifurcation-


 東櫨馬の大通りまで出て来ると、わたしは強い不安を感じるようになっていた。
 嫌な予感がズキズキと、恰も頭痛のようにわたしの頭を刺して「それ」を訴え始めたのだ。
 東櫨馬の街中を漂う空気の冷たさだとか、そう言った類の様々な比較要素が未来視の中の事故現場を漂っていたものに近付きつつあるのだと思った。わたしの感覚がそう認識するからこそ、その嫌な予感は頭を刺すのだろう。もしかすると未来視が現実世界で具現することを、未来視を司るわたしの能力が如実に訴えているのかも知れない。
 くっと唇の端を噛み締めて、わたしはわたしのそんな感覚の訴えを切り捨てる。
「……だから、何? ……だから、わたしに何をしろと言うの?」
 その「切り捨てる」ためのわたしの思考を肯定する様々な要因が後を付いて湧いて出た。吹き出すように、止め処なく、言葉にして続けたならいくつでもこの口を突いて出る気さえした。
 忠告は聞き入れられなかったじゃない。
 ああまで無碍にあしらわれてまで、助けに行くほどわたしはお人好しにはなれない。
 親切心から言った言葉は踏み躙られた、そんな奴を助ける義理なんてない。
 事故が回避されても、どうせ、そこに待っているのはまたわたし一人が苦い思いをする現実だけ何でしょう?
 ……もう、奇異の目に晒されるのは嫌だ。
 もう、一人だけ、辛い思いをするのは嫌だ。
 誰も何も解ってくれないのに、一人、来るべき不幸を取り除く役目を担うのがわたしなら、そんなもの、滑稽以外の何物でもないじゃない。
 そうだ、胸中に渦巻く思いの大半はその意見を肯定するものばかりだった。
 これはきっと、対岸の火事。
 これはきっと、ただの他人事。
 これはきっと、それ以外のなにものでもない。
「それで本当に後悔はしないの?」
 その憤懣の中にポツリと浮かび上がる声。
 他のどんな声よりも小さくて、他のどんな声よりも自己主張が少ないのに、それはわたしを捉えて離さない。
 わたしは半ば無意志の内に首を横に振りそうになって、踏み止まった。
 わたしは鈴平という人間と直接的な交友関係を持つわけじゃない。決して親しいとも言えない。けれど、もしかしたら、鈴平が居なくなることで、わたしに近い誰かが悲しむのかも知れない。その時になってから「ああ、あの時、最善を尽くしておけば良かった」と、思うかも知れない。
「後悔?」
 そうだ。もしかしたら、後悔する時が来るかも知れない。……いや、きっと、後悔するだろう。
 全校集会か何かで鈴平を悼む黙祷の最中。見ず知らずの誰かの会話の中に鈴平の名前が挙がるたび。参列することにだろう葬式の最中に。あの未来視が現実のものとなった後、あの踏切に差し掛かるたびに苛まれるかも知れない。
 意図的に、反射的に、あの場所を避けるようになるかも知れない。
「……だから、どうしたと言うの? ……だから、わたしに何をしろと言うの?」
 誰もわたしの言葉に耳を傾けようとしないのに。それで苦しむのは、また、わたしだけなのに。
 これは対岸の火事?
 これは、本当に、ただの他人事?
 口喧しく何度も何度も問い掛けてくる言葉に向き合う気にはなれない。
「……言い聞かせれば、それで良い」
 それが「起きて当然のことだった」と納得させればいい。見て見ぬ振りをする時に、呪文のように繰り返した言葉を用いて、わたし自身を騙してしまえばいい。
 何も難しいことじゃない。簡単なことだ。
「……わたしには関係のないことだよ」
 それが口を突いて出た後には酷い虚無感が生まれた。
 ポツリポツリと額に灯る冷汗はそれが苦渋を飲み込んだ末に生まれた言葉であったことを示唆した。わたしは自身の唇の端をギッと無意識の内に噛み締めそうになって、口許に微苦笑を滲ませる。
 こんな被害の甚だしい未来視は初めてだった。生まれてこの方、見てきたどんな未来視よりも甚だしい。
「一体、わたしは何を考えているのだろう?」
 その自問自答の答えは返らないし、わたし自身にも解らなかった。一つにまとまることのない、まとまろうとしない思考が頭の片隅にこびり付いているかのようだ。ただただ、焦燥感に煽られて動悸だけが激しくなる。
 きっと、……後悔するだろう。
 でも、鈴平があの事故で亡くなっても、きっと、わたしのこの瞳が涙を流すことはないはずだ。
 わたしの渇いた心は他人の苦しみや悲しみを汲み取って、それに共感するだけの能力を失っている。
「さようなら、鈴平、サン」
 誰にも届くことのない微小な声量で呟いた。
 既に、酷い現実感をまとう未来視の世界が、再び、一瞬、鮮明に脳裏へと浮かび上がっては消えた。その一瞬の光景が事故の「凄惨さ」をまざまざとわたしの脳裏に焼き付ける。けれど、わたしはそこから目を背けることさえしない。
 ただ、直視する。
 ただ、見ることができるだけで、わたしにはどうすることもできない、既に「終わったこと」だと言い聞かせる。
 櫨馬の都市部では現在ローカル線だけが残すレール式の路線。許容交通量を越えて渋滞する踏切。道端に繁った雑草に、線路を跨いで天を這う送電線。ただ、そこに存在するだけの機械的なものから、そこにたまたま居合わせることになった鈴平までをも鮮明に思い起こすことができる。そうだ、そうやって「見る」ことができるのだ。
 でも、わたしは涸渇している。だから、何も感じない。……何も感じたくない。
「違う」
 何も感じない振りをしているだけ。
 心が枯渇していると思い込んでいるだけ。
 ……そう、何も感じたくないと思っているだけ。
 わたし自身にも、それが「振り」なのか「本当」なのか、徐々に見分けることが難しくなりつつあるけれど……。
 取り敢えず、自己弁護が欲しかった。取り敢えず、自己弁護がしたかった。後悔をすることになったその時に、ここからここまでやったその結果として、それでも「鈴平を助けられなかった」と主張するための自己弁護が欲しかった。
 わたしはこれ以上、苦しみたくない。でも「普通」を失いたくもない。
 今は、まだ「苦しい」を感じる。一人だけ、辛い思いをするのは嫌だと思っている。思えている。
 最悪最低の後悔。寝覚めの悪さ。
 それらを感じないことに慣れてしまったら、きっと、……わたしは今以上に何も感じなくなる気がする。
 今はまだ、何をやっても、恐らく、わたしは後悔する。
 ……なぜならば、まだ「苦しい」を感じるからだ。
 鈴平を助けることを選択しても、きっとわたしは何かを失って「苦しい」を感じる。
 助けないことを選択しても、きっとわたしは後悔という形で「苦しい」を感じる。
 だから、今はまだ、ここでどんな選択肢を選んだって、わたしは後悔する。本当は辛い思いなんて感じたくはない。けど、何も感じなくなることは普通じゃない。
「普通を奪われること」
 わたしはそれを一番「嫌だ」と思っていたはずだ。
 そこには矛盾があった。そして、この問題の解決策は見つからない。ふざけたことだと思った。
 でも、そのふざけた状態の中にあって、わたしは選ばなければならない。
 同じ「苦しい」を感じるなら、その苦しいを緩和するための自己弁護が必要だ。
「紀見ー、軽くなんか腹拵えしてから帰ろうか? 石傘通りの喫茶の割引券、確か期限そろそろでしょー?」
「そう言えば石傘通りの喫茶の割引券、確かに期限が近いな」
 そんな風に三倉の言葉に反応する意識はある。けれど、実際に口に出して反応をするだけの意識がそこにないのも事実だった。
 何事もない三倉との日常生活の一コマ。平凡な下校途中の他愛のない会話。
 そこに絡みついてくる頭を刺す嫌な感覚を何度も首を横に振って振り払おうと試みるけど、結局それは振り払えなかった。また、それはある程度の方向性が決まっていても簡単には許容できない。一言でその状態を述べるなら「葛藤」というのが最も適当なんだろう。
 本当なら、その葛藤はきっと迷うはずもないことなんだろう。
 けれど、長い時間を掛けて迷って迷って、ようやくわたしは結論へと辿り着いた。
「わたしは苦しみたくなんかない」
 苦しまない方法は二つある。いや、苦しいの度合いを軽減する方法と言えばいいか。
 一つは何も感じなくなること。
 もう一つは自己弁護を手にすることだ。
 わたしが反応を見せないから、三倉はトンットンッと二〜三歩わたしの先を進むように走り出した。そして、怪訝な表情をしてクルリと向き直ると、わたしの進行方向の前に立ち塞がる。腰に手をあて、わたしの顔を下から覗き込むと三倉は声を少し荒げた。
「ちょっと紀見! 大丈夫なの? さっきから思い詰めた様な顔して」
「え? あッ、うん」
 ビクンと跳ねたわたしの身体はその一言で、完全にスイッチが入った形だった。
 未来視の中で事故に巻き込まれるのが今回はたまたま鈴平というクラスメートだっただけだ。ここで何も感じなくことを選択した場合、その次があった時もわたしは同じ選択肢を選び続けなければならなくなる。
 仮に、それがわたしの親しい人だったら?
 それが三倉や北原だったら?
 何も感じないで済ませることなんてできるわけがない。
 この「苦しい」を軽減するため、わたしは今、全力を尽くさなければならないんだろう。
 三倉の言葉で現実へと引き戻されれば、わたしは周囲を流れる空気の状態に思わず苦虫を噛み潰した。あまりにもあの踏切の事故の時の状態に近付きつつある。それが解ってしまうから尚更、その状態まで看過し続けた自分に苛々を感じるのだろう。
 わたしの苦虫を噛み潰した顔はすぐに三倉と顔を合わせるためのキョトンとした驚きの表情へと切り替わる。けれど、わたしの心の中で胎動を始めた決意が同じように掻き消えることはなかった。
「人の話なーんにも聞いてなかったでしょ?」
 三倉は少しキツイ目つきをして、わたしにそれを問い質した。
 わたしは大きな息を一つ吐き出すと三倉へと向き直る。正直な話、既に三倉との会話は頭に入っていなかった。
「ちょっと、用事思い出しちゃった! ……ごめん、この埋め合わせは必ず今度するからサ」
 パンッと乾いた音を響かせ胸の前で両手を併せると、わたしは頭を下げた。そこには前面に押し出されたお詫びの気持ちがある。
 ちらっと様子を窺った三倉は状況を把握できていないらしい。ポカンとした表情を見せたまま固まっていた格好だ。
 何をするにも今がチャンスだと思った。わたしはそんな三倉から何かしらの返事が返るよりも早くその場を後にするため身を翻して走り出す。適当な言いわけを咄嗟に考えつかなかったと言うのもあるし、長々と説明をしていると、この決心があっさりと揺るいでしまいそうだったから……と言うのもあった。
 後方でわたしを呼ぶ三倉の声が響き渡る。
「ちょ、ちょっと! 待ちなさいよ、紀見!」
 同時に、わたしの後を追う三倉の足音も聞こえたけれど、わたしには三倉を待つなんて選択肢はない。
 三倉の追走を途中で振り切る目算もある。
 体力的にも頭脳的にも文系に属する三倉に、わたしの後を追走し続けることはできないはずなのだ。加えて、わたしは運動が苦手ではないし、平均から見て若干優れた運動能力を持っている。追いつかれる要素はない。
 東櫨馬の大通りを芝富高校の方角へと逆送するわたしは前方にある信号の点灯を前にペースを全力疾走のそれへと切り替える。青から赤への点灯を始めたスクランブル交差点に捕まるわけにはいかない。加えて、ここさえを突っ切ってしまえば、三倉を大きく引き離すことができるということもある。
 東櫨馬の大通りはそれ相応の人通りがある。その人通りの中にはわたしと同じ芝富高校の制服も多々見つけることができる状態だ。一度、距離を引き離してしまえば、三倉はすぐにわたしの背中を見失うだろう。
 一応、三倉にはわたしが特異な能力を持っていると話をしている。そうは言ってもその詳細までを三倉に話したことはないし、はっきりと未来を見ることができるなんていう話をしたこともない。だから、正直な話、これからわたしが電車を止めようとする場面に「三倉に居合わせて貰いたくない」という思いも、そこには確かに存在していた。
 わたしは感覚を研ぎ澄ます。
 現実と見紛うほどの相違ない夢の中の感覚と、今現在の感覚とを改めて比較する。
 あの夢の中には時間を示すものは何一つなかった。強いてそれを挙げるならば「夕焼けに差し掛かる時間帯ではない」と言うことだけだ。だから、鈴平達の部活動帰りと言うにはあの夢の中の時間帯は早過ぎた。
 まして、わたしの通う芝富高校のバスケ部はほぼ毎日のように夕暮れまで活動している部活動として筆頭に挙げることができる。強豪校とは言えないまでも、大会では複数のライバル校と全国大会への出場権を掛けて争い、数回に一度は強豪ライバル校を押し退けてその出場権を手にしているのだ。強豪ライバル校を追い越せ追い抜けで活動しているからこそ士気も高い。彼らがあの時間にサボりとして帰宅の途に就いてるとは考えにくかった。
 スクランブル交差点を無事通過して前方の歩道橋へと足を向けた直後、背後から三倉の声が響いた。
「ちょっと、紀見! 待たないと後で酷いからね!」
 そうやって三倉が張り上げた声はかなり後方から聞こえた。振り返ってその距離を確認しなかったけど、三倉はスクランブル交差点に捕まったのだろう。目算通りだ。
 心のどこかで三倉に悪いとは思いながら、これで諦めてくれれば良いともわたしは思った。
 片道二車線の車道が十字に交差し、東櫨馬の交通の幹となる交差点の上へと架けられた歩道橋を駆け上がる。そこで、わたしはハッとなった。そこから足を向けるべき進行方向を迷った形だった。
「このまま踏切へ急いでも、事故を防ぐ手段がない」
 それに気付かされたわけだった。
 わたしはあの踏切事故に必要だったものへと思考を巡らせる。
 それは小型トラックを交差点へと進入させないものか。
 それとも鉄骨を持ち上げるための補助となるものか。
 電車をあの事故現場へと差し掛かる前に停止させるためのものか。
 最善策は鈴平をあの踏切へと辿り着かせないことだと思ったけれど、それができなかった時のことを考えなければならない。加えて言えば、小型トラックの事故だって、起きなければ起きない方が良いに決まっているのだ。
 そんなところにまで手を伸ばして、思考を開始したは良いけれど、わたしの思考は一向に収束へとは向かわなかった。一分一秒無駄にはできないといった状況に置かれていたことで、常に焦燥感がわたしの思考にまとわりついていたこともあるだろう。
 そのままでは何の進捗も得られそうになかった。だから、わたしは最悪を想定した場合の方から、必要なものを拾い上げることに思考を切り替える。そうすると、すぐさま閃いたものがある。
 それは発煙筒だ。
 事故現場の未来視の中で響いた誰かの発言がすぐさま脳裏を過ぎったのだ。
「発煙筒がない」
 発煙筒があれば、最初の事故に電車が突っ込む最悪の事態を回避できる。
 そう考えたのだ。
 発煙筒ときて真っ先に思い浮かんだのは車だった。助手席に乗った時、足下にあるものが何かを親戚に尋ね、発煙筒だと教えられた覚えがあったのだ。
 わたしは歩道橋の欄干から大きく身を乗り出すと、周囲の町並みへと目を凝らした。朧気ではあったけど、この近隣で確かにその手の専門店を見掛けた覚えがあったからだ。
 一応、この近隣を含めた一帯はわたしの行動範囲だと言っていい。けど、どこに何があるか、その位置関係を全て記憶しているはずもない。興味のないもの、インパクトのないものを記憶として蓄えていられるほどわたしは器用じゃない。
 歩道橋には絶えず人通りがあるけれど、店舗の正確な名前が解らないから人に尋ねることもできない。
「まるまるモータース」
 確か、そんな名前だったと思う。
 わたしはその店が自動車用具を扱う専門店だということだけ覚えているに過ぎなかった。
 それは櫨馬を含めたこの近隣に積極的な展開を見せる地元の企業だけど、全国区ではマイナーである。
 そう言った類の余計な後付は容易に思い出せるのに肝心な店の名前は思い出せない。何とも言えない歯痒さを味わって、わたしは頭を掻いた。
 そんな経緯もあって専門店の発見はそうすんなりとは行かなかった。歩道橋から各方向をぐるりと一度見渡し終えてもそれは発見できず、わたしはのみ取り眼で二度目の探索を始める。
 結局、自動車用具専門店はこの交差点から北櫨馬や蕗見沢(ふきみさわ)へと向かう方角に発見できた。交差点に横断歩道がない代わりに、歩行者が望む方向へ進むことのできる歩道橋を下って、わたしは自動車用具専門店へと駆け込んだ。
 自動車用具専門店へと入店するや否や、わたしは身近にいた女性店員に身振り手振りを交えて問いかける。
「すいません、発煙筒、欲しいんですけど。もうモクモクーってど派手に煙吹いて、できるだけ広範囲に「事故が起きたんだぞ!」って知らせられるタイプの凄い奴!」
 さすがの店員もその勢いには何事かと呆気にとられた様子だった。対応に困り固まる様子を見せてはいたけど、店員は一つ遅れて「い、いらっしゃいませー!」と元気の良い声で挨拶をする。しかしながら、そんな挨拶の後で薄緑色のジャンパーを羽織った女性店員は再び対応に困って固まった。
 なにせ、わたしは制服姿の女子高生だ。店にやってくる客として、想像の範囲外だったのだろう。
 陳列状態を全く把握していない専門店の中から、発煙筒を自分で探すなんて馬鹿な真似はしたくない。
 なにせ、時間が惜しい状態だ。
 尤も、発煙筒の売り場を店員に尋ねる方が確実だったとはいえ、女子高生が発煙筒なんて代物を欲しがる光景は誰がどうみても見ても異様だ。だから、わたしは店員に「不審だ」と思われるかも知れないことを承知の上で売り場を尋ねた形ではある。
 多少、困惑気味の表情を残しながらではあったけれど、女性店員は自分の役割を果たすべくゆっくりと口を開いた。年齢制限のある商品を購入したいと言っているわけではないとはいえ、女性店員は微妙な判断を求められただろう。ともあれ、彼女はわたしが自動車用具専門店に客としてやって来たことを認識すると、わたしの求めるものを再確認する。
「……発煙筒、ですか。えーと、それはセフティライトや道路作業用途のもので構わないんですよね?」
 わたしが真顔で頷いたのを確認すると、彼女は先頭に立って発煙筒が陳列された商品棚の場所まで案内をしてくれた。「タイヤの溝は減っていませんか?」とタイヤの構造が図解付きで描かれた看板を素通りして、店の奥の方へと進んでいくと発煙筒の陳列された商品棚が見えてきた。親戚の車の助手席以外で発煙筒というものを始めて見たわたしにはそこに陳列された商品の違いを見分けることはできなかった。強いて言うなら、その違いは大きさぐらいしか判別できない。
 小難しい顔をして商品棚を注視するわたしの様子を見かねたのだろうか?
 女性店員は商品棚に陳列する商品の説明を始めてくれた。具体的には15cmくらいの大きさの発煙筒を一つに手に取って、それを「一般的なサイズのもの」と説明してくれる。
「こちらが一般的なサイズのものですね。紅炎の炎に白色の煙が出ます」
「それ、どのくらいの距離から煙を確認できますか? 後、どのくらいの時間、煙を出し続けられますか?」
 わたしの質問に彼女は一度口を開き掛けたものの、思案顔をして押し黙った。そして、再度ゆっくりと口を開いた彼女はわたしの質問に対して、こんな言葉を口にする。
「セフティライト。これは自動車用の緊急保安炎筒のことですけど、基本的にこれはあまり煙を出さないんですよ。もしかして、探しものは多くの煙を発するような、登山者用の発煙筒、気密試験用途の発煙筒になりますか?」
 あの事故の状況をわたしは反芻する。
 ゆるやかなカーブを高速で突入してくる電車が果たして、その紅炎の発光に気付いてブレーキを踏むのかどうか?
 そして、気付いてからブレーキを踏んで間に合うのかどうか?
 もちろん、どこで電車に対して「事故が発生している」とアプローチできるかが問題になってくるだろう。
「……とにかく、煙をモクモクと吹き上げて、広範囲に「事故が発生した!」って気付かせられるものなら、どんなものでも構わないです。煙重視です!」
「それでしたら、キャンピングカーやRV車用のこちらの商品がいいと思いますね。これは炎による発光よりも発煙がメインのものなので、登山者などが遭難時に使用するものに近い効果が得られます。山岳部、山林部で、自分の位置を相手に知らせることをコンセプトに開発された商品なので、その用途にマッチすると思いますね」
 今、説明をした商品がそれなのだろう。
 商品棚から一つの商品を手に取って、彼女は営業スマイルでそれをわたしへと見せる。
「それ、どのくらいの時間、発煙し続けられますか?」
「大体三分ぐらいですね、基本的にサイズが大きくなっても発煙筒の発煙効果はあまり増加しないんですよ」
 再度、同様の質問をぶつけるわたしに彼女は丁寧に解説してくれた。どう思われようても、そこに拘る理由がある私に取ってそれは非常に有難いことだった。年齢的にいって数年はこの手の専門店の世話になることはないと思うけど、何かの際には利用したいと思ったぐらいだ。
「こちらのものですと、えー……、一本八百円になりますね」
 購入する品をその発煙筒に決めたことをわたしの様子から彼女は察したのだろう。彼女はまさに絶妙のタイミングで、発煙筒の値段について口にした。
「え、と、……ちょっと待って下さい」
 今の手持ちがいくらあって、この発煙筒を何本購入できるのかを確認するために、わたしは肩掛バックのサイドポケットから財布を取り出す。今週発売の音楽雑誌を買う分の金額ぐらいは入っていると踏んでいたけど、財布の中には明日の昼食分の金額ぐらいしか入ってはいなかった。
 三倉と石傘通りにある喫茶で腹拵えとなっていたなら、わたしはその途中にある百貨店のATMでお金を下ろすことになっていたのだろう。わたしが預金口座を持つ銀行はお世辞にも櫨馬に置いて広く普及しているとはいえない。
 わたしの父親の仕事の付き合い上、そこに預金口座を持ってはいるけど、正直利便性に欠ける感は否めない。
 わたしが寄り道の定番として選ぶ石傘通りまで出れば行きつけATMがあるけれど、ここから石傘通りまではかなりの距離がある。そんなことで時間を潰す気はなかった。
「銀行! この近辺に銀行有りますか? ATMが設置されてるデパートでも構わないです!」
 今の手持ちがいくらあって、この発煙筒を何本購入できるのかを確認するために、わたしは肩掛バックのサイドポケットから財布を取り出す。今週発売の音楽雑誌を買う分の金額ぐらいは入っていると踏んでいたけど、財布の中には明日の昼食分の金額ぐらいしか入ってはいなかった。
 三倉と石傘通りにある喫茶で腹拵えとなっていたなら、わたしはその途中にある百貨店のATMでお金を下ろすことになっていたのだろう。わたしが預金口座を持つ銀行はお世辞にも櫨馬に置いて広く普及しているとはいえない。
 わたしの父親の仕事の付き合い上、そこに預金口座を持ってはいるけど、正直利便性に欠ける感は否めない。
 わたしが寄り道の定番として選ぶ石傘通りまで出れば行きつけのATMがあるけれど、ここから石傘通りまではかなりの距離がある。ここで時間を潰す気はなかった。
「ATMならこの近隣の大抵のデパート・百貨店には入っていますし、向坂(むかいざか)信用金庫の東櫨馬支店がこの先の石傘通りを上っていくと右手奥にあったと思います」
 彼女の説明が途中の段階で「それ、キープしておいて下さい」とだけ告げて、わたしは専門店を飛び出した。開くのを待ちきれないかの如く自動ドアを擦り抜ける様に飛び出して、眼前の人影に気付いたのはまさにその瞬間のこと。
「うっわ! ちょっと! あんた急に飛び出して来たら危ないじゃ……って、紀見?」
 その聞き覚えのある声に、わたしは謝罪の言葉だけを残して先を急ごうとしたその足を止める。
 そこに居合わせたのは芝富高校の制服姿にショルダーバックを肩から提げる北原だ。下校途中なのだろう。
「……こんな専門店で何やってんの?」
 北原は二度三度と目を瞬かせて、自分のその目を疑っている様だった。確かに、普通に考えれば高校の同級生が自動車用具専門店から勢いよく飛び出してくるなんて、そうそうあり得る状況ではない。
「北原! 良い所に来た! さすがにタイミングってものを解ってらっしゃる!」
 妙にテンションの上がってしまったわたしの言動も、その北原の呆気にとられた表情を後押ししたのだろうか。ともかく、北原は大きく目を見開いたまま、どう反応を返して良いのか解らないらしい。次のわたしの出方を待っていた。
「お金貸して欲しいんだ、お金!」
 前置きなく用件を率直にぶつけるわたしに、北原は特に嫌そうな表情を見せるでもない。
「……お金? 別に構わないけど、ここで何か買うつもりなの?」
 北原は金額よりも、わたしがどうして自動車用具専門店から勢いよく飛び出してきたかの方が気になるらしい。さらに言うなら、その専門店で「何を買おうと言うのか?」が気になっている風だった。
 北原はナイロン製のショルダーバックから財布を取り出し、その中身を確認する。
「今、手持ちにして三千円ぐらいしかないから……」
「一本八百円する発煙筒を買えるだけ買いたいんだ。だから、その三千円、拝借させて!」
 北原が「ぐらい」と言った金額も、わたしに取っては十分な額だった。少なくとも、発煙筒を一本も購入できない現状は打破できるし、わたしの「できれば複数個、手に入れたい」という必要最低限にプラスされる要素も満たしてくれる。
「発煙筒?」
 頓狂な声を挙げる北原を尻目に、わたしは両手を併せて深く深く頭を下げて頼み込んだ。
「……まー、きちんと返して貰えればいいわけだけどさ、そうだね、今度、片石傘(かたいしがさ)の駅前に新しくできたアーヴェルっていうケーキ屋の、美味しいと評判高いシュークリームでも奢って貰っちゃおうかな。本当なら、今日はこの三千円でー……」
 意地の悪い顔をして不当な交換条件を突き付ける北原に、わたしは愛想笑い宜しく「オーケー、オーケー」と頷いた。それもそれは北原が言下のうちのことで、あっさりと不平等な条件をわたしが受け容れたことに、北原は少し驚いた様な顔付きを隠さなかった。それでも、あっさりと北原は三千円をわたしに貸し出してくれた。
「ところで、発煙筒なんて、あんた、……一体、何するつもりなのよ?」
 ある意味、向けられて当然の疑問が北原の口を突いて出た。当人はわたしに何気ない疑問をぶつけたつもりだったのだろう。現に、その疑問を口にした北原の表情は真面目な顔付きでもなければ、わたしを問い詰める風でもない。そう、それは教室で他愛ない話をする時の、いつもの何気ないノリそのものだ。
 その直前までは、確かに、北原に対する態度や言動が可能な限り乱暴にならないように細心の注意を払ってはいたはずだった。言い換えるなら、ボロが出ないよう適当な受け答えを徹底的に頭の中で準備していた。
 けど、わたし自身、焦っていたことは否めず、また「これでどうにか余計な時間を浪費せず」に済んだという一種の安堵感がそこにはあった。
 だからだろう。
 いつもの何気ない会話を北原とするノリで、わたしは勢いに任せて言ってしまう。
「いざとなったら、電車を止めることになるかも知れないから」
 言ってしまってから、わたしはハッとなる。思わず口にしたことに北原が気付かなければ良いと本気で願いながら、同時にそれが無理なことだとは解っていた。できることなら、北原がそれを冗談か何かと取ってくれれば幸いだと思った。
「ふーん。……って、電車を止めるッ?」
 驚きから大きな声を出した北原の脇をスルリと擦り抜けて、わたしは専門店の発煙筒が置かれたコーナーへと足を向けた。北原が大きな声を出したことに対して、わたしがそれを特に訂正しなかったことが北原をより不安にさせたのだろう。
「ちょっと! 電車止めるって、……え? 紀見、あんた、……正気?」
 わたしの後を追って店に入ってきた北原は小声ながら、わたしを問い詰める強い口調でそれを問い質した。北原自身、それをわたしに問い詰めながら、多少混乱しているようだ。
「ちょっと、紀見。洒落になんないよ?」
 グイッと北原に肩を掴まれて、わたしは意図せず顔に出そうになった困惑の態を押し殺した。
「それは決定じゃないってサ、北原。もしかしたらって言ったじゃない? 最悪の場合の話だよ、最悪の……ね」
 いつもの軽いノリ。冗談を言うかの様な口調。
 それらを装うのは非常に心労を伴った。緊張と焦燥感にチクチクと突かれながら、それも北原の顔をしっかりと見ながらなのだから、それも当然だろう。それで北原の、わたしを不審に思う気持ちを完全に払拭できたとは思わない。曖昧に煙を巻く、そんな一時凌ぎになってくれれば、それで良い。
 商品棚からついさっき説明を受けた発煙筒を四つほど手に取って、わたしはレジへと足を向ける。
「えー、それではこちら四点で……」
 北原から借りた三千円とわたしの持ち金とで支払いを済ませて、わたしは僅かなお釣りをポケットに放り込むと北原へと向き直る。連れだって自動車用具専門店を出て、わたしはこれ以上、北原に不安を与えないよう細心の注意を払う必要があった。何より、時間的にも北原と長々と話をしている余裕なんかないし、精神衛生上、早々と発煙筒云々の流れの会話を断ち切ってしまいたかった。
「ありがと。本当に助かった、恩に着る!」
 パンパンッと北原の右肩を叩いて、感謝の気持ちを顔一杯に表現してから、わたしは北原に背を向けた。
 北原は怪訝な表情をしていて、どこか腑に落ちないと思っているのは火を見るよりも明らかだ。髪の先をクルクルと右手の人差し指で弄びながら、北原はゆっくりと去ってゆくわたしの背中をじっと注視していた。
 わたしが歩道橋の階段を上っていく様子を北原はじっと見据えているのか、わたしは背中に刺さる視線を感じていた。多少、北原に不審に思われてでも、この場からいち早く離れたいと考える思考を抑制して、わたしは泰然自若の様を装う。
 一度、首を捻って見せながら「まぁ、いいか」と、北原がわたしの背中から視線を逸らそうとしたその矢先のこと。
「紀見ッ! ようやく見付けた!」
 これ以上ないほどの、絶妙のタイミングでわたしを呼ぶ三倉の声が響き渡った。
 思わず、心の中で「勘弁してよ!」と舌打ちしたぐらいだ。
 荒く「ハァハァ」と息を切らす三倉の形相は親の敵でも見付けたかのような顔で、どうやら、泰然自若とした態度を装ったまま、北原の前から姿を消すのは不可能らしい。だから、わたしはすぐに頭を切り換える。
 ……もう誤魔化しようがないのだから。
「ごめん、三倉サン! この埋め合わせは必ずするから!」
 それだけを三倉に告げると、わたしはすぐさまこの場を切り抜けるための行動を起こす。一度、サイドステップを踏むようにフェイントを見せて牽制し、わたしはあっさりと三倉の脇を擦り抜けた。反射神経他、三倉の運動能力が平均以下であることに感謝しながら、わたしは頭を低くして人混みに紛れながら全力疾走する。
 わたしを呼ぶ三倉、北原、それぞれの声が響いていたけど、それを気に掛けて足を止めるつもりなんかなかった。
 歩道橋を芝富高校へと続く方角に下り、わたしは取り敢えず三倉を振り切った時のようにスクランブル交差点を越えてしまおうと思った。行動が先、思考が後の状態にあるわたしがある点に気付いたのはそのスクランブル交差点に差し掛かった時だった。
「……あの路線は確か、琴浦〜回関(ことうら〜かいぜき)線だから、二条通りを下った方が良いのかな?」
 交差点前で足を止めると、その即断を迫るかのように歩行者側の青信号が点灯を始める。
 恐らく、今からでは芝富高校へと続く通学路で鈴平に合うことは叶わないだろうという直感めいたものもあった。
「わたしは南櫨馬の方からあの踏切を見てたから、小型トラックの進入してきた方は……」
 視覚障害者や一般歩行者に「今から信号は赤へと変わります」と聴覚的に知らせる一定のリズムで鳴る甲高い音が響き渡って、わたしは走り出した。琴浦〜回関ローカル線の踏切方面へと進行方向を修正しながら……である。
「あーッ、もォーッ! まるっきり、わたしん家の方向とは逆方向なわけねッ!」
 向かうは二条通り。それが機転と言えるかどうか。今はそれの真偽を判断できないけど、言っても仕様のないことを人目も憚らず声高々と張り上げて、わたしは覚悟を決めた。
 事故を引き起こした過積載小型トラックはかなりの高確率で、二条通りから線路脇の道路へと進入したと考えられた。
 あの事故を未然に防止する手段はいくつか存在する。
 一つは鈴平その人を事故が発生する日に踏切へと近づけさせないこと。
 一つは物理的に小型トラックがあの踏切に進入するのを止めさせること。
 これは何も踏切に小型トラックが向かうことを全面的に止めさせるわけではない。鈴平の側にも言えることなのだけど、時間的に踏切に辿り着くのを遅らせるだけでも結果は変わるのである。もう鈴平の踏切に辿り着く時間を遅らせることはままならない。だから、二条通りから線路脇の道路に進入する小型トラックの邪魔ができるならしようと考えたのだ。
 電車を止める、それは最終手段。そもそも、この発煙筒で本当に電車が止まってくれるかどうかも判らない。
 そして、もう一つ。前者以外の方法がある。
 このローカル線を運営する鉄道会社に、直接、電車の運行を事前に制止して貰うことだ。
 ただ、事故現場に居合わせるわけでもない一女子高生の話を聞いてくれるかどうかは解らないし、また、まだその事故が発生していない状況で、仮に鉄道会社がその現場を確認することができるとしたら、ただの悪戯として片付けられることは必至だ。
「これから事故が起きるんです!」
 そう言って、信用して貰えるとも思えない。恐らく、まともに取り合っては貰えないだろう。
 何よりも、わたしはわたしの身分を明かしたくないと言う気持ちが根幹にある。可能なら、誰にもわたしの未来視について知られたくない。
 ……怖かった。
 そう、ひたすらに怖い。
 何が「怖い」とはっきりと言うことはできないけど、この能力を他人に知られるのは物恐ろしかった。……三倉を遠ざけようと咄嗟に、無意識のうちに考えたのだってそう。僅かながらだけど、わたしの事情を知っていて、付き合いの長い三倉にだって、できることなら知られたくはないと思ったんだ。
 だから、三つ目の選択肢は可能性として皆無に等しかった。もし、その選択肢を行動として起こしたとしても、わたしは非通知を始めとする自分の存在を明らかにしないありとあらゆる手段を用いて鉄道会社に訴えるだろう。
 二条通りをローカル線脇の道路へ向かって疾走するわたしは街を漂う空気があの事故の瞬間のものに近似しつつあることをマジマジと実感していた。事前に小型トラックを発見して停止させられるかどうかは解らないけど、あの踏切に進入する前に小型トラックを止めることができるなら、それが最善。
 ふっとわたしの走る速度が減退する。それは意識してではないし、決して足がもつれたわけでもなかった。
 まるで高性能のデジタルカメラがレンズに映す風景の中で自動的にオートフォーカスをするかのようだった。わたしはわたしの目を大きく見開き、あるものを捉える。逆を言えば、そこに焦点を合わせたことで、わたしは他のものが目に映らなかったのだろう。
「パアアアァァァッッ!!!」
 けたたましく鳴り響いたクラクションがわたしに向けられたものであることを理解して、わたしはハッと我に返ってそこから飛び退いた。そして、同時に、わたしは今まさにわたしが横断しようとしている横断歩道の信号が赤であることを理解した。
 すぐに「何やってんだろ? しっかりしなきゃ!」と、わたしの意識が危険性を訴えるけど、わたしの意識の大半は焦点を合わせたあるものへと向いていた。わたしのすぐ眼前をワンボックスカーがブレーキ音を響かせながら通り過ぎて行ったのを確認して、わたしはすぐに焦点の先にあるものを目で追う。
「ッ! 今の……トラック! 間違いないよ、……今のトラックだッ!」
 過積載気味の小型トラックがウインカーを挙げ線路脇の道路に入っていく様子が見えた。ナンバープレートだとか、確実にそれを同一のものだと認識できる情報を見て取ることはできなかった。けれど、わたしは確信する。同じ積み荷に、同じ塗装と、さらには同じ種類の小型トラックである。
「早く追跡しないと!」
 そう思えば思うほど、赤信号が長く感じられて、わたしは強い苛立ちを覚える。そして、今まで持続していた「走る」状態から急に足を解放したせいで、わたしはガクンと疲労に襲われる羽目になった。それは唐突だった。突然、足に重りでも付けられたかのよう、そう言えば適当なのだろうか?
 自動車の流れが途切れるのを見て、赤信号を無理矢理に横断しようと考えるも、その流れが途切れる気配はない。結局、わたしは信号が青へと変わるのを待つ羽目になる。
 何もかもが悪い方向へと動いている気がしてならなかった。
 わたしの両足も、ついさっきまでのようにすんなりと動いてはくれず、反応は明らかに鈍化している。すぐに息の上がり始める身体にしても、ついさっきまでの「走る」状態を維持していた時よりもずっとずっと苦しさを増していた。半ばそんな身体を憎みながら、わたしはそれでも必死で走った。
 過積載気味の小型トラックから遅れること一分近く、二条通りからローカル線脇の道へと進入する。しかしながら、もう既に、過積載気味の小型トラックは視界にない状態だった。
 正直なことを言うと「ここからあの踏切までどれだけの距離があるのか」をわたしは判断できていなかった。あまりこっちの、南櫨馬と東櫨馬の境にある住宅街に来る機会がないと言うのが理由としては大きいけれど、それ以上にそんなことを意識して道を歩いたことがないと言うのが大きい。
 これがいつも通い慣れた通学路と言うのなら意識などしなくとも、歩いた時、走った時、それぞれ大体の所要時間というものも逆算できるだろうか。
 わたしがその場に赴き、クラスメートの鈴平が踏切内へと進入するのを止められないなら、確実に小型トラックが鉄骨を踏切内に散乱させる事故は発生するだろう。小型トラックがそこに到着することを阻止できないなら、それは防ぎようがない。電車がそこに進入する云々以前の問題として、あの荷崩れの事故は発生したのだからだ。
 では、その「事故は確実に発生する」と、それを認識した上で何を為すべきか?
 そんなことは決まっていた。
 ……致命的となったのはその事故現場にブレーキの間に合わなかった電車が突っ込んだことなのだ。ならば、その致命的を避けるためにはわたしが電車を止めればいい。幸い、今から小型トラックがその場に赴く所なのだから。
 あの鉄骨材の下敷きになったことが原因で鈴平が命を落とすのなら、それはそれで仕方がないこと。電車を止めても止めなくても「鈴平は助からない運命にあったんだ」と諦められる、……今のわたしには鈴平が鉄骨材の下敷きになる事態を回避する術がないのだから、それは仕方がないと諦められる。
 わたしにできることは「やったんだ!」と、自己弁護ができる。
 誰もわたしを責めはしない。わたしの良心だって、わたしを責められはしない。
 ……長距離走は苦手だ。いや、苦手というと語弊があるかも知れない。長距離走に限らず、走ること自体、あまり好きではないのだ。ただ、その好きじゃない中で、取り分け長距離走が一番嫌いだと言うことができる。
 短距離走なら、風を裂いて疾走し駆け抜ける心地よさがある。スピード感がある。
 好きじゃないけど、その短距離走が持つ楽しさとか、魅力とかいうものを理解できないわけじゃない。
 それに比べて、長距離走の持つ楽しさとか、魅力とかいうものは理解できない。
 疲労から来る足の重さを無視していると、ペースを維持する呼吸の苦しさを無視していると、酷い圧迫感に目眩に似た感覚が襲ってくる。長距離走ではランナーズハイで心地良くなることがあると言うけど、わたしには到底、それは信じ難いことだった。そこまで到達したことがないから……と言えば、そうだろう。けれど、そこに達するまでの苦しみに、その心地よさは見合うものなのだろうか。
 長距離走には短距離走では味わえない達成感があるらしい。
 ……達成感?
 わたしは今、未来視の実現を阻止しようとしている。……まるで、それはわたしの嫌いな長距離走のようだった。
 いつもそうだ。ここ最近は意識的に実行してこなかったから感じなかったけど、いつも、いつだって、未来視の実現を阻止しようとすると、そこに辿り着くまでにわたしは「苦しさ」を味わう羽目になる。いや、辿り着いた後でもわたしは「苦しさ」を味わってきた。
 達成感?
 達成感とはきっと心地良いものなのだろう。でも、わたしはその心地良いだろう達成感を欲しがってはいない。きっと、この事故の発生を阻止できたら、わたしは何らかの形でその達成感を多少なりとも味わうことができるだろう。
 けど、わたしはそれ以上のものをたくさん失うかも知れない。それ以上の落胆を味わうかも知れない。
 達成感の心地よさとやらはそれらに見合う価値があるだろうか?
 事故を阻止したという人道的な行為と事実はそれらを埋め合わせてなお、足るものだろうか?
 もしかしたら、誰もそれを理解してくれないかも知れない。それだけでは飽きたらず、数少ないわたしの大事なものを奪っていくかも知れない。それでもなお、それはわたしの心を支えるに足るものだろうか。
 北原、鈴平。
 わたしの未来視の能力に対して何も知らないこの二人は一体何を思うだろう。わたしを見る目をどう変えるだろう。
 でも、どんな事態に陥っても、三倉だけはわたしの元を離れていって欲しくない。
 たった一つ。もし、そのボーダーラインが無惨にも踏み躙られたらなら、わたしは……。
 自己犠牲が素晴らしいことだなんて、馬鹿げた話。
 奇異の視線に晒されるのに慣れた振り。少しずつ、少しずつ拉げて行く心。
 もう、苦しむのは嫌だ。
 もう、苛まれるのは嫌だ。
 もう、蝕まれるのは嫌だ。
 ……やっぱり、できることなら、関わり合いにはなりたくなかった。
「……今回は特別。そうだ、今回だけは特別! 結果があんなんで、わたしだけが助けの手を差し伸べないじゃ、……わたしは悪者じゃないよ。これ以上、……何かに苛まれるのなんてゴメンだね!」
 誰に弁明するでもないのに建前が口を吐いて出た。一度、固めたはずの決心が揺らぐのも、もう、慣れたことだった。
 ぐっとビニール袋を握る手に力を込めて、わたしは休憩を求める両足の訴えを却下する。そして、わたしは線路脇の道路をひたすら走る。
 目的地は未来視の中の事故現場。いや、正確に言えば事故現場となる状況よりもいくらか時間的に早い状況を目指してと、言った方がしっくり来るだろう。可能なら過積載気味の小型トラックに追い付き、制止させるつもりだ。
 踏切付近では渋滞気味だった線路脇の道路も、二条通りから入ってすぐの地点では渋滞することもなくスイスイ流れていた。二条通りから踏切へと近づくにつれ、徐々に渋滞が始まり車はその進行スピードを緩めていくのだろう。どこでボトルネックが生じて詰まり始めるだろう?
 車の進行スピードはまだ自転車で追い付き追い越してゆける速度じゃない。踏切まであとどれくらいの距離があるのか解らないけど、目視できる範囲で遠くを確認してみても、踏切付近のように渋滞する様子はまだ窺えない。
 わたしは鞄を雑草の茂る草村へと投げ捨てる。そこには背丈のある広葉樹が一本生えていて、後でその鞄を回収しに来る時に、それが良い目印になると思ったからだ。
 尤も、鞄の中には数学と英語の教科書とルーズリーフの束が入っているに過ぎない。現代国語や生物などなど、端からどうでも良いと思っている科目の教科書に関しては高校のロッカーに放り込んである。ともあれ、そうやって少しだけでも身軽になって、気分は多少なりとも改善した気がした。
 ただごとならない形相で、ビニール袋を片手に握り持って疾走する女子高生の姿はかなり目立つらしく、擦れ違う人擦れ違う人が何事かと振り返る。そこに聞き慣れた声が響き渡って、わたしは思わずビクンと身体を震わせた。
「そこのおっちゃん、邪魔だから避けて貰えるッ?」
 それは北原の声だ。そして、わたしが足を止めて後ろを振り向きその姿を確認するより早く、自転車に乗った北原はわたしの横へと並んだ。コンフォードバイクと言えば適当か、とにかく、北原の乗る自転車はその手の種類のものだった。わたしの走る速度に合わせ自転車を併走させると、北原はわたしに向けて小さく手を振り自分の存在をアピールする。
「う、うわッ! あ、危ないじゃないか、気を付けろッ!」
 そんな叱責に小さく舌を出しながら「すいませーん」と間延びした声を出す北原は「悪い」などとは思っていないだろう。前方から二条通りの方へと歩いてくる人の流れに注意を向けながら、北原はほぼ歩道のど真ん中を自転車で走行していた。モーゼが大海原を割ったように、人が道を避けていくのが非常に印象的だった。
 尤も、このローカル線脇の通りの車道には自転車が走行できるスペースがないため、北原が歩道を走行すること自体はおかしいことじゃない。そして、他人の迷惑を考えない辺りが北原らしいと言えば北原らしいとも言えた。
「お! 紀見とお付き合いを始めてからこっち、初めて見る顔だね。いい顔してる。「何で?」って動揺した顔だ」
 冗談めかしてそう笑った北原に、わたしはどう対応して良いか解らず、その動揺の色を強くした。
 てっきり、軽いノリの「返し」が来るとでも思っていたのか、北原はわたしのその対応に若干困惑した様だった。
「あー……、詳しい事情は知らないわけなんだけど、加勢しようかと思ってさ」
 そして、わたしが自分以上に反応に困っていると思ったのだろう。先にその気まずい雰囲気を打破して言葉を発したのも北原だった。「ニィ」と笑って見せるその顔は悪戯っ子のようでありながら、同時に頼もしいものでもあった。
「自転車なんか、……どこから持ってきたのさ?」
「あー、これ? あたし、あっちこっちに置きチャリしてるから。野晒しで路上放置なもんだから、あっちこっち錆びてスピードはあんまり出ないんだけどね」
 ペダルをこぐ度に「ギィギィ」と軋んだ様な音を発するチェーンは確かに酷い状態だった。それでも、わたしの走るペースよりはずっと早い速度が出る。整備が行き届いていないとはいえ、やはり自転車と言うだけはあるらしい。
「紀見、鞄は?」
「この歩道に面した草村に捨ててきた。わたしの身長よりちょっと大きいくらいの広葉樹が生えてて、後で回収する時に良い目印になると思ったから」
「オッケー。三倉って娘には、取り敢えず、そこで待機してて貰うように連絡入れておくよ? あんたを追い掛けて、息切らして一杯一杯だったからさ、あの娘」
 三倉の名前が北原の口から出て、わたしは再度ビクンと身体を震わせる。
 わたしのそんな動揺が携帯でメールを打ち始めた北原に悟られることはなかった。わたしの記憶が正しいなら、北原と三倉はお互い顔見知りと言うわけではないはずだ。恐らく、歩道橋で出会した際に電話番号なりメールアドレスなりを交換したのだろう。「わたしの後を追う」という二人の目的が合致していた以上、そうなっていても何ら不思議じゃない。
 自転車のペダルをこぎながら、進行方向から来る人の流れに注意を払い、片手で携帯電話を操作して三倉にメールを送信するという荒技をこなし終えた北原がわたしに向けて言う。
「電車止めるんだろー? 取り敢えず、後ろ乗んなさいよッ?」
 色々、北原に聞きたいことはあったけど、今はそれをぐっと飲み込み、わたしは頷いた。
 速度を上げて、わたしの前へと進み出た北原は、そこからゆっくりと自転車を減速させて、わたしが飛び乗れる状況を作る。後ろの荷物置きも、あちこち錆びてはいたがそんなことを気にしていられる段階ではない。
 今まさに、そこに手を掛け飛び乗ろうとして、わたしはハッとなる。「第六感?」と、そう言うのが適当かどうかは解らない。けど、わたしは自転車の荷物置きへと伸ばした手で、発煙筒の入ったビニール袋をしっかりと握った。
 今、行動しなきゃならない気がした。
「……どうしてだろう?」
 はっきりとした理由はわたしにも判らない。けど、今、この瞬間が分岐点だと、そんな気がした。
 感覚が研ぎ澄まされていたのかも知れない。微少なレールの振動を感じ取ることができたのかも知れない。
 わたしは右手に持ったビニール袋を漁って、中から発煙筒を一本取り出した。そうして、北原の乗る自転車の籠に残りの発煙筒が入ったビニール袋を入れると、発煙筒を右手へと持ち替える。発煙筒の着火に際して、自然と走る速度はガクンと減速したけれど、発煙筒の着火自体は非常にスムーズに行えた。生まれてこの方、発煙筒に着火をしたことなどなかったけど、それは見た目に使用方法を察することのできる作りをしていた。
 発煙筒のキャップ部にあるスリ薬で本体を擦って、わたしはそれを錆びた金網で歩道と仕切られている線路の中へと放り込む。一箇所に複数個を投げ込むよりも、感覚を置いて煙を発する方が「何か異常事態が発生している」と電車の車掌に思わせられる気がした。
 そうだ、これがただの悪戯ではないことを真摯に訴えられる気がした。
「やっちゃった、……もう後には退けないかね」
 苦笑しながら楽しそうな口調で言う北原に、わたしは次の発煙筒を取り出すように要求する。
「北原、もう一本、貰える?」
「あいよ」
 表記に直すと語尾に音符記号でも付きそうなほど、ご機嫌の北原から発煙筒を受け取った直後、わたしはそのキャップを取り外してスリ薬で着火する。一個目を放り込んだ地点から距離にして十メートルも開いてはいないだろうか。再び、わたしは発煙筒を路線の中へと放り込んだ。できることなら「もう少し距離を開いて……」とも思っていたのだけど、同時にわたしの直感が「早く次の発煙筒を放り込まなきゃならない」と訴えたのだった。
 その焦燥感には逆らえなかった。
 線路と平行して走る脇の道路も、わたしが未来視の中の事故現場へと近付くにつれ徐々に渋滞の様相を呈し始めて来ていた。線路を跨いだ向こう側へと抜ける道が無いにも拘わらず、この線路脇の道へと自動車が流入する丁字路があるのが、そのボトルネックを生む要因のようだった。尤も、その根幹となるものが許容量を著しく超過した交通量に変わりない。
 ……意外だったのは丁字路に信号機が設置されていることだった。
 なら、あの踏みきりにもせめて信号機を設置すればいいと思うのは素人考えなのだろうか。
 不意にカタンカタンと微かなレールの振動音が聞こえた気がした。
 いや、それは確かに聞こえたのだろう。
 ドクンドクンと胸を打つ心音が一気に跳ね上がって、うっすらと嫌な汗がわたしの額を濡らし始めた。二条通りから走り続けて来て、わたしの身体に籠もった熱による発汗も、もちろんあるだろう。ただ、それ以上に、緊張から来る寒気を伴った汗が大部分を占めている気がした。
 わたしの居る位置からはまだ未来視の中で事故現場となる踏切を確認することはできない。同時に、過積載気味の小型トラックの背中を見つけることも叶わない。
 わたしは一体、どんな位置関係にあるのだろう?
 それをわたしは確かに知りたかったし、同じくらいの比率でそれを知りたくなかった。物恐ろしかった。「何が」と具体的には言うことができない。だけど、突然、わたしの足を襲った震えだけは一向に止まる気配がなかった。
「北原、……もう一本」
 物恐ろしさを押し殺して、わたしは北原に次の発煙筒を要求する。一応の平静を装ったけど、恐らく、わたしのそんな態度は北原に取ってどこか違和感の残るものだっただろう。何より、それは覇気のない声だった。
 北原は打てば響く反応で籠の中のビニール袋から発煙筒を取り出し、わたしへと手渡そうとする。けど、併走していたはずのわたしがそこに居なかった。北原がその速度を上げたわけじゃない。そう、速度を落としたのは他ならぬ、わたしの方だった。北原は利きの悪いブレーキを握り、減速をすると、わたしに向けて発煙筒を放る。
「紀見、大丈夫? さすがに疲れた?」
 北原はわたしがまとう違和感を、長距離走をここまで続けてきたことによる疲労の所為だと思ったらしい。
 わたしは曖昧に頷いて、発煙筒を手に取った。何か言葉を口に出して返していたら、きっとわたしはボロを出していただろう。声が上擦るとか、どもるだとか、恐らく、そう言う直接的な形を取ってだ。
 重く感じる両足を必死に前へ前へと送り出して、わたしは三本目の発煙筒に着火する。それを路線の中へと放り込んだ時にはレールを振動させて近付いてくる電車の音がはっきりと聞こえる様になっていた。振り返って後ろを見ると、路線の中へと放り込んだ発煙筒からモクモクと煙が立ち上っていた。
 電車の先頭車両を遠目にわたしが確認できた次の瞬間、激しいブレーキ音が鳴り響いた。
 激しい火花が散っていた。赤に限りなく近い黄色の火花を散らし、電車は呆然と立ち尽くすわたしの横を擦り抜けていった。それは物凄いスピードだったけれど、ガクンと一つ震える様に一度大幅な減速をすると、車両はそこから徐々にその速度を落とし始めていた。車両編成が多ければ多いほど、惰性の働く電車は車同様に簡単に停止することができない。
「本当に間に合うのだろうか?」
 そうわたしが危惧するほど、車両の減速はゆったりしたものだった。けれど、車両は確かに減速をした。ブレーキを掛けたのだ。未来視の中の事故現場のように、直前でブレーキを掛けそのまま突っ込んでいったあの状況に、わたしは確かに変化を加えたのだ。
 尤も、電車がこんなけたたましい程のブレーキ音を響かせること自体、珍しいことになりつつある。
 既に主要な路線のほとんどはプラスマイナスの電極を用いて電車を浮かせ車両や速度を制御するスタイルになっている。急ブレーキ時の性能、長距離区間を走行する電車の移動速度、走行の安定性・安全性などなど、あらゆる点に置いて旧来のものよりも性能の向上が証明されている。それなのにも拘わらず、この琴浦〜回関線がそのデファクトスタンダードから外れているのはやはりローカル線だからなのだろう。
 電車を走行させる技術そのものが電極を用いるタイプの、完全に新規のものへとシフトすることによって、旧来の路線・車両をそのまま継続使用することができない。つまりは巨額の設備投資費が必要なのである。主要路線ではその設備投資費に見合う需要と利用客が見込めるものの、ローカル線では主要路線と同じように行かないのだ。国からの補助金が出るには出るらしいが、それでもなお琴浦〜回関線は新技術への移行に踏み止まる路線の一つだった。




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