光り輝く鱗粉をまといながら、それはハタハタと胸の上を羽ばたいていた。
いや、鱗粉だけではない。
うっすらとその全身に白とも黄とも取れない暖かな光をまといながら、確かにそれは発光していた。羽には黒と黄色の二色からなる美しい色彩があり、その羽を広げ切った全長は10cmはあろうかと言う大きさだ。
それは寝苦しさに目を覚ました夜のこと。
今のものよりもずっと天井の高い部屋。時間の経過と共に何度か模様替えが為される前の、そんな過去の配置が為された間取り。ベッドの脇には「眠る前にきちんと片付けなさい」と、何度も何度も母から注意をされたお気に入りの絵本が転がる。
寝苦しさとは言ったものの、そこに息苦しさや熱に浮かされるような苦悶があったわけではない。酷い気怠さを感じて眠りに着いた直後に、そのうたた寝を人の手によって揺すり起こされている最中の様な、例えるならそんな寝苦しさだ。
ハタハタと僅かに膨らんでさえもいないわたしの幼い胸の上を旋回するように蝶が舞う。
わたしは直感的に、この蝶に起こされたのだと理解した。
けれど、開口一番にわたしの口を突いて出る言葉は眼前にあるその現実を無視した酷く笑える言葉だ。
「綺麗な、……蝶々さんだ」
うっすらと淡い光をまとうその蝶は当時のわたしの目にさぞかし幻想的に映ったのだろう。
この事態に直面したのが確かな意識を持つ今のわたしだったなら、間違ってもこんな言葉を口にはしない。
わたしは自分の子供の頃の視点を通し、この「夢」を見ていた。そして、子供である自分自身を一切制御できない。ただただ、子供の自分が思うままに行動するその様子を、客観的に傍観するだけである。
しかし、これがわたしの全ての記憶と意識を残し、子供の頃の自分の視点に戻っただけの荒唐無稽な「夢」かと問えば、その答えは「いいえ」となる。この「夢」は実際に子供だった頃のわたしが見た夢であるからだ。
つまりは過去に見た「夢」の話を、再度夢という形で「見ている」わけだ。
夢と言うものはよく記憶に残らず露と消えてしまうと聞く。けれど、わたしは順を追ってこの後にどんな事象が続くのかを寸分違わず述べることができる。なぜならば、年に数回の周期でわたしはこの夢を繰り返し見続けているからだ。それは確かな記憶と言ってしまってもいいかも知れない。
「なーに? 後を付いていけばいーの?」
わたしは蝶に促されるままに、ベットからカーペットの上へと足を降ろす。
蝶はハタハタと戸口へと羽ばたいて行き、わたしもその後を追って廊下へと足を向ける。
既に、この夢の中を流れる時刻は日を跨ぐか跨がないかの時間帯に差し掛かっている。
当然、廊下は薄暗い。直ぐさまわたしはリビングから漏れ出るオレンジ色の蛍光灯の明かりに目が行く形になる。いや、正確にいうとそれは仕切なしでリビングと一体化されたキッチンを照らす側の明かりだ。厳密に言えば「リビングから」という表現は正しくなく、リビングを照らすための明かりでもない。
今のわたしであれば、それを理解することができるけれど、当時のわたしはその違いをいまいち理解できていなかった。ともあれ、当時のわたしは普段のリビングと異なるその明かりがもたらす雰囲気に恐怖心を掻き立てられたものだ。
蝶が先導しなかっら、わたしはそこに近付かなかったかも知れない。
うっすらと発光する蝶が薄暗い廊下を照らすから、廊下には歩くに支障がない程度の確かな明るさがあった。もちろん、それは蛍光灯の光と比較すると微々たる光量だ。けれど、蝶は既にキッチンの戸口の傍で羽ばたいていて、わたしが来るのを今か今かと待っているか状態だったから迷うことはなかった。
そして、薄暗がりが横たわる廊下へと後戻りしなかった。
蝶の後を追ってリビングのドアの前まで来ると、そこでわたしは簡単で明瞭な選択肢を突き付けられる。
恐らく、子供のわたしはそれを理解できてはいない。けれど、今のわたしにならそれが選択肢だと理解できる。
蝶には「このドアを開けろ」と急かす様子はない。
このリビングのドアを擦り抜け先へと進み、暗に「付いてこい」と意思表示をするわけでもない。
ドアの前まで来たわたしの頭上をハタハタと飛び交いながら、光り輝く鱗粉を撒き散らすだけなのだ。
わたし自身の意志でこのドアを開けるか開けないかを選べと言っているのだ。
恐怖にも打ち勝つ子供故の純粋な好奇心がある。そして、耳を澄ませば、リビングからは聞き覚えのある両親の声が聞こえる。子供のわたしがこのドアを開けないはずはない。
わたしは特に考えることもせず、そして躊躇うこともなく、リビングのドアを開いた。
ドアを開けたその瞬間に、リビングからは廊下へと波打ち流れ出る重々しい雰囲気がある。子供のわたしがいつもリビングに感じていた暖かく心地よい空気は一切感じらない。代わりに、そこにはどこか肌にまとうような冷たさを伴った空気があった。
わたしという存在がそこにいないから故に、両親がリビングに敷き詰めた緊張感がそこにはあったのだ。
そう言った類の、リビングに漂うありとあらゆる感覚的なものをわたしがヒシヒシと感じることができるにも拘わらず、キッチンに居る側の両親はわたしがドアを開けたことに気付く様子はなかった。
いや、それはリビングに漂う雰囲気に限ったことじゃない。
廊下に張られた床材の感触を始め、壁に手を付けば木質系の物質が持つ独特の暖かさまでもが感じられる。それなのにも拘わらず、蝶を伴った夢に出演する人物は誰一人としてわたしの存在に気付かない。
わたしは「夢」では到底感じられるはずのない酷い現実感を味わっている。それは意識をしっかりと持っていないと、これを夢以外の「何か別のものなのだ」とあっさり錯覚してしまい兼ねないほどのものだ。現に、この夢を子供のわたしが実際に見ていた時は、これを夢なのだとは思わなかった。
……ドアを開け放った辺りから蝶の挙動はおかしくなり始める。
夢の傍観者であるわたしの元を離れ、大体はその夢の中心人物の辺りを飛び交うようになる。
この夢の場合で言えば、両親がそれに当たる。
そして、蝶は力強く羽ばたいてみせながらも、その飛行は徐々に弱々しくなる。ハタハタと羽ばたき続けながら、しかし、その蝶に見えた「もの」は時間の経過と共にボロボロと見る間に形を失い始めるのだ。最後には微量の水溶性絵具が溶解するかのように掻き消えてしまう。
後には母と父だけが取り残される。
キッチンのテーブルに向かい合わせに座り、激しく感情的な会話を交わすその光景だけが取り残される。
その光景も、蝶が掻き消えた直後から時折ちらつき始め、次第次第に確かな形を保たなくなる。それはまるで、この夢を見ることのできる残り時間を蝶が示していたかのようだ。
「会社の都合で異動って言ってもね、それじゃあこのマンションは人に貸し出すつもりなんですか?」
「まさか、こんなに急な転勤の話が来るだなんて思ってもみなかったんだ」
父と母は酷く真剣な顔付きをして、そんな言葉のやり取りを行っていた。
わたしはこんなにまで真剣な両親の顔付きを数える程度にしか見たことはない。
だからこそ、子供のわたしはその子供心に激しい「心配」を覚えたのだ。
子供のわたしは父に向かってこう問い掛ける。「どこかに行ってしまうの! ねぇ、パパ?」と。
「紀見佳(きみか)だって、ようやく入学した小学校に馴染んで来た頃なんですよ?」
「時期が悪いのは重々承知してるよ。……長期になるか、短期で終わるか、君の結論はそれが決定してからになると思うが一応覚悟はしておいてくれ」
けれども、キッチンで会話を交わす二人の耳にその言葉が届くはずもない。
なぜならば、実際にその転勤の話が現実となるのは当時のわたしがこの夢を見てから数年の月日が流れた後のことだ。
小学校へと入学してから、父が転勤の話を母へと打ち明けるこの実際の場面に立ち会ったことはない。
……立ち会おうと思えば立ち会えたのだろうか?
もし立ち会っていたなら、わたしはそこで、恐らく、……いや、ほぼ間違いなく、この夢のやり取りと寸分違わぬ話の展開を見たのだろう。そして、母から「父が単身赴任をすることになった」ことを後日になってから告げられる。
驚きはなかった。
小学校に入学する頃には、既にこの蝶が見せる夢の話が現実になることを嫌と言うほど理解していたから。
そう、これは夢。
けど、確かな現実へと形を変える夢。
未来と言う延長線上の時間の上で、現実となる正夢。
そして、いくらかの時間が経過して、いくらかの経験を得たわたしが「蝶によって見せられたもの」だと気付く夢。
それでは一体、この夢は、この蝶は、……この時わたしに何を伝えたかったのだろうか。
繰り返し見せられても、その答えは今も見付からない。