「クオラァッ! 丹野(たんの)ッ! 柏原(かしはら)ッ! もう授業が始まってから30分近くも経ってんだぞッ!」
唐突に教室内へと響き渡った怒鳴り声に、思わず体はビクンと跳ねていた。そんな挙動の影響で机はガタリと音を立てて揺れたけど、教壇に仁王立ちする数学教諭の荻根沢(おぎねざわ)がそれに気付いた様子はなかった。
教室後ろの扉から身を屈めて入室して来て、どうにか遅刻扱いを免れようと試みた丹野・柏原の両者へとその注意の全てが向けられていたことが幸いした形だ。
「……ふわ!」
欠伸を噛み殺しながらゆっくりと顔を上げると、ちょうど荻根沢がわたしの横を通り過ぎていくところだった。
荻根沢の背を追うように視線を走らせると「しまった」と言う表情をして固まる丹野と柏原の姿が目に入る。
「今頃ノコノコとご登校とは良いご身分だな? こんな時間に登校して来たって言うなら、校門前にはまだ遅刻指導の高原先生が居ただろう?」
窓の外、校門前の様子をビシッと指差す荻根沢のその指の先には遅刻指導の高原の後ろ姿が確かに確認できる。丹野と柏原の両者はばつの悪い顔付きで「どうやってお茶濁そうか?」と、恐らくそんなことを考えているのだろう。
今から説教タイムが始まることは火を見るよりも明らかだ。ことと場合によっては荻根沢が二人を引き連れて遅刻指導の高原の元へ行くことも期待できる。
否応にも高まる自習への期待の中で、荻根沢は丹野と柏原を引き連れて廊下へと出て行った。
まずは廊下でのお説教と言ったところなのだろうが、既にクラスの中は自習歓迎のだらけムードが漂い始めていた。一度ざわざわとざわつき始めてしまえば、もう歯止めは利かなくなってしまってクラスの至るところで雑談が始まる。
そんなだらけモードのご多分に漏れず、わたしも再び眠りに就こうと体勢を取る。けれど、今まさに寝直そうとするわたしの背中はにゅっと背後から伸びてきたシャーペンによって突かれた。
「紀見、最近夜更かしでもしてるの? いつもこの時間は夢心地って感じじゃない?」
背後から向けられた声はクラスメートの北原真由子(きたはらまゆこ)のものだった。
席順で言うと北原はわたしから見て斜め後ろにあたる場所に位置するため、わたしが後ろを向くだけで雑談を交わすことができる相手だ。この北原との付き合いは高校一年一学期の地理のテストの追試から始まり、それから度々行われた様々な教科でのテストの追試で顔を合わせて親睦を深めた仲である。
極めつけはやはり、春休みの補習で顔を合わせたことだろう。高校一年の総決算として、地理の期末テストの追試に逆立ちしても受かりそうもない生徒が集められて実施された補習だ。
北原にはこのクラスにわたしよりも親しい付き合いをする友人がいるのだけど、たまたま席替えで席順が近かったことと追試の死線を潜り抜けた妙な親近感が生まれたこともあって、ことあるごとにこうして雑談を交わす仲になった。
まだ、席を立って教室内を移動するものはない。けれど、このまま荻根沢が戻らず実質上の自習となった場合、そう時間を置かずに教室内移動をする第一人者が出るだろう。そうなれば、北原の周りには北原が属する女子グループの面々が集まってくるはずだ。
かく言うわたしはどこの女子グループにも属さない独り者だ。一匹狼と言うわけではないながら、このクラスの中ではそれほど親しく付き合いをする友人はいない。強いてそれを挙げるなら、それはやっぱり北原となる。尤も、日曜・祝日に校外で待ち合わせをして一緒に遊ぶと言うほどの仲ではない。
半ドンで上がった日や、放課後に気の向いた時は北原の属する女子グループに紛れてカラオケなどにも行っているから、偏に学校内だけの付き合いとは言えない。だけど、一歩踏み込んで「親友」と言うのは憚られる気がする。
北原はそんな相手だった。
「んー、夜は寝てるんだけど、わたしって低血圧で朝弱いんだ。だから起き掛けの気怠さが残ったまま学校来るとどうしてもねー、それにこの暖かな日差しだよ! 寝るなーっつー方が無理だって」
カラカラと笑いながら答えると、北原は呆れた様な目つきをしながら切り返す。
「紀見は進学どうするつもりなのよ? 言いたかないけど成績のデフレはまだまだ止まってないんでしょー?」
意地悪く微笑みながら、あまり考えたくはない将来のことを突いてくるのはやはりつい先日配られた進路希望のプリントが影響しているのだろうか。わたしは渋い表情をして、まるで他人事のように答えた。
「そー言う現実的に厳しーことは今は考えたくありませんなー。まー、なるよーになるでしょうさ」
その答えに得意顔で「うんうん」と頷く北原は、ついさっきまでの意地悪い笑みはどこへやら、ぺろりと舌を出して見せて「まー、あたしも人のこと言えないんだけどさー」と微苦笑を交えて切り出したのだった。
なんてことはない。つまりは「進路希望のプリントどうする?」と、北原は言いたいわけだ。
二年の後期からクラスは一緒のままでも、四年生大学進学、短大・専門学校、就職と時間割が分かれることになる。従って本当のことを言うとわたし達は「今は考えたくない」などと、悠長なことを宣ってはいれない状態に置かれている。しかしながら、当の本人達にあまりやる気がない以上はどうしようもないことだ。
高校によっては二年の始めから完全にクラス分けをして取り組むところもあるらしいので、比較的わたしの通学するこの芝富高校は進学に熱心だとは言えない。だからといって、部活動に力を入れているかと言えばそうでもない。言えば、部活動にしろ、学力偏差値にしろ、どこにでもある平凡レベルの高校だと、そう表現するのが適当だろう。
「四年制大学へ、行けるなら行きたいとは思うけどね。わざわざ好き好んで高校卒業と同時に働きたくなんかないよ」
それは真理だ。
自由になるお金が欲しいだとかそう言う思いはあるけど、だからと言って社会人になってしまえば、今度は学生とは異なり自由に使える時間が激減する。ここに葛藤する要因こそあれ、わたしはまだまだ時間を選ぶ側にいる。
「四年制大学って言ってもピンからキリまであるじゃない、例えば、具体的にはどこよ?」
「下手な地方都市とか行きたくはないかな、……やっぱり勝手知ったる櫨馬(はぜま)の街が良いなってことを考えてみたりしますとだね、……櫨馬学院大とか? 偏差値的にも三年になってから死ぬ気で努力すれば合格行けそうでしょ?」
「死ぬ気ねぇ」
北原は苦笑しながらも、その言葉が自分自身にも当てはまるものだと言うことを知っているから、その心中は複雑そうだった。お互い一応はある得意分野こそ違うけど、それがセンター試験などに置いて他の穴を埋めてくれるかと言えば、埋めなければならない穴が多過ぎると言う点で絶対的に無理がある。
せめて穴が一つだと言うなら、望みもあるけれど。
「沖縄とか北海道とかちょっと魅力あるけど、短期で遊びに行くって言うならともかくサ。実際にそこで生活しなさいと言われると、……やっぱり、ちょっとねー」
言葉を濁しながら「気が進まない」旨を口にすると、北原も心得顔で頷き同意をしてくれる。
「あれだよ、紀見は数理系の教科が得意なんだから、文系科目が大幅に省かれてる函深工業大学とか、良いんじゃないの? 最近結構注目度とか高い大学みたいだし、就職とか困らなそうじゃない?」
「物理・化学・生物から選択の科学二科目と、英語の配分を重視しているって書いてなかった? ……入試要項あたりに。ふふふ、その時点で、もう無理な話なのさー」
自棄気味に言ってはみてもやはり内心虚しくなるのは変わらないわけで、わたしはブルーな気分を味わい机に突っ伏した。それに、仮に合格できたとしても入学後にのたうち回って苦しむ姿を鮮明に思い描くことができる。
「それとこの際はっきり言っておくけど、わたしが得意なのは数理系じゃなく数学系、そこんとこ宜しく!」
生物にしても化学にしてもそう。とにかく、似通った「文字の羅列」が出てくる暗記科目は基本的に苦手である。
似通った機関や部位の名前と、似通ったアルファベットと数字の羅列。
正直言って、どちらも苦手だ。
物理はどうだろう?
自分にもよく解らないがややこしいあの公式はちょっと勘弁して欲しい。
「はいはい、判ってますよ、紀見の得意科目は数学。で、さ、次の数学Uの宿題写させて」
進路調査の紙はともかく「差し当たって……」と言う風な口調で切り出す北原に、わたしは呆れた調子を隠さなかった。尤も、今までの進路に関する話をダシに宿題云々と言う流れではないのは確かで、北原に取ってしてみれば「そう言えば……」と思い出したと言ったところだろうか。
午前の授業が全て終わって昼休みが始まる。
昼休みのチャイムと同時に購買へと走る学生の波はどこの高校でも同じなんだろうか。
ふと、そんな疑問が頭を過ぎった。
わたしの通学する芝富高校には学食なるものがない。従って、昼飯時の購買が熾烈を極める激戦区であることは当然の理だ。わたしも弁当派ではないため、購買へと足を向けることに代わりはないけれど、このハイエナとさえ見紛う学生の波に加わるようなことはしない。
男女問わず、必死になって昼食を奪い合う光景を尻目に、わたしは今日も自宅があるマンションの一階に、コンビニが入居していることに対して惜しみのない感謝の気持ちを向けるのである。ただ、飲み物に関してだけは登校前に買って持参すると言うわけにもいかない。購買の脇にある自動販売機でパックジュースを買うというのが常だった。
戦利品片手にどこか誇らしげな足取りで教室へと戻る生徒の列に混ざって教室へと戻ると、そこには既に北原の姿はなかった。恐らく、北原の属する部活動の部活仲間と昼食を取りに出掛けたのだろう。
窓の外の日差しは燦々と照り付ける夏の匂いを含んだもので、外で昼食を取るにも絶好の天気である。教室内で昼食を取りなさいというような規定はない。屋上などの立入禁止区域を除けば、割とみんな好き勝手な場所で昼食を取るのが芝富高校では通例だ。
わたしは教室の自席で、鞄の中からコンビニの袋を取り出す。
無造作にパンの袋を開くと、わたしはハモハモと大口開けてシーチキンマヨネーズパンを口に頬張った。味については「コンビニ」と言うこともあって文句は言えないわけだけど、こと「菓子パン」と言う分野に置いて比較するなら「購買もコンビニもさして変わらない」と言うのが正直な感想だ。
シーチキンマヨネーズが乗っている中央の部分は美味しいのだけど、ミミに当たる部分がもろにパンのこなっぽさを食感として口に残す辺りがこのパンの難点だ。とてもじゃないけど、飲み物なしで完食できるものじゃない。
「次の古文の訳、答えだけでも教えてくんないかな? 頼むよ、室山(むろやま)さん! 出席番号順で来るから今日絶対に当たるっての忘れてて、……ほら見てくれよ、ノート白紙!」
「山根(やまね)クン、あんたね、……今から原文とその訳を写してる時間があると思うの?」
教室内ではクラスメートの山根と言う男子が白紙の古文ノートをこれ見よがしに掲げ挙げて、室山に訳を教えてくれと頼みこんでいた。ノートを写す、宿題を写すと言う行為は男女ともにクラス仲があまり悪くないと言うこともあってか、比較的日常茶飯の光景でもある。もちろん「仲」と言う点では馬が合わない相手というのはいるもので例外もあるけれど、他に迷惑を掛けない範囲でお互い距離を置いているので問題となることもない。
一つ付け加えると、その例外は女子グループと女子グループの仲の話である。
「だから答えだけでもって言ってるだろ。他のクラスの知り合いを当たってたら「今日、古文ない」って言われ続けて、時間食っちゃったんだよ! マジ、頼むって!」
室山は髪を掻き上げる様な仕草を見せた後、呆れた目つきで山根を見る。けれど、溜息一つ吐き出すと、渋々と言う風にノートを貸し出した。
そんな具合に、教室にはいつもと相違ない日常が確かに流れていた。けれど、菓子パンの袋を教室後ろのゴミ箱へと捨てようと席を立った時のこと、それは一転する。
わたしを強い胸騒ぎが襲ったのだ。「胸騒ぎ」と言ってしまえば、それは語弊があるのだろう。けれど、他にその感覚に見合う的確な言葉が見付けられないからわたしはそれをこう呼び続けている。
普段は意識して見ようとしない限り、わたしの視界の端を蝶が羽ばたくようなことはない。けれど、見えることのないはずの蝶がわたしの周囲を舞うことがある。蝶は耐え難い眠気を引き連れてきて、同時に未来視を伴うのだ。
わたしはその胸騒ぎが確かなものになるだろうことを察する。
言えば、予兆みたいなものだ。
午後の授業が始まって、わたしは何とも形容し難い強烈な眠気に襲われた。いつもは自己主張などせずに大人しいはずの蝶が妙にざわついたままの状態にあって、わたし自身「やっぱりな」と言う思いはあったものの、それがここまで急激な形でやってくるとは予測できなかった。
いや、それは「初めてだ」と言ってしまっても過言ではないかも知れない。
今までの未来視の経験の中で、わたしには夜を待たずに未来を視た覚えは一度としてなかった。
海の中の深い深い所へと急速潜行するかの様な視界の暗転があって、わたしは無重力に晒されるかの様な浮遊感覚を覚える。無重力を実際に経験したことはないけれど、落下をしているとも、水中を漂っているとも言えないその感覚はわたしの中で「無重力」と錯覚できてしまうほどの、未知の体験だった。
上下左右が不確かな闇の中を漂っていると、不意に「下」が現れる。足の裏に何かを踏み締める確かな感覚が生まれ、すとんと無重力が遮断される形でそれは生まれた。それらは既に慣れた感覚の一つと言えるのだけど、何度味わってもあまり心地よいものではない。
ふっと目を開くと、そこには見覚えのある光景が広がっていた。
視界の端にはハタハタと羽ばたくわたしの蝶がいる。間違いない、ここは未来視の夢の中である。
そんな光景の全体像を見渡すことなく、わたしはそれが交通の要所である櫨馬中央から乗り継ぐローカル線の路線であることを理解する。この線路の脇には住宅地の一区画を迂回するように伸びる歩道を持たない細い道路があって、道路の規模に見合わない交通量があることで時折問題として名前が上がる有名な場所だ。
そう言うのも、東櫨馬からローカル線を跨いで繁華街である南櫨馬方面へと向かう踏切がこの近隣ではこの場所にしかしかないことが挙げられる。かなりの距離を走って迂回をするなら、もっと立派な踏切があるのだけど、わざわざ迂回を選択する人は希だ。
主要道路から南櫨馬へと抜けるためにこの踏切を超えようとする交通量がある。そこに加えて、線路脇の狭い道路を走って来て、同じようにこの踏切を右折で入って南櫨馬方面へと越えようとする交通量がある。
大概、いつもこの場所は混雑しているのが定例だった。
わたしはその踏切を挟んだ南櫨馬の側に立っていて、東櫨馬から来るありとあらゆる流れを把握できる状況にあった。
「一昔前、この踏切は本当に事故の多発する酷い場所だった」
わたしはそんな話をママから聞いていたけど、拡張されて道幅が広くなった今もこの場所は相変わらず事故発生ポイントとして知られている。
「踏切そのものの構造を根本的に見直すこともそうだけど、交通量を減らす別のアプローチが必要なんじゃないのかな」
わたしはぼんやりと行き交う人と自動車の流れを眺めながら、踏切についてそんな感想を覚えた。
ハタハタとはためく見慣れた蝶を横目に捉えながら、わたしはその場で人の流れの中に見知った顔を見付ける。意図せず心拍数がドクンッと脈打ち跳ね上がって、わたしは強い嫌な予感を覚えた。
大概、蝶がこうやって無意に見せる夢と言うのはわたしに取って関係のある事柄なのである。ここに、一体わたしとどんな関係のあるものが出現するかと思えば「そう言うことか」と、わたしは納得した形でもあった。
わたしの心拍数の上昇に呼応するかのよう、俄にわたしの周りをはばたく蝶の動きが慌ただしくなった気がした。意図せずキッと見開いたわたしのその目はここで何かが起こるだろうその予兆を決して見逃さまいと、忙しなく全体像の注視を始める。ハタハタと右に左に揺れ動く蝶の様子を何度も何度も横目に捉えながら、わたしはわたしの意志で続きを見るか否かの「選択」を迫られていないことを確認する。
時折、響き渡る自動車のクラクションの音。
煙草を片手にハンドルを握りながら、ノロノロとしか前に進まない現状に苛つきを隠さない運転手。
そんな、流れの緩慢な自動車の列の中を縫うように横切る自転車。そして、二輪のオートバイ、スクーター。
好奇心が旺盛そうな子供の手をしっかりと握る母親がスーパーのビニール袋を持ち直すように握り直して、踏切を横断しようと足を踏み出すその一挙手一投足。子供はじゃれつくように母親に甘え、気分よさげに踏切へと差し掛かる。
踏切全体を見渡すと、わたしの見知った顔の生徒以外にも高校生と思しき年齢の人間がその場に存在していることにも気付いた。芝富高校以外の制服もチラホラと目に付いたのだが、そこに電車で通学をしなければならないタイプの、東櫨馬の区画外の高校の制服は見つけられない。
注意を傾けるべき事象は無数にあった。それこそ眼前の光景の中には数え上げられないほど存在していた。
見覚えのある相手の顔が鮮明に捉えられる位置まで、彼女は踏切に近付いてきていた。友達なのだろう女子一人、男子二人を隣に置いて、楽しそうに談笑しながら彼女はゆっくりと、しかし確実に踏切へと近付いてくる。
ピンッとわたしは彼女の名前を思い出す。それがクラスメートの鈴平圭子(すずひらけいこ)だと、認識してしまうとわたしの「微細な異変も逃さない」と言った具合ののみ取り眼はさらなる険しさを増した。
夢を見ている段階にあるわたしはこの夢に干渉をしてどうこうできる状態にないことを理解している。だから、この眼前でどんな事態が展開されようとも、わたしはただ黙ってそれを注視するしかない。
それが嫌というほど判っているから、わたしはその場から微動だにすることはなかった。まだ実際に起こってはいないこと、それを止める手立てなどあるわけがない。もしも、未来の出来事を止める手立てがあると言うのなら、それは現実の時間の中で進んでその場に赴き、わたしがそれを回避しようとする時だけだ。
不意に、信号のない交差点の車と人の流れが変わった。
踏切を直進する車線上の車がブレーキを踏んでその場に停止したのだ。
基本的にこの場所は踏切へと直進する車両が優先だ。けれど、車は踏切前十字路の一時停止線で完全に停止した格好だった。
どうせ前は詰まっている。車の流れが制止して車道の横断が可能な時を今か今かと待っている人垣を先に横断させてしまおう。そう考えたのだろう。線路脇の道から右折で進入してくる車に対して「道を譲ってあげよう」なんて考えもあったかも知れない。
線路脇の道を踏切側へと横断しようとする人の列も一時的に途切れてしまえば、ウインカーを挙げ入れてくれるのを待つ線路脇の道からの流入者には絶好の機会だった。
まさにその瞬間を逃すまいと、積み荷を多量に積載した小型トラックが半ば割り込む様に左折で踏切内へと進入する。「後続車が大量にいる」と言う焦りの意識があったのか、それとも道幅に注意を向けすぎたが故にハンドル操作を誤ったか。小型トラックは積み荷の鉄骨に、線路に沿って張られている電線を引っ掛けた。そうして小型トラックの運転手がそれに気付かずアクセルを踏み込んだことで、それは起こった。
ワイヤーの軋む「キイイィィィィィッッ」と鳴る嫌な音が周囲に響き渡り、小型トラックがバランスを崩す。積み荷を支えるワイヤーが切断される事態までには至らなかったけど、無理な力が加わりワイヤーが緩んだことで過積載気味の鉄骨が踏切の中にぶちまけられた形だ。
運悪く踏切にはちょうど横断中の鈴平達がいた。そして、その鉄骨の下敷きになる状況だった。「ガシャアァァァァァァンッッ」と鳴り渡った騒音に、一時その場は水を打った様に静まり返る。
続けざまのタイミングは最悪だった。
カンカンカン……と赤いランプの点灯が始まり、遮断機がゆっくりと降り始めたのだ。
そこには冷静になって物事を見定め、的確に判断を下せる人間などいなかった。一向に進む気配のない渋滞の列の中で、自動車のハンドルを握る人達の大半は「そこで一体何が起こったのか」を判断できずにいる。茫然自失の体で、ただただその光景を眺めていただけだ。
一つ遅れて誰かが甲高い叫び声を上げたことで、固まっていた時間は一気に動き出した。そうは言っても場は酷い混乱状態にある。「何をするべきか」を誰かが的確に口にしなければ、その大半はただの傍観者と化すだろう。
鉄骨の下敷きになった鈴平達の方へ注意を向けていると、怒声にも似た声が響き渡る。
「おっさんッ、早く車から降りろッ!」
それは小型トラックを挟んで真逆の側から響いたものだった。
わたしは慌ててその声のした方向へと視線を向ける。そこには鉄骨の下敷きになった軽自動車がすぐさま目に付く。ただ、大きく車のフレームが歪んではいるものの運転手に怪我はないようだ。
しかしながら、その状況が楽観できるものかと問えば、その答えは「いいえ」となる。中年の運転手は恐怖を隠そうともしない顔付きで、まるで叫ぶように自身が置かれた状況を口にした。
「鉄骨に押し潰されて車のフレームが歪んだみたいなんだ! ドアが開かないッ!」
何度も何度も車のドアを開けようとしている様子が目に入る。仕舞いには力任せに蹴破ろうとするのだけど、僅かに振動するだけで一向にその軽自動車のドアが開く気配はない。
「……おいッ、誰か、こっちの車を線路外に出すのを手伝ってくれ!」
対向車線側へと散乱した鉄骨の量は微々たるものだった。鈴平達のいた歩道側へと散乱した量と比較すれば、それは一目瞭然である。幾重にも鉄骨が重なるような散乱の仕方ではない。それは「取り除く」と言う観点から言っても、まだ可能なレベルの話だと思える。
しかしながら、ことそれを鈴平達がいた歩道側の話へと切り替えると、現状は一気に悲観を伴った。
「こっちもだッ、鉄骨どけるの手伝ってくれッ、制服着た女の子とじいさん二人が下敷きになってて動けないんだ!」
鉄骨の下敷きになったことが致命傷には繋がらなかったことだけが、……不幸中の幸いだろうか。
鉄骨は完全に鈴平の足を下敷きにしていたものの、当の鈴平は苦痛に顔を歪めながらもどうにかそいつを取り除こうと行動できる状態にある。鈴平一人の力では鉄骨はピクリとさえも動く様子を見せない。けれど、今のところ身動きの取れない鈴平にさらなる鉄骨が落下してくる様な状態にはない。
そんな事故現場の向こう側では大慌ての様子で電車が突っ込んでくるのを回避しようとする行動が展開されていた。
「発煙筒だ、踏切に備え付けの発煙筒があるはずだ!」
「それよりもまず、緊急停止ボタンを押した方が良い!」
指示を飛ばす人間に、実際に行動をする人間。
携帯片手に警察などへ連絡をする人間。
しかし、偏に彼らの顔色には諦めが色濃く滲み出ていた。誰も口にはしなかったけれど、最悪のタイミングで遮断機が下りた今、それらが間に合わないだろうことを頭では判っているのだろう。
「……発煙筒がないぞッ! おいッ! どうなってるんだッ?」
「つい二〜三日前にこの踏切で自動車同士の接触事故が起きたばかりなんだ、その時に発煙筒使って……まだ補給されてないのかも知れない」
物音を聞きつけて、近隣の民家から様子を見に来たのだろう野次馬の群れの中から「発煙筒がないこと」に対する見解が漏れる。
踏切内には背広姿のサラリーマンや、腕っぷしには自信があるのだろう肉体労働関係の男たちが数人いた。そして、必至になって鉄骨を撤去しようと力を合わせていた。大半の野次馬がただの傍観者として状況を静観している中で、確かに彼らは勇気あるものだといって過言ではないだろう。一つまた一つと鉄骨が彼らの力によってゆっくりと持ち上げられてゆく中で、しかし彼らに残された時間は少な過ぎた。
耳を澄ませば、彼らの聴覚は踏切へと接近してくる電車の音を聞いただろう。線路の上に立って鉄骨の撤去作業をするものはその振動を身を以て感じていただろう。その中の誰かが「もう無理だ、間に合わない」と口にして、その鉄骨を持ち上げる手を離そうとも、誰がそれを責められただろうか。
「発煙筒にしろ緊急停止ボタンにしろ、もう遮断機が降りちまってるんだ! 今からじゃ間に合わないッ! ともかく、後は運に任せた方が良いッ、……あんた達も早く逃げろ! 巻き込まれるぞッ!」
しかしながら、そうやって真っ先に音を上げたのは直接その場に携わっていない傍観者の方だった。
彼らにしてみれば、被害が鉄骨を持ち上げようと試みる善意の勇気あるものにまで及ぶことを心配したのだろう。けれど、そうやって実際に鉄骨除去に携わっていない人間がそれを口にすることで、鉄骨を除去する側に「何が何でも……」と言う怒りにも似た意地が生まれたのも確かだった。
「逃げるだァッ? 馬鹿言えよッ! この鉄骨の山ァ避けねぇと逃げられない人間が居るんだよッ!」
わたしと同じ芝富高校の、男子生徒の制服を来た男が叫ぶ様に大声を上げる。頭に血が上ってしまっていて、冷静な判断ができない状態にあるのだろうと思えた。
誰がどう見ても、もう時間的には間に合わない状況だ。
傍観者の言葉は正論だ。恐らく、何一つ間違ってはいない。例え、感情的な部分で割り切れなくともだ。
今の段階から助けになど入れば、十中八九、減速をし切れず踏切内に突っ込んでくる電車に巻き込まれて、その命を落とすだろうことは明白だ。
この周辺には電車が止まる駅はない。それは即ち、電車がスピードを緩めることなくこの場を通過して行くことを意味している。立てて加えて、この一帯は各駅停車にしろ、特急にしろ、時間短縮のために最もスピードを出している場所なのである。
この踏切に差し掛かる直線まで線路は緩やかなカーブを描いていて、電車の車掌がこの事故に気付いてからブレーキを踏んだのでは恐らく間に合わない。頼みの綱は緊急停止ボタンだけだと言える。しかし、それも遮断機が降りた後に押されたに過ぎず、誰かが口にしたように全ては運頼みだと言わざるを得なかった。
電車が急ブレーキを掛けるけたたましいまでの金属摩擦音が徐々にその音量を増加させて踏切に近付いてきたと思えば、次の瞬間にはグシャッと金属の拉げる耳障りな音が響き渡った。
踏切の中央で身動きが取れない状態にあった小型トラックはくの字に曲がった。鉄骨に道を塞がれる格好になった電車は進行方向へ向いたエネルギーを押し殺しきれずに、車体をググっと鉄骨に乗り上げて、傾き、横転をして線路脇の渋滞の列へと突っ込んだ。
最悪の結果になった。
その状況をただ黙って、叫び声一つ挙げることなく静観しているわたしがいる。
「わたしには、……関わり合いのないことだ」
反射的に呟き出した言葉に、わたしは慌てて首を振る。しかし、首を横に振りながら、そこには「関わり合いのないことだ」と言い聞かせる思考も確かに存在する。そして、言い聞かせる思考の側がわたしの本音であることも知っている。
反射的に首を横に振った側の思考はただただ「冷酷な人間」だと思われたくはないが故の自己弁護に過ぎない。
誰に対して弁護するというのだろう?
心を覗く人間にあったことなどないのに。
ただ、関わり合いにはなりたくなかった。
できることならば、ではない。どんな理屈をこねられていようとも嫌だ。心が痛い思いをするとかしないとか、そんなことはもうどうでもいい。どんなにささやかなものであっても、もう平穏を失うのは嫌だ。
わたしはこの蝶がもたらす未来視で体験した未来。それを変えられることを知っている。
だけど、未来を変えようと、変えたいと思って行動しても、わたしにはそれによってわたしの行動が報われたという記憶は何一つとしてない。そもそも、わたしの人生の中でこの未来視の能力がプラスに働いているかどうか微妙だ。
わたしを襲う怪我を回避すると言う観点で言えば、それは確かに役には立っているかも知れない。プラスの材料と取れるものも無数にある。けど、それは同時により多くのマイナス材料をわたしにもたらしてきた。
一つ前提として述べておかないといけないことがある。
わたしが持つ未来視では直接的なわたしの利益に繋がる未来を、何一つとして見ることができないと言うことだ。競馬の結果や、好きな数字を並べて当てるタイプの宝くじの結果だって見ることは叶わない。当然、期末テストの答えだって判らないし、次の政治家の総選挙で誰が当選するのかさえも判らない。
その手のわたしの利益に繋がることに関しては何の役にも立たない。だから、良い意味でも悪い意味でもわたしはこの能力が「未来視」であることを理解している。この能力の中に必ず的中する未来予測は含まれないのだ。
その癖、わたしの周りの誰かが怪我をするとか、わたしの傍を離れてどこかに行ってしまうとか、そう言った類のわたしの望まない、わたしが「どうにかして変えたい」と願ってしまうような未来を見せる。
わたしは様々な未来を視て、その未来を過去のものへと変えてきた。
努力をしてもわたしの望みが叶わないことを知っていた。だから、努力をするのを諦めたわけではなかったけれど、結局その望みは叶わなかった。それを客観できる様になった今、その時のわたしの状況を振り返ってみると、少なからず「叶わない」と知ったことで情熱を失った気がする。
いや、……気がするではない。失ったのだ。それは否めない事実だ。
どうしても欲しくて我慢ができなかったはずの玩具があった。「欲しい欲しい」と願ってだだをこねても、ママに冷たく「駄目だ」と諭されて、結局それが手に入りはしないことを知っていた。
だから、わたしはそれを欲しいと願うことをしなくなった。
ママに言われて習い始めた習字が、一つの集大成としてコンクールで佳作を貰うことを知っていた。だから、喜べなかった。わたしはそれを人並みに書き続けていただけで、習字をそんなに好きだとは思えなかった。けれど、例え習字がそんなに好きではなかったとしても、その未来を知らなければ、きっとわたしは胸を張って喜んだだろう。
わたしは多くの感動を得る機会を失って、同時に、多くの涙を流す機会を失った気がしてならない。
大切な友達がいた。いつもショートの黒髪を風に靡かせていて、いつも男の子達に負けじと運動場を駆け回っているような女の子だった。身長は他の子よりも小さいのだけど、気が強くて正義感があって、夏場は大体日に焼けていたのを覚えている。
正確な日時を思い出すことはできない。思い起こせば鮮明に、湿度の高さと蒸し暑さだけが思い出せるある夏の日のことだ。わたしの意志とは無関係に、蝶がわたしに未来を見せた。それは今回、わたしが見せられたような凄惨なものではないにしろ、事故現場と言う点では同じだった。
未来視の中の彼女は緩やかな山の斜面に建設された住宅地の十字路で、乗用車との接触事故を起こしていた。衝突のエネルギーは大きく、彼女の乗っていた自転車の前面部が簡単に拉げるぐらいの衝突だった。
だから、どうしてもその事故だけは回避したいと願った。どうしても事故を回避して貰いたかったから、わたしは大っぴらに「事故に遭うから、その場所には近付かないで」と言う趣旨の言葉を、詳細な事故の内容を交えて話したのだ。
彼女は「判った」と、素直にわたしの言葉を受け入れたけど、……当日には忘れてしまっていたのか、それをただの狂言か何かだと思ったのか、結局その事故を回避することはできなかったのだった。
そして、わたしが口にした忠告が当たっても「今度から、わたしの忠告を聞けば怪我をしなくて済む」と、周りは思ってはくれないらしかった。まるで忌事のように避けられるか、奇異の目が定着をする。表面上は元のままでも、それがいつも通りではないことが判らないはずはない。
でも、彼女は正義感が強かった。間違ったことは誰に対しても「駄目だ」と、「間違っている」と言う確かな公正さを持っていた。だから、わたしはあの娘だけは判ってくれると思っていた。
……でも、駄目だった。
彼女は口に出してそれを言われなかったけれど、わたしは彼女との間に亀裂が入ったことが判らないほど、鈍くはなかった。関係の修復がままならないことは子供ながらにすぐに理解できた。
……もう駄目なんだな、そう思った。
取り分け、蝶のお陰でマイナス面の感情を敏感に感じ取ることができるようになっていたと言うのもあるのだろう。けれど、今でも「あぁ、もう名前も思い出せないんだな」と、それを実感するとじわっと浮かび上がる涙がある。
彼女に向いた理不尽な怒りがないとは言わない。
けど、時間が経ってしまった今、そこに残ったものはただの空虚感でしかなかった。
もちろん、それはあくまで物事の判断力が未熟な子供時代の話だというのも理解はしている。示して見せた「前例」は過去の出来事でしかない。判断力が培われた今のわたし達にはあてはまらないかもしれない。未来視に対する反応は決して冷淡なものではないかも知れない。
ただ、それが解ってなお、進んで忠告をしようという思考は抑え付けられてしまう。
過去の経験が望まぬ未来視をどうにか覆そうとする正常な思考の妨げとなっているのは事実だろう。
心の中で生まれる葛藤がそんな段階まで進んでしまえば、未来視について口を閉ざすまで多くの時間は掛からなかった。。そして、自分以外の他人へ降り懸かる災いや不幸を「自分には関わり合いのないこと」と切り捨ててしまえるようになるまで、多くの時間は掛からなかった。
ハタハタと羽ばたきながら、ボロボロと見る間にその形を失い始めた蝶の様子が映る。そろそろこの夢に終わりが来ることをわたしは認識した。わたしの目に映る光景が徐々に歪み始めて、徐々に全ての輪郭が崩れて落ちる。まるで暗幕が降りるかのようだ。
わたしの目に映る世界は闇に包まれてしまって、わたしは一人その中に佇む格好だ。耳を澄ますと、ついさっきの事故現場の音声を聴覚で捉ええることができる。この音声も徐々に遠離っていって掻き消えるけれど、わたしは遠ざかるその音声だけでも酷い臨場感を感じる状態にあった。
視界が闇に包まれてしまったことで、逆についさっきの光景をまざまざと思い起こすことに繋がった。音がもたらす著しい臨場感は「きっと鈴平圭子は死んだのだろう」という考えを反芻させた。それらから目を逸らそうと首を振ってみても、ついさっきまで酷い現実感を伴っていた光景は何度でも鮮明に浮かび上がってきた。
意図せず、わたしの足はカタカタと震え始める。
誰かの「死」をこうしてむざむざと突き付けられたのは初めてのことだった。
「……あんたは一体何なのさ? 正義感の塊か何か? わたしに幸せの一つも与えない癖に、また、わたしから「普通」を奪い去ってしまいたいわけ?」
蝶に問いかけても答えは返らない。
不快感を前面に押し出して、不機嫌さを隠そうともしない棘のある口調を向けてなお、それらは困惑した様子を見せることもない。相も変わらずハタハタとはためくだけで、蝶はわたしに対して何を訴えかけるでもない。「何かをしろ」と明確な言葉で、望みもしない指示を与えられる方がいくらかマシかも知れない。……そうも思えた。
再び、わたしの身体を襲うものは浮遊感。グイッとその場から力任せに引き剥がされるかのような感覚があって、わたしは未だ古文の授業が行われている教室へと戻ってくる。
目脂の酷い目元を擦って、わたしは確認をする。普段は「見よう」と思わない限り、蝶がわたしの視界に入って来ることはない。わたしが蝶に対して「見よう」とか「確認しよう」と意識をすると、それらはうっすらと輪郭を取り始めものの数秒で確かな形を為して、わたしの傍をはためくようになるのである。
今現在、わたしの周りをはためく蝶の数は三匹だった。
ついさっきの未来視で一匹減ったわけだから、しばらくわたしは未来を視ることを強制されることはない。そうは言っても、ついさっき掻き消えた蝶が再びわたしの傍をはためくようになるまで二週間も必要としない。
わたしは定期的にこの未来視の能力を用いることを強いられる。
昔は一匹だけだった蝶の数も、わたしが年を経るごとに一匹、また一匹と増えていって今では五匹になった。これから、その総数が五匹以上に増えるかどうかは判らないけど、今現在の話をすれば、蝶の数が五匹になってしばらくするとわたしは酷い涸渇感を覚えるようになる。何かの未来を知りたくて知りたくて仕方がない状態に陥る。
それでもなお、その感覚を意識して無視をしていると、寝ても覚めても、その「何か」に固執するようになってしまって、ふと気付けば未来視をしてしまっている状況で我に返るのである。
正直、そこまで行ってしまうと、わたしがわたしじゃなくなってしまったみたいで、堪ったものじゃない。
手を差し出すように蝶へと向けると、蝶はハタハタとその指の先に降りてきて羽を休める。蝶に触れていると言う感覚はあるものの、物理的に払い除けたりすることはままならない。一度、力任せに握り潰してしまおうとしたことがあったけど、その輪郭と形を僅かな時間に渡って崩しただけですぐに元の形に戻ってしまった。
終業の鐘が鳴り、すっとわたしは席を立つ。
ただの一クラスメート。それも今の今まで鈴平の行動を意識したことなどないから、放課後になって鈴平がどんな行動を見せるかなんて全く予測できかった。
ただ、二年の新学期が始まってすぐの時に北原と部活動の話題になったことがある。その時、北原は鈴平を「バスケ部に所属していて、球技に限らず運動全般が得意な子」と評していた。そんな経緯があって、わたしはバスケ部が活動する体育館へと続く渡り廊下を待ち伏せの場所として選んだ。
つまりはバスケ部よりも一足早く持ち場に着くために、教室を出たと言うわけだ。
案の定、すぐに鈴平はわたしが待ち伏せをする渡り廊下に姿を現した。着替えだとか部活に必要なものが入っているのだろう大きなバックを肩から提げて、鈴平は特にわたしに気が付くでもなく歩いてくる。
わたしは体育館入り口脇の壁を背にして、もたれ掛かるように体勢を取っている。声を掛ける機会を今か今かと窺いながら、ちょうど鈴平がわたしの方へと顔を向けたところで切り出した。
鈴平に取ってしてみれば「変な場所で人待ちをしている生徒がいるな」とでも思ったはずだ。まさか、自分を待っていたとは思ってもいないことだろう。
「あー……、鈴平サン、……だよね? こんちわ」
今のわたしは一発で愛想笑いだと見抜かれる顔をしていると思えた。恐らく、それは間違いない。
その場に足を止めて、わたしの顔をマジマジと確認する鈴平は「意外な人物から声を掛けられた」という思考を前面に押し出した驚きの表情をしていた。そして、そんな表情を挟んだ後で、仲が良いとは言えないクラスメート向けの挨拶を返してくれる。
わたしには鈴平というクラスメート相手に雑談を交えた記憶さえない。
そんな鈴平の対応も当然だろう。
「……こんにちわ、野峰さん」
けれども、首を傾げる様にして「何?」と、わたしに態度で問う鈴平にはわたしを煩わしく思うような雰囲気はない。どちらかと言えば、そこには話しをし易い物腰が感じられた。
「サラリと話を切り出して、言うこと言ってしまえばそれで終わり」
そんな命令を下すわたしの思考とは裏腹に、実際のわたしの口調はつかえつかえの酷いものだった。
「その、えーと、……なんだろ、今から鈴平サンにちょっと変わった話をするんだけど、こー……、なんて言うか、身構えないで聞いて貰えると嬉しーかな?」
正直な話、自分がこんなに不器用な性格をしているとは思ってもみなかった。「身構えないで」と口にした張本人が緊張している様子を隠せていないのだから、相手に「緊張するな」と言うのは無理のある話だ。
緊張を緩和しようと試みるけど、それは一向に改善されない。未来視についての話をすること自体に特別な嫌悪感を持っている分けじゃない。わたしはこの話についてどんな反応を鈴平に返されのか、ただそれだけが怖かった。
もしも鈴平がこの話を真剣に受け止め、真摯にそれに対応しようと考えるのなら、わたしは堰を切った様に饒舌になってあの「光景」についての話を事細かに説明するかも知れない。けれど、わたしが大前提として持つものは「普通を失うのはもう嫌だ」と言うこと、……ただそれだけである。
鈴平は僅かに怪訝そうな表情を滲ませたけど、わたしの表情が真剣なものだと言うことをすぐに理解してくれたらしい。わたしの要求に対し、ゆっくりと頷いた。
「えっと、どうする? こんなトコでの立ち話は何だし、購買脇にある自販機前とか、立ち話できるトコに移動する?」
自身が提案したことに対する返事を、鈴平は首を傾げる形でわたしに求めた。
本音を言えば、あまり人の来ない場所でひっそりと忠告をすると言うのが望ましい。けど、わたしがそれを求めなかったのは部活道具と思しき荷物の入った鞄を鈴平が肩から提げていたからだ。その鞄がかなりの重量を持っているようにはみえなかったけど、だからと言って荷物を持った相手を連れ回すと言う気にもなれない。
「そんなに、長々とした話にはならないから別にここで聞いて貰っても……」
そう口を切ったわたしの言葉がまだ言下にある段階で、わたしの後方から鈴平を呼ぶ一際大きな声が響き渡る。
わたしが口にしようとしたその見解は完全に話の腰を折られた形だ。
「鈴ーッ! 鈴ーッ!」
鈴平はわたしを間に挟んで、名前を呼んだ相手に向けて軽く手を振る。
わたしは半身の姿勢を取って、その相手の方へと顔を向ける格好になっていた。
トントンと軽快に渡り廊下を小走りで鈴平の元までやってきた女子生徒は未来視の中で見た顔の一人だった。そう言う事情があったとはいえ、彼女から顔を背けるように目線を逸らしたわたしを鈴平は怪訝に思っただろう。
そんな状況を彼女はすぐさま察したようで、会話に割り込み邪魔をしたことに対してペコリと頭を下げる。
「あー……ごめんね。話しの最中に邪魔しちゃったね。それで、……えと、こちらは誰?」
「うん? あ、同じクラスの野峰さんなんだけど、江実はクラス違うし会ったことないよね」
鈴平の紹介を受け、江実と呼ばれた彼女はにこやかな笑顔を一つ作り、わたしへと握手のための手を差し出した。初対面にも拘わらず、江実の持つ接し易さには目を見張るほどのものがある。
わたしは差し出されたその手を握り返さないわけにはいかない格好だ。
「野峰さん、始めまして。ごめんねー、鈴となんか話してたみたいなのに横やりいれちゃって」
わたしは江実の人当たりの良さに当てられた格好で、何とも歯切れの悪い相槌を打つことに徹する状態に追いやられる。鈴平に対して「やっぱり場所を変えよう」とも「話はまず、その荷物を置いた後にでも購買脇の自販機前ででも……」とも切り出せない状態のままでいると、追い打ちを掛けるようにバスケ部の面々がその場にやってくる。
「おーす、何してんの? こんなトコで立ち止まっちゃって」
ゾロリゾロリとやってきた人の波の中にも、わたしが未来視の中で見た顔が発見できた。
「おっと、あたし、部室の鍵開け頼まれてたんだ! ごめん、先行くから、みんな時間までゆっくりしてて」
そんな中、ふっと腕時計に目を落とした江実が驚愕の表情をして、早々とその場を離れる。あらゆる点で「タイミングは最悪だ」と言って過言ではないだろう。
江実が鈴平との会話に割って入ったタイミング。バスケ部の面々がこの渡り廊下にやってきたタイミング。そして、江実がこの場を離れたタイミング。……その全てが、である。
こと江実が居なくなったことで会話の流れとか雰囲気と言うものは一気に悪くなった。いや、……悪くなったと言うと語弊があるだろうか。江実は潤滑油のような役目を果たしていたのだ。
江実が居たからこそ初対面だとか、今まであまり話したことがないだとか、そう言ったことを気に掛ける必要もなく、そこには会話が成り立つ雰囲気があったわけだ。
それは男子生徒の態度と言うものからも顕著に窺うことができる。
抜群の接し易さを持つ江実が居なくなったことで、女子同士の会話に溶け込むことが難しいと判断した彼らは早々にこの場を後にしようとする。恐らく、バスケの話や他愛のない世間話をすると言うのならばともかく、彼らに取っては鈴平も江実と言う存在が居なければ気安く話し掛けられる相手ではないのかも知れない。
「それじゃあ、俺らも先に行くから、後はゆっくり話をどーぞ」
鈴平に向けられた男子生徒の言葉にハッとなって、わたしはそれを制止するため慌ててそこに言葉を重ねる。
「ちょ、ちょっと待って! ……みんな、バスケ部の仲間なんだよね?」
「うん、そう」
頷き答える鈴平の言葉を聞きながら、わたしは「何を答えの分かり切っている質問をしているのか!」と自分自身に腹を立てた。鈴平同様に、彼らの手には部室の荷物が入っているのだろう円筒形の鞄が握られている。そこにはマネージャーなどによって作られ部員全員に配られたのだろう「芝富高校バスケットボール部」と刺繍の為されたストラップがキーホルダーなどに混じって付けられている。
わたしは意を決すると、その面子の中の例の面々を次々と指さし口を開いた。ゴクリと緊張から唾を一つ飲みこんで、上擦り気味の声の調子で切り出す。どもる様なことはなかったけど、意図せぬ震えが指先を襲っていた。
「部活が終わって、さっきの江実っていう娘を含めたこの四人が揃って帰宅する時は、……しばらく踏切には近付かない方が良いよ。少し遠回りになってでも、静祥通りを超えた所にある跨線橋を使うか、二条通りまで戻って高架線下の歩道を使って欲しい!」
指を指された面々は最初こそ怪訝な表情を見せていたけど、わたしの態度が酷く真剣なものであることを理解すると、相応の理解を示した様子だった。その強気の語気も、わたしの忠告が本気で彼らを心配するものであることを相手に印象づける一因を担っていたのは確かだと思う。
「あー……と、野峰さんだっけ? それ、どっちも凄い遠回りになるんだよ、それぐらいは判ってて言ってるんだよな? ……その踏切に近付かない方が良い理由を聞かせてくれないかな? 俺達四人、自宅の方角が一緒だから良くつるんで帰るんだ、男子バスケも女子バスケも同じ時間に始まって同じ時間に終わるしね」
「その、何て言うか、……こー、災難に巻き込まれるって言う占いの結果が出てるというか、出たというか」
我ながら歯切れの悪い受け答えだと思った。
しかし、わたしの秘密を全て打ち明けてでも、どうにか彼らを説得しようとする意志をわたしが持たないことは明白だった。とどのつまり、わたしの態度は真剣なそれから一転、酷く弱々しく話をはぐらかすようなものになる。
その歯切れの悪さは相手の疑心を増幅させただろうか。どんなに相手が非科学的なものを信じない人間だとは言え、ビシッと断言をされて「それを避けろ」と忠告を受ければ、心のどこかに引き留めもするだろう。
わたしの歯切れの悪さを前にして、理由の説明を求めた男子生徒はムッとその表情を険しいものへと変える。
「何? それ、何占いの結果? 俺さ、今日もミーティング終わった後、この四人の面子で帰宅するよ、多分。でも水瓶座、物凄い運勢いいんだよね、つーか、今日のトップなのよ、俺の水瓶座! それとの関係はどう説明できるの?」
「そー言われても困るんだけど……」
この時点で既にわたしに対する感じの悪さ、印象の悪さは実感できていた。
鈴平、その当人がわたしの忠告を「どう思ったか」はともかくとして、少なくともこの雰囲気の中にあって他の面子はその忠告を鼻で笑うのが精々だろう。言葉に詰まったわたしの様子を見下すようにジロリジロリと注視して、男子生徒はあしらうかのように口にした。そこにわたしを冷笑する調子があったことは否めないか。
「はいはい、善処しますよ。善処すれば、それで良いでしょ?」
男子生徒の口振りに、鈴平がグイッとその腕先を掴み取ってその場を離れた。
当人は小声で話をしているつもりなのだろうが、その声量はお世辞にも小さいとは言えない。ともあれ、その怒気を含んだ鈴平の調子にわたしは少なからず救われた格好だった。
「ちょっと! 感じ悪いって」
「何? あいつと仲良いの、鈴平?」
「……そりゃあ、話したことほとんどないし、仲がどうとは言えないけど、そう言う問題じゃないから」
「だったらどーでも良いって。関わり合いにならない方が良いタイプだって、絶対。占いなんてあれだぞ。「何々に気を付けましょう」とか、「ラッキーカラーは赤です」とか言ってる適当なもんだぜ? それをこんな深刻な顔をして言う様な、占い通りに生活しないと満足できませんってタイプ、友達付き合い上でだって何のプラスにもなりゃしないよ」
男子生徒の鼻で笑う調子は一向に消えない。そればかりか、その言葉の矛先はわたしにも向けられている。
敢えて大きな声を出し、わたしにも聞こえるように会話をしているわけである。そんな様子を見せる相手に何を言っても無駄だと鈴平も感じたようで、鈴平は早々に話を切り上げる方向に話の流れを持っていく。
「あー……、はいはい、態度が悪かったよ、すいませんね。……これで満足か?」
態度の悪さを非難された男子生徒はムッとしたこともあったのだろうが、……口先だけの謝罪の言葉をその場に残して、早々とその場を立ち去ってしまったのだった。
鈴平はわたしとわたしに背を向けゾロゾロとその場を去ってゆく面子とを交互に見返す。そして、困惑の表情のまま、申し訳なさそうに言った。
「……ごめんね、野峰さん」
「いや、……うん、気にしなくて良いから。その、今、わたしが言ったこと、頭の片隅にでも留めて置いて」
最後の最後にわたしが向けた言葉を鈴平が「どう受け止めたか」まではわたしには判断できない。
体育館へと足を向ける鈴平の背中が見えなくなったことを確認すると、わたしは一つ大きな息を吐き出した。そして、男女バスケ部の面々が居なくなって静まり返った廊下に、わたしの口から反射的に漏れ出た言葉が響く。
「ま、こんなものだよね。やっぱり、わたしには、……関わり合いのないことだよ」
自嘲気味に口を突いて出た言葉には私の中の暗い感情が見え隠れした。尤も、わたし自身それが何に向いているのか判断できない。思い通りにことを運べなかったわたし自身にも向いていたかも知れない。
判ってはいたことだけど、改めて「奇異」の目に晒されたことで、わたしは言いようのない不快感を覚えていた。
奇異の視線はわたしの心の中に漂う暗い感情を呼び覚まさせる。そこから沸々と湧き上がる感情は「怒り」とするのが適当なんだろう。
「不思議ちゃんとでも思われたかな」
改めてあの場を振り返ると真っ先にそんな言葉が頭を付いた。
尤も、今あるわたしの印象にそんなみものがプラスされるだけなら大した問題じゃない。言ってしまえば、疎まれ気味の存在であることなど、とっくの昔に自覚している。
友達と呼べる相手も指折り数えるほどしかいない。
無愛想ではないけど社交性がなく、協調性にも欠ける。
「どんな物事に対してでも、未来視を用いることである程度「結果」を知ることができちゃんだ」
そんな意識があるからだろうか、情熱がない。そうだ、物事に対する興味が薄いと言われる世代にありながら、その周りの同年代よりも物事に対する興味が希薄だと、わたし自身判ってはいるのだ。
沸々と心の奥底に漂うマイナスの感情をくっと唇を噛み締め押し殺しながら、トボトボと力無く校門前まで歩いていくと、意図せずそこには見慣れた顔が立っていた。
「紀見、遅いよー。どれだけ人を待たせれば気が済むのかな」
見慣れた顔の相手は高校一年の時のクラスメート、三倉優実(みくらゆうみ)だった。
何となく気があったことに加え帰宅方向が一緒だったと言うことも手伝って、今でもこうして下校時は一緒に帰宅することが多い相手だ。指折り数えられる友達の一人である。
「優実サン、……一つ確認したいんだけどサ、今日一緒に帰るって約束した覚えないんだけど」
校門を通らずとも学外に出る正規の通路はいくつか存在し、わたしが校門を通らずに帰宅する可能性だってあったわけだ。それにも拘わらず、校門前でわたしを待っていた三倉に対し、わたしは「呆れた」と言う表情を隠さなかった。
わたしと三倉の間には「帰宅時間になっても相手が教室に居ない場合は相手を待たずに帰る」と言う不文律がある。そう言うこともあって、わたしの頭の中には完全に三倉の存在のことはなかった。
もしも、三倉が校門前でわたしを待っていると予め判っていたら、鈴平へのアプローチはもっと別の形になっていただろう。
「お、つれない発言だねー。未だにカレシいないもの同士でしょーよ」
良く言えば、いつもと変わらないノリの三倉の様子にわたしは癒される。
悪く言えば、ついさっきの出来事をわたしはまるでなかったことのように意識の隅っこへと追いやることができた。
けれど、わたしの顔を覗き込んだ三倉がそこで不思議そうな顔をする。
「……と言うか、何かあった? ちょい怖い顔してるよ、紀見?」
正直なことを言うと、この三倉は、どちらかと言えば鈍い部類に分類される型の人間だ。その鈍いはずの三倉にあっさりと「怖い顔」だと指摘されたわけだ。
意識の隅っこへと追いやったはずの嫌なことを思い出させられて、わたしは思わず苦笑いを零した。気分的には転んだところを助け起こされて、その助け起こして貰った相手に突き飛ばされて転ばされた感じだ。
何とも表現し難い感情をわたしは味わっていた。
「あー……、はは、うん、その、何でもないんだけどね、ちょっとねー」
わざと言葉に間延びをした調子を持たせてはぐらかすと、三倉は「ふーん」と僅かに納得できない表情を見せていた。尤も、すぐに話題は切り替わり、いつもの他愛ない雑談が始まる。
「そういえばさー、今日の生物でクラスの半分近くが爆睡してたら珍しくおじいちゃんが顔真っ赤にして怒り出して大変だったよ。クラスの半分寝てるなんていつものことなんだよ? まー……今日は体育の後の授業だったから、男子も女子もだらしない体勢で爆睡してて目に付いたって言うのもあるんだろうけどー」
三倉が言った「おじいちゃん」とは芝富高校で生物を教える定年間際の教師のことだ。
普段ならば、滅多に怒ることなどない温厚な性格。そう言えば聞こえは良いけど、多少ボケが入ってきた感は否めず、こうやって芝富高校の名物として生徒達の話題に良く上る。
「それで柄にもなく「宿題出すぞ!」とか言い出して、……出ちゃったよ、宿題。それも次の授業にやる実験の考察」
三倉は沈痛な面持ちをしトーンを一つ下げた低い声で、怪談話でもするかのように口にした。
「それは災難だったね、でも次の授業の時にはコロッと忘れてるんじゃない? おじいちゃん」
カラカラと三倉の災難を笑って見せながら、今のわたしが心の底から笑っていない状態にあることを誰よりも当の本人が一番判っていた。
心のどこかで何かが支える感覚。上手く言葉にして表現できない感覚。
そんなものは感じていないんだ。
そう自分を騙しながら、わたしは芝富高校を後にした。